旅のアラカルト(トリビア的旅論)

 一見、何のつながりも無さそうな場所であっても、歴史上の同じ人物が関係していたり、
ある事件の原因と結果になっていたりすることがありますよね。

 私はもともと雑学的なことが好きで、例えば滋賀県の彦根に行ったとき、「幕末の大老
井伊直弼の弟が我が宮崎の延岡藩に養子に来て藩主になった」といった故事を見つけると
夢中になって調べてしまいます。

 こんな私を大学時代の友人は「何にもならんくだらん事をよく知っている」とホメて(?)くれた
ことがありました。某局で「トリビアの泉」というTV番組をやっていますが、たぶんこれからも
「トリビアおじさん」を続けることになりそうです。

 このページは、そんなトリビア的な発想で、旅に関する何か一つのテーマで少々マニアックに
調べ上げたり、画像を漫然と載せたりしたものです。ただ、結局は「あそこに行った、ここも旅した」と
いう鼻持ちならない「私の旅じまん」になるかも知れませんが、どうかご容赦のほどを・・・

木洩れ日の下で 天気に恵まれギラギラ輝く太陽のもとで旅をしていると、何気ない木立の下の空間が
恋しくなることがあります。少し冷んやりして、木の葉の香りがかすかに流れて・・・・・
今回は、そんな木洩れ日の風景をいくつかご紹介します。

雲井の滝
(青森県奥入瀬)
あおば通り
(仙台市)
田沢湖遊歩道
(秋田県)
郷土館前
(山形市)
神宮外苑のイチョウ
(東京都内)
鶴岡八幡宮の段葛
(鎌倉市)
こおろぎ橋
(石川県山中温泉)
大王わさび農場
(長野県安曇野)
三保の松原
(静岡市清水区)
伊勢神宮(内宮)
(伊勢市)
安土城趾の石段
(滋賀県安土町)
哲学の道
(京都市)
山の辺の道
(奈良県桜井市)
太宰府天満宮
(福岡県)
特攻観音への道
(鹿児島県知覧町)
県庁楠並木通り
(宮崎市)



車窓の風景
旅先で列車に乗り、次々と現れては飛び去っていく見知らぬ
風景を窓からボンヤリ眺めるのも旅の大きな楽しみです。
撮るとはなしに撮った車窓の風景をいくつかご紹介します。
 
ローカル線の古い車両の場合、お馴染みの小さなサイド
テーブルが置かれているときがあります。ここに乾きものの
おつまみと缶ビール又はウィスキーを並べ、ほろ酔い気分で
走り去る風景を見る・・・至福のひとときです
どこまでも続く線路を運転席の横の窓から眺めて
いると、旅ごころがどうしようもなく高まってきます
仙台と山形を結ぶ仙山線から見た秋の田んぼの風景です。
稲刈りが終わり、稲藁がご覧のような積み方で干されて
いました。まるで宮沢賢治の小説に出てきそうな黄金色の
怪人たちが、私に手を振って歓迎してくれているようです
今は鉄橋渡るぞと・・・(富山から立山に向かう地方鉄道)
停車時に味わうユーモラスなホームの風景(紀勢本線白浜駅) 五能線から見た津軽のシンボルのりんご畑と岩木山です。
列車がスピードを上げていたのと、リンゴの色づきがいま
いちだったので、少しのっぺりした感じになりましたが、
太宰治のエッセイにあったような“津軽の風景”です
こちらは、小諸付近だったと思いますが、浅間山が優美な
姿を見せてました。浅間の連山は、全体を見るとまるで
女の人が顔を向こうに向けて横たわっているような、
色っぽい形に見えます
東海道新幹線の清水付近から眺めた
霊峰富士です。まるで天空に浮かんだ気高い姿は、
やっぱり日本一の山だと思います
こちらはむき出しのトロッコ列車
黒部峡谷を走る車両です
洛北の鞍馬山に向かう叡山電鉄のワイドビュー車両
津軽鉄道の窓際には、旅のつれづれを慰める
車内文庫が置かれていました。ローカル線の
すばらしさをまた一つ見つけました
最終便で宮崎に帰るときに乗ったモノレールから東京湾を見ると
息をのむような夕日がかかってていました。カメラの腕が未熟で
あのときの迫力がいまいち伝わらないかもしれませんが、
羽田の海に長く伸びたあかね色の道が今も目に焼き付いています
宮崎を遠く離れた旅先の車窓から、たそがれの見知らぬ景色を眺めると、
黒く沈んだ山際が鮮やかなあかね色に照り映えている。
聞こえるのはまばらな客のお国訛りと、規則正しい列車の音だけ・・・
ふと、家で私の帰りを待つ妻の顔が恋しくなる・・・旅愁のひととき








ナニワの“うた”めぐり                           

 前回UPしたトーキョーに続いて、こんどはナニワの歌めぐりです。大阪もたくさんの流行歌に唄われて
います。東京がどちらかというとフォーク系、ムーディ系が多いのに比べ、大阪は何といっても「ド演歌」、それも
ダメ亭主をけなげに支える女房といった夫婦の情愛を描いたものが多いように思います。

 大阪の人間が出会って話し始めると、片方がボケ、もう一人がツッコミになって漫才が始まるとよく言われ
ますし、やや気取った感じの東京弁に比べて、コテコテのナニワ言葉は聞いてても楽しい雰囲気があります。
そんな大阪弁の魅力に作詞家、作曲家たちは早くから気づいていたんだろうと思いますが、ナニワのうたに
は、大阪弁のセリフが入ったものがよくあります。それでは、ナニワの名曲をどうぞ・・・


 大阪ラプソディー(七色のネオン)作詞:山上路夫 作曲:猪俣公章 唄:海原千里・万里
1 あの人もこの人も
  そぞろ歩く宵の街
  どこへ行く二人連れ
  御堂筋は恋の道
  映画を観ましょか
  それともこのまま
  道頓堀まで 歩きましょうか
  七色のネオンさえ
  甘い夢を 歌ってる
  宵やみの 大阪は
  二人連れ 恋の街

(2番略)

覚えておきます
  小さなことまで
  あなたとすごした 大事な夜は
  七色のネオンさえ
  甘い夢を 唄ってる
  宵やみの 大阪は
  二人連れ 恋の街
 大昔の名曲に「東京ラプソディー」がありますが、漫才コンビ 海原千里・万里が大阪版を歌って大ヒットしました。
妹の千里は、ケバケバの大阪のオバちゃんをやらせたらピカ一のタレント、上沼恵美子さんとして活躍中です。
御堂筋や道頓堀の夜のネオンを見ながらブラついてみると、この歌の軽快で甘いメロディーがふっと浮かんできます。
 


