景清が信仰していた 京都の清水寺 |
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宮崎市下北方景清廟 | |||
宮崎で孤独の生活を続けていた景清は、そのうち霧島山の参詣を思いたち、真幸(えびの市)から登山しましたが、 その帰途、建保二年八月十五日、山中の池のほとりで病死します。享年六十二才。 遺骸を宮崎に持ち帰り、居住地であった下北方町に埋葬しました。その地が景清廟であるといわれています。 |
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景清は若い頃、尾張熱田の地で遊女阿古屋なるものとなじみを重ね、人丸という娘をもうけましたが、 鎌倉の亀が江が谷の長者の家に預けました。人丸は成長したのち、父景清を慕って遠路はる ばる日向の地に父親を探しに来て再会を果たします。その後、盲目の父に仕えていましたが、建永元年九月、父に 先立って、二十七歳の若さで逝去。人丸の墓石と伝えられる小標が、今も景清廟の一隅に残っています。 |
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与一の見事な弓捌きを見て感極まったのか、船の中から五十がらみの男が黒革の鎧を着て、白柄の長刀をかざし、舞を披露し始めました。 これを見た伊勢の三郎、「御下命ぞ、あれも射よ」と、与一に命じます。 与一は、御下命ならばとて、再び、弓を射ると、その男に当たり、男は船底へ真っ逆さまです。 この様を見た人は、「ああ、お見事」と申し、また或る者は、「いやいや、これは情けなや」と、非難する声もありました。 それまで与一にやんやの喝采を送っていた平家の武者共も、これを見て水を打った様に、静まり返りました。 しかし、源氏では、又も箙を叩いてどよめくばかりです。 平家の者達は、源氏の仕打ちに我慢出来なかった三人の武者が手に太刀などを持って陸に揚り、 「源氏の殿ばら、寄せ給えや」と、手招きしました。これを見た判官、「これは捨て置けぬ、馳せ寄って蹴散らせや」と命じます。 武蔵の美尾屋十郎・四郎・藤七、上野の丹生四郎・信濃の木曽中次の五騎が、おめきながら駆け出しました。 真っ先駆けた美尾屋十郎の馬の胸を、楯の蔭から飛び出した平家の武者の、射た大きな矢が、根本まで射抜いて、馬は倒れてしまいました。 美尾屋は倒れんとした馬から飛び降りましたが、楯の蔭から、今度は大長刀を振りかざした武者が飛び出してきて、矢庭に美尾屋に打ち掛かります。 美尾屋は太刀を抜いて、必死に応戦しますが、相手の勢いに堪らず、 「大長刀には叶わぬ」とばかり、身を屈めて逃げ出しました。これを逃さじと、大長刀を小脇に抱え、後を追い駆けてきた平家の武者が、 美尾屋の甲の錣を掴みかけますと、美尾屋も必死に逃げ回りました。二人の追っかけっこが続く内に、とうとう錣を掴まれてしまったのです。 暫くは互いに、美尾屋の甲の錣を引き合っていましたが、その内錣が途中から引き千切れて、美尾屋は錣の無い甲を被って、 味方の騎馬の中へ逃げ込みました。残りの四人は、二人の成り行きを、ただ眺めているばかりです。 平家の武者は、美尾屋の残した錣を、大長刀の先に突き刺し高々と差し挙げて、 「遠からん者は音にも聞け、近くは寄って目にも見よ。我こそは、京で噂の上総悪七兵衛景清よ」と、勝ち名乗りを挙げました。 |
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