ぶらり旅関八州編 | ||
わたらせ橋の夕暮れ |
幾千年の昔より 海と陸との戦いの 激しきさまを続けつつ 犬吠埼は見よ、立てり 甲子園の常連だった千葉県立 銚子商業高校の短か過ぎる校歌に 歌われた犬吠埼灯台、そして NHKの朝ドラ「澪つくし」の中で 主演の沢口靖子さんが乗っていた 醤油の町と漁師の村を結ぶ電車・・・ 千葉県の銚子には一度行ってみたいと 思ってました。 コロナの発生が、かなり下火になり 他県との往来禁止が解かれたいま、 ぶらり旅再開の旅先として、銚子電鉄 沿線をぶらついてみました・・・まだ コロナ禍が収まったわけではないので、 できる限り密を避けた旅になりました。 しかし天気は最悪。私が訪れた3日間 千葉県内は低気圧が通過し、台風に 近い、時化状態になりました。 |
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犬吠埼灯台 | ||
銚子に向かう列車も、激しい風雨の中 約1時間遅れで到着、楽しみにしていた 犬吠埼灯台の眺望も、左のような 有様でした(ホテルの窓から撮影) 天候にめぐまれれば、日本一早い 日の出が見られたはずでした。最終日 になってやっと上の画像ような青空が のぞきました。 |
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ふだん公開されている灯台も閉鎖中。 | 雄大な犬吠埼。晴れてたら青空、青い海原に純白の灯台が映えるのだろうなあ。 | |
犬吠埼ホテル | ホテルの玄関には何とペンギンが・・・ | |
あいにくの天気でしたが、ホテル内は別世界・・・1泊目は、灯台そばの犬吠埼ホテルに宿泊しました。温泉に入り、 海の幸を堪能してくつろぐことができました。考えてみると、温泉宿にゆっくりと泊まるのは2〜3年ぶりです。それでも ホテル内の至る所で3密回避の仕組みがあったり、客もスタッフもマスク掛けというところがいまのコロナ禍の現実を 思い知らされます。 |
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銚子電鉄 | ||
銚子の旅でもう一つ、楽しみにしていたのはローカル線「銚子電気鉄道」です。銚子電鉄は醤油の町銚子と、漁師まち外川を結ぶ ローカル線です。6.4kmという短い路線に10の駅を有してます。今回の旅では2泊3日の滞在期間に何度もコトコト走る電車に ゆられて過ごしました。 全国のほとんどのローカル線と同様にここも赤字経営のようです。調べてみると横領背任事件による損失、東日本大震災による 風評被害、こんどのコロナ禍による利用客激減など厳しい状況が続き何度も廃線の危機に見舞われ、いまもその状態が続いて います。 このような経営難の中、もちろん国、県、市からの公的補助やサポーター制度などの方策は行われていますが、そのほか、 銚子電鉄は一風変わった対策を次から次へと打ち出しています。いくつか挙げると・・・ @自主映画「電車を止めるな!」を制作。コピーが「倒産寸前の貧乏鉄道会社が社運をかけて制作した渾身の超C級ホラー コメディ! のろいの6.4km」となってます。 A濡れせんべいを作り「買ってください、電車の修理代がないんです!」という広告 を流した結果、品切れになるほど売れたそうです。Bお菓子「まずい棒」を考案し、社長が「うう!まずい!もう1本!」と叫ぶ CМでこれまたブレイクしました。C「売るもの無くなったので音売ります」というコピーで電車の音の録音を販売するポスターを あちこちで見ました。D10の駅名を面白く変えて電車内のアナウンスで連呼してます。黒生(くろはえ)駅が「髪の毛黒生え」駅と 改名され、ホームの駅名板の横に、育毛剤のCМが置かれてるのを見て、思わずニンマリしました。 E電車内にはピンクや 黄色の風船やぬいぐるみがディープに飾り付けられています。ガラガラの車内を逆手にとった考え方はハンパじゃありません。 いま、こういったサイドビジネスが収益の8〜9割を占めるまでになり大赤字の電車部門を何とか続けているそうです。こんな なりふり構わずといった取り組みを知ると、旅好きのスエさんは目頭が熱くなります。単に企業の経営を安定化させたいと いうことなら、鉄道事業をあっさり廃止にしてサイドビジネスに特化した運営をやればたぶん黒字に転ずるだろうというのは 素人の私でもわかります。実際、最大手のJRなどはホテルや不動産といった部門を強化して、過疎地域の鉄道を次々に 廃線にしています。黒字部門、採算がとれる部門だけを残し、不採算部門は切り捨てるというやり方もひとつの方法です。 でも銚子電鉄が決してそうしないのはなぜか・・・たぶん地元の鉄道への強い気持ちや鉄道マンとしての誇りがあるのだろうと 思います。鉄道好きの社員たちが中古の電車とおんぼろな駅を維持し、なりふり構わない営業を続ける・・・たとえそれが 自虐ネタ的なものであっても続ける・・1本筋が通った企業理念だと思います。銚子電鉄にエールを送りたいと思います。 銚子電鉄のサイトをぜひ覗いてください。きっと新しい発見があると思います。 |
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入線風景 | 車体も駅舎も相当古い・・・ | |
何か、異世界へ迷い込んだかのような 車内風景。嵐の夜に客は私1人だけで この状態は少し怖かった・・・ |
