<魂の着ぐるみ>
卒業生が電話してきて、落ち込んでいる親友を励ましてほしいという。
先日大怪我をした私は、「療養中でボロボロ状態だけど」と告げて、自宅マンションまで来てもらった。
その友人は結婚して2度出産したが、悲しいことに、どちらも短期間で亡くなってしまったのだという。
彼女を連れてきた子が、雑談で「紙に書いた夢は実現する」類の話をしてきたので、そのあたりから入った。
カラーセラピストである私の妻は、コルクボードに夢をイメージする写真を貼ったり、手帳に目標をリストアップして、すべて実現させてきた。
それを知って強い興味を持っているが、本当にすべて思い通りになるのだろうか、というわけだ。
結論から言うと、本来は100パーセント実現することになっている。
しかし実際には、100パーセントは実現しない。
確率100パーセントの危険性を知っている何かが、歯止めをかけているのだ。
「思いは現実になる」というと、みんないいことばかりを想像しがちだ。
お金が儲かるとか、欲しいものが手に入るとか。
しかし人間の「思い」は、必ずしも「良いもの」だけとは限らない。
たとえば他人から嫌なことを言われたり、親子ゲンカをしたときなどに、つい「死んじまえ」なんて思ったとする。
その瞬間、相手は消えてなくなるのだ。
不都合な「思い」は見逃されがちだが、「すべて思い通りになる」とは、そういう恐ろしいことでもある。
宝くじでにわか億万長者になっても、その多くが破産しているという。
大金を正しく使う能力がないうちに、分不相応な幸運を手にする危険性がそこにある。
思いの現実化についても、100パーセントをコントロールする器がないと心の深い部分が知っているから、「好意で」全部は実現させないわけだ。
人の「死」も、コントロールできないことのひとつ。
不老長寿はありえないし、基本的にはいつ死ぬかもわからないようになっている。
だから原因が病気や事故だろうが、医療ミスだろうが早死にだろうが、それは最初から定められた「寿命」なのだ。
もし地獄というものがあるとすれば、それは「この世」である、という説もある。
仏教でいう「四苦八苦(※)」を経験させられるわけだから。
この世での「修行」を通して少しでも心を高め、今回のテーマを終えると「あの世=天国」に戻り、また別のテーマで生まれ変わってくる。
(※)四苦(生まれる・老いる・病む・死ぬ)に「愛する人と別れる・憎むものと出合う・欲しいものが得られない・食欲や性欲に心が乱れる」を合わせて八苦。
その説に基けば、この世の課題が大きい人ほど、魂のレベルは高いといえる。
たとえば体に障害のある人や、幼くして殺されてしまうような人。
流産や死産、赤ちゃんのうちに亡くなる人も、これ以上「修行」しなくても天国へ行ける非常に崇高な魂である。
人間として育つ前に旅立つ魂はもはや、同じく魂レベルの高いその親に、人が経験する究極の悲しみを体験させるためだけに生まれてきたとしか思えない。
「この人なら大丈夫、きっとこの悲しみを乗り越えて、美しい魂へと成長してくれるだろう」
そう信じて、わざわざ「選んで」生まれてくるのだから。
この世における「死」は、まったくの無になることや、ゼロに戻ることを意味しない。
もし「死んだら終わり」であるなら、親になった喜びや、子を見つめながら感じた愛も、一緒に過ごした日々の記憶も、すべて消滅するはずではないか。
この世で縁のあった「存在」は、絶対に消えることも消すこともできないのだ。
「人=肉体」と考えるなら、いわゆる死はすべての終わりである。
「人=肉体という『着ぐるみ』をまとった魂」と信じるなら、肉体は滅びても存在の記憶が残っている以上、魂は残された者の心とともにある。
仮に忘れ去られたとしても、この世に存在していたときに人々に与えた体験が、彼らの無意識の行動に微妙に影響し続ける(=生き続ける)のだ。
だからといって、悟ったような顔で、何が起きても泰然として生きろというのではない。
今は「あえて人間として」生かされているのだから、人間らしく感情をあらわに嘆き悲しみ、のたうち回ればい。
怒りも悲しみも、ごまかさず十分に感じつくしてこそ、雲のように流れては消えていくのだから。
ここで、死んだ相手の立場になって、今の自分を見つめてほしい。
自分のために泣いてくれるのはありがたいが、かといって一生そのまま、暗い気持ちで生きていってほしいと思うだろうか。
少しずつ傷ついた心を癒して、いずれは笑顔が戻って幸せな人生を過ごしてほしいと、自分なら願うのではないだろうか。
赤ちゃんが亡くなって、まだ2ヶ月だという。
涙を流す彼女の話をただ聞いて、聞き続けて、最後に上のような話をさせてもらった。
いつか少し元気を取り戻した彼女から、子どもと過ごした日々の思い出話を聞いてみたい。
(2008/8/8)