月の法善寺横丁(水掛け不動/法善寺)作詞:十二村哲 作曲:飯田景応 唄:藤島恒夫
包丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも
板場の修業 
待ってて こいさん  哀しいだろが
あゝ 若い二人の  想い出にじむ法善寺
  月も未練な 十三夜
腕をみがいて 浪花に戻りゃ   晴れて添われる 
仲ではないか
お願い こいさん  泣かずにおくれ
あゝ いまのわてには 親方はんには すまないが
 味の暖簾にゃ 刃が立たぬ

「こいさんが、わてをはじめて法善寺へつれて
来てくれまったのは『藤よ志』に奉公に上がった
晩やった。はよう立派な板場はんになりいや
云うて、長いこと水掛不動さんにお願いして
くれはりましたなあ あの晩から、わては、
わては、こいさんが好きになりました」

「死ぬ程苦しかったわてらの恋も、親方はんは
許してくれはった。あとはみっちり包丁の
修業をつんで一人前の料理人になることや。
な、こいさん。待っててや。ええな、こいさん」


  初めてこの歌を聴いたとき(たぶんラジオだったと思います)、「こいさん」て何だろうと思いました。
 「コイ」という名字を持った人なのか、それとも顔が池の鯉に似た人のアダ名なんだろうか・・・ほかにも
 「フジヨシ」とか「ミズカケフドー」とかわけのわからない難しい単語が出てきて、TVで見るようになった
 ときに歌い手の藤島恒夫さんの広いオデコとともに印象に残った歌でした。
  ちなみに、「こいさん」は商人まち船場で、商家の3姉妹の末っ子つまり三女の呼び名です。長女が
 「とうはん」、次女が「いとはん」又は「なかんちゃん」というそうです。では2人姉妹のときはどう呼び分ける
 のか、4人のときはどうなるのかなど詳しいことは私にはわかりませんが・・・いずれにしてもセリフのアクセント
 や色々な単語がいかにも大阪という感じで、カラオケで歌っても楽しい曲です。



 道頓堀(とんぼり)人情(道頓堀周辺)作詞:若山かほる 作曲:山田年洲 唄:天童よしみ
ふられたぐらいで 泣くのはあほや 呑んで忘れろ 
雨の夜は 負けたらあかん 負けたらあかんで東京に
冷めとない やさしい街や道頓堀(とんぼり)は
未練捨てたら けじめをつけて
きっぱりきょうから 浪花に生きるのさ
唇かんでも きのうは過去や 分かるやつには 分かってる
負けたらあかん 負けたらあかんで東京に
冷めとない やさしい街や道頓堀(とんぼり)は
でんと構えた 通天閣は
どっこい生きてる 浪花のど根性

 関ヶ原で家康に負けるまでの上方は、事実上日本の首都だったわけで、私が思うに江戸・東京に
負けたくないという思いを歌の中にかいま見ることがあります。この歌の「負けたらあかんで、東京に」
というフレーズもそうです。普通に道頓堀の人情や雰囲気を歌いこめばいいような気もするのですが、
唐突といってもいいほど「負けたらあかんで」が顔を出します。これはもう、大阪人の潜在意識に刻まれた
合い言葉なのかもしれません。
 それにしても、道頓堀はゴチャゴチャ、コテコテしているところがむしろ魅力になっている面白い町です。
カニやフグなどの高級食材の店もあれば、たこ焼きの立ち食い露店に行列ができていたりして、ぶらりと
歩いても飽きない町です。



 夫婦善哉(法善寺/夫婦善哉)作詞: 作曲:唄:石川さゆり
 
浮き草ぐらしと あなたが笑う
肩に舞うような 露地しぐれ
なには無くても心は錦
ついていきます 夫婦善哉
あなたの背中が 道しるべ

他人には見えない 亭主の値打ち
惚れた女にゃ 良く見える
寒い夜には 相合い酒で
浮世七坂 夫婦善哉
きょうも可愛いバカになる
 「包丁一本」の水掛け不動のすぐそばに、小さなぜんざいの店があります。店内に入ってイスに坐ると注文
しなくてもサッと2つのお椀に入ったぜんざいが出てきます。中にはそれぞれ可愛い餅が一つずつ。
 創業は明治期とのことですが、映画「夫婦善哉」に取り上げられて有名になりました。映画の中で主人公柳吉が、
「一杯で山盛りにするより少しずつ二杯のほうが沢山に見える」と大阪人らしい感想を言うと、恋女房の蝶子が
「一人より夫婦のほうがいいということでしょ?」と答える名場面があります。

 たよりないところがある柳吉を、しっかり者の蝶子が支えていくという浪花の夫婦の物語なのですが、歌詞の
「惚れた女にゃよく見える」亭主の値打ちというのが大阪独特のものなのかもしれません。ひらがなで書くと
「ぜんざい」ですが、漢字で書くと「善哉」すなわち「善き哉(よきかな)」ということで、夫婦はよきかなという
意味に通じます。甘いもの好きの私は2杯のぜんざいをペロリと食べますが、相方の妻は「特に言ってみたい
とは思わない」と何の関心も示さないところが、これまた夫婦の妙というのでしょうか。


 王将・夫婦駒(通天閣)作詞:大高ひさを作曲:野崎真一 唄:石原裕次郎

画像提供:HP「Picture Box」さん
あばれ香車(やり)なら 泥んこ桂馬 乱れ角なら向かい飛車
坂田三吉 勝負にゃ泣かぬ 可愛い小春のために泣く

駒を握らしゃ 勝負の鬼で 俥(くるま)引かせりゃ がしんたれ
こんな男の情けにひかれ 今朝も小春のやつれ髪

勝てば王将 負ければ歩(ひよこ)
浪花東京の勝負どこ 命二つを一つに燃やす
俺と小春は夫婦駒

 ある意味、東京の申し子のような石原裕次郎にしては、珍しい
大阪の歌です。無学な男が将棋一途の人生を妻の小春とともに
歩んでいく話は、村田英雄の「王将」や神野美伽の「小春しぐれ」
などでも有名ですが、この歌は私の記憶に間違いなければ、長門
裕之と藤(現在は冨司)純子が演じたTVドラマの主題歌だったと
思います。
 ライバルである東京の関根九段に勝ったという三吉の電話を聞く
小春は既に死の床だったというストーリーをかすかに覚えています。
小春う〜勝ったでえ〜関根はんに勝ったで〜小春う〜死んだら
アカンでえ〜
」と三吉が電話で呼びかけるシーンを涙を流しながら
見たのはたぶん小学生の頃でした。


 浪花恋しぐれ(天神天満亭・なんば花月)
                      作詞:たかたかし  作曲:岡千秋 唄:岡千秋・都はるみ
1 芸のためなら 女房も泣かす
  それがどうした 文句があるか
  雨の横丁 法善寺
  浪花しぐれか 寄席ばやし
  今日も呼んでる 今日もよんでる
  ど阿呆 春団治

