創作神楽日本武尊((日本書紀・宮崎市・西都市))
宮崎千年神楽シリーズ1
プロローグ
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、世界で初めて愛妻家宣言をした人物として有名です。日本武尊は第12代景行天皇の子として誕生し、幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。ところが、この日本武尊は気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎んじられていました。
しかし、小碓命が16才のとき、父景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じました。
九州の熊襲建(くまそたける)は大きな家を新築したばかりで、そこでは祝いの宴が催されていました。そこで小碓命は少女のように髪を結い、叔母(倭比売)からもらった小袖を着て宴に紛れ込み、酒を飲んで上機嫌になっているところを、短刀で兄を一気に斬り殺してしまいます。 それを見て外に走って出ようとした熊襲建の弟を追い、背中から刀をさしたところ、弟は、自分たちの「建」の名をもらってほしいと願います。小碓命はこれより倭建命(日本武尊)と名乗ることにしました。(「建」は勇敢な者という意味)
一幕 「熊襲建」
川上梟帥:そもそもここに忍び現れたるは、西の方を治めたる我が名は熊襲の川上梟帥、またこれなるは、我が弟、匪の竹と申すものなり(礼)。倭の兵が我ら征伐のため熊襲の国に下りしと聞きおよびて候。されば、待ち構え、討ち取らんぞと思うなり。匪の竹、いざ合戦の準備をいたすべし。
匪の竹:心得申して候。
二幕 「西征」
日本武尊: そもそもこの所に進み居でたる者、第12代景行天皇の第二皇子、小碓命。また、これなるは我が家臣にして美濃の国の住人、弟彦公と申す者にて候。(礼)
我この所に出できたる事は、余の義にあらず。こたび
・・・・舞・・・・
日本武尊:朝廷に背く熊襲の頭・川上梟帥らの館にたどり着いたと思えて候。されど見てみると、館のまわりを兵どもらが三重に囲み、室を造りて、新築の祝いの宴を催さんぞと騒いで候。されば、館のあたりをそぞろ歩き、酒宴の日を待ち候。
・・・・舞・・・・
三幕 「酒宴」
・・・舞・・・・
四幕 「熊襲征伐」
川上梟帥:汝はいかなるものぞ
日本武尊: 川上梟帥よくぞ承れ。我は、纒向の日代宮に座して大八島国を知らしめす大帯日子淤斯呂和気天皇の子、倭男具那命なり。天皇は熊襲の猛者二人が従わず、無礼であると聞きおよびては、汝らを成敗せよと勅命をこうむり、我らここまでまかりこした。
川上梟帥:何と、汝が小碓命なるか。はるばる熊襲まで来るとは。汝らをば返り討ちにいたさん。
日本武尊:見事、汝を討ち取り、熊襲の地を取り戻さん。
川上梟帥:熊襲に、我ら二人ありと知りてのことか。相手に取って不足なし。匪の竹。今こそ我らの力、見せようぞ。いざや立会い勝負・勝負
・・・舞・・・・
五幕 「倭建命」
川上梟帥:あら残念なり無念なり、匪の竹は討ち取られ。かく成る上は、是非もなし、命続く限り戦わん。
・・・舞・・・・
川上梟帥:しばらく、しばらく、お待ち下されや。申し上げたき事あり候。西の方に、我ら二人を除きて他に強き者は無し。されど、大和の国に我ら二人に勝って建き男が座しけり。…これをもち、汝に猛者の名を譲り奉らん。今よりは、倭建と名乗るべし〜。
日本武尊:心得申して候。今より、我が名を小碓命より倭建命と申すなり。されば汝の命貰い候らわん。
・・・舞・・・・
日本武尊:えいっ、やぁっ
・・・舞・・・・
六幕 「勝利の舞い」
日本武尊: あら、嬉しやの、大神宮さま及び天地神のご加護により、また倭比売命(叔母)の助けにより熊襲の悪鬼も退治したならば、熊襲一族の御霊を祀り、天下泰平を祈る所存なり、「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」さればこれより倭の国に喜び勇んで立ち行かん。
♪ あら嬉し あら喜ばし これやこれ 舞い奉る 栄まします
エピローグ
宮に戻った日本武尊は羽曳野で一人の娘と出会いました。名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。やがて二人は結ばれましたが、日本武尊は休む間もなく次は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。相模の国に入る前に妻の弟橘比売と合流し船に乗って三浦半島沖から房総半島に向かいましたが、船出した直後に嵐がきました。激しい雨と風に船なすすべもありません。弟橘比売「海神の祟り」だと言い、海の怒りを静めようと海に身投げしました。やがて海は静まり、日本武尊たちは上総(千葉県木更津)に渡ることができました。海岸で日本武尊はクシを見つけました。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げて、去りがたい思いでいっぱいになりました。木更津(きさらず)は、この時の日本武尊の「君さらず」からきています。
この後、東国を平定し、日本武尊たちは帰途につきました。そして、関東地方を去るにあたって嬬恋村で「あずまはや(わが妻や)・・・・・」と3回も嘆き叫んだと言われています。最後に日本武尊は三重県伊吹山で、最期の戦いを行い、ボロボロになって歩くことさえできなくなります。それでも血まみれになりながら大和を目指して歩き続ける日本武尊でしたが、能煩野(のぼの)で、ついに力つきます。死に際し、故郷への思慕の情を込めた次のような歌を遺します。「倭は 国の真ほろば たたなづく 青垣、山隠れる 倭し うるはし」故郷を想う日本武尊の魂は白鳥となり、大和に舞い降りると、さらに天高く飛び立っていったそうです
※大和は、たくさんの島や国からなるこの国のなかで、ぬきんでてすぐれたところ。寄り合い重なり合っている、青い垣をめぐらしたよう。そんな山々に包まれている、大和がなつかしい
作 :日向橘寿獅子七人衆 協力:
配役
日本武尊(幼名小碓命) :小林
美濃の国の住人弓の名手で弟彦公:石村
熊襲建(兄)またの名を川上梟帥:長友
熊襲建(弟)匪の竹 :畑中
桜姫 (さくらひめ)
:鈴木
仮の竹
(かのたけ)
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協力: | ||
演奏 | |||
大太鼓 :金井 | |||
締太鼓 :清水 | |||
笛 :山下 | |||
手打鉦 :伊崎 |