歴史と旅 
  旅好きがこうじて、すでに47都道府県をすべてまわりましたが、あらためてそれぞれの土地にそれぞれの歴史があるのに
気づかされます。もともと有名な歴史上の出来事を再確認する旅もあれば、少なくとも私自身はまったく知らなかった
ローカルな史跡、建物、人物、文献などを知って感動することもあります。
 そう、私は幼いころから歴史が好きでした。理系の学部に進んだものの、大学の入試は日本史を選択し、国史学、
中国文学史といったかなりマニアックな科目を受講し、司馬遼太郎の本を昔から愛読し、博物館めぐりが好きな
人間になってました。
 やがて旅好きと歴史好きという2つの興味が私の心の中で化学変化を起こし、このHPにつながったような気も
しています。このコーナーでは特に歴史に特化した旅の話題を取り上げていきたいと思います。


      もしも・・・歴史の現場にて                 

 歴史に「もしも」は無いとよく言われます。でも熱烈な歴史ファンかつマニアックな旅好きの
私としては、歴史のターニングポイントになった場所を訪ねたとき、「ここでもし、こうならな
かったら・・・・・」とついつい考えてしまうのです。
 もしそうならなかったら、その後、我々の歴史はどうなったんだろうと、色々思いを
めぐらせてみるのも楽しいと思いませんか? 
 そんな「もしも・・・」と考えながらブラついた歴史の現場をご紹介します。

乙巳の変/蘇我入鹿の暗殺
(645年:伝飛鳥板葺宮跡)
  平治の乱/清盛の誤算
(1160年:牛若丸が預けられた鞍馬寺の山門)
 
 大化の改新、虫小屋(=645や)も改新と覚えた
645年当時に権勢をふるっていた蘇我入鹿が、
中大兄皇子(のちの天智天皇)及び中臣(のちの藤原)
鎌足らのクーデターによりこの板葺宮で暗殺されました。
(乙巳の変) 
 入鹿は、一族の蘇我石川麻呂が朝鮮半島からの
進物についての口上を読み上げる儀式に大臣として
出席し、時の皇極女帝の目の前で刺殺されたとのこと
です。
 入鹿はこの危険を事前に察知していたとの説もある
そうです。もしここで暗殺を免れ、逆に中大兄、鎌足側
が滅ぼされていたら、後の天皇親政や藤原氏の台頭は
無かったかもしれないなと、板葺宮跡の石畳の上で
思いました。
   平安末期の平治の乱で、源義朝を総大将とする
源氏一門は平家の平清盛によって滅ぼされました。
義朝の遺児4人のうち、頼朝は伊豆へ流罪、そして
今若・乙若・牛若3兄弟は、仏門に入ることを条件に
命だけは助けられました。
 助命の理由として、義母である池禅尼の命乞いや、
3兄弟の母常磐が清盛に身を任せたことなど
平家物語は様々な記述をしていますが、清盛の真意は
今となってはよく分かりません。
 ただ、このとき助命された頼朝と牛若(後の義経)
兄弟によってまさか平家一門が滅んでしまうことに
なるとは彼も思わなかったはず
 誤算というには余りにも大きな代償ですが、清盛の
憎めない人間性も伺えるような気もします。
 その頼朝が、木曽義仲の子義高を、下って徳川家康が
秀吉の遺児秀頼をそれぞれ死に追いやった事実は、
この誤算が教訓になっているのかもしれません。
 もし頼朝や牛若の命がこの時絶たれていたら・・・
平家の世がそのまま続いたかどうかは疑問ですが・・・
 
実朝暗殺/公暁のたくらみ
(1219年:鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウ)
  本能寺の変/信長の息子たちの失敗
(1582年:安土城趾)
 
