江戸・むさし野編
(東京都内の旅)
 
 ぶらり旅

都庁から眺めた都心と富士の夕景(新宿/次男撮影)

再編 江戸下町散策(もろもろ地域 令和3年6月)

 コロナ禍が2年に及び、県外への不要不急の旅が全くできない毎日が続いてます。当然、まこちよか旅の新規UPも
できないまま、私の身の回りの出来事を寂しく「近況欄」に載せるだけの「開店休業」状態が続いてます。
 くさっててもしょうがないので、いままでUPしてないネタを再編集してお見せしようかなと思い立ちました。何せこちとらは
定年退職後の非常勤勤務の身、加えて外出自粛の昨今なので、ヒマはありあまるほどあります。
 “再編シリーズ”の第一弾はかつて頻繁に上京してた頃にぶらついた都内いわゆる下町と呼ばれるエリアの旅を
まとめてみました。表題の年月は、ふつうは旅した時期を記してますが、どうしても令和の年号を載せたいので、
改編した時期、すなわち今現在の令和3年6月とさせてもらいました。

 さて、 そもそも「下町」とは何を指すのでしょうか、私自身実よくわかってません。何となく、気の置けない昔からの
つきあいがあって庶民的な人が住む町といったイメージはありますが、じゃあ東京ではどのへんをいうのか、大阪や
福岡にもあるのか、地方都市、例えば私の住む宮崎はどうなのかということになると、さっぱり解りません。

 辞典で「下町」をひくと、「とくに東京(江戸)において、海を埋め立てるなどしてできた低地の一帯で、店や小さな
工場などが多く集まっている区域。対義語として山の手があげられる。」となっています。東京の区でいうと、江東区
・墨田区・台東区などがあてはまるらしいのですが、本郷、神田、築地なども下町に入るらしくてなかなか難しいですね。

 地域だけでなく本質的な部分を細かく定義するとどうなのか、私なりに調べてみたら、①庶民的である 
②どの家に誰が住んでいるという情報が共有化されるほど近所とのつきあいが濃密だが、お節介すぎる人が
いる場合もある。 ③低所得者層だが、ちゃんとしたポリシーを持って、つましいながらもまっとうな生き方を
している人が多い。④上品ではないが下品でもない。⑤軒と軒がくっつきすぎている。⑥町内に必ずシンボルと
なるお寺か神社があり、これまたシンボルとなる年に一度のお祭りがあり、さらにシンボルとなる「世話役」が
存在している・・・・・とまあこんな具合になるんだそうです。

 そう、「ボロは着てても心は錦」と歌に歌われたように、貧しくとも人への思いやりに厚く、凛とした生き方を
してる人たちが住む町、つまり昔の日本人的な人たちが住むそのままの町が下町と言えるのかも。
(R3.06.27UP)

隅田川から吉原そして上野へ(平成19年4月の旅)

 隅田川の川べりから旧吉原周辺、そして上野の無縁坂までをブラブラ歩いたときのものです。浅草や上野はよく行きましたが、
このコースは初めてでした。とくに江戸の時代劇には欠かせない場所である吉原が、一体どのあたりだったのか、
よく知りませんでした。訪ねてみると、不夜城と呼ばれた華やかな色町に隠された遊女たちの悲しい話が伝わっていました。

 うららかに晴れ、さわやかな風が吹く春の気持よい一日でした。浅草の水上バス乗り場周辺からスタートです。

          浅草は吾妻橋たもとの水上バス乗り場周辺
 
 
 隅田川に架かる吾妻橋から上流の言問橋あたりの川べりは、隅田川公園として整備され、地元の人たち用散策コースと、
よそ者観光客用下町探検コースの2通りの使われ方がされているように思えます。(私はもちろん後者です。)
 公園の中に、戦災の慰霊碑が見えてきました。太平洋戦争の末期、昭和20年3月の東京大空襲では、この隅田川一帯の
下町周辺が標的となり、たくさんの市民が犠牲になりました。「ああ東京大空襲 朋(とも)よ やすらかに」と刻まれています。
 記念碑はほかにもあります。「春のうららの隅田川・・・」と誰もが知っている滝廉太郎の名曲「花」の歌碑。もう完全に青葉の
時期になっていますが、隅田川の河畔は都内でも有数の桜の名所です。以前、つくば市に住んでいた次男を妻と訪ねたときの
帰路に乗ったバスが隅田川沿いを通った際、車窓から見事な満開の桜並木を見て感激したのを覚えています。
 更に近くには、「ああ、そうだったわねえ・・・」のセリフが入った東海林太郎(といっても知らない人が多いかな)の古い曲
「隅田川」にうたわれた「竹屋の渡し跡」の碑もあります。
 隅田川の川べりの道を歩きます  うららかに晴れて、
人力車に乗るのも楽しそう
 名曲“花”の歌碑
 戦災慰霊碑  待乳山聖天の門  春の心地よい風が吹く参道

 公園そばの通りを横切ると、ちょっとした高台があり夫婦和合の神さま「待乳山聖天」に着きました。灯籠、水桶、
本堂の飾り、石段など境内のあちこちに、大根(しかも二股)と巾着(ひもで縛るようになった昔のサイフ)が描かれて
います。
 説明によると、大根は身体を丈夫にし、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を祈る象徴として、また巾着は
財宝で商売繁盛を表し、どちらも聖天さまのご利益を示したものとか。ただ、もう一つの解釈もあるそうです。
二股大根は、艶めかしい女性の足、巾着は・・・・・かなりのオジさんネタになるのでもうやめますが、正月には境内で
大根祭りが開かれ、美味しいふろふき大根とお酒がふるまわれ、夫婦の参拝客が絶えないそうです。
 待乳山聖天から、いよいよ旧吉原の跡地をめざします。ここには昔、音無川が流れていて、その土手道を男たちは
ある者は駕籠で、またある者は船でいそいそと不夜城吉原を目指したのだそうです。今は山谷堀公園として整備され、
桜並木の遊歩道になっています。
 春の木洩れ日が優しい散歩道が延々と続く中を、私はゆっくりと歩きます。浅草や隅田川周辺の人混みが嘘みたいに、
ほとんど行き交う人もなく、ポカポカ陽気のこの贅沢なウォーキングコースを独り占めしたみたいです。ところどころに
いわくありげな橋や、石のモニュメントがあり、江戸から明治にかけての賑わいが、ふと頭の中をよぎりました。  
 