「そりゃわいはアホや 酒もあおるし 女も泣かす
  せやかて それもこれも みんな芸のためや
  今にみてみい!わいは日本一になったるんや
  日本一やで わかってるやろ お浜
  なんや そのしんき臭い顔は 酒や!酒や!
  酒買うてこい!」

2 そばに私が ついてなければ
  なにも出来ない この人やから
  泣きはしません つらくとも
  いつか中座の 華になる
  惚れた男の 惚れた男の
  でっかい夢がある

「好きおうて一緒になった仲やない
  あんた遊びなはれ 酒も飲みなはれ
  あんたが日本一の落語家になるためやったら
  あてはどんな苦労にも耐えてみせます」


3 凍りつくよな 浮世の裏で 耐えて花咲く 夫婦花 これが俺らの 恋女房
  あんたわたしの 生き甲斐と 笑うふたりに 笑うふたりに 浪花の春がくる


 
 浪花の爆笑王と呼ばれた初代春団治は、たぐいまれな才能を持ちながら、借金・女遊び・酒乱といった破滅的な人生を
送った伝説の芸人です。この歌にある女房のお浜ですが、たぶん彼の2人目の妻となった岩井志う(じゅう)さんを
モデルにしているのだろうと思います。
 私が調べたところによると、彼女は資産家の商家の奥さんだった人で、夫の死後に入り婿という形で春団治と再婚しました。
(春団治の「後家殺し」という異名もここから来ているようです。)莫大な先夫の遺産を殆ど春団治が放蕩で使い果たした後も
文句をいうことなく、彼の死後ひっそりと極貧の中で亡くなったそうです。この歌のとおりに、夫の才能を信じ続けたのか
どうかは分かりませんが、情愛の通った夫婦だったのだろうと思います。


NHK朝ドラ(朝の連続テレビ小説)の旅                    

 「忙しい朝の時計代わり」などと陰口を叩かれることもある朝ドラですが、もう50年近く続いているそうです。歴代主演女優
たちの顔や、ドラマの内容とかを思い浮かべると、その時々の私自身の思い出も懐かしく蘇ってきます。もう一つの魅力は
毎回、色々な土地と、その土地に住む人々、風景、人情などが方言とともに描かれていて、TVの前に坐っただけで、
旅をしたような気分になれることです。

 大げさにいうと、時間、空間どちらも含めての旅を楽しませてくれるシリーズかなと思っています。ということで、朝ドラ大好き
人間であり、HP「まこちよか旅」の管理でもある私としては、自分の旅先と朝ドラの土地柄をコラボさせてみない手はないと
思い立った次第です。。

 なお、私のあやふやな記憶だけでは心許ないので、NHK朝の連続テレビ小説 - Wikipediaを参照させていただきました。
「○○年放送」といのは放送開始時点の年です。(原作者、出演者等の敬称は略させていただきました。)
第77回「ちりとてちん」:福井県小浜市
主演:貫地谷しほり
平成19年放送
第78回「瞳」:東京都月島・佃
主演:榮倉奈々
平成20年放送
第80回「つばさ」:埼玉県川越市
主演:多部未華子
平成21年放送
 小浜出身の少しトロい少女が、ひょんな
ことから上方落語の師匠に弟子入りし、
落語家をめざすというストーリーです。
 彼女が苦労の末にものにする腐った
豆腐をテーマにした演目がそのままドラマ
の名前になっています。
 貫地谷しほりのユーモラスでひたむきな
演技も良かったのですが、父親役の
松重豊が演じる若狭塗りの箸職人の
シブさが心に残りました。
 「オバマ氏を応援する小浜市」でも有名
になりましたが、かつて「サバ街道」の起点
として栄えた、いい雰囲気の港町です。
 愛くるしい雰囲気の榮倉奈々が、プロの
ダンサーをめざしながら、西田敏行演じる
祖父とともに3人の子どもの里親を務める
という話です。
 親に育ててもらえない子どもと、里親の
悩みが至るところに出てきて重いテーマに
なるのではと思いましたが、月島・佃・築地
といった下町の温かい風情がカバーして
いたように思います。
 月島で食べたもんじゃ焼きもしょっちゅう
描かれていて、食い意地の張った私としては
そっちからも満足できる内容でした。
 こちらは現在放送中(平成21年4月)

