ふるさとの風景
昭和35年頃の柏崎
その頃の柏崎。段々畑がよくわかる。冬に撮影したものだ。先祖が汗して築きあげ、耕して天に至る…といわれた。これが40年後にはすべて緑の森に戻る、と誰が予測しただろうか…。
須ノ川方面に至る山道がハッキリ写っている。この山道を歩いて柏中学に通った須ノ川地区や大浜地区の生徒のたいへんさがわかる。毎日歩いた。この半世紀で日本人の暮らしぶりが激変したことを写真は語っている。

入り江を船場というのは、昔、焚きもの用に集材された山の木々を、ここから船で関西方面へ出荷した船着き場であったことから。…波もない内海は天然の良港だった。
青く澄んだ静かな海は まるで美しい湖のようでした。この頃県外へ就職して行った人にとって、「ふるさとの風景」は、この写真のままである。

           
昔は漁がさかんで、早朝、何艘もの漁船が焼玉エンジンの音を響かせて港に戻りました。網元は橋村、増屋、末弘、増六など。
戎網や栄網の船に乗り組む若者の網子が多勢いて活気がありました。「かめや旅館」の村尾は映画館もやっており、上映日は午後からスピーカーで歌謡曲を流し賑やかでした。島倉千代子や三波春夫の歌が山々に響きました。村尾のカネちゃんは時には手製の大きなポスター看板を描きこれがなかなかの腕前でした。

柏崎出身の戎崎さんから、その頃の過酷な労働ぶりを思い出して手紙をもらいました。〜四国の南予の柏崎は平地もなく、山頂まで段々畑ばかりでした。耕して天に至る。5月になると祖父が束にした麦を指し棒で突いて両天秤にして、山頂から家まで担いで降ります。その辛かったこと、思い出されます。

当時、学校では「農繁休校」で休校。麦刈り、田植え、芋植え、稲刈り、芋ほり等今では考えられない農繁休校。他県の同年代の者は記憶にないとの事。愛媛県南予は独特な風習を持っていたのでしょうね。5月6月は子供にとって苦痛の月だった思い出ばかりです。あれから50年過ぎてやっと嫌だった麦畑が綺麗に見える今日この頃です。〜

撮影者は浜田義勝くん。大阪に就職して2年目の正月休みに帰郷して撮ったものだ。
             (浜田くんは2007年4月に彼岸へ旅立ち、千の風になった)
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