 かつて男たちが吉原をめざして通った山谷堀も今は公園です  今戸橋

 やがて、吉原大門(おおもん)の交差点が見えてきました。時代劇にも出てくる吉原の玄関“大門”の跡地はここから
少し入ったところですが、この交差点には有名な「見返り柳」が植わっています。電柱の側にある何の変哲もないただの
柳の木です。吉原で遊んだ客が一夜を共にした遊女に見送られて大門を出たあと、名残惜しげに振り返ったところから
この名が付いたそうです。火事や戦災などで何度も消失し、この柳は6代目でとのことです。「きぬぎぬの後ろ髪引く
柳かな」などの川柳が伝えられています。

 交差点を左に折れると緩やかに下り坂になってます。この坂を「衣紋(えもん)坂」といい、客が今から吉原に乗り込む
ときに、衣紋つくろい(身づくろい)をしたことから、この名がついたそうです。その先の千束4丁目付近が、かつての
吉原大門の跡です。今でも付近はソープランドやラブホテルなどが多く、端的に表現すると売春が行われていた公設の
一大社交場だったことが偲ばれます。

 家康の江戸開府のときの人口は圧倒的に男が多く、必然的に彼らの相手をする遊女屋が増え、幕府の許可のもと、
これを1か所にまとめたのが日本橋町にあった旧吉原で、葭(よし)が茂る湿地帯だったことから、最初は葭原と
呼ばれていたそうです。その後、明暦の大火でこれが消滅したため、改めて幕府が田んぼばかりだった浅草周辺に
移転させたのが、この場所で、最初は「新吉原」と呼ばれていたそうですが、いつのまにか「新」の文字が取れて
吉原になったそうです。
 見返り柳  吉原弁財天  浄閑寺(投げ込み寺)

  吉原の出入りは大門1か所のみで、周囲は「おはぐろドブ」と呼ばれる掘り割りで囲まれ、借金のカタに苦界に身を
沈めた遊女たちが、毎日毎日客を取らされ、年季が明けるまでは一切外に出ることは許されませんでした。時代劇では
江戸文化の花のように描かれることの多い吉原ですが、今考えると、人身売買、売春、監禁といった大変な人権問題が
当時当たり前のこととしてまかり通っていたのです。 
 大門跡地から西側がかつての吉原の中心部です。歩いていてもその名残は殆どわかりませんが、地図を見ると
大門から一直線に伸びた道路が、かつてのメインストリートを思わせますし、他の区域に比べて整然と区画整理された
一帯が、遊郭のあった雰囲気を何となく伝えているのが感じられます。そのメインストリートのはずれと思われる所に、
吉原神社と吉原弁財天が鎮座しています。

 最盛期(天保年間)には、200軒余りの廓があり、4千人を超える遊女たちが働いていたそうです。彼女たちの
平均寿命は何と20歳から25歳くらい・・・当時の一般人と比較してもはるかに短命だったことが分かります。劣悪な
衛生状態、そして劣悪な労働環境から、年季の明けるのを待つことなく死んでいった者が大半だったのでしょう。
こうした彼女たちを葬った所が吉原から少し離れた北側にある浄閑寺(じょうかんじ:別名投げ込み寺)です。

    生まれては苦界(くがい) 死しては浄閑寺

 境内の霊塔に刻まれた言葉です。江戸から明治期の約300年の間に2万人にも及ぶ遊女たちが文字通り
投げ込まれるように葬られたそうです。寺の中まで入れていただいて、大小様々のたくさんの墓石を目にした私は、
カメラを向けたとたんに、無念のうちに世を去った遊女たちの情念と対峙しているような気になってどうしても
シャッターを切れませんでした。時代が違う、昔のことだと言ってしまえばそれまでですが・・・
 今でも浄閑寺のあのおびただしい墓石群を思い出すたびに身体が震えるほどの感情がこみ上げます。
樋口一葉記念館   一葉の肖像  一葉の旧居跡

 吉原神社を過ぎて、足の向きを北に転じると、「にごりえ」、「たけくらべ」などを書いた明治の女流作家 樋口一葉
ゆかりの旧居跡が見えてきます。
 一葉、樋口夏子(奈津)は明治5年に現在の千代田区付近に生まれました。樋口家は様々な事情から何度も転居を
繰り返しています。
 吉原付近(竜泉3丁目)の長屋に母と住んだのは、21歳のときのわずか10ヶ月余りで、細々とした駄菓子屋を
営んでいました。この長屋時代の経験が後に名作「たけくらべ」として花開くことになりましたが、わずか24歳で
亡くなりました。死因は当時、国民病といわれ多くの人々の命を奪った結核でした。地元の熱意で竣工した
一葉記念館には、自筆の原稿や肖像画などが展示されています。  
一葉が母と営んだ駄菓子屋の住まい:明治期の下町の様子に不思議なたまらないほどの懐かしさを覚えます