 「小江戸」とも呼ばれる蔵の町川越には
10年ほど前に行ったきりですが、堂々たる
蔵が町の中の至る所にあって、しかもまだ
現役で使われていることに、驚いたのを
覚えています。
第60回「すずらん」:北海道の架空の町
主演:柊瑠美→遠野凪子
平成11年放送
第13回「北の家族」:函館市
主演:高橋洋子 
昭和48年放送
第62回「私の青空」:青森県大間崎
主演:田畑智子
平成12年放送
 赤ん坊の頃に北海道の某駅に捨てられ、
その駅の駅長に育てられた主人公萌(もえ)
の一生を遠野凪子が好演しました。雪の
原野を彷徨う萌(柊瑠美)に涙を誘われた
のをよく覚えています。
 養父役の橋爪功もシブい演技もすばら
しいものでした。
(撮影:富良野線の西聖和駅 平成9年)
 高橋洋子は、当時大学生だった私の最も
好きな女優さんでした。デビュー映画「旅の
重さ」の可憐な笑顔がTVでも見られると
楽しみにしてましたが、下宿生活だったため、
帰省中だけのドラマ鑑賞でした。
 その後、名女優「田中絹代」とのWキャスト
となった「サンダカン八番娼館」での体当たり
の演技に感動したのを覚えています。
 文筆家として何か賞を取ったこともあった
ようです。才能豊かな女性なのでしょう。
 (撮影:函館市内 平成9年)
 結婚式の当日、筒井道隆演じる新郎が、
別の女性と失踪するというショッキングな
事件でドラマの幕が開きます。ヒロインの
なずなは彼の子どもを妊娠中であり後日
生まれた太陽くんと必死に母子だけの生活
を送っていきます。
 太陽くんのあどけない明るさと、漁師である
なずなの父(伊東四朗)がふと口ずさむ
「リンゴのふるさと」が印象に残っています。
(撮影:大間崎港 平成15年)
第76回「どんと晴れ」:岩手県盛岡市
主演:比嘉愛未
平成19年放送
第21回「おていちゃん」:東京浅草
主演:友里千賀子
昭和53年放送
第55回「ふたりっ子」:大阪市天下茶屋
主演:三倉茉奈&佳奈
→岩崎ひろみ&菊池麻衣子
平成8年放送
 4年前に出張で盛岡に行きました。町の中
を北上川が悠々と流れ、岩手山がみちのく
の澄み切った青空をバックにくっきりとそびえ
ていました。
 「どんとはれ」は、この地方の昔話の最後
に出てくる言葉で、確か「これでおしまい」と
いう意味だったと思います。盛岡の老舗
旅館の若女将をヒロインにしたこのドラマの
タイトルは、「はれ」を「晴れ」にしてますが、
写真のような青空と、ドラマの爽やかな
イメージがびったり合っているように
思います
(撮影:北上川と岩手山 平成15年)
 ちょっとクセのあるオバさん役をやったら
ピカ一の名脇役だった沢村貞子が自分の
半生記を書き下ろした「私の浅草」が原作
です。ただ、あまり記憶には残っていません。
 生まれて初めて上京した時に真っ先に
訪ねたのが浅草でした。毎日がお祭りの
ような仲見世の賑わいに心が躍りました。
(撮影:浅草の仲見世 平成?年)
大阪で暮らす双子の姉妹の話。岩崎ひろみ
演ずる妹がやがてプロの将棋差しになるの
ですが、当時7歳だった娘が感化されて、
将棋を毎日やっていた時期がありました。
放映から1年後に連れて行った通天閣の
そばの王将の碑はたしかこのドラマでも
出てきたように思います。もう一つオーロラ
輝子(河合美智子)が歌った劇中歌の「夫婦
みち」
も記憶に残っています。
(撮影:大阪将棋会館前 平成9年)
第49回「ええにょぼ」:丹後半島の伊根町  主演:戸田菜穂 平成5年放送
 私は、昔から戸田菜穂のファンです。大人しそうな雰囲気の中に、芯の強さを秘めた演技にいつも魅せられてきました。
とくにデビュー作の「ええにょぼ」で演じた、悩みながら成長していく女性研修医の役は彼女にピッタリだったと思います。
 ドラマは関西と丹後の小さな漁村(伊根町)を舞台に展開していますが、海に面して漁船の格納庫を兼ねた家(舟屋)が
時々映るのを楽しみにしてました。放映後数年して、初めて丹後半島をレンタカーで回り、舟屋を見下ろす丘に立ったときの
潮風の匂いが今も鮮やかに蘇ってきます。(撮影:伊根の舟屋 平成10年)
第61回「あすか」:奈良県明日香村
主演:竹内結子
平成11年放送
第26回「虹を織る」:兵庫県宝塚市
主演:紺野美沙子
昭和55年放送
第20回「風見鶏」:神戸市
主演:新井春美
昭和52年放送
 今が旬の女優竹内結子のデビュー作。
かけ落ちした天才的菓子職人と勤め先の
京都の老舗の娘との間に生まれた「あすか」
が和菓子職人として大成していく物語です。
 古代の遺跡があちこちに残る明日香村
で成長していく「あすか」と美しい京菓子が
今も心に強く残っています。
(撮影:明日香の高松塚古墳 平成11年)
 左記の「あすか」の母親役を演じた紺野
美沙子のデビュー作がこの「虹を織る」
です。
 昭和の初めに、宝塚少女歌劇に憧れた
ヒロインが、念願の入団を果たしながら
次第に軍国主義化していく世相の中で
懸命に生きようとする様子を描いて
いました。
 娘を連れて宝塚劇場のレビューを見たこと
がありましたが、劇団員も、舞台装置も
演出も思いっきり新しいのに、何故か
昔の郷愁を感じました。
(撮影:宝塚劇場前 平成9年)
 神戸は、エキゾチックな雰囲気が漂う
みなと町です。このドラマは明治の頃に
神戸でパンを作り始めたドイツ人とその
日本人妻の物語で、実在の人物をモデル
にしているそうです。
 舞台となった北野の異人館街が人気と
なり、やがて日本中に異人館ブームが
巻き起こりました。
先日、久しぶりに北野を訪ねてみたら
「風見鶏放映30周年」のイベントが
行われていました。
(撮影:神戸風見鶏の館 平成19年)
第2回「あしたの風」:香川県小豆島
主演:渡辺富美子
昭和37年放送
第4回「うずしお」:広島県尾道市
主演:林美智子
昭和39年放送
第53回「走らんか!」:福岡市(博多)
主演:三国一夫
平成6年放送
 朝ドラ第2作です。我が家にTVが初めて
入った頃ですが、当時小学生だった私の
記憶にはほとんど残ってません。
 原作者壺井栄には「二十四の瞳」という
不朽の名作がありますが、このドラマも同じ
ように小豆島が舞台だったようです。
(撮影:小豆島の分教場 平成6年)

 こちらも、林芙美子の名作「放浪記」を
ベースにしたドラマで、舞台も当然尾道
だったようです。
 (撮影:尾道のロープウェイ 平成17年)
 私は、学生時代を博多で過ごしました。
このドラマから流れる懐かしい博多弁を
耳にするたびに、私なりの青春時代の
ことが、心に蘇ってきたものです。でも
チンチン電車が走っていたあの頃の博多
の町が、メガロポリス「FUKUOKA」と
なってしまい、寂しい限りです。
 原作は、博多出身の漫画家長谷川
法世の「博多っ子純情」です。この前
久しぶりに山笠を見に行ってきました。
(撮影:博多祇園山笠 平成18年)
第73回「風のハルカ」:大分県湯布院町
主演:村川絵梨
平成17年放送
第5回「たまゆら」:宮崎市
主演:笠智衆
昭和40年放送
第71回「わかば」:宮崎県日南市(飫肥)
主演:原田夏希
平成16年放送
 ナレータはこの写真の由布岳で、「こんにち
は 由布岳です」という中村メイ子の声で
いつも始まっていました。
 それぞれ別の夢を追い続けるために離婚
した両親をもつヒロインハルカが、重くなり
そうなドラマの背景を爽やかなものに変え
る好演ぶりでした。。湯布院はいつ行っても
楽しませてくれる町です。
(撮影:由布岳 平成10年)
 今、東国原人気で宮崎の観光は絶好調に
なりつつありますが、実は第一次宮崎ブーム
が昭和40年前後にありました。
 海外旅行がままならなかった頃に、「日本の
ハワイ」といったイメージで南国情緒を求めた
新婚さんが全国から大挙して押しかけていた
のです。「たまゆら」はその頃の宮崎を舞台に
した文豪川端康成の書き下ろしのドラマと
して脚光を浴びたのですが、当時の私は
残念ながら内容はよく覚えていません
(撮影:宮崎市の橘公園 平成19年)
 飫肥(「おび」と読みます)は、旧伊東藩の
城下町であり、日露戦争終結時の全権を
務めた明治の外交官小村寿太郎生誕の
地でもあります。
 「わかば」は、阪神淡路大震災で父を
亡くした神戸の少女が、母の故郷である
飫肥に移り住んで成長していくというドラマ
でした。
 放映時に私は日南市にある職場に通勤
していました。城下町飫肥の風景がこの
ドラマのあちこちに出てました。
(撮影:飫肥城大手門前 平成14年)

(19.10.23 UP)





トーキョー“うた”めぐり                           

 最近、娘の進学や何やかやで、上京することが多くなりました。都内をあちこち歩いていると、ふだん
口ずさんでいる歌のテーマになった物や土地によく出くわします。ということで、今回は大都会東京の
うためぐりをしてみたいと思います。