銚子電鉄プロデュースの濡れせんべい | 映画の自主製作も行ってるそう。 社長自らモデルになってPR! |
もともと黒生(くろはえ)という駅名を変え、 育毛剤のCМを表示板の横にコラボ。 |
キャベツ畑の中を走る電車。銚子の キャベツは美味しいそうです。 |
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電車の音も売り出すしたたかさ・・・ | 銚子の2大醤油メーカもスポンサーに。 | いつまでも地元の足であってほしい・・ |
沿線点描 | ||
外川(とかわ)漁港 | 飯沼観音 | |
銚子市内で最も高い建物の銚子ポートタワー。市内が一望できますが、あいにくの天気で、視界不良でした。 | ||
郊外にある屏風ヶ浦。約10kmにわたって20〜60mの高さの崖が地層をむき出しにして続いてます。 |
銚子の海の幸として有名な「キンメ」 づくしの定食を「みうら食堂」でたべました |
2泊目に泊まった太陽の里「月美」 食べきれないほどの朝食が出ました |
地元で有名な今川焼の「さのや」 溢れんばかりのアンコが詰まった おにぎりのような形で、美味しかった。 |
県外への旅は、コロナ禍 以降、約2年ぶりでした。 機上で眺める雲の波と 青空はやっぱりいいものだ と思いました。 発生数は少なくなってきて 各県の往来も解除されては いますが、コロナ禍は 相変わらず続いています。 旅に出るに当たりワクチン の2回接種証明やPCR検査 は必須だと思います。マスク 着用、3密回避も大事です。 (R04.01.11UP) |
久しぶりに北関東に足を延ばし、 埼玉の秩父鉄道に乗ってきました。 といっても2泊3日のあわただしさの 中で主に秩父と長瀞をぶらついた だけですが・・・ 60代も半ばを越え、だんだんと 長期や遠隔地のひとり旅がしんどく なって来ているのを感じますが、 まだまだ老け込まずにいたいと 思っています。 |
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秩父鉄道の電車は、水色の ストライプが入っています |
秩父駅近くの秩父神社の鳥居 | |
秩父神社の参道(番場通り) | 秩父神社は学業成就の神様です | |
秩父駅そばの番場通りに、秩父まつり会館があります。日本3大曳山祭りのひとつ である秩父夜祭の笠鉾や屋台が納められ、夜祭当日の様子が壮大な映像で 紹介されています。(曳山祭りのあと2つは、京都祇園祭、飛騨高山祭) |
昭和天皇の弟、秩父宮ご夫妻 お手植えのイチョウの木 |
さらに長瀞(ながとろ)駅に降り立ちました。名物の川下りをする前に、駅から数分のところにある阿佐美冷蔵を訪ねました。 ここは、知る人ぞ知るかき氷の名店なのです。使われている氷は、冬に近くの宝登山の沢の湧き水を自然に凍らせた 天然氷です。体にやさしい三温糖を煮詰めた蜜やいろんな極上のフルーツのシロップや小豆餡などを添えてバラエティに 富んだ味が楽しめます。 |
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もともと私はかき氷大好き人間で、このHPにも、東京の日暮里駅そばの「ひみつ堂のかき氷」や南九州の名物かき氷「白熊」 などの話を以前から載せています。この阿佐美冷蔵のかき氷も半端ない美味しさでした。 運ばれてきた氷は純白でフワフワしています。三温糖の蜜をさっと頂上にかけ、スプーンですくって口の中へ・・・一瞬の冷たさの のち、優しい甘さと香ばしさがひろがり、ほろっと消えていきました。あとはもう夢中です。小豆あん、白あん、抹茶あんを交互に、 あるいは一緒に乗せて、少しずつ、少しずつ口に放り込みます。夜店のかき氷にありがちな、ジャリジャリした後味の悪さや、 キーンという頭の痛みを全く感じることもなく、あっという間に完食でした。10月というのに、もう一杯お代わりしたいくらいでした。 |
阿佐美冷蔵を出てから、川の方に向かいます。いよいよ水しぶきを上げて川下り・・・と思ったら、この数日の天気で水量が 減り、船が川底をこする恐れがあるとのことで、周辺の遊覧だけになりますとの案内がありました。残念・・・ですが、この遊覧も けっこう楽しめました。 |
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河原で乗船を待ちます | ||
船が数艘待機してました。予定の客数 が揃ってからの不定期的な運航です |
近くでは、ラフティングの体験も・・・ | 水量が減ってて、期待してたライン下りは できず、ゆったりとした遊覧観光に なってしまいました。。 |
日本最古の流通貨幣「和同開珎」の 元となった和銅遺跡が近くにある 和銅黒谷駅 |
長瀞駅・・・古い駅舎ですが、無人駅 ではありません。 |
長瀞駅を出る電車 |
少し、秩父でのグルメもお伝えします。 |
秩父の玄関口の西武秩父駅 | 名物の秩父プリンを食べてみました。 フルーティなさっぱりとした味です |
もう一つの名物「わらじカツ丼」 草鞋(わらじ)に見立てた2枚のでっかい カツが鎮座したソース系カツ丼です |