  この日は、上野方面にも足を伸ばし、不忍池そばの無縁坂周辺をぶらついてみました。無縁坂といえば学生時代に
聞いたフォークデュオ「グレープ」の名曲を思い出します。息子の母への想いをテーマにしたこの曲は、確か三浦友和さん
と池内淳子さんのTVドラマの主題歌になってたと思います。どんなドラマだったかは覚えてませんが・・・。題名の無縁坂
という地名が実際に上野付近にあるのを知ったのは、社会人になって出張などで上京するようになってからでした。
名曲「無縁坂」を今でも時々自分で弾き語りしたりします。ひどい出来ですが・・・

 無縁坂は、上野不忍池の西口交差点から、東京大学鉄門のところまでの約200mのゆるやかな坂です。この日、
初めてなのに何となく懐かしくて、ゆっくりと行ったり来たりする自分がいました。
 グレープの名曲「無縁坂」
スエさんのカバーでどうぞ
ゆるやかな坂を行ったり来たり・・・ 

 坂の南側には、日本の三代財閥の一つ三菱の創業者岩崎一族がかつての住んでいた豪邸があり、一般公開されてます。
もともとは大名屋敷があったところだそうですが、明治初期に岩崎家初代の彌太郎が購入して一族の住まいにしたとの
ことです。岩崎彌太郎といえば、ちょっと前の大河ドラマ「龍馬傳」の中で香川照之さんの“怪演”が際立っていて、主演の
福山雅治さんを食ってしまうほどの勢いだったのを思い出します。
 旧岩崎邸  重厚な階段が2階に伸びています  この金ぴかの壁紙は、現代では再現
不可能なほど貴重なものだそうです
   下の欄中央が、4代までの岩崎家の系図です。赤丸が創始者(初代社長)の彌太郎、青丸が、その息子で3代目
社長の久彌です。戦後の財閥解体まで、彌太郎とその弟の家系で交互に社長を務めてきたことが、この家系図で
わかります。それにしても、香川照之さんの彌太郎は、ホンモノによく似ていると思います。(あんなにまで汚い風貌では
なかったと思いますが・・・) それと身内とはいえ、4代目までの社長が互いによく似ている・・・彌太郎のDNAが強烈に
一族を支配していたのではと思われます。

 土地は彌太郎が購入しましたが、この屋敷そのものは、3代目の久彌が明治29年に建てたものだそうです。
終戦までは名実共に岩崎家の屋敷でしたが、その後GHQにより接収され、対共産圏に対する諜報活動で有名なキャノン
機関がここに置かれ、岩崎家は隅の和室に追いやられて居住した後、結局は手放すことになったのだそうです。幾多の
変遷ののち、今は都の施設として全面公開されています。

 下欄右側が、この屋敷で撮られた明治期の久彌氏とその家族の写真です。家長久彌氏の穏やかな表情に、上流階級の
アットホームな雰囲気が伝わってきます。ちなみにこの時代、スエさんのご先祖は、日向の山深い村で、藁葺きの小屋の
ような家で、食うや食わずの生活でした。
その子孫の私がこの屋敷を自由に見て回れるとは、いい時代になったものだなと
思います。
 パルコニーに出ると、春の
柔らかな日射しの中で、
爽やかな風が吹いてました
 4人の歴代社長は、
みなよく似てます
いまでいうセレブ
なんでしょうね 
邸内には和風の屋敷もあります   広大な庭から眺めた洋館


湯島・上野・根津界隈(平成15年4月・17年3月の旅)

 神田から湯島、上野、浅草そして根津界隈まで歩いてみた時の旅です。
 まずは、神田明神です。「男だったら一つにかける かけてもつれた謎を解く」大川橋蔵のTVドラマで知られた
銭形平次は、「神田明神下」に住んでたことになっています。神田明神は、関東地方の鎮守の神さまで、もともとは
大手町の江戸城付近にあったものが、江戸開府とともに、江戸城の鬼門(北東?)に当たる現在の地に引っ越した
そうです。平次はもちろん野村胡堂が創作した架空の人物ですが、社殿の右側奥にまわると、投げ銭の「寛永通宝」を
かたどった台座の上に建つ「平次の碑」を見ることができます。ちなみに中学時代の私は、平次の恋女房おしず役を
やった香山美子さんの大ファンでした。
 神田明神  境内で飲める名物の甘酒 ドラマ「銭形平治」の主題歌
オリジナルの舟木一夫さん
でなく珍しい福山雅治さんの
ギター弾き語りです 

  神田明神からちょっと北に行ったところに、泉鏡花作「婦(おんな)系図」)の名場面「湯島の白梅」の舞台となった
「湯島天神」があります。「別れろ、切れろは芸者のときに言う言葉 今の私にはいっそ死ねといってほしい」の名セリフと
ともに、恋人主税の将来のためにいさぎよく身をひく明治の女「お蔦」の心情は、現代ではなかなか理解されないかも
しれませんね。
 境内に上がるには、急階段の「男坂」と、ゆるやかな「女坂」があり、怠け者の私は、もちろん女坂を選びました。名物の
白梅は盛りを過ぎてましたが人出はけっこうありました。学問の神さまの天神様の社なので、かけられた絵馬には、
受験祈願のものが多く目につきました。毎年のことですが絵馬をかけたこの時の若者たちの18又は15の春は、
どうだったのでしょう。
 なだらかな女坂  湯島天神の境内  湯島の白梅
  
 上野、浅草へも足を伸ばしました。この時の私のメモを紹介します。

   圧倒されるのは、相変わらずの人出の多さである。アメ横・上野公園・浅草仲見世など、いずれの場所も
   人通りがハンパなかった。上野公園では、花見客に混じって、とうに還暦は過ぎたと思われるおじいさん
   たちが、ギターをかき鳴らして大声を張り上げたり、あざやかな手振りで踊りまくっている風景に出くわした。
   宮崎の若草通や駅前の広場などでもみられる、若い「ストリートミュージシャン」となんら変わりない熟年
   ボーイたちだった。一曲終わるごとに、周囲の若者たちから盛んな拍手がわいていた。
   (マコチワケジサンタッチャガ=何とまあ若いおじいさんたちだろう(宮崎弁))