 あずさ2号(JR新宿駅)  作詞:竜 真知子 作曲:都倉俊一 唄:狩人
 あした私は 旅に出ます あなたの知らない 人と二人で 
 いつかあなたと 行くはずだった 春まだ浅い 信濃路へ
 行く先々で 想い出すのは あなたのことだと わかっています 
 そのさびしさが きっと私を変えてくれると 思いたいのです……
 さよならは いつまでたっても  とても言えそうに ありません
 私にとって あなたは今もまぶしい一つの 青春なんです
 8時ちょうどの あずさ2号で私は、私は、あなたから 旅立ちます……


  兄弟デュオ「狩人」の大ヒット曲です。この歌が出た当時は歌詞のとおり午前8時ちょうどに、あずさ2号は
 始発の新宿駅を発車していたそうです。今は偶数が松本発、奇数が新宿発に変わり、8時少し前の新宿駅
 5番ホームには、うす紫のストライプのスーパーあずさ5号が入線していました。信州への旅は、人の心を
 惹きつけてやまない何かがあります。この時の私も、カメラを向けながらふと、(このままあずさに乗って
 松本に行きたい)という衝動にかられました。
  それにしても、「あずさ」という優しい響き、「あなたの知らない人」と旅立つ信濃路・・・・・去っていく女性の
 気持ちが歌われていますが、男のスエさんとしては、あずさで去る「私」をひっそりと見送らねばならない
 「あなた」の気持ちが身につまされます。そういえば伊勢正三さんが歌う「22歳の別れ」も似たシチュエーション
 の曲ですね。
   
  
 アメリカ橋(恵比須)  作詞:山口洋子 作曲:平尾昌晃 唄:山川 豊
 風が足もとを 通りすぎてゆく  久しぶりだねと 照れてわらいあって
 アメリカ橋のたもと ふと通うぬくもり  やるせない恋 埋めた街
 角部屋の灯り 石だたみ石だたみ 想い出続く  いつかいつか 熱かった青春


 君は変わらない 月日は過ぎても 髪を切ったので 少し若くなった
 アメリカ橋のたもと 黄昏が間近い 煙草やめたの いつからと
 それとなくきいて 眼をそらす眼をそらす ガラスのむこう 遠い遠い かえらない青春

    
  あずさ2号は、まさに別れようとする男女の歌ですが、こちらは別れて何年か後の恋人の再会を歌っています。
 アメリカ橋は、JR恵比須駅の南側にある何の変哲もない跨線橋です。何でも、明治の頃に、アメリカで開催
 された万国博覧会の展示品であった橋を買い取ってここに架設したことから、アメリカ橋と呼ばれるようになった
 そうです。(正式には「恵比須南橋」といいます。)確かに歌詞のとおり石畳が敷かれています。
  ありふれた橋だからこそ、別れた恋人との何気ない再会の場所にもなるのかもしれませんし、その出会いも
 「ふと通うぬくもり」を持つのでしょうね。2番の「タバコやめたの? いつから?」と尋ねる彼女が目をそらすと
 いうフレーズが私は好きです。恋人同士だった頃の熱い思いに帰ろうとして帰れない、そんな大人の男女の
 姿が現れているような気がします。情感のこもった いい歌です。


 神田川(早稲田周辺)作詞:喜多条忠 作曲:南こうせつ 唄:南こうせつとかぐや姫
 あなたはもう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーにして 二人で行った横丁の風呂屋
 一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた  洗い髪が芯まで冷えて
 小さな石鹸カタカタ鳴った  あなたは私の体を抱いて  冷たいねって言ったのよ
 若かったあの頃 何も恐くなかった ただあなたのやさしさが恐かった

 
  この歌は私の学生時代と重なり合います。大学に進学した私の息子や娘の宿は、台所、風呂、トイレが
 きちんと付いてますし、今はそれが当たり前のようです。私は福岡で学生時代を過ごしましたが、ちょうど
 この歌のように冬の寒い夜は、手ぬぐいでマフラーをして、つっかけと半天で銭湯通いをしてました。三畳
 ひと間の小さな下宿(2番の歌詞:ただし私の場合は4畳半でしたが)で、もちろん台所やトイレは共同です。
 そのトイレも水洗ではなく「直下式」で、夏場は凄い臭いが体に染みつくほどでした。もっとも、家主さんが
 お寺だったので、窓の下は川ではなく、納骨堂でしたが・・・・・・
  私の子どもたちのような今どきの学生の生活がぜいたくだといって、「神田川」の話をすると、家族一同から
 総スカンを食う私です。神田川沿いは高級マンションが増えていますが、昔ながらのアパートも少し残っては
 いるようです。


 池上線(五反田〜蒲田)作詞:佐藤順英 作曲・唄:西島三重子
 古い電車の ドアのそば 二人は黙って 立っていた 話す言葉を 捜しながら すきま風に 震えて
 いくつ駅を 過ぎたのか 忘れてあなたに 聞いたのに じっと私を 見つめながら ごめんねなんて 言ったわ
 泣いてはダメだと 胸にきかせて 白いハンカチを 握りしめたの 
 池上線が 走る町に あなたは二度と 来ないのね 池上線に 揺られながら 今日も帰る 私なの

 

  池上線は、五反田と蒲田という2つのJRの駅同士を結ぶ私鉄(東急)線です。もう20年以上も昔、蒲田で
 仕事上の研修を受けた時にちょっと乗ったことがあります。その時は電車も駅舎も恐ろしいほど古かったような
 気がします。
  この歌は恐らくその頃の池上線を歌ったものなのでしょう。古い電車の中で、泪をじっと堪えている女性と
 「ごめんね」と言いながら見つめる男性・・・・・・・こんなそこはかとない別れのシーンはもう無いのでは。他人の
 迷惑も顧みずに痴話げんかしていたり、所構わずベタベタしているカップルはよく見ますが。(オヤジのひがみか?)