東京に戻る前のランチタイムに、西武秩父駅前の「秩父ガネーシャ」というインドカレーの店に立ち寄りました。 笑顔いっぱいのインド人のマスターにガネーシャという名前の意味を尋ねると、象のような長い鼻と4本の手を持つ インドの神様で、商売繁盛をもたらしてくれるそうです。(右:ガネーシャの肖像とマスター)日本のえびすさんみたいな ものなのかも。もう店を開いて5年になるといマスターは日本語が上手で、人懐っこくて、色々と秩父地方の話を してくれました。笑顔がとてもすばらしい方でした。 たぶん日本人向けの味にしてくれたらしいチキンカレーと、でっかいナンで美味しいランチをいただきました。 |
(R01.10.12)
からっ風の上州〜わたらせ鉄道(群馬・栃木 平成28年12月)
富岡製糸場 明治維新後の富国強兵・殖産興業の一環として、群馬県に設けられた富岡製糸場は、戦前まで外貨獲得の 有力な手段として隆盛を誇りましたが、戦後の養蚕業の衰退とともに縮小され、昭和62年についに操業を停止しました。 その後、日本の近代化の歴史を伝える産業遺産としての価値が見直され、ご存知のように平成26年に世界遺産に登録 されました。一度はたすせ寝てみたいと思ってましたが、こんどの旅で高崎に宿泊するついでに、ローカル線上信電鉄に 40分ほどゆられて、見学ツアーに参加させてもらいました。 |
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上州富岡駅から徒歩で10分ほど進むと正門が見えてきます | 昭和62年の工場閉鎖時の大型の機械が残されてますが、 写真の繰糸所や東置繭所、西置繭所の3つの建物は明治期 のままで、国宝にも指定されているそうです |
置繭所(2階は繭の貯蔵、1階は事務所 や作業場に使われてましたる) |
ジオラマ(たくさんの女工さんたちが 作業に従事してました。彼女たちは 習得した技術を故郷に持ち帰り、 地域の発展にも尽くしたそうです。) |
繭をお湯につけてから、糸として取り 出す「繰糸」という行程の実演を初めて 見ました。繊細な女性の手先じゃないと 無理なんでしょうねる |
伊香保温泉 上州路2日目は、高崎駅発のバスに1時間ほどゆられ、伊香保温泉に足を延ばしました。石段街口という バス停で降りると、目の前に長い石段が広がってました。1年と同じ365段の石段を登り、露天風呂に入り、上州の山並みを 展望台から眺めて、気持ちが洗われました。 |
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見晴展望台からは、眼下に伊香保温泉の街並みが、遠くには谷川岳、小野子山などの山並みが一望できます | ||
いつもならへばってしまうような石段ですが、実は私、この1か月くらい前からダイエットを始め、ウェイトを5〜6kg落としてた ため、息も切れずに登れました。(ダイエットは今も継続中で10か月経過したいま(29年9月)現在、16kgダウンに成功し、 BMI=31.5(肥満状態)から26.0(太り気味)になってます。) |
階段を登り切り、さらに山道をすすむと 真っ赤に塗られた河鹿橋が見えてきます |
途中に飲泉場が設けられ、胃腸に いいという温泉水を飲むことができます |
飲泉場の近くに露天風呂があったので 寒空のなか入浴しました。男子風呂 には先客が2人おられましたが、地元の 方と、長野から来た方で、話を聞くと 2人もリピーターだそうです。 |
わたらせ渓谷鉄道沿線(大間々〜桐生〜足利) | ||
わたらせ鉄道の車窓 (スエさん撮影の動画です) |
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森高千里さんの歌で大ヒットしたわたらせ橋 の歌碑が、川のほとりにたっています。 歌の内容通りに夕日がきれいです |
西空があかね色に染まり、もう橋の シルエットが周囲に溶け込んできました |
わたらせ橋 森高さんと秦基博さんのデュエットです |
江ノ電に乗って・・・(鎌倉 江ノ島電鉄沿線 平成23年1月)
むかし、江ノ電に乗ったときのことを思い出し、今また、あのゴトゴトとゆったり走る電車にむしょうに乗って みたくなった。今回は、鎌倉から江ノ島まで、いくつかの駅に降り立ちながら旅をした。 ※江ノ電:明治33年に創立された、藤沢〜江ノ島〜鎌倉を結ぶローカル色豊かな電車。便数も多く 平均12分間隔で運行されているという。町中をゆっくり走る路面電車と、海沿いの豊かな景色を 堪能できる海浜鉄道の2つの面を持っていて、古都鎌倉にはなくてはならない交通手段である。 |
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江ノ電HPより |
江ノ電鎌倉駅を出発! | まず長谷駅で下車 | 早速駅前のどら焼きの店に つかまります(するが屋) |
長谷駅から徒歩で約10分の 高徳院の大仏。与謝野晶子から 「美男におわす」と詠まれています。 |
極楽寺駅 | 極楽寺には可憐な スイセンが咲いてました |
正面を海、後方3面を山に囲まれた鎌倉は責めるに 難しい地形であり、頼朝が幕府をここに置いた理由の 一つといわれている。 陸路の入り口としては俗に「鎌倉七口」といわれる 切り立った崖に挟まれた狭い通路があるだけだった。 七口のうち、亀ケ谷と化粧(けわい)坂の二つは、 むかし行ったことがあったが、今回は極楽寺駅で 降りて、極楽寺坂の切通しを通ってみた。 今はなんのことはないただの車道だが、幕府滅亡の ときに新田義貞がどうしても破れなかった道として 有名である。義貞はこのあと、海づたいに稲村ヶ崎を 通って攻め込んだが、このとき潮を退かせるために 自分が持っていた名刀を海に投げ入れて神に祈った という話が伝わっている。 |