 わずか十数年前のことなのに、いまのコロナ禍の状況を考えると気持的には半世紀も前のような気がします。
上野のアメ横(左)と浅草仲見世(中央) ほんの2年前
までは許されていた3密の賑わいが早く戻ってほしい 
 桜の時期の上野恩賜公園では
いろんなパフォーマンスが
行われていた。今は昔の感がある

 上野の 不忍池の西側にある不忍通りを北に歩いていくと、軒がひしめき合う古い家々が並ぶ「根津」に出ます。
東大キャンパスの裏手にあたるこのあたりは、かつて6代将軍徳川家宣にゆかりの根津権現(根津神社)の門前町として
栄えたところです。
 すぐそばの上野の喧噪(当時)がウソのように、こちらは人通りが殆どありません。古い家並みの間を通ると、まるで
大正から昭和の時代にタイムスリップしたような気にもなります。家の前がすぐ通りで、庭はもちろんなく、2階に狭い
物干しスペースが作られ、玄関前には、わずかな隙間を利用して、所狭しと植木鉢が並べられています。

  かつて日本人の狭い住居は、諸外国から「ウサギ小屋」とバカにされてました。でも私は、たとえ広い家に住めても、
銃を乱射し、クスリにおぼれ、肌の色の違う人間を差別し、自分と異なる宗教を信じる人間を敵視するような国には
住みたくありません。2階の物干しからお隣とあいさつを交わし、道路わきのガーデニングを楽しむ下町の住人のほうが、
どんなにか豊かな心を持っていることでしょう。
 こんな下町をぶらっと歩くと、何かホッとする自分がいます。でも深刻な不況とコロナ禍のなかで、我々日本人の心も
次第に荒れ始めているような気もします。本当の意味の下町が全国各地にいつまでも残っていてほしいと思います。
   

深川界隈(平成11年7月の旅)

   皇居大手門から、永代通り(営団地下鉄東西線の地上部分)を東に進み、隅田川にかかった永代橋を渡ると、
門前仲町、深川、木場といった下町の古い町並みが広がっています。
 まず深川不動を訪れました。そもそもお不動さんとは、仏教でいう「不動明王」のことで、反仏教的なあらゆるものと戦う
使命をおびた「明王」のなかでも日本人に最も親しまれている仏様です。深川不動は、元禄年間に千葉の成田山から
本尊を出開帳(出張展示のようなものか?)したことから始まったとされますが、お不動さんが建てられたのは比較的
新しく、明治になってからだそうです。家内安全、交通安全、干支信仰などあらゆることに御利益があるとされています。
 この日は大変な猛暑の日でしたが、年配の参拝客が絶えませんでした。。
 深川不動 富岡八幡  横綱力士碑

  深川不動から少し歩くと、富岡八幡宮の鳥居がみえてきます。応神天皇を祭神とする「八幡さま」は各地にありますが、
富岡八幡は寛永4年(1627年)の創建以来、とりわけ徳川将軍家の信仰が厚く、江戸最大の八幡さまとして現在まで
続いてます。例年8月に行われる大祭は、日枝神社の山王祭、神田明神の「神田祭」とともに「江戸三大祭り」といわれ、
ダイヤまでちりばめられた(!)壮麗な黄金色の大神輿のほか、大小あわせて50基の神輿が登場する華やかな祭りだ
そうです。この祭りの約1ヶ月後なのですが、今は参拝客も少なく、静まりかえっています。

 社殿の右奥に、大きな石碑があり、「横綱力士碑」という文字が力強い字体で刻まれている。江戸の相撲といえば
今の国技館が建っている両国界隈が有名ですが、その両国の回向院での相撲興行が始まる100年も前から、
この富岡八幡では、勧進相撲(寺社が力士を招いて開催していた相撲)が行われていたそうです。となると、こちらが
今の相撲の発祥の地といっていいのかもしれません。この碑は、明治28年(1895年)に建てられたそうで、初代
明石志賀之助から67代武蔵丸(このとき横綱になったばかり)まで歴代横綱の名前が刻まれていました。この碑の
両側には、幕末の名横綱である陣幕と不知火のイラストが刻まれた顕彰碑もありました。

 歴代横綱一覧の中に、「47代柏戸剛」、「48代大鵬幸喜」の名を見つけました。そうそう、昭和30年代、小学生
だった私は映りの悪い白黒テレビにかじりついて「柏鵬戦」を見てました。大鵬の大ファンでした。
 それにしてもこの碑は何と大きく、どっしりしてるのでしょう。「石碑の横綱」的な風格をただよわせていました。(
     
     




夕焼けだんだんのかき氷(谷中銀座/ひみつ堂 平成24年9月) 

