「ルーマニアの首都・ブカレスト」

 「インターコンチネンタル・ホテルからの市内の眺め」

 ルーマニアの貨幣はレイ。  フランクフルトの空港のATMで現金化したユーロをもって(ルーマニアの様子が掴めず、ルーマニアの銀行のATMの有無が確認出来なかった)部屋から眼下に見える「ルーマニア商業銀行」へ行く。  
 150ユーロをレイに交換すると手数料を差し引いて5,355,000.00レイが渡される。 日本円で言えば1,000レイは 約4円と言う計算になる。 その都度両替しない事には財布はパンパンに膨らんでしまうのだ。 約1ヶ月後の6月末には貨幣の切り下げ(デノミネーション)が行われるという事だった。 今頃は多分デノミも施行されて新しい紙幣が生まれている事だろう。 
 ルーマニア国内は米ドルが喜ばれ持参した60数枚の1ドル札がチップや情報集めに随分と役立った。 VISA支払いも米ドル計算だったら機械が動くと言われたホテルもあったっけ。 

 上の写真・中心のロータリー辺りを大学広場と呼び、写真の右中央ロータリーのすぐ角の大きい建物が「ブカレスト大学」。 1990年の革命時には、この辺りから歩いて5分位の所にある旧共産党本部まで人々で埋め尽くされていた。  写真右上辺りに「国民の館」がある。

       


 「タクシー・ドライバー氏の嘆き」
 インターコンチネンタル・ホテルを予約する時に 空港までの出迎えを頼んだ。 ルーマニア首都の空港も(ブルガリアの首都の空港も共に) 日本の地方の空港より暗くて粗末な空港だった。
 驚いた事に航空機から降りて建物に入ったすぐの所に男性が我々のネームプレートを持って立っていた。 タクシー・ドライバーがこんな所まで入ってきて良いのかと一瞬目を疑った。 (後で彼は空港職員と分かったのだけれど・・) 私的な人間である我々に、空港職員とはいえ「エッ」と思う出来事だった。
インターコンチネンタル・ホテルは国民の館に並んで故チャウシェスク大統領の遺産であると言う。
 この日のタクシー・ドライバー氏が、ホテルフロントを通さず市内の観光案内を我々に申し出た事が後日ばれた。 結果「出入り禁止を言い渡された」と言って青くなって断ってきた。 こんな所にもまだ故チャウシェスク大統領の威光と言うかホテルの威光が見え隠れしている事に気付くのだった・・。 
ツーリストの為のインフォーメーションは首都と言えども一軒もないので総てホテルを通じて個人の手配となる。

 道々ドライバー氏は「チャウシェスクは消えたが首のすげ替えだけでNo2がその後に座り、以前と我々の生活は全く変わらない。 ”リベルティ”は言葉だけだ。」と・・。「インターコンチネンタル・ホテルにはかつて沢山の盗聴器が仕掛けられていて部屋と部屋の間にさえ人が立って盗聴できる位の空間があったのだ」・・と。 どんなホテルか楽しみになってきた。

       

 「首都ブカレストの風景」
  ドライバー氏の嘆きのように、町は中心街にも拘らず道路の至る所に茶褐色の水溜りが出来ていて少しの雨で大きくなり、晴れれば乾燥して街路樹や空気を濁らせる。 本来ならば通りの並木は5月の風と太陽に輝いているであろうに・・。 
 政治の貧困を思いルーマニアの人々を気の毒に思う一方、日本人の現在の生活は贅沢すぎるのでは・・と考え込んでしまう。 ホテルの中だけは輝くようにきれいで、町歩きに絶望を感ずると 時にホテルに逃げ込んだ。 ホテルはしばしばシェルターの役目をしてくれた。