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極楽寺坂の切通し | 新田義貞が鎌倉責めのときに 「剣を投じた」といわれる稲村ケ崎 |
稲村ケ崎の浜(海のすぐ向こうに江ノ島が見えます) |
腰越駅で降り、踏切を渡って源義経 ゆかりの満福寺を訪ねる。この寺に有名な 腰越状(実物)が展示されている。 平氏を滅ぼすという軍功を立てながら、 兄頼朝の勘気を被って鎌倉に入れて もらえなかった義経がしたためた釈明の 書状である。 「手柄を立てたのに何故私をこのような めにあわせるのか?」という内容に なっている。 子供の頃は何と無慈悲な頼朝だろうと 思っていたが、血の滲む想いで成立させた 鎌倉武士団の政権を、朝廷に惑わされた 義経がゆるがしかねない状況にあったと いうことが、今になって解ってきた。 |
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軒先のすぐそばを走る電車(腰越駅) | 源義経・弁慶主従を 描いた満福寺のふすま絵 |
江ノ島駅に着き、そばの海辺にたたずんでいるうちに、夕焼け小焼けの時間になりました。右側の山は富士山です。 |
鎌倉の名所、歴史がちりばめられた名曲「鎌倉」 鮫島有美子さんの歌唱です。 |
こちらは、北鎌倉の古寺をモチーフにさだまさしさんが 歌った「縁切寺」。すみませんが、スエさんのカバーでどうぞ。 |
霊峰と未来都市(つくば 平成16年3月)
平成9年、所用で東京に出かけた帰りに筑波山方面に足を伸ばした。常磐線で北上して土浦から バスに乗り、つくば市を経由して筑波山神社へ参拝。更にケーブルカーで筑波山頂へ登った。この山は、 西の富士、東の筑波といわれるほどの霊峰らしいが、この時はあいにくの霧が出ていて景色を楽しむことが できなかった。 印象に残ったのは、筑波駅の跡地。昭和62年まで土浦〜筑波山間を鉄道が走っていたが、今は寂しく プラットホームが名残をとどめていた。参拝客が多かっただろうかつての賑わいを想像すると、郷愁を 感じさせてくれる風景である。最近はこういった廃線を訪ね歩くマニアがいるらしいが、わかるような気がする。 |
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筑波山神社 | つくば山頂駅(あいにくの霧が・・・) | 旧筑波駅のプラットホーム |
筑波山周辺を歩き回る途中のあちこちで目にしたのが、「がまの油」の看板。この「がまの油」という代物、 東京都薬剤師会のHPによると、もともと筑波山の中腹にある中禅寺の住職・光誉上人という方が作り出した 塗り薬が起源という。 戦の傷によく効くと評判を呼んだこの薬は、何と上人様のお顔がガマガエルに似ていたことから失礼にも 「がま上人の油薬」と名付けられたが、時代を下るに従ってガマガエルそのものから抽出した薬であるかの ように広まったらしい。 売るときの口上が、これまた派手である。(下の右参照)香具師(やし)と呼ばれる露天商たちが、刀をかまえて 口上を唱えつつ売り続けてきた。一説には「やし」とは「薬師」が起源ともいわれ、ある意味くすり屋さんに通じる。 現代の白衣を着て薬を売ったり調剤したりする薬剤師さんたちと、昔の薄暗い明かりの下で刀を手に口上を 述べて「がまの油」を商う香具師さんたちを結びつけて考えると面白いと思いますがいかがでしょう。 |
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さーて、お立会い、手前、ここに取り出したるは万金膏がまの油、がまと申しましても、 普通のがまとがまが違う。これより北、北は筑波山の麓。おんばこという露草を食って 育った四六のがま。四六五六はどこで見分けるか、前足の指が四本、後足の指六本、 足を合わせて四六のがま。山中深く分け入って捕まえましたるこのがまを、四面鏡張りの 箱に入れるときは、がまはおのが姿の鏡に映るのをみて驚き、タラーリ、タラーリと油汗を 流す、この油汗を柳の若葉にて三七は二十一日の間、煮詰めましたるが万金膏がまの油。 このがまの油の効能は、ひびにあかぎれ、しもやけの妙薬、まーだある、大の男が七転 八倒する虫歯の痛みもぴたりと止まる。 しかし、口上だけでは分からない、刃物の切れ味 をとめて見せようか、取出したるは夏なを寒き氷のやいば、一枚の紙が二枚、二枚が四枚 四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚、ほーれ、この通り ふっと散らせば比良の暮雪は雪降りの型、これなる名刀も一たびこのがまの油をつける ときはたちまちなまくら、おしてもひいても切れはせぬ。さあ、がまの油の効能が分かったら 買っていきな・・・ |
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四六のがま | がまの油 | がまの油売りの口上 |