 
 都内山手線の日暮里駅西口から歩いて5分のところに
「谷中銀座」と呼ばれる商店街があります。駅から商店街
まではなだらかな石段を下りていくのですが、この石段から
眺める夕日が、なんとも言えない絶景なんだそうで、
通称「夕焼けだんだん」とも呼ばれています。残念ながら
私はまだ夕暮れ時にいったことがないので、この夕焼けは
見たことがありません。
 そんな夕焼けだんだんを降りて、商店街の入り口付近から
左に曲がったところに、「ひみつ堂」という小さなか
き氷屋さんがあります。
 何だ、かき氷か、と侮ることなかれ・・・ここの氷は
そんじょそこらの製氷機で作ったものではなく、あの日光の
山の中で天然水をひと冬かけてゆっくりと凍らせた天然氷
なんです。それを昔ながらの手回しの氷削機で削るので、
口に入れると、ふんわりと優しく溶けてくれます。夜祭の
かき氷のようなザラザラとしたイヤな食感や頭がツーンと
痛くなる感じがまるでありません。
 そして、お店オリジナルのフルーツをふんだんに使って
仕上げた何種類ものシロップの中からお好みのものを
選んでかけてもらいます。
デートスポットとしても人気がある夕焼けだんだん。
まだ残暑が厳しいのですが人通りは絶えません。 
 ひみつ堂の前は、直射日光に汗を
かきながら大勢の行列が・・・・・・・
この日わたしも約40分並びました。
やっと行列の先頭に立ちました。
オリジナルの旗が迎えてくれます。
 涼しい店内でほっと一息。カウンター、
テーブル併せて約20席くらいの店内
は満席・・・・・・9割くらいは女性です
御主人とスタッフの女性が2台の氷削機
をフル回転させ、大きな氷を削ってます。
子どものころにはよく見かけた風景です。
カウンターの上に貼られた手書きの
メニュー。定番のいちごの他、みかん、
ヨーグルト、抹茶などでいろいろな
バリエーションが楽しめます。私は
この日は、生メロン&ヨーグルトを
お願いしました。人工甘味料無しの
全て、オリジナルのシロップです。
 来ました、来ました。真っ白な
フワフワ氷に、ヨーグルトが
かけられ、とろりとしたメロンの
シロップ。そして口直しのお茶。
40分並んでやっと対面です。
 メロンシロップをかけて・・・
さあ、いただきま~す。
ちなみに「ひみつ堂」の
ひみつとは、「秘密」では
なくて「氷蜜」だそうです。
氷とシロップにこだわって
ますということでしょうね。

(29.10.22up)


新しきもの、古きもの(東京スカイツリー&浅草寺界隈 平成25年12月)

先日、東京スカイツリーに登ってきました。登るといっても
最新鋭の高速エレベータに乗っていれば展望エリアに
着いてしまうわけなので、何の労力もいらないのですが
とにかく、話題のスカイツリーに初登頂を果たしたわけです。

今回は余計な解説は抜きで、江戸情緒が残る浅草寺の
界隈と、我が国最新のテクノロジーの産物である
スカイツリーを対比させて、「新しきもの、古きもの」が
不思議と溶け合ったメガロポリス東京の風景を
お届けします。
 

①スカイツリーとソラマチ 
 

②浅草寺界隈

 
 

(28.12.13Up)


Ⓢ自衛隊音楽祭り2014(東京/日本武道館 平成26年11月)


 最近、国会の安保法案審議で、議論の渦中にある自衛隊ですが、色んな災害現場での活躍を見るにつけ、私たち国民の
身近な存在になっている気がします。そんな自衛隊の中に、ここ数年、三宅由佳莉さんという音楽隊員の存在がマスコミや
ネットで話題になっています。
 音楽大学で声楽を学んだソプラノの歌姫が、およそ畑違いの海上自衛隊に入り、屈強な男たちと同様の訓練を受けながら
各地で歌っている姿を画面で見るにつけ、ステージで本物の三宅さんの歌声を聞いてみたいとかねがね思っていました。
 そんな私の願いが叶ったのが、昨年秋の「自衛隊音楽まつり」です。年に一度、陸海空自衛隊と、米軍その他の
外国軍隊の音楽隊が一同に会して行われるこのステージは、全国的に人気が高く、平成24年から申し込んでいた
私も、やっと3回目にして“プラチナチケット”をゲットできました。しかも無料なんです。当選の知らせが入るなり
すぐに東京便の飛行機を予約したのはいうまでもありません。

開かれたのは東京九段の日本武道館。東京オリンピックで柔道
競技が行われた八角形の建物です。皇居の清水門から入ります。
1万3千人が収容できる
という館内はほぼ満席です。
ゲストの米軍海兵隊音楽隊。
陽気なジャズで盛り上げます。
 
 海上自衛隊の「SEA」の人文字を描きながらの演奏です。 陸・海・空の自衛隊オールキャストでの演奏 
       
 
 いよいよ三宅由佳莉さんの登場です。NHKドラマ
「坂の上の雲」の主題歌“Stand Alone”の熱唱です。
 やっとの思いで撮った動画です。歌声が流れ始め、三宅さんが奥の
カーテンから現れると思いきや、ステージ左から出てきたので
あわててカメラを動かしたり、バッテリ切れ寸前でエンディングが
ぶち切れたりと散々な状態ですが、よかったら見てください。
(You Tubeに投稿した動画です) 
 
 今回、失敗したことがあります。いくら自衛隊とはいえ、エンタテインメントの場ですから、当然写真も動画も
撮影禁止、そもそもカメラ持ち込み禁止だと思い、愛機のEos Kissは持っていきませんでした。ところが・・・
武道館に入場してみると、カメラを抱えた人たちがあちこちにいるではありませんか。
 近くの会場整理をしていた隊員の方に尋ねてみると、「フラッシュ撮影やほかの人にじゃまになる三脚で
の撮影を自粛していただければけっこうですよ」との答え。“しまった!”私は、悔しさと後悔の念にとらわれました。
 幸い、バッグの中にはパナソニックの安物のデジカメがありました。「ステージはダメでも外の景色だけは
撮ろうということで妻から借りてきたのです。残念ながら、バッテリの充電が十分でない、SDカードのメモリが
小さい、解像度が悪いなど、悪条件でしたが、座った場所がよかったので、ご覧のような画像と動画をものに
できました。つぎに行くときは(といっても2度目の当選がいつになるかわかりませんが・・・)Eosを絶対に
持っていきます。 (27.06.17UP)


