宮崎千年神楽 

宮崎にはまだまだ素晴らしい神話や伝説があります。先祖から受け継いだ宝を
新しい伝統芸能神楽として「
宮崎千年神楽」を創造して行きます。

メンバー募集中
自慢できる伝統をもった岩戸神楽系の多い宮崎です。宮崎は「神話の国」です。
スピード感のある六本調子から八本調子の神楽、宮崎で新しい神楽を体験しませんか

              宮崎千年神楽シリーズ1 悪七兵衛景清宮崎市久保伝説
 時は、平安時代、平家軍団の中でもつわものと言われた悪七兵衛景清がいた。京都清水の観音菩薩は景清が信仰した唯一の仏様です。平家滅亡後、熱田に身を隠していた景清も観世音菩薩の斎日である毎月18日には清水寺に参詣していました。この観音信仰があだとなって源頼朝に捕らわれますが、自分に敵対する気がないことを悟った源頼朝は景清を許し日向勾当(こうとう)とし、宮崎郡北方、南方、池内村、計三百町を与えた。景清は高妻八郎兵衛政藤と家森越中守忠都の諸氏を引き連れて日向に下り、下北方古城に住まいを定めました。しかし、清に怨みを持つ源氏の一部が日向に下る景清を討ち取ろうと構えるが、観音菩薩の化身により平家相伝の神刀を授かり源氏の悪鬼を退治し一命を救われます。景清は無事日向の地に赴くと、深く神仏に帰依し、神社、寺などを建立、天下泰平、庶民の健康を祈願し上村に久保千手観音堂を建て、村人はこれを村の守り神として祭ってきました。



宮崎千年神楽シリーズ2 神門(百済伝説) 

  時は、奈良朝時代、百済の国は、西暦660年、唐と新羅の連合軍により滅亡。百済の王族・武官たちは日本に逃れた。安芸の厳島へ上陸するも、安住の地とはならず、再び海路を南にとる王族の一団、二艘の船があった。一隻には、王の禎嘉王と第二王子の華智王。また一隻には、第一王子の福智王と王妃たちがあった。
 途中激しい風雨に襲われ、日向のお金ヶ浜に漂着した禎嘉王たちは、占いにより南郷村神門に、また蚊口浦に漂着した福智王は、球を投げ定住の地を占い木城村比木にそれぞれ仮の宮居を定め、国王たちは安息の日々を過ごした。しかし、平和な生活も長く続かず禎嘉王たちの所在を突き止めた追討軍は神門に攻め入って来た。禎嘉王は坪谷の伊佐賀坂に陣を張り、敵を迎え撃った。だか形勢に利なく、第二王子華智王は戦死を遂げた。やむなく王は名貫の里まで退却、追討軍を前に、野に火を放った。追討軍は火勢に悩まされて後退したが、禎嘉王も流れ矢に当たり傷ついた。これを伝え聞いた比木の福智王は石河内、中股、雉野、渡川の豪族七人衆を率い父王を助けに来た。援軍を得、味方の士気は大いに上がり、ついに追討軍を打ち破り、勝利を治めた。しかし、王の禎嘉王は矢傷がもとで他界、共に王に仕えた多くの人達も殉死した。後に、福智王は永くこの地を治めた、里人の尊敬を集め比木神社に神として、同じく禎嘉王は神門神社に、王の妃、此伎野は大歳神社に、華知王は伊佐賀神社にそれぞれ祭られた。