 無縁坂(台東区池之端)作詞・作曲:さだまさし 唄:グレープ
 母がまだ若い頃 僕の手をひいて この坂を登るたび いつもため息をついた ため息つけば それで済む
 後ろだけは見ちゃだめと 笑ってた白い手は とてもやわらかだった 運がいいとか 悪いとか
 人はときどき 口にするけど そういうことって たしかにあると あなたを見てて そう思う
 忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂 かみしめるような ささやかな 僕の母の人生

 
  さだまさしさんの歌には、秋桜、精霊流し、案山子など親子の情愛を描いたものが多いと思いますが、無縁坂
 もその一つです。若かった頃と年老いた今の母の姿を対比させながら、その母の人生を無縁坂という実在の
 場所に投影させて描いています。
  無縁坂は上野の不忍池の西にあって左に三菱財閥の岩崎家の旧邸の壁を見ながら登っていくゆるやかな
 坂です。森鴎外の小説「雁」の主人公岡田が日常の散策のときに、資産家の囲い者だったお玉に出会う場所
 としても有名です。
  

 ああ 上野駅(JR上野駅)作詞 関口義明 作曲 荒井英一  唄  井沢八郎
 どこかに故郷の 香りをのせて 入る列車の なつかしさ  上野は俺らの 心の駅だ
 くじけちゃならない 人生が あの日ここから 始まった
 就職列車に ゆられて着いた 遠いあの夜を 思いだす 上野は俺らの 心の駅だ
 配達帰りの 自転車を とめて聞いてる 国なまり

   
  昭和30年代から40年代にかけて、中学を卒業した15歳の少年少女たちが、親と別れ、大都会へ集団就職
 してきました。戦後の高度成長は、「金の卵」といわれた彼らの肩に負うところが大きかったようです。特に東北
 地方からの就職列車の目的地は、この上野駅でした。歌詞どおり、ここで彼らの新しい人生が始まったのです。
  何といってもまだ15歳・・・・・本人たちも、手放す親たちもどんなに不安があったことでしょう。それでも歯を
 くいしばって、前向きに頑張ろうとする気持ちが伺えるすばらしい歌だと思います。私は少し下の世代になりますが
 カラオケでよく歌って、若い人たちに敬遠されています。


すみだ川(浅草 隅田川公園)作詞:佐藤惣之助  作曲:山田栄一  唄:東海林太郎
  銀杏がえしに 黒繻子(くろじゅす)かけて           娘心の 仲見世歩く
  泣いて別れた すみだ川                     春を待つ夜の 歳の市
  思い出します 観音さまの                     更けりゃ泣けます 今戸の空に
  秋の日暮れの 鐘の声                       幼なじみの お月様

   「あゝそうだったわねえ、
   あなたが はたち、わたしが十七の時よ
   いつも清元のお稽古から帰って来ると、
   あなたは竹谷の渡し場で
   待っていてくれたわねえ。
   そして二人の姿が水に映るのを眺めながら
   ニッコリ笑って淋しく別れた、
   本当にはかない恋だったわねえ」


 
  うららかな晴れた日に、浅草から水上バスに乗り、隅田川のキラキラ輝く水面を眺めながらゆったりとしたひとときを
 過ごすのもいいものです。この歌を聞きながら目を閉じると、実際に見たことはない(当然ですが)江戸・明治の下町の
 風情が、私の日本人としての心によみがえります。
  浅草の観音様、鐘の声、清元のお稽古、歳の市、竹谷の渡し・・・・・渡しといえば江戸から明治にかけての頃、隅田川
 には渡し船があちこちにあったようです。渡し場で二人の姿を水面に映して微笑み合うだけのはかない恋を描いたもの
 だからこそ、この歌はかつての日本にあった風景や心をくっきりと浮かび上がらせているように思います。


 ウナセラ・ディ東京(東京の夜景)作詞 岩谷時子 作曲 宮川泰 歌 ザ・ピーナッツ
 哀しいことも ないのになぜか 涙がにじむ ウナ・セラ・ディ東京 ン・・・・ン
 いけない人じゃ ないのにどうして別れたのかしら ウナ・セラ・ディ東京 ン・・・ン 
 あの人はもう 私のことを忘れたかしら とても淋しい 街はいつでも 後姿の幸せばかり 
 ウナ・セラ・ディ東京 ン・・・ン
 

  天才的な双子の歌手「ザ・ピーナッツ」のこの歌は、田舎の宮崎の白黒のTVで初めて聞きました。寂しく甘い
 メロディと「うなせらで−」という訳のわからない言葉に、私は大都会東京の香りをかいでいました。
  この歌は、最初は「東京たそがれ」という題だったそうですが、後にイタリア語で「東京の夜」という意味の
 「ウナセラ・ディ東京=Una Sera di Tokio」に改編され、ピーナッツの大ヒットとなりました。「うなせらで−」は
 イタリア語だったんですね。(19.04.30UP)





“固い歌”めぐり

  先日の夜、NHKの「熱中時間」という番組を見ていました。ご覧になった方も多いかもしれませんが、
 何らかの趣味、それもかなりマニアックな趣味に没頭している人たちを紹介する番組です。その日は
 “固い歌:歌っていいですか?”というテーマで、服部さんという熟年の男性が出ていました。

  固い歌って何だろう・・・・テーマに興味を持った私は画面を見続けます。服部さんの趣味は、全国
 各地の石碑めぐり、それも流行歌や童謡などの歌詞が刻まれた石碑を、何と1670か所も訪れて
 いるそうです。しかもただ訪ねるだけではなく、@写真に撮る(これはまあ分かりますが・・)、A石碑の
 寸法を巻き尺で測って記録する(えっ!?)、B石碑の前で、刻まれた歌を大声で歌う(・・・・・・・・)、
 ちょっと引き気味になるような様子が、VTRで紹介されてました。

  たしかに“固い歌”です。TVを見終わったあと、(そういえば、俺も固い歌をいくつかカメラに収めて
 いたな)と思い出しました。こうなると矢も立てもたまらぬ私です。調べてみたら下の11か所を撮って
 いました。服部さんの訪問か所のわずか0.6%にすぎませんが、私の撮った固い歌を紹介します。
すなやま(新潟):作詞 北原白秋 銀座の恋の物語(東京銀座):作詞 大高ひさを
海は荒海 向こうは佐渡よ すずめ鳴け鳴け
もう日は暮れた みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ


もう、15年も前に新潟に行ったときの写真です。
対岸に佐渡島を望む海岸に、白秋の大きな石碑が
ありました。白秋のこの詩は、後に山田耕筰と中山晋平
によってそれぞれ作曲されました。晋平のほうは
いかにも童謡という感じでノスタルジーを感じさせる
曲ですが、山田耕筰のほうは、童謡というより歌曲と
いったほうがよいほど重厚です。私にとってはどちらも
好きな曲で、実は風呂場で2つの歌い比べるのが、
私のマニアックな楽しみです。「ぶらり旅」のTopの
BGMに晋平作曲のものを貼り付けています。
心の底までしびれるような 吐息が切ないささやき
だから 泪が思わずわいてきて泣きたくなるのさ 
この俺も  東京で一つ 銀座で一つ 若い二人が
初めて逢った 真実(ほんと)の恋の物語


カラオケの3つのタブー・・・・一つは言うまでもなく
マイクの独占。二つ目は「マイウェイ」を自己陶酔
しながら目をつむって唄うこと。そしてもう一つは
部下や年下の女性をステージに引っ張り込んで
この「銀恋」を、無理やりデュエットさせること・・・・
カラオケの初期時代は、「銀恋」、「居酒屋」、「カナ
ダからの手紙」など女の子と唄えるのが本当に嬉し
かった経験が私にもありますが、今や「パワハラ」
「セクハラ」の温床にもなるようです。
かもめの水兵さん(横浜 山下公園):作詞 武内俊子 城ヶ島の雨(三浦半島 城ヶ島):作詞 北原白秋
かもめの水兵さん 並んだ水兵さん
白い帽子、白いシャツ、白い服
波にちゃっぷ、ちゃっぷ浮かんでる・・・・


