父母の故郷
愛媛の南宇和郡内海村柏で生活改善グループが誕生しました。「あじさいグループ」という名前でメンバーは、小さな花の集まりが一つの大きな花になるので「あじさい」グループとつけました。   

メンバーは山田さん、脇田さん、樫元さん、中平さん、池田さん、写真には写ってないけれど實藤さん、木谷さん、山口さんがいます。「なかよしの家」と名づけた加工場で手作り料理を作りました。昭和59年5月に結成。役場のきもいりで会員の夫ら約30人が出席し、モチまきで祝いました。加工場は40平方メートルの小さいながらも使いやすく会員のアイデアで作りました。

婦人会の元リーダー中心です。写真は平成13年12月2日に撮影。甘夏・ツワブキ・ブロッコリーなどが材料の「なかよし漬け」や貝柱の「真珠みそ」が大評判!ふるさと小包でつつんだ故郷の味を配りました。
いまでも時々会ってお茶しながら話します。「仲良く集える場だった。そして会長は皆で役につくように一年で交代していたので楽しかった。」当時新聞で県北から県南まで「母ちゃんたちのムラおこし」運動が呼ばれたことをうれしく思い出します。
果樹園芸の技師として父は静岡で学び、村議や農協理事も務めました。村おこしとして「お田植え祭り」の復活や「柏坂の保存」にとり組んだ。これらをビデオにとり上映。カスリに手甲姿の女の子が、田んぼに入り早苗を植える姿を「何とも言えずいいものです。」と、目を細めてかたります。

2サイクルの運搬用の車にのった父の姿です。「おまえは農家の跡取りじゃけんの…」といい長男の私に言いきかせていた。こんな耕地の狭いところで…と口に出さなかったが、母も息子の将来を夢みていた。
 


その頃日大放送学科に決まったとき母はアナウンサーとして将来活躍する姿が瞼に浮かんでたのでしょう…入学金を山の木を売って作りました。この写真は婦人会の役員をしている時、先進地視察のため立間へ皆でバス旅行したときのもの、にぎやかな一行だった。昭和35年。しかしほどなく「がん」で亡くなってしまった。民放でアナウンサー募集していたので受けたら合格、以後アナ一筋に頑張ることになった。

あとから来た母は「末っ子の節子ちゃんが一人でいたのでかわいそうだった…」と支えてくれました。後年私はニュースワイドをやり父は仕事の手をめて宮崎のテレビを見ていたという。その子供が東京のテレビ局TBSに入り、現場から全国中継するたびに「儂の孫じゃ、名前がにているから人がよく気がつくよ」といい嬉しそうだった。
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