さて、その当時は思いもよらなかった筑波地方との 密接なつきあいが、次男のつくば大学進学とともに 始まった つくば市の歴史は昭和38年閣議決定の研究学園都市 構想に始まる。高水準の研究・教育機能を有する拠点 作りのために、霊峰筑波山のふもとに、国、民間合わせて 約300に及ぶ大学、研究機関・企業が誘致され、わずか 20年ほどの間に人口19万人もの都市が建設された。 その間に、「科学博」もこの地で開催された。 入学式やその後の4年間の在学中に、何度か訪れて 歩いてみると、「学園都市」という雰囲気を感じるとともに、 一種の「未来空間」といった人工的な気配も漂って いるような気がする。 街としての体裁は整っているが、どこかまだチグハグな 感じも否めない。建設開始からすでに約40年が経過 していても、この「未来都市」はまだ未完成の発達途上に あるのかもしれない。 |
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恵まれた環境で・・・(次男) | ||
大学関係に3人もの ノーベル賞学者が・・ |
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みごとなイチョウ並木 |
(17.01.22UP))
蔵造りの小江戸(川越 平成12年3月/21年6月)
埼玉県の川越は蔵の町です。鎌倉時代に豪族河越氏の館が置かれ、室町時代には、江戸の基礎を作ったあの太田道灌も
一時期城を築いたそうです。
荒川・入間川などの河川、関越自動車道、JR川越駅・西武新宿線本川越駅・東武東上線川越駅などがこの町に集約されて
いることから、江戸時代に商業の発展を促した交通の要所としての役割が昔からあったことがわかります。
その川越に、なぜこれほどまでの蔵造りの家が建ち並んだのか・・・・・・きっかけは明治26年にあった大火だそうです。
江戸時代から続く商家の蔵がこの大火で焼け残ったことからその耐火性が見直され、東京では時代遅れになりつつあった
蔵が、川越ではむしろこぞって建築されたらしいのです。ひところは、100軒以上の蔵造りの家が軒を連ねていたそうです。
その風情が、すでに姿を消した江戸の面影をとどめているということで、「小江戸」とも呼ばれています。昔の雰囲気が残る
地方都市をよく「小京都」といいますが、「小江戸」という表現のほうが、きりっとしていて、粋な感じがします。
どっしりとした造りの蔵が並ぶ一番町通り | みごとな蔵です | 時の鐘 |
川越には3度行っています。一度目は30代の終わりに、当時の仕事の長期研修(2週間)がたまたま所沢であり
土日の休日、何もすることがないので足をのばしましたが、駅のそばをウロウロしただけでした。2度目は40代の終わりころ、
東北に旅する途中に2時間ほど立ち寄り、蔵造りの街並みを楽しみました。3度目は50代も後半を過ぎたころ、
次男の婚約者の家族に会うため上京した際の空き時間にぶらりと訪ねてみました。・・・・・思い返してみると、
ほぼ10年ごとに訪ねてます・・・そういえば、あと数年で60代も終わるので、もう少ししたら4たびの川越を楽しもうかなとも
思っています。(画像は、平12、平21の双方を取り混ぜています。)
西部新宿線の終点本川越駅から、北へ数百メートルほど進むと、左右にどっしりとした蔵が建ち並ぶ一番街通りに出ます。
険しい表情の鬼瓦、窓の重そうな扉、しゃれた感じのレンガ積みなどにそれぞれ個性的な造りになっています。驚いたことに、
こういった古い建築物にもかかわらず、今も現役で営業しているところばかりです。スポーツ用品店、呉服店、お菓子屋、本屋、
酒屋、理髪店などの店に人々が何の違和感もなく出入りしています。
そうです、ここは我々旅人にとっては歴史的建造物ですが、地元の人たちには、今現在の生活の一部なのです。何とか「小江戸」
の町をカメラにおさめようと動き回る私のそばを、スポーツカーやトラックが邪魔だといわんばかりにすり抜けていきました。
一番街の中ほどに「時の鐘入り口」という信号があります。東側の路地に入ると、小高いやぐらの建物がありました。約400年
前から、川越の人たちに時を告げてきた鐘である。西條八十作詞の「川越小唄」に「春はうらうら多賀町あたり鐘も霞のヤンレヤレコノ
中で唄う鐘も霞の中で鳴る」と唄い込まれている時の鐘です。今も、1日に4回、午前6時、正午、午後3時、午後6時に時を告げていて、
環境庁(当時)選定の「残したい日本の音風景百選」にも選ばれています。
こういった中小の都市にかつてあったものが、今も脈々と受け継がれている。しかも人々の生活の一部として・・・・・・うれしい限りです。
新宿から西武新宿線でわずか50分の川越・・・・・上京したらぜひ立ち寄ってみてください。スエさんおすすめの町です。
※以下は、平成21年6月の3度目の旅のときの画像です。
朝ドラ「つばさ」のポスター | 銭洗い弁天 | 私も小銭を洗ってみました |
童謡「とおりゃんせ」の発祥地と伝えられる三芳野神社です。 |
童謡「通りゃんせ」 |
大変な行列の小江戸横丁 | せんべいの甘辛い醤油の香りに、 ふらふらと引き寄せられます |
海ほたると八犬伝(アクアライン・館山 平成10年1月)
アクアライン・海ほたる(洋上PA)
海の下を掘ってトンネルを通す。トンネル自体、上にのしかかる岩や土の巨大な重量に耐える設計が求められると思いますが、
海底トンネルの場合は、更に水深に応じた海水の圧力としみ出す浸水を防ぐという二重、三重の強さが必要だろうということは