                           宮崎千年神楽シリーズ3 山岐大蛇(日本書記
 高天原を追放された素盞鳴尊は根の国へと下り、故郷である出雲の国へと戻った。出雲の国の簸川(ヒノカワ=島根県の斐伊川)の上流へとさしかかったときに、とある小屋の中からすすり泣く声が聞こえてきた。何事かと中を覗いてみると、年老いた夫婦と美しい娘が泣いていた。 素盞鳴尊はわけを聞いてみた。
 老夫婦の話によると、このあたりには首が8個もあるという八岐大蛇という蛇が住み着いているそうだ。夫婦の名は手名椎、足名椎といい、娘は櫛名田姫といった。 櫛名田姫は、夫婦の8番目の子で、上の7人の娘はいずれも生贄となって、今度は櫛名田姫の番だという。
 櫛名田姫は美人、素盞鳴尊でも相手は八岐大蛇である、素盞鳴尊は、名だたる銘酒を8つ用意して、大蛇の住みかへと運んだ。夜も更けてきた頃、素盞鳴尊は父伊邪那岐命から譲り受けた名刀十握を握り、櫛に化身した櫛名田姫をお守りとして髪に差して、大蛇の住む洞穴へと向かった。大蛇は酒をたらふく飲み、酔いつぶれて眠っていた。 素盞鳴尊は眠りこけている大蛇の首を片っ端から切り落とした。途中で目覚めた大蛇も必死の反撃を試みるが、酔っぱらった大蛇は敵ではなかった。
 こうして八岐大蛇はすべての首を切り落とされた。大蛇の尾に剣を振り下ろしてみると、尾の中程で硬い衝撃と共に止まった。引っぱり出してみると、それは立派な剣であった。これが天皇家の三種の神器として伝わるである。
 素盞鳴尊はその剣を姉の天照大神に送り、櫛名田姫と出雲の地で結婚し、宮を建ててそこに暮らしたという。このときに素盞鳴尊が詠んだ歌が、「八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る その八重垣を」です。このようにして舞台は天孫降臨を経て日本建国へと大きく移り変わって行きます。

                           宮崎千年神楽シリーズ4 曽我兄弟佐土原伝説) 

 曽我兄弟の父、河津三郎祐泰(すけやす)が伊豆の伊東で工藤祐経(すけつね)の従者によって暗殺されたのは、安元二年(1176) 十月、伊豆奥野で行われた狩の帰途でした。暗殺の背景には、祐泰の父伊東祐親と工藤祐経との間に伊豆久須美荘をめぐる所領争いがあったといいます。
兄の曽我十郎祐成(すけなり)、弟の曽我五郎時致(ときむね)は武士道の面目にかけて仇討の達成を念願しました。
兄弟の母は、身辺の平穏を望み、わが子に仇討ちの志を捨てさせようとしましたが、兄弟の父への思慕と、仇祐経に対する憎しみは強く、兄弟は仇討ちの初志を貫く心づもりでした。
今から約800年前の建久4年(1193)5月28日源頼朝が富士山麓を舞台に大巻狩を催し狩場として白糸の滝付近に陣を構えました。工藤祐経の陣は音止の滝の東方にあたり、兄弟はこの夜、松明を手に幾つもの木戸に防げられながらも、ついに仇討ちを成し遂げました

                                     宮崎千年神楽シリーズ5 阿蘇姫佐土原伝説)

 昔、佐土原の殿様の奥方におキタさまという方がいた。奥方は、阿蘇神社(熊本)大宮司の娘で、その美しさにひかれて殿様が奥方に迎えた。奥方の実家の阿蘇家は、古代から阿蘇谷の宮地に鎮座する阿蘇神社の大宮司で、中九州に勢力を持つ豪族であった。人々は、奥方を「阿蘇さま」と呼んで親しんだ。やがて男の子が生まれ、城の中で楽しい日が続いていた。ところがある年、殿様が日向市細島の港のあたりに出掛けたとき、浪人者の娘で、大変美しい少女に出会った。殿様はすっかりこの少女に心を奪われ、そのまま城に連れて帰り、そばに置いてかわいがった。阿蘇さまは美人ではあったが、お屋敷育ちで世間のことにうとく、殿様の心をつかむことにおいても、少女に及ばなかった。あるとき、阿蘇さまが殿様の足を洗った後、なぜか殿様の足がはれるということがあった。
 すると、少女は「阿蘇さまは蛇の化身だから、殿様はその毒にあてられたのだ」と言いだした。そのことが原因で、だれともなく、阿蘇さまのことを蛇姫さまと言うようになった。やがて殿様もこれを信じ、阿蘇さまが生んだ男の子を「お前も蛇の化身だろう」と、柱にぶつけて殺してしまった。そして阿蘇さまを家来に命じて丁重に阿蘇家に送り帰した。
 阿蘇さまは肥後(熊本)の阿蘇の大池まできたが、そこで池に身を投げた。付き添いの者が驚いていると、水に沈んだ阿蘇さまは蛇の姿で現れ、「自分は蛇ではない。殿に捨てられた恨みでこうなった。殿や子孫にたたってやる」と言って姿を消しました。
  阿蘇さまの話は「佐土原藩譜」(竹下勇一郎著、明治23年)に書かれています。