 銀行の石壁に身なりもこざっぱりとした老婦人が、壁に面を向け立っている。 人の気配で向き直り手を差し出さなければ物乞いとは分からない。 夫は亡くなった母の事を「お袋さんはスラブ系の顔をしている」と言っていたが、まさしく母そっくりなのだった。 ブカレスト市内では沢山の物乞いを見た。 ヨーロッパの都会では何処も同じ光景ではあるけれど、ここでは素通りする事が出来ないという気持ちになる。 
フランクフルト空港でブカレスト行きのフライトを待つ間も、特に地方の都市で「あれっ」と振り向くような、チャウシェスクやその夫人エレナのそっくりさんを数多く見かけた。 偏見かもしれないが、特に故チャウシェスク夫妻は顔立ちも雰囲気も貧相な感じがする。 決して教養があると言う顔にも思えない。 実際そうだったのだろうと思う。 顔つきだけで人を判断するのは良くないが、それにしてもいろいろな顔その国の顔だちがあるものだと思った。

左の高層建物はインターコンチネンタル・ホテル
右は国立劇場
手前は通りを渡るための地下道 
地下道に下りる階段は石が持ち去られている部分があり薄暗い。 
この辺りにはレストランは一軒あるのみ。 2回通ったらスパイスで胃腸もびっくり・・。 結局ホテルレストランで食事を取る事になり 貨幣単位の低い国にも拘らず 食費は思いがけずかさばることになった。 東京のインターコンチネンタルグループで予約をしたのでホテル内の総ての価格は世界共通の値段になる。
左はブカレスト大学の建物にそって古本屋が並んでいる。間単に「開店・閉店」?が出来る仕組みの組み立てになっている。









軍事博物館
 上階はオスマントルコとの戦いが時代を追って人形モデルを使って展示してある。
 地下には1990年の革命時に使われた共産主義の象徴がくりぬかれた国旗(右写真)の展示があり、又市街戦 の様子、犠牲となった多くの若い市民の顔写真の展示が、当時の緊迫した様子を伝えている。

写真を見ながら 「ルーマニアよ! あの当時の情熱は何処へ行ったの? 何も変わっていないのではないの」と問いかけたくなる。 
首都ブカレストの中央駅
 窓口は外から手だけ見えて本人が見えない位小さいので余計に話は通じない。
ホテルから乗るタクシーはそこそこ誠実であるのに駅で拾うタクシーは 皆いい加減。
時に遠回りをするので、後日町を歩いている時に、「こんな所迄来ていたのだ」と思わず苦笑する事もあった。 
プリントされたタクシーの値段44,000.00をうっかり440.000.00と勘違い 10倍支払ってうんと落ち込んだが冷静になってみれば、1800円マァ日本並みに支払ったと言う事でした。 
統一大通り
 「国民の館」の一室から見た風景。
故チャウシェスク大統領がパリのシャンゼリゼ大通りを再現しようと作ったもの。 人通りもなく両側の超デラックスな建物群は一体誰が何に使うつもりだったのかと庶民の生活とはかけ離れた建物に、だったら駅とか空港とか道路などインフラにもっとお金をかけるべきだったのでは・・と他国の事ながら憤慨してしまう。 独裁政治の怖さをまざまざと見た思い・・。 
現在は何に使われているのか尋ねる機会がなかった。
  
国民の館
 広大な荒地?(周囲は野草が茂っていてタクシーなど捕まえようにも車などめったにと通らない)に「聳え立つ」と言う言葉がぴったりの 故チャウシェスク大統領が「国民の国民による国民のための館」として作った建物。 
ペンタゴンに次ぐ世界で二番目の建築容積、部屋数3107あり総ての部屋が総て似たような豪華絢爛の部屋。 人々の生活とはかけ離れた国民の館。



 100メートルの長さの継ぎ目のない絨毯が敷かれている。
案内の男性の話。「チャウシェスク大統領はエクササイズのために沢山の部屋を毎日ただ歩いたのです。」 
歩くのも階段を上り降りするのも大変だったでしょう。
未完だそうだけれど掃除もメンテナンスも大変と思われ、入場料が一人800円と他に比べて高い事も納得のいく値段だった。



     


