■フェルメール年譜





年代 フェルメールとその家族
1615 6月27日、画家の両親、アムステルダムで結婚。同市出身の父レイニール・ヤンスゾーンは装飾絹繊物職人で、その母ネールチェンは夫の死後しばしば、美術品を景品とした富くじを企画開催していた。一方、母ディングヌム(ディムフナ)の父パルタザールは工事請負業者でオラニエ公(オランダ総督)の為に仕事をした経歴を持ち、そのため1619年に外国貨弊の贋造に係わった際も死刑を免れて放免されている。
1632 10月31日、ヨハネス(ヨアネス)・フェルメール、デルフトの新教会(ニーウェ・ケルク)で受洗。父レイニールは装飾絹織物業に加えて居酒屋「飛ぷ狐」を借りて経営していたことから、フォス(狐)という姓で呼ばれることが多かった。ヨハネスもこの店で生まれたと思われる。父は更に前年の10月に美術商として聖ルカ組合に加入しており、デルフトの画家の中に多くの知己をもっていた。両親はともにプロテスタントの家系に属し、二人の間には既に長女へールトライ(1620〜70)が生まれていた。
1641 3月、父レイニール、市広場に面した大きな居酒屋「メヘレン」を構入し、家族とともに移住。4月、のち画家の義母となるマリア・ティンスの、夫レイニール・ボルネスに対する離婚訴訟が開始され、マリアは娘カタリーナと共にハウダからデルフトに移住する。
1652 10月12日、父レイニール、新教会に埋葬される。
1653 4月4日、マリア・ティンスが娘カタリーナ(1631〜88)とヨハネスの結婚に同意せぬためこの日画家レオナルト・ブラーメルが仲裁にはいって説得。マリアは署名は拒むが婚姻通知の告示は承認する。ブラーメル(1595頃生)は、当時デルフトで最も名声の高いイタリア帰りの物語画家で、オラニエ公家からの注文を受けていた。翌5日、フェルメールはカタリーナ・ボルネスと結婚、更に20日、近郊のスヒップライデンで挙式。妻カタリーナは裕福で熱烈なカトリックの家庭に属しており、またスヒップライデンは住民の大半がカトリックの村だったことを考えると、この時二人が婚姻の秘蹟を授けられたことは確実であり、フェルメールもこの際カトリックに改宗したものと推定される。同月22日、デルフトである担保に関する文書作製に際して画家へラルト・テル・ボルフがフェルメールと共に証人を務める。12月29日、フェルメール、親方画家として聖ルカ組合に入会。しかし入会金は四分の一ほどしか納められなかった。1630〜40年代には暮し向きが良かったフェルメール家も父の死後のこの時期は生活が苦しかったらしい。
1656 最初の年記作<遣り手婆>制作。7月、ギルド入会金の残額4フルデン10スタイフェルスを支払う。
1657 アムステルダムを本拠とする美術商デ・レニアルメの財産にファン・デル・メール作<(キリストの)墓を訪れる(聖女たち)>が記載されている(査定は20フルデン)。これは古文書におけるフェルメール作品に関する最初の言及である。この年画家は、200フルデンを他人に貸している。画家活動が軌道に乗り経済状態が回復したらしい。姉へールトライの夫A・ファン・デル・ヴィールが美術商としてデルフトの聖ルカ組合に入会。彼は額縁の製造と額縁用黒檀材の販売で生計を立てたらしく、絵画取引の記録はない。
1660 12月27日、フェルメールの子供一人(性別不明)がデルフトの古教会(アウデ・ケルク)に埋葬される。添書から、この時画家が既にアウデ・ランゲンデイク(旧長堤)にある義母マリア・ティンスの家−11の部屋から成る立派な家であった−に同居していたことが知られる。
1661 1月に作成された義母マリアの妹でハウダ在住のコルネリア(4月に死去)の遺書の中で、カタリーナ・ボルネスの娘のマリアにスホーンホーフェン近郊の土地付の家、同じくレイスベートに年金60フルデン余を贈与する意志が表明される(まもなく家と土地はカタリーナへの贈与に変更)。マリア、レイスベートという二人の娘および前年に死んだ幼児と、この時までに画家夫妻に子供が三人生まれていたことがわかる。