素人でもわかります。
いっぽうで、強風が吹き、潮が激しい海上に橋をかける。これも容易なことではないでしょう。関門トンネル、青函トンネル、
瀬戸大橋等々の難関工事は色々なところで語られ、映画などにもなっています。
平成9年12月に、海底トンネルと海上橋という二大難関工事をクリアした道路が誕生しました。神奈川の川崎から千葉の木更津まで
東京湾を横断して結ぶ「東京アクアライン」です。湾岸を廻るよりも距離にして約70km、時間にして約1時間の短縮が可能になったそうです。
完成して1ヶ月後に新しもの好きのスエさんは、早速渡り初めをしました。
パノラマデッキのオブジェ/海ほたる |
川崎から木更津行きのバスに乗る。あっというまに地下に潜り、ほんの十数分だったと思う。ぱっと明るくなったと思ったら、もうそこは
東京湾のド真ん中。海底トンネルと海上橋を結ぶ洋上のパーキングエリア「海ほたる」だった。開通間もない時期ということもあり、バスや
乗用車が川崎、木更津双方から次々と到着し、そしてまた次々と発進していく。
「海ほたる」は5階建ての人工島で1〜3回は約500台が収容できる駐車場。4階はみやげ物、オリジナルグッズ等のショッピング街や
観光情報センター、そして5階にはレストランとパノラマデッキが造られている。車から降りた客は1〜5階をつなぐエスカレータで移動して
いる。晴れたデッキからは、三浦半島から房総半島まで360度のパノラマが楽しめるらしいが、あいにくこの日は小雨まじりの曇天。
視界がほとんどきかなくて残念だった。デッキにはおさだまりの望遠鏡のほか、前衛的なオブジェや大きな地球儀などが置かれているが、
天候のせいか最上階まで上がってきた人の数は意外と少なかった。
再びバスで橋を渡り房総半島の木更津に上陸。内房線に乗り換えて南端の城下町「館山」に向かった。
八犬伝にみる複数ヒーロー考
架空の物語なのに、伏姫が籠もった洞窟や八犬士が死んだ場所まで“実在”しているとはスゴイ |
かつての大名里見氏の居城館山城を訪ねた。思ったよりもこじんまりした城だった。
もうだいぶ前になる。今は亡き坂本九さんの名ナレーションで演じられたNHKの人形劇「新八犬伝」は、私の大学時代の放送
だったので、帰省したときしか見ることができなかったが、今でも心に強く残っている。
安房館山の城主里見義実の娘伏姫がこの世に残した子どもたち・・・仁義礼智忠信孝悌の八つの玉を持つ八犬士が、にっくき
玉梓の怨霊を倒すべく大活躍をする物語が、辻村ジュサブローさん作のすばらしい人形たちによって演じられていた。「我こそは
玉梓が怨霊・・・」というセリフでおどろおどろしく登場する玉梓、八犬士たちを墨染めの僧衣姿で探し歩くゝ大法師(ちゅだいほうし)
こと金碗(かなまり)大助、憎々しげな悪女舟虫、そして黒子姿の九ちゃんの「本日これまで!」というシメの言葉・・・全てが懐かしい。
「宇宙船シリカ」、「チロリン村とくるみの木」、「ひょっこりひょうたん島」などNHK歴代の人形劇の中でも八犬伝は数少ない(ひょっと
してこれだけ?)時代劇であり、ストーリー、構成、そして人形たち全てにおいて大人も楽しめるものだったような気がする。今再放送
されてもきっと人気が出ると思う。NHKは50周年記念とやらで盛んに「アーカイプス」と称して再放送しているけど、この番組はぜひ
やってほしいけど・・・・・。NHKさんいかがなものでしょうか?
なぜ八人なのか・・・・・江戸末期に原作を書いた曲亭馬琴先生のねらいがどこにあったのかは知らないが、日本人は昔から複数の
ヒーローが登場する物語や取り合わせが好きなのではないか。「弥次喜多道中(二人)」、「三人吉左」、「維新の三傑」、「肉弾三勇士」、
「お笑い三人組」、「三匹の侍」、「三人娘(ひばり・チエミ・いずみ)」、「花の○○トリオ(百恵ちゃんたち)」、「御三家(橋・舟木・西郷)」、
「新御三家(郷・西条・野口)」、「講道館四天王」、「白波五人男」、「ゴレンジャー」、「セーラームーン(五人の美少女戦士)」、
「おそ松くん(六つ子)」、「七人の侍」、「七福神」、「サイボーグ009」、「真田十勇士」、「赤穂四十七士」、「八百万(やおよろず)の神々」
・・・・・・きりがないのでここでやめるが、数字順に思いつくままあげてもかなりのものになる。
私の一方的な見方かもしれないが、個人で活躍するヒーローが多いように思う西洋は絶対的存在の唯一神を有するキリスト教世界で
あるのに比べ、わが日本が「和を以て貴しとなす」の多神教かつ農村集落的国家であることに原因しているのではないか。たった一人の
強い主人公があっさりと玉梓の怨霊を退治するより、「ジンギレーチチューシンコーテー(仁義礼智忠信孝悌)」と響きの良いスローガンの
もとに八人が力を合わせていく物語のほうがこの国にあっているのかもしれない。そういえば、わが国では蘇我氏、清盛、後鳥羽上皇、
後醍醐天皇、織田信長などの例で分かるように、独裁者的指導者は長続きせず、きまって悲劇的な最期を迎えている。
ヒーローはやっぱり多い方がいい。和気あいあいで悪者退治をしてくれるほうがいい。神さまもたくさんいたほうが賑やかでいい。
人間も個性豊かな色んなやつがいたほうが楽しい。たった一人の「ベストワン」より、様々な「オンリーワン」のほうがすばらしい。