 約800年前、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の孫の公暁が、
この大イチョウに隠れて、ある人物が石段を下りて
くるのをじっと待っていました。その人物とは、3代将軍
源実朝・・・公暁のおじに当たります。
 実朝は自らの右大臣就任の儀式を八幡宮で終え、
深夜、雪乃降りしきるなか、石段を下り始めました。
そしてこのイチョウの陰から突然飛び出した公暁に
命を奪われました。実朝は自らの運命を察知していた
ともいわれ、直前に詠んだ次の歌が心を打ちます。

     出ていなば主なき宿となりぬとも 
       軒端の梅よ春をわするな 


 母方のおじになる執権北条義時や、その他の鎌倉の
御家人たちが、この凶行を計画していたともいわれて
います。公暁もその後殺され、源氏の直系はここで
絶えてしまいました。
 もし実朝が暗殺されず、源氏系の将軍が続いたと
したら、鎌倉時代はどんな風に展開したのか、興味
ひかれるところです。
 この旅のあと、大イチョウは台風に襲われ根元から
折れてしまい、惜しまれながら姿を消しましたが、
大きな古株から新しい芽が出て育っているそうです。
大した生命力です。
   戦国稀代の英雄 織田信長が、家臣明智光秀に
襲われ落命した本能寺の変・・・歴史の教科書はその
光秀を滅ぼした羽柴(=のちの豊臣)秀吉にあっさ
り天下が転がり込んだように書かれていますが、
ことは簡単ではなかったようです。
 信長には、長男信忠、次男信雄、三男信孝の
3人の息子たちがいました。まず信忠ですが、信長の
死の直後に光秀と戦い討ち死にしてしまいました。
いくつかの資料によると逃げ出しさえすれば後で
光秀を討つチャンスはいくらでもあったそうです。
 次男信雄は、十分な兵を持っていたにも関わらず、
光秀軍と戦わず、こともあろうに父の造った名城安土に
放火しこれを消失させたのだそうです。
 三男信孝は、知将秀吉のその後の戦略に翻弄されて
しまいました。
 結局は秀吉が次の天下人になったわけですが、
3人の息子たちのそれぞれの判断ミスが一つでも
無ければ、織田政権が続いた可能性も否定できないと
思います。
 もっとも秀吉の天下も、3番目の男徳川家康から
奪われる運命にあったわけですが・・・・・・
 
芹沢鴨暗殺/近藤一派のクーデター
(1863年:京都壬生八木邸の子ども机)
  第二次寺田屋事件/龍馬の危機一髪
(1866年:京都伏見寺田屋の風呂と階段)
 
 新撰組の局長は当初3人いました。芹沢鴨、新見錦
そして近藤勇です。近藤は一番格下局長でした。
 湯治、新撰組の屯所は、壬生寺そばの八木邸に間借り
する形で置かれていました。まず、新見錦を切腹させた
土方歳三らの近藤一派は、深酒をして自室で寝込んで
いた芹沢を襲い、殺害しました。斬られながらも
芹沢は隣室の子ども部屋に逃げ込みました。
そして八木家の子どもが使っていたこの座り机に
つまずいて転び、土方らにとどめを刺されて絶命した
とのことです。
 芹沢一派の粛正により、近藤局長、土方副長という
我々がよく知っている新撰組の体制が出来上がります。
 以後の池田屋事件、鳥羽伏見の戦い、会津戦争、
そして函館戦争までの幕末の新選組の歴史は、案外
この小さな机から始まったのかもしれません。
 ちなみに八木家では明治以降も芹沢らの暗殺が
あった部屋に普通に家人が寝起きし、この机も相当
長い期間使われ続けたそうです。
    幕末に活躍した坂本龍馬のターニングポイントは、
役人に捕らえられそうになって難を逃れた寺田屋と、
何者かに暗殺された近江屋だと思います。
 寺田屋での龍馬の部屋は2階にありました。恋人
おりょうが1階の風呂で入浴中、探索の気配に気づき
裸のまま階段を駆け上がって危機を龍馬に知らせた
現場が、今も残ってます。
 もしも寺田屋でつかまってたら、そして逆にもしも
近江屋で難を逃れ助かっていたら・・・幕末の短い期間に
成された龍馬の業績を考えると日本の近代史に
少なからずの影響があったと私は思います。 
 この寺田屋は1862年にも、たてこもった薩摩藩の
有志が、国父である島津久光の命で惨殺されるという
第一次寺田屋事件も起きており、血なまぐさい場所です。
今も現役の旅館ですが、さすがの旅好きの私も、
「事故物件」として、泊まる気にはなれません。