 「ルーマニアの古い田舎町を訪ねる。」
 首都ブカレストから列車で6時間。 ルーマニア北部・ウクライナと境界を接する地帯にあるモルダヴィア地方にある修道院群を訪ねた。 先ず「スチャバ」という町まで行ってそこを拠点にして、各自タクシーを頼んで出かけなければならない。 6つの修道院を回るのに9時間を要すると言われる。 われわれは4つの修道院を回った。
 忘れ去られたような荒れた町スチャバから1時間もタクシーで走ると、杉や樅の木などの針葉樹林の木立の中に修道院が突然美しい姿を現す。 
 オスマントルコからの攻撃のさなかにも、キリストの受難と復活が描かれたフレスコ画を見ながら、過酷な生活に耐え忍んだ。 そして又 前政権のチャウシェスクは宗教は麻薬であると弾圧をしたとか・・。 
 それでも450年の信仰の歴史は受け継がれてきたのだ。 人は現在の生活が貧しく苦しいほど心の支え・拠りどころとして、信仰心を燃やすものだと最近の世界情勢に照らして思い、一方その心があって美しい環境を維持できたのだと思うのだった。 
 不便な所にあるのでヨーロッパからの観光客はバスで来て一泊して去って行く。 スチャバのホテルでは、ドイツ、フランスからの団体客と一緒になった 

 

スチャバ・ヴォロネッツ修道院
 15・6世紀 日本の室町時代の頃オスマントルコとの戦いに勝利をするたびに神に感謝して沢山の修道院が君主によって作られ寄進された。 内壁も天井も外壁も フレスコ画で覆われている。 宗教画だったり オスマントルコとの戦いの図柄だったり、修道院によっては赤を基調にしたり青を基調にしたりして描かれている。 そのうちの7つが世界遺産に登録されている。 
 上の修道院は 「ヴォロネッツの青」と言われるくらいに450年経った現在でも塗りなおされる事もなく風雨にさらされながら、当時の青の美しさを現在に伝えていると言われる修道院。 
 帰国後放映されたテレビで フレスコ画の退色を防ぐために炭を下地に使ったと彼等の生活の知恵を伝えていた。 
ブトナ修道院
 壁画が外壁まで及んでいないという理由で世界遺産からは外れたが 他の修道院に比べて品格を感じた修道院。 周りの雰囲気も落ち着いて心和むものだった。

 「スチャバへの道中」
 1等コンパートメントは6人かけ。 他の4人は事業展開にきた3・40代のイタリヤ人のビジネスマンのグループ。 
この時期ヨーロッパは凄く暑かったらしい。 ただでさえ窓も開けられないガンガンの日照の車中に巨体の(夫が思わず 「そんなに太っていて糖尿病の心配はないのか」と尋ねたくらい。 「アルコールは飲まない。オリーブオイルとパスタを食べているので何の心配もない」と言う答えだった)彼等と同室になったのだ。 いっときは堪らないと思ったが・・。 
 スチャバに着く間の6時間の車中で10人近くの物乞いが次々にやってくる。 彼等の一喝で物乞いは退散して行く。 心強かった。 
 何故こんなに多くの物乞いが次々に現れるのか? しかも自力でホームから高い位置にある列車には乗り込めないと思われる”いざり”といわれる両足のない人も混じっている。 ブカレスト中央駅では、ホームの随分手前の所で厳重な切符所持の検査をするのに、なんと列車がホームに滑り込み、ホームに足を下ろすや否や、タクシーの客引きが次々と現れるのだった。 これも不思議だった・・。

 「スチャバの風景」

 スチャバの田舎・修道院のある辺りは 緑深い針葉樹林を背景に各家が杏・アーモンド・スモモの花盛りで、ミモザの濃い紫がアクセントになって桃源境という言葉にぴったりの風景だった。 
お昼時に訪れた修道院では 修道女が昼食の準備をしていた。
 スチャバの移動・運搬として馬車が活躍している。 町中では、しばしば渋滞を引き起こす。 でも誰も舌打ちなんかしない。
散策中のスチャバの公園でバイオリニスト・天満敦子さん弾く「望卿のバラード」の作曲家「ポルンベスク」の胸像に出会い感激! 若い胸像を意外に感じたが彼は夭折した作曲家だった。  