都内の秋点描(平成20年11月)
  
 息子(二男)や娘の顔を見に妻と上京
しました。晩秋の東京はすでに肌寒く、
あちこちで都のシンボルのいちょうが
黄金色になってました。
 2泊3日のあわただしい旅でしたが、
久しぶりに子どもたちに会えて嬉しい
ひとときをすごしました。仙台の長男にも
会いたかったのですが、また別の機会を
待とうと思います。
いちょう並木(昭和記念公園:立川) 

   
娘が撮った2ショット(昭和記念公園)              池のまわり(昭和記念公園)

   
いちょう並木もう一枚         不夜城新宿アルタ付近         秋晴れの都庁

  
都庁周辺の階段も秋の化粧                  代官山で人気のパン屋さん

  
天然酵母のパン・・・旨かった!               パン屋さんの窓からも秋景色が・・・
  
こちらは、神宮外苑のいちょう並木、どことなく外国風です        (20.11.20UP)




夜雨の中の襲名披露(新宿 末廣亭 平成18年10月)

 先日、新宿の末廣亭に行ってきました。若い頃から落語が好きでしたが、本物は東京か大阪でしか味わえ
ません。上京のたびに通い詰めてました。幕末から明治にかけて百軒以上あったという定席の寄席も、私の
知る限り、末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、上野鈴本演芸場など、わずか数軒になっています。

 今回は本当に久しぶりです。秋雨前線の影響で、新宿はやや激しく降ってました。地下鉄の階段を出て
小さな通りを少し進むと、懐かしい末廣亭の建物が見えてきます。ちょうど六代目柳家小さん(三語楼改メ)の
襲名披露興行をやってました。ほぼ満席で、やっと最後の椅子席に座ることができました。むかし通い詰めて
いた頃は、これで商売が成り立つのかいな?というほどガラガラのときもありましたが、落語ブームが訪れて
いるのかもしれません。

 「落語がなぜ好きなの?」と尋ねられることがあります。映画、芝居、テレビドラマなどは複数の出演者がいて、
情景をそのまま描いて見せてくれますが、落語はたった一人です。その一人のはなし家が、何人もの登場人物
や景色などが豊かに表現してくれます。客は何も考えず、ただ大口をあけて笑ったり、ときにはしんみりしたり
していればいいのです。バカバカしいことを喋っているように見えますが、微妙な「間(ま)」のとり方など、会話や
プレゼンテーションに参考になることも多いと私は思います。

 寄席では、「公演中の飲食お断り」なんて固いことも言いません。甘党の私は、甘納豆をかじったり、サイダーを
飲んだりしながら見ることもあります。映画1本よりちょっと高めの料金(現在2700円)ですが、何人もの若手、
中堅、大看板のはなし家たちや、色ものと呼ばれる漫才師、曲芸師などが数時間も気楽に楽しませてくれる
場所って、ほかに無いのでは・・・お仲入り(中休み)のあと、六代目小さん、馬風(落語協会会長)、圓歌
(ご存じ山のアナアナ・・)、圓蔵(昔の圓鏡)など柳家、三遊亭の大看板たちが勢揃いの襲名披露口上が
ありました。そして最後に今夜のトリ、六代目のネタは「禁酒番屋」でした。

 殿様が禁酒の触れを出したある藩で酒屋の小僧が銘酒を届ける際のはなし。番屋をくぐろうとするとき、
役人に、「水カステラ」だ、油だとウソをいって通り抜けようとするが、酒好きの役人、
「このウソつきめ、
取り調べじゃ」
と没収し、みな飲んでしまう。
一計を案じた小僧、こんどは「小便です」と持っていく。徳利には、本当に小便が入っている。
怒った役人が悔しまぎれに怒鳴るひとこと・・
「ええい、この正直者め!」がオチになっている。

 小さんといえばおととし亡くなった丸い顔の五代目が有名ですが、六代目はその長男です。番屋の役人が
酒を飲むしぐさ、酔っぱらった様子、小便の匂いがたちこめるさまなど、親の七光りではない、彼だけの味が
あるように思いました。




白洲次郎の“プリンシプル”(旧白州邸「武相荘」 平成18年10月)
 白洲次郎(1902~1985)が今ブームに
なっています。かつて吉田茂の懐刀と呼ばれ
戦後の占領時代にあって、GHQを相手に
喧嘩した唯一の日本人と評された人物です。
戦後史に興味を持っている私ですが、白洲
次郎という名は不勉強で知りませんでした。
 兵庫県芦屋の資産家の家に生まれ、ケン
ブリッジ大学留学中の大正時代半ばの頃に
車のレースに熱狂し「オイリーボーイ」という
あだ名をつけられていたそうです。まだ日本
では車は珍しかった頃じゃないかと思います。
 戦後、吉田内閣の顧問や、東北電力会長
などを務めたほかは公職にはつかず、英国
紳士流の、彼自身がいう「プリンシプル」な
生き方を貫きました。
 夫人の正子さん(こちらも文筆者として有名)
と50年近く暮らした家が東京郊外に記念館
として残されており、先日行ってみました。
「武相荘」といいます。
 武相荘は、新宿から小田急線で30分ほど行った鶴川という駅で下車し、歩いて15分ほどの小高い山の上に
あります。 武蔵と相模の国の境にあるから武相荘(ぶあいそう)と彼が名付けた建物ですが、「無愛想」にひっかけた
彼独特のジョークのようです。次郎と正子はここを終(つい)の棲家として過ごしました。今も隣に住んでいるという
娘さんご夫婦の管理のもとで、かつての2人の遺品などがそのままの形で展示されています。