                           宮崎千年神楽シリーズ6 鬼玄丹伝説)
 寛永11(1634)年、伊賀上野(三重)鍵屋の辻で剣豪荒木又右衛門が義弟の渡辺数馬の助太刀をして、父のかたき河合又五郎を討つ。このとき、又右衛門が倒した4人のうちの1人に竹内玄丹がいる。その玄丹は綾の深山の洞くつに住み、「鬼玄丹」と言われていた。
 寛永6年、武者修行中の又右衛門は、旧知の佐土原藩武術指南役・諸口一宇斎を訪ねた。そのとき、法華嶽寺参拝を勧められ、法華嶽下門前(しももんぜ)に姿を見せた。ここ上門前に破れ法衣をまとい、腰に荒縄を巻き、素足で右手に六尺棒を握り、目は鋭く、あたかも仁王のような荒法師がいた。彼は又右衛門の前に立ちふさがる。「そこをのいてくだされ、参拝の者だ」と又右衛門が言うと、玄丹は大声で「名を名乗れ、われは当山きっての荒法師玄丹であるぞ」と応じ、2人の間に決闘が始まる。しかし、天下の柳生新影流の前には、さすがの玄丹も平伏。又右衛門は「本来ならこの場で切って捨てるところだが、寺の門前で殺生は好まぬ。心改めて仏門に励め」と諭して別れた。
 玄丹は試合に負けたのが悔しくその後、洞くつで自然を相手に剣の修行に励んだ。暮らしは米、麦、野菜に獣肉と川魚を炊き込んだものを常食とした。これが綾町に残る「玄丹鍋」の起こりと伝えられている。
 腕だめしに、商家が軒を並びにぎわっていた佐土原に出掛け、薩摩藩の支藩で、剣客も集まっていた道場を荒らしたり、商家に押しかけ、無理を言っては施しを受けていた、5年余りの洞くつ暮らしから京都へ上り、又五郎一行に加わった


                 

                                     宮崎千年神楽シリーズ7 鬼八(高千穂伝説)

