ふるさとの味
甘藷(イモ)のモチ (1)
 ○子供の頃のおやつだった「イモのモチ」を作ってみました!
私らが子供の頃は昭和20年代の中頃です。
柏は農漁村でしたから、食べるものには困らなかったけれど、戦後の混乱期をまだ脱してなくて貧しい時期でした。当時の小学一年生頃の写真を見ると、言葉は悪いけど、まるで浮浪児みたいなかっこうです。浮浪児という言葉も今では死語になってしまいましたね。シラミ退治とかでDDTの粉による消毒で髪の毛を白くされている女の子もいました。
当時はそれがあたりまえでした。戦後の一時期は都会の子供よりは、田舎のほうが食べるものに困らなかっただけ良かったのかもしれません。疎開(戦火を逃れて農村部へ避難して生活すること)のためか、奥柏にはそんな数家族が畑の隅で掘っ立て小屋に住んでおり、そこの子供たちと遊んだりしたかすかな記憶もあります。

当時は白米はお金と同じくらい貴重品でしたから、押し麦入りのごはん、いわゆる「麦ご飯」が主食でした。家族の多い家庭では一時期「おつめご飯」というのもありました。何をつめているかというと、甘藷(イモ)をスライスして天日に干して乾燥させたキリボシにして、白くパリパリになったところで臼などで搗いて細かくしたものを、炊飯の時に加えます。するとご飯の全体量が増えるので、そのぶん麦や米の消費の節約になるのです。

農村ではあっても皆が田んぼを持っているわけではなく、柏は水田の面積が少ない土地柄で、しかも当時は子供の数が多かったので「おつめご飯」にする家庭も多かったようです。ご飯にほどよく甘藷の甘味が加わり、それなりに味も良かったのを憶えています。
小学校の頃のこと、学校から石川栄治くんと一緒に帰宅途中、彼の家に寄りました。家が同じ方角だったので仲良しだったのです。育ち盛りの頃でお腹もすいています。彼が台所に行き「はがま」のフタを上げると、あてにしていた「蒸しイモ」の作り置きがなく、がっかりした彼は次にご飯のカマのフタをあけ、しゃもじで「おつめご飯」をとり、「ほら、」と言って私にくれました。
なんにもないから、おやつがわりに「おつめご飯」をくれたのです。「あんまり食べるとおこられるけん…」と弁解のように笑って、彼もそれを少し食べました。石川くんの父上は魚を柏崎などから仕入れてきて自転車で行商をしていました。おとなしい人でしたが、病を得てほどなく亡くなりました。そのため母上が川の堤防工事で男の人にまじって働くなどたいへんだったようです。

そんなわけで当時の「おやつ」は甘藷(イモ)でした。甘藷はやせた畑でも出来るし、デンプン原料用に換金できることからほとんどの農家が作っていました。イモをオカマに入れて蒸すだけで立派な「おやつ」になり、どの家でも「蒸したイモ」がおやつ用にありました。
当時の子供のスタイルは、右手にイリコ、左手にイモを持って遊んでいました。時々細道でコケたりすると持っていたイモがどこかへ飛んでいき、それを探すのにひと苦労でした。たいていは畑の中に土がついて転がっていました。その土をなんとか払って、又持って遊び続けました。

成長期の子供ですから、お腹がすきます。そんな時のおやつが「蒸しイモ」や「ひがしやま」「イモのモチ」でした。当時の思い出と共に登場する「おやつ」をいつか再現してみたいなと思っていましたが、今夏帰郷したときにその話をしたら、同級生の高橋アイ子ちゃんが、「それやったら一本松のフレッシュという朝市で売ってるで、」と言ってイモの粉を買ってきてくれました。
念願かなって材料を手に入れたので早速作ってみることにしました。そんなわけで次頁は、「イモのモチ」作り体験記です。

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