少年冒険記
 柏中時代の冒険記(3)
  (3)、とんでもない所へ下りてしまった6人は途方にくれる…
あとでわかったことだが、観音岳というのは一村二町の分岐峰であった。内海村柏、津島町(岩松)、そして城辺町僧都の境となる山なのであった。それと知らず私たちは、山の向こうは隣村だろう、くらいの安易考えで山を下ったのだった。

こうなってはバスに乗るか(バス賃は持ってない)自分の足で歩くか、しかない。もちろん歩くしかない。暮れ行く田舎の田んぼや畑ぞいの道を城辺のほうを目指して歩いた。途中バス停があったので、見ると1日5本くらいしかパスのない所だった。秋の彼岸をすぎた頃の日曜だったので、道ばたで遊んでいた地元の子供が「おはぎ」を持って食べていた。大和田君がこれをじっと見ていた。無理もない、彼は昼の弁当も持ってきてなく…空腹なのだ。夕陽暮れてゆく田舎道をトボトボと歩いた。

とにかく城辺まで着けば、最終バスに誰か一人でも乗って柏へ帰ればなんとかなる…そんな楽観論にささえられて歩きつづけた。中学生のというのは案外と体力のある年頃である。お腹がすいたことが一番困ったことで、足の疲れは二番目である。そして、ついに、豊田という城辺の街の入り口にさしかかった時には周囲は完全に暗くなっていた。商店街にある時計の針をみると7時をかなりまわっていた。

にぎやかな城辺町の大通りに入り、二神書店の横にある宇和島自動車のバス営業所にやっと到着した。しかし…
すこし前に、宇和島行きの最終便が出た後だった。最終便は8時25分だったと思う。
すでに柏では、「子供たちが山から帰ってこない!」と大騒ぎになり、消防団が観音岳方面の捜索に出発していた。
最終バスもなく万事休す、ということで、せめて「電話でも、」と考え、山本さんが持っていた「須の川」へ行くバス代のお金をかりて、柏の高橋商店に電話した。すると電話の向こうで、「お前らどこにおるのか?」とあわてた声がして、「迎えに行くから、もうそこを動くな!」と言われた。

それでもなお、自力で柏へ帰ろうとした私たちは、城辺の街を歩き、平城の街を歩き、長崎という所まで歩き続けた。そのあたりは店もなく周囲が暗く、疲れて、気も滅入ってとうとう道端にへたり込んでしまった。とにかく1日中歩き続けてきたのだから…
小松君が言った、「たしか御荘座の映画館からフイルムを柏へ運ぶ小型トラックがここを通るはず、その車の特徴をオレは知っているから、それが来たら、停めて、乗せてもらおう!」、皆も「それがいい、」と賛同して、道端に座ってそれらしい車が通りかかるのを待った。
車の格好や音、ライトの格好でおよそ見当はつく。当時は映画全盛時代で、「かけもち」といって人気映画になると、上映のおわったフイルムを系列の(柏などの)映画館に小型トラックやバイクで運び、そこでまた上映していた。フイルムが雨に濡れるのをさけるため小形トラックを使用することが多かった。

しばらく待っていると、それらしき小型トラックが来た。小松君が道にとび出して大手を広げて車を止めた。たしかにそれは「フイルム運搬車」だった。運転手は驚いたことだろう…突然中学生が道にとび出して両手を上げて車の進行をさえぎったのだから…そしてホロ付きの荷台に5人は乗せてもらいやっと柏へと向かった。
途中、菊川の坂のところで、柏の農協のオート三輪と出会い、せまい道なのでスピードをゆっくりしたところで…その車を見ると体育担当の門屋先生の赤黒い顔が見えた、柏からの「迎えの車」だった。

翌日、朝礼でコトの顛末が全校生徒に報告され、まことに不名誉な記録となった。ひとには言いたくない話なので、ことさわら話題にしなかったが、還暦も過ぎると、少年時代の「武勇伝」として同級会などで格好の話のタネになっているのはしかたがない。
「樫田ナミ子さんの話」
 〜あの事件のことは不思議と誰も当時話題にしなかったわねぇ、だから同級生でも真相を知らない人もいるみたいよ、兄に「無謀事件」みたいに怒られたけど、私は、「山の向こうはどうなっているのか興味があったから、面白かったわよ、(笑)〜

 山本トミエさんは井上先生にひどく怒られたらしい。私は父がPTA会長をしていたせいか、先生たちから怒られなかった。というより、怒るとかの域をこえていた事件であった。ともかく皆が無事帰ってきたことでめでたしめでたし、悪者はなし、という決着が図られたのだろう…。

後年、山本トミエさんがヘルパーとして教頭の好村先生のお宅へうかがった時に、「主人はあのとき辞表を出す覚悟でいたらしい…」と奥様にきき、昔のことながらあらためでお詫びした…と言っていた。 
中学二年生のときにやらかした「冒険・遭難」事件がなければ、私はあのまま進んで、植物学者になっていたかもしれない。私はそれほど「植物採集」に魅せられていた。今でも野の名もない花を見ると心が動く。植物図鑑のページを頭の中でめくる。植物研究者の牧野富太郎博士のことは今も崇拝している。
…考えてみれば、当時は携帯電話もなくテレビや電話もさほど普及していなかったのが幸いだった。たぶん、村の駐在さん(警察)にわけを話して「なにもなかったこと、」にしてもらったのだろう。もし明るみに出れば、「中学生6人行方不明!」としてヘリコプターが山中を飛び、翌日の新聞に大々的に載り、校長や教育委員会の責任問題に発展するような大事件だった。
 
                                                    終
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