(写真は、おりょうが入っていたお風呂と、駆け上った
階段です。)
 
野口英世のやけど
(1878年:福島県猪苗代の英世生家のいろり)
  日本の一番長い日/玉音盤(レコード)
(1945年:皇居)
 
 野口英世の生家にある囲炉裏です。英世(幼名清作)が
赤ん坊の頃落ち込んで左手に大やけどを負ったあの
いろりです。
 彼はその後、不自由な手を治してくれた医学への
情熱を持ちつつ刻苦勉励して世界的な細菌学者に
なった歴史は、皆さん偉人伝などでご承知のとおりです。
 生家を訪ねたとき、「もしこのいろりに落ちなかったら
・・・」と私は思いました。
 不自由な手のコンプレックス、そして医学との劇的な
出会いがなければ、単に猪苗代地方の頭のいい
農業青年で終わったかもしれません。多くの少年少女
に感動を与えた「野口英世伝」も存在しなかったのでは。
このいろりに人の運命を動かすような大きな力を
感じました。
   太平洋戦争は、昭和20年8月15日正午に
昭和天皇がポツタ゜ム宣言を受諾する旨の
ラジオ放送、いわゆる玉音放送を国民が聴取する
形で終結を迎えました。よく終戦を描いたドラマ
などに使われる「朕深く、世界の大勢と帝国の
現状とにかんがみ・・・」という一節で始まる天皇の
あのお言葉です。
 ところがその前夜に、戦争継続を主張する陸軍の
青年将校らが宮城の一部を占拠し、天皇の声を
録音した正副2枚のレコード(玉音盤)を奪い去ろうと
した事実があったことが、小説「日本の一番長い日」に
描かれ、映画化もされています。侍従の部屋に
無造作に置かれていたことが幸いして将校らに
奪われることなく8月15日正午の放送が行われました。
 もしこの玉音盤が奪われ、放送が不可能に
なっていたら・・・当時の体制からして、具体的な
天皇の命令なしの終戦はあり得なかったはずです。
 終戦工作の失敗→連合軍の本土上陸→ベトナム
戦争のようなゲリラ戦の展開、更なる原爆投下と
いった恐ろしいストーリーが、私の頭に浮かんで
きました。
 この玉音盤(写真)は、いまNHKの放送博物館で
大事に保管・展示されています。また実際の音声は
宮内庁HPで公開されています。難解な漢文で、しかも
雑音が入りますが、一度聞いてみてください。



東西の相克−維新前夜を歩く   
 私見ですが、我が国では、東西の対立という構図の中で歴史の大きな変わり目を迎えているように思います。
@縄文先住民(東)VS弥生騎馬民族(西)、A壬申の乱:大海人皇子軍(東)VS朝廷軍(西)、
B源平合戦:源氏軍(東)VS平氏軍(西)、C関ヶ原:家康軍(東)VS石田三成連合軍(西)、
D戊辰戦争:旧徳川・奥羽列藩同盟(東)VS薩長官軍(西)、そしてE西南の役:政府軍(東)VS西郷軍(西)
などです。
 国内各地を旅すると、これらの戦の跡をけっこう目にします。なかでも戊辰戦争はわずか150年ほど
前の出来事ですが、明治近代国家を築くために、東西が混然一体の胎動を繰り広げる陣痛ともいうべき
いくさだったのかもしれません。戊辰戦争に関係した旅先をまとめてみました。
○明治維新の主役は、それまでの
 支配 階級だった上級武士では
 なく、ほとんど 百姓・町人と同じ
 身分の郷士と呼ばれる下級武士
 たちでした。
○鹿児島の鍛冶屋町、萩の菊屋
 横丁、高知の上町などに育った
 西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎
 ・高杉晋作・坂本龍馬といった志士
 たちと、彼らに「日本」という国の
 在りようを教えた吉田松陰・佐久間
 象山・島津斉彬・勝海舟といった
 思想家、政治家たちの存在が
 あってこそだと思います。
      吉田松陰の松下村塾   坂本龍馬像       西郷隆盛像
 (山口 萩)        (高知桂浜)     (東京 上野公園)
   