 次郎という人は公の仕事面とプライベートなオフタイムを見事に使い分ける独特の哲学を持っていたようです。
平凡社編集の「白洲次郎」というグラフ誌には、たぶん私邸の武相荘でラフなTシャツとジーンズ姿でくつろぐ姿と、
吉田茂の側近としてサンフランシスコ講和会議にスリーピースのフォーマルなスーツ姿の写真が載っています。
 どちらも白髪が相当目立ち始めた中年男の写真なのに、見事に決まっているのです。月並みな言葉かも
しれませんが、「ダンディでかっこいい」のです。著作権の関係でこのHPに載せるわけにはいきませんが、書店に
行くと彼に関する色々な本が並べられていますので、ぜひ一度手にとってご覧いただくとよいと思います。
 白洲次郎が、今改憲論議甚だしい日本国憲法の成立過程に、少なからずかかわっていた人物だったというのを
私は知りませんでした。終戦直後の日本政府は、マッカーサーの指令を受け当時の大日本帝国憲法を改正する
手続きに着手しました。当時の松本蒸治国務相が主宰する委員会が翌年提出した素案は、GHQに一蹴され、
代わりに今の憲法にほぼ近いマッカーサー案が日本側に示されました。この場に居合わたのが松本国務相、
吉田茂首相、翻訳官と白洲次郎だったそうです。

 あまりにも急進的と思えたその内容に対し、次郎はすぐさま私信の形で、GHQの民政局を担当していた
ホイットニー准将にメッセージを送ります。後にジープウェイレターと呼ばれることになるこのメッセージを全文
読んでみました。

     「日本側の案と、GHQの案は同じ目的を目指しているが、選ぶ道が全く違う。あなた方(GHQ)は、いわば
     エアウェイ(空路)を直線的、直接的に進もうとするアメリカ的なもの。いっぽう日本側は平坦ではない
     でこぼこ道を曲がりくねりながら目的をめざすジープウェイなのだ。完全な改革を急激に行おうとすれば
     極端な反動を招き、結局失敗に終わる。ぜひ将来の改憲の権利を国民が持つことで日本人の手で
     徐々に民主化の道を歩ませてほしい・・・・・・・・・


 といった内容であり、表現は丁寧ながら行間には自案を強く押しつけようとするGHQへの強い怒りが読みとれます。
このレターもホイットニーから一蹴され、結局マッカーサー案に近い形で今の日本国憲法が成立しました。次郎が
心配した事態が起こらなかったのはご承知のとおりであり、この憲法は大きな役割を戦後史において果たしてきた
わけですが、一方で「押しつけ憲法だ」という議論も続き、現在の改憲の動きにつながっているようです。

 イラクや北朝鮮の問題を背景として、我が国により強い軍事力をという、当時とは反対の方向で強い圧力をかけて
きているのが同じアメリカというのも歴史の皮肉のような気もします。もし今回の改憲が揺れ戻し的に軍事面強化に
進むとしたら、次郎の心配が今になって現れてきていると思うのは、私だけでしょうか?

 次郎が晩年愛した農作業のために、自ら手作りしたという色々な道具などを見て回りながら、
そんなことをふと、考えました。




 Ⓢ都電荒川線の旅(早稲田~箕輪 平成15年3月)    

  東京の最後の路面電車「都電荒川線」に乗った。荒川線は、明治後期に民営の王子電気軌道としてスタートし、昭和17年に
東京の市電の一部に組み込まれた。戦後の高度成長期から自動車が交通の主流となり、昭和40年代に都電の各路線が次々と
姿を姿を消す中、早稲田-三ノ輪橋間約12キロを走る荒川線が大都会東京の唯一の路面電車として生き残っている。
  今回乗ってみてわかったのだが、路線の大部分が自動車用道路と併走しない専用軌道であり、家々が立ち並ぶ中をノンビリと
走っている。私が学生時代をすごした博多もかつて路面電車が走っていて、在学中に廃止されてしまったが、地下鉄やバスでは
味わえない人間くささが「チンチン電車」にはあるような気がする。
  何カ所かで降車した電停とその周辺の短い旅をまとめてみた。現在の荒川線の停留所は次のとおり。(※が今回降車した電停)

   早稲田-※面影橋-学習院下-鬼子母神前-※雑司ヶ谷-東池袋4丁目-向原-大塚駅前-巣鴨新田-※庚申塚-
   新庚申塚-西ヶ原4丁目-滝野川1丁目-※飛鳥山-王子駅前-栄町-※梶原-※荒川車庫前-荒川遊園地前-
   小台-宮ノ前-熊野前-東尾久3丁目-町屋2丁目-町屋駅前-荒川7丁目-荒川2丁目-荒川区役所-荒川一
   中前-※三ノ輪橋
 
 

 まず面影橋に降り立つ。フォークグループ「六文銭」の歌に「面影橋から」というのがあった。電停のすぐそばには、これまた
「かぐや姫」で有名になった神田川が流れている。アコスティックギターの甘美なメロディを聞いて、勝手に美しいイメージを描いていたが
実際に見た神田川は、大都会を流れる汚れた水路だった。でもそのこと自体が、人々の日々の生活のシンボルなのかもと思う。
もちろん住民の必死の取り組みで、少しずつ清流としてよみがえりつつあるようだ。両岸の五分咲きの桜を映して流れる神田川は、
春まっただ中だった。

フォークグループかぐや姫の名曲「神田川」

この曲には70年代に学生生活を送った私たちの
世代に共通する漠然とした不安と哀愁を感じます。
約40年前の下宿生活・・・大学の周りには飯無し、
風呂無し、トイレ共同(しかも汲み取り式)の下宿が
大半で、キッチン、トイレ付きのアパートなどに
住んでる学生はホントの一握りでした。
ちょっと恵まれてた点がひとつ・・・私はこの曲の
ような3畳ではなく、4畳半に住んでました。

