牛乳を注ぐ女
The Milkmaid (1660年頃) 45.5X41 アムステルダム 国立美術館蔵

 ありふれた台所の片隅で一人の女中が黙々と仕事に励んでいる。彼女のがっちりした体躯や質朴な顔立ちは蠱惑的な美しさとは縁遠い。表面的な美化が施されていない点では薄汚れた白壁もまた同様である。目に見える世界のいかなる細部をも軽視せず迫真の伎倆でこれを描出するのが15世紀以来の北方絵画の伝統的特質であるとはいえ、漆喰の剥落や釘跡に残る赤錆までをも徹底的に写した絵は、観者の目を欺くこと自体を目的にしたトロンプ・ルイユ以外には前例がない。しかしそれにもかかわらず、北方絵画にしばしば指摘されるモニュメンタリティーの欠如や瑣末主義といった欠点とこれほどに無縁な作品もまた珍らしい。単純な形態に収束した女は、恰も古代彫像の如き堂々たる量感をもって周囲の空間を支配している。さりげなく配置された買物籠や床の足温器、卓上のパンや鉢などの事物は、それぞれ充分に自己の存在を主張しつつも、垂直軸と二本の対角線が形成する堅固で安定した構図の中に組み込まれて画面全体の統一に寄与している。容易に相容れぬ二次元性と三次元性の止揚はフェルメールの特技であるが、ここでもこの相克する絵画の二側面の調和と均衡に関してまさしく模範的な解答が与えられているのに注目したい。
 この画家には珍しく質素な身なりの女中を主人公にしたこの絵はまた、観者の触覚に直接訴えかけてくるような事物の確固たる質感描写においても異彩を放っている。ポワンティエ(点綴)と呼ばれる独特の技法の見事な開花を示すこの作品はフェルメールとしては例外的に<デルフトの眺望>と並んで評価の高かったもので、1696年の売り立てでは175フルデン(第2位)で買われ、続く1719年の売り立てに際しては「デルフトのフェルメールによる有名な<牛乳を注ぐ女中>と呼ばれている。1781年にオランダを訪れたジョシュア・レノルズもこの絵に注目を払った。しかし当然のことながら本当に人気が沸騰したのはやはり19世紀後半のことである。共和主義者のトレ=ピュルガーが「芸術のための芸術」に対して「民衆のための芸術」のスローガンを掲げていたのを考えれば、働く庶民の姿を描いたこの絵に対する彼の格別の愛着も難なく理解できよう。