○もう一つは西洋列強による外圧
 です。1853(嘉永6)年の黒船以前
 も各国の船が我が国の開国を求めて
 来ていました。
○江戸幕府は、鎖国の国是に従い、
 海防のための砲台を各地に作りまし
 たが、やむなく開国し、和親条約や
 各種の協約を列強と結びました。
○それまでは日本国内での視点で
 ものを考えてればよかったのでしょ
 うが、海外列強と対峙することで、
 「日本」という国が人々の間に強く
 意識づけられていつたのだと思い
 ます。
     砲台が置かれた寝姿山(左)と日米協約が結ばれた了泉寺(いずれも下田)
○幕末の舞台は、やがて朝廷がある
  京の都に移ります。坂本龍馬、桂
  小五郎など多くの志士たちが
 倒幕の声をあげて暗躍を始めます
○治安の悪化を恐れた幕府は、京都
 の守護を会津藩に命じました。勤王
 浪士には同じ浪士をもって立ち向
 かわせるという考えで、浪士組(後の
 新撰組)が組織されます。やがて
 会津藩預かりとなった彼らは、池田
 屋事件などのように徹底した浪士
 弾圧に乗り出しますが、時代の流れ
 は如何ともし難く、幕府の崩壊は
 決定的になっていくのです。 
 
  龍馬が常宿にしていた伏見の寺田屋     新撰組屯所があった壬生の八木邸
○最後の将軍徳川慶喜は、1867(慶応
 3)年大政を朝廷に奉還することを京の
 二条城で宣言しました。
○時代は倒幕へと大きく動き始め、翌
 1868(慶応4)年に、京の鳥羽伏見で
 薩長連合軍と幕府軍の間に衝突が
 起こり、戊辰戦争が始まりました。
○薩長土肥の官軍は東に進み、江戸は
 無血開城されましたが、上野の山で旧
 幕臣の彰義隊の戦いがありました。
           二条城(京都)                 彰義隊墓所(東京 上野)
○江戸を収めた官軍は、北陸・東北へと
 進軍し、長岡藩(新潟)、二本松藩・
 会津藩(いずれも福島)など奥羽列藩
 と官軍との激しい戦いが繰り広げられ
 ました。
○戦いは、二本松少年隊、会津白虎隊
 に象徴されるように、少年・老人・女性
 も巻き込んだ総力戦となり、今も各地
 の悲劇が伝えられています。
○この東北での戦争の間に、旧幕臣榎
 本武揚らが軍艦を率いて蝦夷の箱館
 へと逃れました。
       二本松少年隊像                白虎隊士が飯盛山から眺めた会津の町
○箱館(現函館)へと逃れた榎本らは、
 1868(明治元)年12月「蝦夷共和国」
 をつくり、官軍に抵抗しましたが、翌年
 5月に降伏。戊辰戦争は終結しました。
○旧幕府側についた藩や人物にはその
 後過酷な運命が待っていました。中で
 も会津の人々は本州北端の地に追い
 やられて「斗南藩」をつくり、悲惨な
 開拓生活を余儀なくされました。
○それでも榎本ら旧体制の人々が明治
 政府に組み込まれて復活するなど
 日本史独特のふところの深さも後日談
 としてうかがえます。
       函館五稜郭の蝦夷共和国跡         斗南藩開拓のモニュメント(青森下北)






   
   


 @項目地名 
趣旨