嫁さんや旦那は・・・・・これだけはやっぱり一人のほうがいいかな。今回は脱線続きのヒーロー談義になりました。「本日 これまで!」
追記: オンリーワンを讃える歌があるのに気づきました。SMAPの「世界に一つだけの花(槇原敬之 詞・曲)」です。 (花屋の店先の花たちは)この中で誰が一番だなんて 争う事もしないでバケツの中誇らしげにしゃんと胸を張っている それなのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのにその中で一番になりたがる? そういえばSMAPの5人も、個性がありますよね。誰が1番なんてことはなく、それぞれが自分の道を歩きながら 一緒に歌うときは歌う。まるで八犬伝のヒーローたちのようです。 (※ご承知のように、SMAPは解散してしまいました。残念ですが、個性豊かな5人は、その個性ゆえに、チームと しての目的を追えなくなったんでしょうね。) |
こじんまりとした館山城 | 市立博物館入口の少女像 |
椿と御神火の島(伊豆大島 平成8年11月)
三原山(山肌の黒い筋は、昭和61年噴火時の溶岩流のあと)
伊豆大島に行ってみたいと思っていた。幼い頃、名曲「波浮の港」を聞いて、歌詞にある「御神火」、「出船」、
「港の夕焼け」などのフレーズから限りないロマンをかきたてられていた。
じっくりまわりたかったが、日程は羽田発着の1日だけ。しかもその日の最終で宮崎に帰らないといけない。
結局 朝8:20羽田発9:00大島着、午後4:00大島発4:40羽田着、同6:15羽田発7:55宮崎着という
強行スケジュールの旅となった。
火山博物館 | 三原山 | 元町港 |
大島空港は島の北側に位置しするこじんまりした空港である。ここからバスでいったん中心街の元町へと向かい、乗り換えてから
三原山をめざす。島の人たちは昔から煙をあげる三原山を「御神火」としてあがめてきた。最近では昭和61年に大噴火があり、
展望台から見ると流れ出た溶岩流がいくつも黒いスジとなって残っている。噴火当日の夜景を写した大島測候所のホームページの写真と、
上の写真を比べてみると、流れがそのままの形で黒く固まったことがよくわかる。このときの噴火の様子は、元町から少し離れた
ところにある「火山博物館」で4面のマルチビデオとして見ることができた。
秋という季節のせいもあるが、今はすすきが生い茂り、雄大な姿を見せている三原山も、いったん噴火すると恐ろしい。
このときの様子が、NHKの人気番組「プロジェクトX」に「全島民1万人の避難」として次のような内容でとりあげられている。
1986年11月21日に大噴火した三原山の溶岩がゆっくりと住宅地区に迫り始める。島の4つの地区に住む
一万人の人々を脱出させるために、役場でプロジェクトチームが作られた。バス、船などの移送関係、誘導
する消防団、発電所、警察などが必死にそれぞれの仕事に取り組んだ。とくに、島民を運んだバスの運転
手や夜通し発電機をまわし避難作業を支援した東京電力の社員などのおかげで、わずか13時間の間に、
一人の犠牲者もなく、パニックもなく、全員の島外脱出を成功させた。
私は番組に出演されていた方の次の言葉が、強く印象に残った。
「島では、昔からみんな顔なじみなんです。どの家のじいちゃん、ばあちゃんも、子どものときから世話になった人たちばかり。
一人暮らしだとか、足が不自由だとかもみんな知っています。お互いに助け合おうという気持ちが全島民避難の成功に
つながったのだと思います。」
大島空港のアンコ(本物と写りたかった) | 夕日にうかぶ伊豆大島 | 大島椿(Woodyさん提供) |
さて、再び元町に戻り、ほど近い長根浜公園の中にある露天風呂の温泉「浜の湯」に入った。ここは、大噴火の後に涌きだしたという
比較的新しい温泉で、ちょうど子供用のプールのように浅いが、とにかく広い。そして景色がすばらしい。持参した水泳パンツをはいて
中に入ると、家族連れなどたくさんの人たちが湯の中に思い思いのすがたでくつろいでいる。目の前には青い大海原の絶景が
ひろがっている。後ろを見ると、さっき登ってきた三原山が悠然とそびえている。すでに肌寒い秋の風が吹いているが、湯につかって
青空を眺めていると、再び「波浮の港」のせつないメロディーが頭に浮かんだ。
もう少しすると、この海原に沈む真っ赤な夕日を見ることができる。迫力のある夕日らしい。私はふと、今日帰るのをやめて泊まろうかな、
と本気で考え始めた。夕日を見たいな、どうしようかな・・・・・結局、後ろ髪引かれながら帰ることにした。
なかなか来ることのない伊豆の大島。空港に飾られた島の娘(アンコ)の人形に寂しく別れを告げ、機上の人となった私の席から、
ひょっとしたら湯の中で見たかもしれない夕日が、黒い島影を照らして鮮やかに沈もうとしていた。(15.02.28UP)
名曲「波浮の港」 倍賞千恵子さんの歌唱です。 |
戦艦三笠とネギとろ丼(横須賀・城ヶ島 平成8年9月/23年1月)
※文章は、平成8年のものですが、当時の画像は150×100ピクセルのスモールサイズとし、他に2回目に訪れた平成23年の
三笠公園の画像を追加でupしました。、
あいにくの雨が降った三笠公園
羽田空港からのモノレールを途中で降り、京急線に乗り換えた。都内まで戻らなくても、神奈川方面に行けるとは
知っていたが、利用するのは初めてだ。
横須賀に着く前に急に電車のスピードが落ちた。