私の下手なアコギの弾き語りでお楽しみ(?)ください。 


 次は雑司ヶ谷。江戸時代、将軍の鷹狩りに使われたところで、明治になってから共同墓地が置かれるようになったという。電停を
出て右に進むと、たくさんの巨樹におおわれた無数の墓地群が見えてくる。管理事務所で案内図(100円の寄付が必要)をいただいて
見てみると、夏目漱石、永井荷風、竹久夢二、東郷青児東条英機、島村抱月、小泉八雲、荻野吟子、大川橋蔵、初代江戸屋猫八、
泉鏡花といった、明治以降の歴史に大きな足跡を残した著名人たちが、キラ星のごとく(この表現は少し失礼だが)眠っている。
 園内は、ほぼ碁盤の目状に区画され、分類番号が付けられていてとてもわかりやすい。木が多いため、夏場でも涼しそうだ。生前の
像が建ててあったりして個性的なお墓もけっこう多い。ひっそりとした墓地と木々の向こうには、現代建築の粋をこらした池袋の
サンシャインビルが巨大な姿を見せていた。

                   サトウハチローの墓にあった言葉
                「ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる」

 庚申塚のホームの横に「いっぷく亭」という甘い物の店がある。店先にはユーモラスな人形がお菓子の袋を持って立っている。
たぶん「とげぬき地蔵」への参拝をすませたおばあちゃんたちに人気があるのだろう。中に入ってお茶をすすりながら、おはぎを食べた。
どこにでもありそうで、実は見たことがない珍しい抹茶あんのおはぎだった。巣鴨の「とげぬき地蔵」には何度か来たことがあるが今回の
ように荒川線から行ったのは初めてだ。相変わらずの賑わいで、おばあちゃんの原宿は健在だった。
      

 飛鳥山には、北区が運営する三つの博物館がある。本郷通りから見て真ん中に、地元の歴史や文化を紹介する「飛鳥山博物館」、
その左側には「紙の博物館」。区内の王子が発祥の「王子製紙」にちなんで、造られたらしい。凹凸をつけた金色の装飾用の紙が
すばらしい輝きを放っていた。そして、右側には渋沢栄一記念館。飛鳥山には、日本の実業界を築き上げた渋沢栄一の別荘が
あったところとのこと。

 梶原電停を降りて左側の商店街の入り口に「明美」というお菓子屋さんがある。ここが知る人ぞ知る「都電もなか」の店である。
電車の図案が描かれた長方形の箱に、これまた電車の形をした最中が窮屈そうに入っている。1個130円での味はどうという
ことはない普通の最中だが、店には数名のお客さんがいて、とぶように売れている。たしか鎌倉にも「江ノ電もなか」という同様の
品があったと思うが、現地でしか買えないレア物ということで、電車好きのマニアにはたまらない魅力なのだろう。

 梶原の次が荒川車庫前。引き込み線があって数台の電車があった。鉄道マニアの人がよく来るらしく、「危険なので構内に入るな」
という趣旨の立て看板がいくつか目についた。 (15.03.30up)    



Ⓢ寅さんと草だんごと矢切の渡し(柴又 平成8年9月/24年8月)
柴又帝釈天
 
柴又には、以前出張の合間に行ったことがあったが、あいにく日も暮れており、真っ暗な中に山門を見た記憶しかない。
 今回は、明るいうちに柴又駅に降り立った。映画「男はつらいよ」で寅さんが妹さくらに別れを告げて旅に出るこの駅も、
小さいながらすっかりきれいになっている。
 参道に入ると、みやげ物や草だんごの店が立ち並んでいる。寅さんの映画そのままだ。平日だが、年輩客がけっこう多い。
 名前に惹かれて、「とらや」という店に入り、お茶付きの草だんご(330円)を注文した。直径2~3㎝ほどの緑色の
だんごが7個ほど盛られて出てくる。上にたっぷりとあんこが乗っていて、ところどころ小豆が黒光りして顔を見せている。
心が躍る。よもぎの香り、あんこの甘さ、追いかけて飲む熱いお茶の快い渋みがパレードしながら腹に落ちていく。
 
矢切の渡し
  帝釈天の横を抜けて、交通量の多い道路をしばらく行くと、江戸川べりの堤防に出る。
 堤防を登ると、寅さんの映画のオープニングシーンが目の前に広がる。さくらが草だんごのためのよもぎを摘む場面が
何作目かにあったが、治水のための護岸工事がかなり進んでいて、自然のままというわけにはいかないようだ。広い、とにかく広い。
 川のほとりの一角に数本の木が寄り添って立っているところがあり、やや大きな御影石のそばの柱に白く「矢切の渡し」と
書かれていた。 

川に向かって、大きな一枚板の船着き場が造られ、周囲にはもやい綱のための数本の杭が水面からのぞいている。
 やがて船が対岸から戻ってきたので、数名のお年寄りの一団と一緒に乗せてもらった。渡し賃は100円。
 十数名ほど乗れる手こぎの船は、老年と中年の2人の船頭さん(たぶん親子)が交互に操っているようだ。乗り心地
すごくいい。殆ど揺れずに川面を滑るように進んでいく。
 家族連れらの微かな歓声と、水辺の鳥の鳴き声、そしてのんびりとした櫓の音以外は何も聞こえない。静かだ。
(14.12.10UP) 

   



「男はつらいよ」で寅さんの妹さくら役を好演した倍賞千恵子さん
・・・彼女がさくらの気持ちを切々と歌う「さくらのバラード」です

                                     

 ②項目地名 
趣旨
     
      
     

  
     


     
           
     



       


終戦前後の残照(旧陸軍省・旧GHQ 平成29年6月)
書きかけです・・・