「言葉」についての雑感  延岡市長 首藤正治氏著 を読んでの感想

                                                  20069月18日峰響子

先日のこと、朝から愉快な気持ちになり、仕事に向かう気持ちもやる気満々になった出来事を紹介します。

単調な日常を気分よくハイにしてくれたのは、雑誌をコピーしたA4サイズの1枚の紙でした。 
 このごろ、何か胸につかえ、時には不機嫌さえ誘うテレビ番組や報道記事、それに対して少しばかりの意見を述べておられる延岡の市長さんの「言葉」についての雑感。もっとも私は、テレビも見ない日が多く、週刊誌も新聞も大して読まない、世情にひどく遅れている人間です。ですが、このごろ不満は増すばかり、パソコンに向かいメールを開くと、ここぞとばかりにあの手この手でやってくる出会い系サイトの「卑猥な言葉」あるいは「騙されたくなるような詐欺的な言葉」、もううんざりでした。
テレビ番組も「怪しいもの」があります。雑誌の記事も同じです。
 そんな私の気持ちを察してくださったのか?同じ考えを見事に意見表明しておられます。延岡市長首藤正治氏のことですが、一挙に「ぐっと」身近な人に感じました。この文章を読んで胸のつかえがとれ、先が「ぱっと明るく」感じました。
 以下は首藤正治氏の雑感を忠実に書いたものです。

「言葉」についての雑感  延岡市長 首藤正治氏著 (調査月報2006年9月号掲載)

「祖国とは国語」という藤原正彦氏の著書がよまれているようですが、確かに言葉というのは大きな影響力を持ちます。

私が気になることが多いのはマスコミの用語や表現です。例えば「フリーター」。何か今風で格好良ささえニュアンスとして含む言葉ですが、この言葉がさらにフリーター増加かを助長する側面がありはしないでしょうか。これを「不定労働者」とでも言い換えれば、随分社会における意味合いは変わってくることでしょう。「援助交際」なんてのも、「長期契約売春」としたらどうでしょう。「ニート」というのも、きちんと「無職無就学者」とすれば実態が鮮明になります。

単語はそれ自体にポジティブかネガティブというニュアンスを持つことが往々にしてあります。どうも、マスコミは若者に迎合して、ネガティブな印象を感じないよう用語を調整しているようにすら感じてしまいます。

また、「価値観の多様化」というのもよく言われることですが、これはそもそもライフスタイルというレベルの価値観のことを言っているのであろうと思います。しかし、最も重要なレベルの、社会全体で大事にすべき価値については、正確に言えば、今日本社会を覆っているのは価値観の「多様化」ではなく「喪失」という危機なのです。

「価値観の喪失」・・・このことを私たちははっきりと自覚すべきではないかと思います。

趣味や嗜好は多様化して当然ですが、さまざまな人間が集まって成立するのが社会である以上、その社会には、価値観を共有することを前提として共通のルールが法体系とてして存在します。

この「価値観」は多様化してはいけないし、させてはいけない。

我々が原初的に信じている「弱いものにはやさしくすべきだ。」「一生懸命頑張るのはいいことだ。」「卑怯なことをしてはいけない。」「他人の命や財産を奪ってはならない。」などという考え方すべての総合がすなわちここでいう「価値観」なのです。

けれど、原初的といっても不偏かつ不変ということではありません。たとえば、「一生懸命頑張るのは良いことだ。」と書きましたが、これだって、時代と場所が変わればまったく状況は変わります。中世ヨーロッパでは、カトリック信者のある国王は「勤勉と離婚のやからを殺せ」という言葉をスローガンとしてプロテスタントと戦いました。勤勉は国を滅ぼすと考えられていたからです。

社会の根本であるこの価値観が、現代日本では揺らいでいます。見つめ直す時が来ていると言うことでしょうか、「武士道」に関する著書なども数多く出ています。
あらためて、我々は日本社会の「人間道」ともいうべき価値観を現代に根付かせていかなければいけないのだと思います。そしてこのことこそが、本来の、教育の核心であるべきだと考えます。

 私が感激したのは以上の記事です。
 流石に「教養のある方は違う」 と思いました。何かを言いたいのに、人に伝えるには難しく、ただ胸の中で言いようのない不満を持っていました。人の上に立つ方が意見表明をされて施策で実行してくだされば、未来は明るく見えてきます。そんな風に思えて、大変嬉しかったのです。


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