「今日は防災の日です。警戒警報発令の想定で減速運転を実施しております。地震はいつ起きるかわかりません。
地震のときは慌てずに係員の指示に従いましょう。」とのアナウンスがあった。もう阪神大震災から1年半がたった。
京急横須賀中央駅に降り立つ。駅前は工事中で人と車がごちゃごちゃと行き交っている。アメリカ人らしい男女の
グループ数人が歩いている。やはりここは基地の町だ。
歩き出して数分、雨がポツポツと降り出したころに三笠公園に着いた。双眼鏡を持った東郷平八郎の銅像が雨に濡れて
立っている。その向こうの岸壁に横付けにされた灰色の戦艦三笠の艦体が見える。激しくなってきた雨に追われ、小走りで
三笠の艦内に入った。
日本海海戦のイメージから巨大な戦艦をイメージしていたが、外見は以外と小さい。今の自衛隊だったら小型艦の
部類だろう。それでも中へ足を踏み入れたとたん、贅をこらしたその造りに眼を奪われた。艦長室、士官室と見ていくと、
洋風の一流ホテルにあるような大きな鏡、金モールの飾りが付いたテーブルなどさすがに明治海軍の旗艦だけのことはある。
年輩の説明者の話によると、大砲などは造り替えたものの、船体そのものは日露戦争当時のままとのこと。砲身の横の窓は
かなり大きく、外が丸見えになっている。ここから砲弾の雨を注いでくるバルチック艦隊を間近に見たのだから、当時の
水兵さんたちの恐怖心は大変なものだったろう。
その後、横須賀名物の「ドブ板横丁」へ足を向ける。名前がすごい。米軍相手の店が並ぶ独特の雰囲気のところだが、
予想したよりもあっけらかんとした普通の町のように思えた。
三笠公園 | 三笠の艦内 | ドブ板通り | 「城ヶ島の雨」の碑 | ||
通り矢の沖に群れるカモメ |
※平成23年1月の画像 2回目に訪れた三笠公園は、前回と違って冬の日本晴れの中で迎えてくれた。この年の2年前から司馬遼太郎り大作「坂の上の雲」 がドラマ化され、3年越しの年末に放映されたこともあり、三笠の入場者はかなり多かった。主人公のひとり秋山真之と司令官東郷 平八郎の等身大の絵も飾られ、関心も高くなっていたように思う。 |
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日本海海戦当日の艦橋の様子。赤丸が東郷平八郎、青丸が参謀の秋山真之です。 |
日露戦争を題材に、明治日本の先人たちの苦悩を描いた「坂の上の雲」。司馬遼太郎さんのこの大作が、 NHKでドラマ化されています。左はメインテーマ:Stand Alone。海上自衛隊東京音楽隊 三宅由佳莉さんの 熱唱です。右はオープニング。渡辺謙さんのすばらしいナレーションです。 |
あいにく雨が降らなかった城ヶ島
横須賀から、さらに京急線を西に進み、三崎口で降りる。
ここからバスで城ヶ島へ。
大きなカーブを曲がり降りて、城ヶ島のバス停へ着く。そばの北原白秋記念館に行き、事前にパンフレットを送付して
いただいた事務員のMさんを訪ねる。初老のやさしい感じの方で、色々と説明してくれた。
名曲「城ヶ島の雨」は、白秋の詩に3人の作曲家がメロディーをつけたが、一晩で仕上げ、初演に自ら歌った
梁田貞のものが、広まったのだという。そういえば、小学校のときにみた映画(たしか「音楽教師」という名の白黒)
がそういうストーリーだったのを思い出した。
あいにくと雨は上がり、薄日が差して少し蒸し暑くなってきた。「城ヶ島の雨」の世界に浸りたかったのに残念だった。
記念館のすぐそばが海辺になっており、海水浴やバーベキューを楽しむ地元の人たちであふれている。人混みの中に
隠れるように、白秋の詩碑が建っていて、「城ヶ島の雨」の冒頭の一節が刻まれていた。
城ヶ島めぐりの遊覧船の時刻にまだ間があるので、付近をブラつく。
三崎に近いせいもあって、「かまステーキ」、「かぶと焼き」などのまぐろ料理の看板が目につく。腹はそれほどすいて
いないが、せっかくなのでまぐろの直売と食堂を一緒にやっている店に飛び込んだ。「ネギとろ丼」を注文する。切り口が
キラキラ輝く肉厚の赤身に醤油をかけ、ネギ、わさびとともにホカホカのごはんの上に突き崩す。箸のひとすくいを口の中に
放り込むと、一瞬の冷たさを持ったまぐろのネットリとしたうまみが、暖かいごはんに追われるようにして通り過ぎる。
すぐにわさびとネギのすっきりした香りがのどから鼻に抜けていく。生の魚の臭みは全然ない。夢中になって箸を動かして
いると、丼はすぐに空になった。たぶん日本人にしかわからない味だろう。
しばらくして、乗船の時間になった。観光船といっても小さな漁船に毛が生えた程度のものだが、客は満員だった。
「城ヶ島の雨」の世界とはまるで正反対の快晴の天気になっている。出港してすぐ城ヶ島大橋をくぐり、通り矢の浜を過ぎると
たくさんのカモメが寄ってくる。客が食べ物を投げると見事なタイミングでキャッチする。味をしめているらしい。
城ヶ島は、周囲数キロほどの小島だが、海からの眺めには荒々しい岩肌に大波が勢いよくぶつかって割れる男性的な
部分があるかと思えば、なだらかな丘陵が優しい傾斜を見せる女性的なところもあった。(14.12.10UP)
名曲「城ヶ島の雨」 鮫島有美子さんの歌唱です。 |
表題(地名 平成※※年※※月)
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趣旨 | ||
A項目地名 | ||
趣旨 | ||