 「ルーマニアの古都 ブラショフ・シギショアラ」
 
ちょうどルーマニアの国土の真ん中の位置にある。 ブカレストから2泊ずつ4泊の予定で訪ねた。 二つの町は列車で2時間くらいで行き来できる距離にある。 ブカレストのホテルで不要な荷物を預かってもらい移動できた事は有難かった。

ブラショフ 黒の教会
 17世紀ハプスブルグとの戦いで黒焦げになって以来このような呼び名になったとか。 予想より黒い部分が少なくちょっとがっかり。
ブラショフ ヴラド城
 「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなった15世紀実在のヴラド串刺し公のお城。
ここにも又オスマン軍との闘いがあったのだ。
ブラショフ近郊 ラズノフ要塞
 観光地として整備中で雨上がりのどろどろの山道を必死で登った。 5年後位には観光地として名乗りを上げるのでは・・。
ブラショフ近郊 シナイア
 王制時代の狩猟の館。 近くに贅を尽くしたペレシュ城もあり、クーデターが起こるのも無理もないように思った。
シギショアラ
 旧市街が世界文化遺産に指定された中世の町並みが残る美しい町。 
シギショアラ
 町のシンボルの時計塔は、プラハの時計塔と同じ職人が作ったものとか・・。 町を歩いていると時に黒衣の修道士に出会う。
シギショアラ
 山上にある教会に登る175段の階段は板葺きの屋根がついている。
シギショアラ
 裏道には古い石畳にカラフルな色壁の家々が建ち並んでいる。



        

 「ルーマニア・ブカレストからブルガリア・ソフィアへ」

  

 ルーマニアの沿線は荒地が多かったのに比べて ブルガリアに入るととたんに 整然とした豊かな農耕地が広がる。 沿線のすぐ近くまで家畜が来て、餌をついばんだりする光景はルーマニアも同じ。 なんとなく懐かしいのどかな風景である。 


       

 「ブルガリアの首都・ソフィアの風景」

ソフィア ジエンスキィ・バザールの風景
 果てしなく続く庶民のための市場。 ここで総てが賄える。  
香辛料の匂いが立ちこめ ブルガリアの人々の生活を伺い知る事が出来る。
ソフィア アレクサンダルネフスキー寺院
 バルカン半島最大の美しく豪華な寺院。
ブルガリア独立のきっかけとなったロシア・トルコ戦争で戦死したロシア兵士を祭ってある。
ブルガリアの人々はとても親露的である。
ソフィア近郊 リラの僧院
 ソフィアから120キロ、鬱蒼とした木立の中に突然現れた。 山々の冷気と聖地としての清浄な雰囲気に思わず背筋が伸びるような感慨を抱く。 10世紀一人の僧がこの場所で隠遁生活を始めたのが僧院の始まりで、彼の徳に魅かれて多い時には300人近くの人々が僧房で生活をし、火災にあったり建て増しが行われたり時々の歴史を繰り返しながら現在の形になった。 僧房の内部や当時の台所で使用した大釜を見せてもらった。 ツァー料金は昼食つき一人95ユーロなので安くはないけれど訪れた十分な価値がある僧院だった。 ユネスコの世界遺産に指定されとても丁寧に管理されている。

 首都ソフイアではホテルでツアーを斡旋してくれる。 ベルギーからのEU本部勤務の男性と一緒になった。 通訳の女性と夫の3人は、行き帰り・昼食時も盛んにブルガリアの政治・経済についてのディスカッションを繰り広げている。 単語しか分からない私・・寂しい・・。


       

 「ブルガリアの古い田舎町を訪ねる。」

 ソフィアから2泊の予定で訪れた町。 ルーマニアもブルガリアも田舎には、首都では見る事が出来ない手つかずの古く美しい町が残っている。
唯 未だにインフラが整っていないので 個人旅行には ある程度の不自由が伴う。
 プロヴディブ旧市街のレストランで、JICAで働く日本人女性に出会った。 前任地ウズベキスタンから此処に来たとの事。 古都で人柄の良いスタッフに囲まれて楽しく働いていると言われた。 JICAとは開発途上国に対する援助の団体だと思うけれど ルーマニアもブルガリアも2年後に「EU加盟」をうたっている。 帰国してこの事を何度か質問された。 「まだまだ無理ではないですか」 これが私共の偽らざる感想でした。 