誰もが幼い頃に唄ったことがある、懐かしい童謡
です。横浜の港沿いの山下公園にありました。横に
立っているのは、私の長男の高校時代の姿です。
(若い頃の私ではありません。念のため)
雨は降る降る 城ヶ島のむ磯に 利休ねずみの
雨が降る 雨は真珠か 夜明けの霧か それとも
私の忍び泣き 船は行く行く 通り矢のはなを 
泣いて帆上げた ぬしの船 エェ 船は櫓でやる 
櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気


この唄のように雨の城ヶ島を訪ねたかったのですが
あいにく(?)すばらしい晴天でした。しかも夏だった
こともあり、碑のそばでは地元の人たちが風情の
ない野外焼き肉会をしていて、身勝手ながら腹が
立ちました。
千曲川旅情の歌(小諸 懐古園):詞 島崎藤村 宮津節(丹後半島 宮津)
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすハコベは萌えず 若草の籍くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺 日に溶けて淡雪流る


厳密にいうと、曲のついた詩ではありませんが
旅をうたったものなので、あえて載せました。
見事なまでの五七調で組み立てられた詩の
行間から、信州小諸の早春の景色、夕暮れの
情景が鮮やかに浮かび上がってきます。
千曲川の様子と、これを眺める遊子(=旅人)
の心情を対比させながら味わってみましょう。
二度といこまい 丹後の宮津 縞の財布が
空になる 丹後の宮津で ピンと出した


今は静かなたたずまいの宮津の町ですが、かつて
は花街が賑わっていたそうです。白塗りの女性に
誘われてフラフラと引き寄せられるように遊んで
しまい財布から大枚が逃げる。二度と来るもんかと
思っていても何日かするとソワソワとまた行きたく
なってしまう・・・・・・男たちのこんな情けない風景は
今も昔も所を問わずどこでもあるようで、わが宮崎
にも「じょうさ節」という似たような唄が伝わっています。
元寇(福岡 東公園):作詞 永井健子 オッペケペ−節(福岡 中洲):川上音二郎
四百余州を挙(こぞ)る  十万余騎の敵
国難ここに見る  弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに  鎌倉男子あり
正義武断の名  一喝して世に示す


鎌倉時代に、中国大陸から元の大軍が博多の浜に
押し寄せました。これを迎え撃つ鎌倉幕府の武士団
の壮絶な戦い、そして2度の「神風」に沈む元の船団
の様子などが、軽快なメロディーにのって唄われて
います。この唄は明治の日清戦争の直前に作られ、
兵士たちに盛んに唄われたとのこと・・・・・・この時も
「国難」だったといわれますが、鎌倉時代は攻められ
た側、日清戦争は攻め寄せた側なのが少し違うと
思います。学生時代にこの碑がある公園のそばに
下宿していて、時々口ずさんでいました。

ままにならぬは浮世のならい 飯(まま)になるのは米ばかり
ア オッペケペー オッペケペー オッペケペッポ ペッポッポ
不況窮まる今日(こんにち)に 細民(=庶民)困窮かえりみず
まぶかに被った高帽子 金の指輪に金時計 権門貴顕に腰を曲げ
芸者・幇間(たいこ)に金を撒き 内には蔵に米を積み 
ただし冥土のおみやげか 地獄でエンマに面会し 賄賂使って極楽へ
行けるかえ? 行けないよ! オッペケペッポ ペッポッポ


痛烈な社会風刺・政治批判がこめられた名調子を
陣羽織に鉢巻き、扇子を持った「壮士姿」で唄い
上げる川上音二郎一座の「オッペケペー節」が
明治中期から後期にかけて大ヒットをとりました。
1900年のパリ万博でも上演されたそうです。
演劇界でも活躍した音二郎は、わが国最初の女優
といわれる川上貞奴の夫でもあります。

花(東京 隅田川公園):作詞 武島羽衣 津軽海峡冬景色(青森港):作詞 阿久悠
春のうららの隅田川  のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る  ながめを何にたとふべき

見ずやあけぼの露浴びて  われにもの言ふ桜木を
見ずや夕ぐれ手をのべて  われさしまねく青柳を

錦おりなす長堤に  くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の  ながめを何にたとふべき


上野発の夜行列車 おりた時から  青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で 海鳴りだけを きいている
私もひとり 連絡船に乗り こごえそうな かもめ見つめ
泣いていました ああ 津軽海峡 冬景色

ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと 見知らぬ人が 指をさす
息で曇る窓のガラス ふいてみたけど遥かに霞み見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります  風の音が胸をゆする
泣けとばかりに  ああ 津軽海峡 冬景色

さよならあなた 私は帰ります  風の音が胸をゆする
泣けとばかりに  ああ 津軽海峡 冬景色
月の法善寺横丁(大阪難波):作詞 十二村哲
包丁一本 晒にまいて  旅へ出るのも板場の修業
待ってて こいさん 哀しいだろが
ああ 若い二人の想い出にじむ法善寺
月も未練な 十三夜

こいさんがわてを初めて法善寺に連れてきてくれはったのは
藤よ志に奉公に上がった晩やった
「早う立派な板場はんになりいや云うて 長いこと
水掛け不動さんにお願いしてくれはりましたなァ
あの晩からわては、わては、こいさんが好きになりました・・・






リピーター:ヒロシマ&ナガサキ

 同じ場所を何度か旅するという経験はありませんか。もちろん、もう一度行ってみたいという強い気持ちの
場合もあるでしょうが、それだけではない、縁(えにし)を感じてしまうような旅先も時にはあるようです。
 
 私にとってこれまで不思議と訪れる機会が多かったのが、広島と長崎です。中学の修学旅行、少年の頃の
ボーイスカウトの大会、高校の頃の部活の全国大会、妻と出会った頃に行った旅、出張や研修、娘との旅
等々・・・・・・広島も長崎も、もう数えられないほど訪ねています。

 そして必ずといっていいほど、記念写真を撮ったのが、広島は原爆ドーム前、長崎は平和祈念像の前です。
どちらも60年余り前の悲惨な原爆被爆を象徴的するモニュメントです。通常の観光地には無い、厳粛な気持ち
を抱かせてくれる場所です。

広島平和公園(原爆ドーム前)
高校の頃 
部活の仲間と
30代はじめの頃 今は亡き父と 50代半ばの去年の冬 高2の娘と
(珍しい雪景色のドームです)