  鬼八は、二上山の乳ヶ岩屋(ちちがいわや)に住む暴れ鬼。たびたび山をおりては、高千穂のあららぎの里の鬼ヶ岩屋にも住み、ウノメヒメという美しい姫をむりやりさらって、自分の妻にしていました。 ある日、ミケイリノミコトが五ヶ瀬川のほとりにある七つが池のあたりを散歩していると、水鏡に美しい姫が鬼八にさらわれ、どうか助けてほしいと聞きさっそくミケイリノミコトは、四十四人の家来を引き連れて、乳ヶ岩屋に出かけました。
 鬼八は、夜になると岩屋の中にこもってしまうので、日が沈む前に倒さないといけません。
  ミケイリノミコトが「日よ、今しばらく照らしたまえ」と唱えると、ふしぎなことに日は山の頂上で止まり、あたりを明るく照らしつづけました。 しばらくすると、鬼八が岩屋に帰ってきました。
 おおぜいの勇者が攻めてきて、さすがの鬼八も別の穴から逃げ出しました。 二上山(ふたがみやま)を越え、三ヶ所(さんがしょ)、諸塚(もろつか)、米良(めら)、さらに肥後(ひご)に入り八代(やつしろ)、阿蘇(あそ)まで一気に駆(か)け巡(めぐ)った後、しばらく祖母山(そぼさん)に隠(かく)れていましたが、結局、ふるさとの二上山に戻ったところを、ミケイリノミコトに斬(き)りつけられました。 それでも、鬼八は死にません。さらに逃げまわり、大木を抜いて振り回して戦いましたが、追っ手の家来と取っ組み合いになったところを、ふたたびミケイリノミコトにバッサリと斬られて死んでしまいました。 そして、大きな大きな石で押さえられて土の中に埋(う)められてしまいました。 ところが、魔力を持つ鬼八は、土の中でうなり声をあげたかと思うと、一夜で体が元のようにつながり、大きな石をも動かしてかんたんによみがえったのです。そして、これまでにも増して暴れ鬼となり、村人を不幸な目にあわせはじめました。 
 ミケイリノミコトは、今度は、二度とよみがえらないよう鬼八の体を頭と胴と手足の三つに切り離(はな)し、別々に埋めました。 さすがの鬼八も今度は息をふきかえすことはありませんでした。こうして高千穂の里に静かで幸せな日々が久しぶりに戻ってきました。 ところが、今度は鬼八の霊(れい)は毎年のように早い時期に霜(しも)をふらせて作物に害を与え、お百姓さんを困(こま)らせたのです。 そこで、人々は鬼八の霊をなぐさめるためのお祭りをしました。すると、その後は、早く霜がおりることはなくなり、作物の実りもよくなったということです。 なお、ミケイリノミコトは、ウノメヒメを鬼の岩屋から助け出した後に、妻として迎(むか)え、その子孫は代々この地を治めたということです。

                                     宮崎千年神楽シリーズ8 天香山(高千穂伝説)

  天の岩屋にこもってしまったアマテラスを何とかして引き出そうとした「岩戸開き」の神話。
 たくさんの神さまたちが天の安河原であーでもない・・こーでもないと話し合います。そして、知恵の神オモイカネが考えた作戦の中に“天香具山(あまのかぐやま)”という山の名前が何度も出てきます。
 古事記によると、アメノウズメは、天香具山のヒカゲカズラをたすきにして肩にかけ、天香具山のマサキカズラを丸くたばねて冠(かんむり)とし、これまた天香具山の笹(ささ)の葉を手に持って、天の岩屋の前で踊ったとされています。
 また、岩戸開きの神話は、高千穂の夜神楽(よかぐら)三十三番のうち、二十三番の「柴引」(しばひき)から二十七番の「舞開き」(まいひらき)までのいわゆる「岩戸五番」として知られています。「柴引」の「柴」とはサカキのことで、神楽では、岩戸開きの神事のためにフトダマが天香具山からサカキを根こそぎ抜いてきて岩戸の前に飾る舞が演じられます。

                                     宮崎千年神楽シリーズ9  日本武尊(宮崎市・西都市

  日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、世界で初めて愛妻家宣言をした人物として有名です。日本武尊は第12代景行天皇の子として誕生し、幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。ところが、この日本武尊は気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎んじられていました。
 しかし、小碓命が16才のとき、父景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じました。
 九州の熊襲建(くまそたける)は大きな家を新築したばかりで、そこでは祝いの宴が催されていました。そこで小碓命は少女のように髪を結い、叔母(倭比売)からもらった小袖を着て宴に紛れ込み、酒を飲んで上機嫌になっているところを、短刀で兄を一気に斬り殺してしまいます。
 それを見て外に走って出ようとした熊襲建の弟を追い、背中から刀をさしたところ、弟は、自分たちの「建」の名をもらってほしいと願います。小碓命はこれより倭建命(日本武尊)と名乗ることにしました。(「建」は勇敢な者という意味)