プロヴディブ
 旧市街のシンボル・「ヒサール・カピヤ」紀元前4世紀から小さな要塞門としてここにある。 近くには裕福なかつての屋敷が公開されている。
プロヴディブ  
「ヒンディアン・ハウスの内部」
どの部屋にもフレスコ画が天井まで一面に描かれている。 果たしてくつろげたのだろうか?・・
プロヴディブ
古い石畳と 沢山の古く美しい屋敷。 屋敷はかつて建築し住んだ富豪の名前で呼ばれていて、資料館・アートギャラリーとなっている。
プロヴディブ
無秩序に延びた石畳の細い裏道。 何処を歩いても不思議な空間に出会う。
プロヴディブ
 ホテルの窓から見上げた断崖に、ローマ時代の円形劇場跡の一部が見え興味を引いた。 実物は座席から市内が良く見え、保存状態の良さと意外な大きさに驚いた。 野外劇場として現在も大切に使われている様子がうかがえる。 雄大で本当に羨ましい場所だった。
坂の入り口で道を尋ねた男性は、すぐ近くにある音楽アカデミーのピアノ教授だった。 気軽くご一緒して頂き、道案内をして頂いた。 音楽アカデミーからソプラノの澄んだ歌声が聞こえてきた。
 彼は日本の音楽家・特に「セイジ・オザワ」は素晴らしいと絶賛していた。
プロヴディブ近郊 パチコヴォ僧院
 リラの僧院に次いでユネスコ保護下にある僧院。 11世紀トルコから派遣された僧によって作られた山中の僧院で、自給自足のためヤギや鶏などが院内の庭に飼われ、ワインのための葡萄のツルが僧房の壁に這っている。 至る所にフレスコ画が描かれている。


       

 「フランクフルトからルクセンブルグへ」
 ブルガリアからフランクフルトへ。 ドイツ鉄道を利用してルクセンブルグへ。 やっぱりドイツ鉄道は素晴らしい!  時間が正確・清潔・ゆれが少ない。 沿線の景色が素晴らしい。 
 簡単に行けそうだけれど直通便のないルクセンブルグへは迷った結果 KOBLENS・TRIER経由で二度乗り換えて行くルートを選んだ。 ライン川・モーゼル川に沿って進んで行く窓外の景色は飽く事がなかった。 
 期待通り緑深い可愛らしい小さな町、私には初めての憧れのルクセンブルグだった。 「地球の歩き方」で調べて行ったルクセンブルクからのツアーは、すでに総て廃止になっていた。 何も資料の持ち合わせがなく、一時は困惑したが、ホテル・フロントの薦めで 「ビアンデン」へ出掛けた。

駅にあるインフォーメーションでは一枚の紙に汽車の時刻と乗り継ぎのバスの時刻が時間を追ってプリントされていて なんと親切な事。 これでは高い料金を払ってツアーを利用する必要は全くないと感心したのだった。
ルクセンブルグ
憲法広場の広いテラスからアドルフ橋をみる。 広場の後方に旧市街が広がっている。
ルクセンブルグ
インターナショナル・ホテルの窓から見た中央駅の風景。 インフォーメーションや食料店もある。
ルクセンブルグ
10世紀に築かれたお城の一部分。 「エポックの砲台」のみが残っている。
ビアンデン
ルクセンブルグの北部・ドイツの国境に近い高原都市。 お城には若い日のお一人の天皇、美智子妃と御一緒の天皇、ご結婚前の皇太子の写真が飾られていた。
ビアンデン
ツアーを利用しなくても楽に城に登れたり町中を散策する事が出来るコンパクトな町。 町中を緑の観光電車が走っている。



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