1662 この年のおそらく10月18日(聖ルカの日)、フェルメールは聖ルカ組合の理事に選出される。理事は画家、ガラス職人、デルフト焼陶工各2名の6名から成り、任期は2年で毎年半数が改選され、任期の後半にあたる画家が主任、すなわち事実上の会長を務める慣わしであった。この時30歳直前のフェルメールは、1611年に新しいギルド規約が発令されて以後選出された理事のうちで最年少である。
1663 フェルメール、聖ルカ組合の主任理事に就任。8月、オランダを旅行中のフランスの貴族で芸術愛好家のバルタザール・ド・モンコニーがアトリエを訪問。
1664 8月、デン・ハーグの彫刻家ラルソンの遺産目録にフェルメール作の人物面(10フルデン)が記載される。
1667 7月10日、フェルメールの子供一人、古教会に埋葬される。ディルタ・ファン・ブレイスヴェイクの『デルフト市誌』刊行される。その中に掲載された出版者A・ボンによるカーレル・ファブリティウス追悼詩の中で、その後継者としてフェルメールの名が特に言及されている。
1668 <天文学者>制作。
1669 <地理学者>制作。2月1日、画家の母ディングヌム、居酒屋「メヘレン」を賃貸する契約を結ぶ。7月16日、フェルメールの子供一人、古教会に埋葬される。
1670 2月13日、母ディングヌム、デルフトの新教会に埋葬される。死去時の住所はフラーミングストラート(フランドル人通り)。姉へールトライも後を追って死去、5月2日、埋葬される。家族二人の死によって画家は7月、「メヘレン」を含む遺産の一部を相続。この年(おそらく10月18日)、フェルメールは再度聖ルカ組合の理事に選出される。
1671 フェルメールはこの年再度聖ルカ組合の主任理事に就任。
1672 1月、「メヘレン」の6年間の賃貸契約を結ぶ。前年にアムステルダムの高名な画商へリット・ファン・アイレンビュルフがティツィアーノ、ラファエルロらイタリア・ルネサンスの巨匠の真筆としてブランデンブルク選帝侯に売った13点の絵画が質の悪い模写として突き返された大規模な訴訟事件に関連して、この年の5月23日、フェルメールはイタリア経験のある同僚画家ハンス・ヨルデーンスとともにデン・ハーグに赴く。「前述の絵画はすべて、すぐれたイタリア派の絵でないのみならず大きな屑とも言うべき質の悪い絵画であって、付けられた値の十分の一にも遠く及ばない」というのが彼らの鑑定であった。
1673 6月27日、フェルメールの子供一人、古教会に埋葬される。7月、商家はホラント州発行の800フルデン分の公債を手放す。戦争による不況で家計が圧迫されていた様子がしのばれる。
1675 7月、画家は1000フルデンを借りにアムステルダムに赴く。12月、ヨハネス・フェルメール死去。享年43歳。同月15日、古教会に埋葬される。死去時の住所はアウデ・ランゲンデイク。「未成年の遺児8名」との添書が同教会の埋葬記録帳にあり、うち7名は名が判明している。
1676 一家の主を失ったカタリーナの苦闘が始まる。1月、パン代計617フルデンの代償としてパン屋ファン・バイテンに、現存の<手紙を書く婦人と召使>と<ギターを弾く女>と思われる亡夫の絵2点を渡し、返却のための契約を結ぶ。2月、借金の返済のため彼女はアムステルダムに赴き、美術商コロンビールに家にあった26点の絵画を500フルデンで売却。更に負債の担保として母マリアに<絵画芸術の寓意>を手渡す。同月、画家の遺産目録が作成される。4月、負債の完済が不能のため、カタリーナは公の手による財産処分を上級法廷に申請、認可される。請願書の中で彼女は「子供が11人もいて生活が苦しいのに加えてフランス王との戦争が始まって以来夫は非常に僅か、もしくは殆ど全く収入を得られず、子供の養育費のために、売る目的で買い込んでいた美術品をも大きな損失を払ってまで手放さねばならなかった」と述べている。9月、管財人として科学者アントニー・ファン・レーウェンフックが任命される。
1677 2月、ファン・レーウェンフックは負債一部返却のためにカタリーナのとった処置を無効と見なし、新たに取り決めを結んで美術商コロンビールから26点の絵を取り戻し、3月には<絵画芸術の寓意>も競売目録に加える。同月15日、フェルメールの遺産は聖ルカ組合の本部集会所で競売に付される。


[参考文献]

「カンヴァス 世界の大画家17 フェルメール」(中央公論社) 1997所収の高橋達史氏作成による年譜から抜粋