 そんな場所柄のせいでしょうか、それぞれの旅の際に、原爆ドームや平和祈念像を見上げながら、その時々
にしか描きえない信念や生き方といったものを抱いていた私がいたことを、あらためて思い出します。並んで
写真に収まってくれた友人・同僚・家族などへの感謝の想いもよみがえってきます。何度も訪れる旅先を、人は
大事にせんといかんと、今つくづく思っています。

長崎平和公園(平和祈念像前)

中学の修学旅行
(上下2段の合成です)
20代半ばの頃 妻と
(何処にいるかわかりますか?)
40代半ばの頃 同僚と




横丁・路地うら・アーケード

  旅に出て、見知らぬ町を訪ねたとき、あなたなら何処を歩きますか? 若い頃は大通りや有名な
 観光名所に足が向いてた私ですが、年を重ねてくると、メインストリートからちょっと入り込んだ
 裏の路地、地元の人しか歩いていないような駅前の商店街、薄暗く怪しげな横丁などに惹かれる
 ようになってきました。人通りが寂しくなった夜更けや、観光客のいないオフシーズンのときなどに
 ウロウロするのも悪くないと思うようになってきました。

  考えてみると、旅先の観光地や大通りというのは、その町がわれわれ「よそ者」に見せる「よそ行き」
 の顔でしかないのかもしれませんが、路地裏、横丁のたぐいは地元の人しか知らない「本音の顔」が
 隠れているような気がします。地元の人たちが地元の言葉で、地元のことを話題にしている風景に、
 ちょっとだけお邪魔させていただくことに無上の楽しみを覚えるようになってきた私が、そんな本音の
 場所をいくつかご紹介します。

  旅のガイドブックに載っていない狭い道を、黒い野球帽、黒いリュック、黒いジャケット、黒いジーンズ
 という全身黒ずくめの怪しげな中年男が、黒い一眼レフカメラを首からさげてウロウロしていたら・・・・・
 たぶん私です。どうか「シッシッ」と追い払わずに、ちょっとだけ話相手に
 なってやってください。 

西荻窪の仲通街 路地裏のとんかつ屋(福岡馬出のキャンパス前)
 新宿からJR中央本線を西に行くと、高円寺や
吉祥寺といったお洒落な町がいくつかあります。
ここはそんな町のひとつ西荻窪駅の前にある
アーケード街です。入り口近くにつり下げられた
大きなピンクの像が出迎えてくれます。
 同じ駅そばの商店街でも、都心の上野や下町
とは違って、落ち着いた感じのする店が多い
ように思います。
 私にとってはなつかしい場所です。学生の頃
このトンカツ屋に食べにいったり、出前をとったり
してました。皿からはみだしたワラジのような
メンチカツをほおばると、肉汁のうまみが
口いっぱいに広がって幸せいっぱいの気分に
なっていました。
 2年前に出張がてら訪ねてみたら、まだちゃんと
営業していました。もう30年もたっているのですが。
夜のぽんと町(京都) 法善寺横丁(大阪ミナミ)
 「富士の高嶺に降る雪も、京都ぽんと町に降る雪も
・・・」とお座敷小唄に唄われたぽんと町(先斗町)は
芸子さんや舞子さんが行き来する色っぽい町です。
 向こうから歩いてくる人とやっとすれ違えるような
細い路地の両側に、何十軒もの料亭や飲み屋が軒
を連ねています。昼間も歩いてみましたが、夜に霧雨
の降る中をブラついてみると、何ともいえない風情が
ありました。やっぱり夜が似合う町です。 
 こちらも、歌謡曲がらみの大阪の横丁です。「包丁
1本、さらしに巻いて 旅に出るのも板場の修業・・」
昭和30年代に藤島恒夫さんが唄った「月の法善寺
横丁」のとおり、高級料亭が建ち並んでいます。
 唄に出てくる板前の青年が、大店のこいさんとお参
りに行った「水掛不動」もすぐそばです。夜の賑わい
を見せる前の、夕方の法善寺横丁です。
もんじゃ焼きの路地裏(東京月島) お好み焼きストリート(広島駅ビル内)
 東京名物「もんじゃ焼き」発祥の地月島は、今は
再開発されてきれいな通りになっていますが、
わきの横丁に足を踏み入れると、昔ながらの
小さな店が狭い路地に立ち並んでいます。
 もともとは子どものおやつ程度に気軽に焼かれ、
気軽に食べられていたようです。はな垂れ小僧たち
が、遊び疲れたお昼過ぎに「おばちゃん! もんじゃ
を焼いて!」と駆け込んでくるような気がします。
 東のもんじゃに対して、西はお好み焼き。広島駅
ビルの中には、ズラリとお好み焼きの店が並んだ
一角があります。私が訪ねたときには、どの店も
満杯で、行列ができている所もありました。
 具とつなぎを混ぜ合わせるだけの大阪風と違い、
広島ではクレープのような薄皮の上で焼いていき
ます。そしてキャベツを中心にした野菜の量が
ハンパじゃありません。ソースの匂いと独特の
「ジューッ」という音がホンワカと流れていきます。
北の大地の凍てつく歩道(旭川) 下町の家並み(根津界隈)
 真冬の旭川の町でのこと。歩道に積もった雪が
凍り付いていて、南国育ちの私は、歩くのに苦労
しました。転ばないように足を一歩一歩進めるだけ
で、かなりの注意がいります。実際に何度かひっくり
返ってしまいました。
 ところが、まわりの地元の人たちは、全く普通に
歩いています。中には高いヒールをはいて小走りに
急ぐOL風の女性もいます。私のように、よたよた
歩いている人が、まれにいます。おそらくよそ者
でしょう。冬の間は、道路の歩き方でよそ者かどうか
わかってしまうと思いました。
 美瑛だったか、旭川だったか忘れましたが、
とびこみの靴屋さんで、靴底に錨を打ってもらった
ところ、何とか歩けるようになりました。ちょうど車の
スパイクタイヤと同じですね。北国の人たちの生活
の厳しさをかいま見たような気がしました。
 賑やかな上野のすぐそばなのに、こちらは人通りが
殆どありません。古い家並みの間を通ると、大正や
昭和初期の頃に迷い込んだような気にもなります。
軒の前がすぐ通りで、庭は無く、2階に狭い物干し
スペースが作られ、入り口前のわずかな空間を利用
して、植木鉢が並べられています。
  かつてわが国の庶民の家を「ウサギ小屋」と酷評
した外国のメディアがいましたが、いくら広い家に住
めても、銃を振り回し、クスリにおぼれるような社会
よりはましだと思います。2階の物干しからお隣と
あいさつを交わし、「道路わきのガーデニング」を
楽しむ下町の住人のほうが、はるかに豊かな心を
持っていると思います。
 深刻な不況の中で、日本人の心も次第に荒れ始
めている昨今、こんな下町が全国各地にいつまでも
残っていてほしいと思います。
駅前商店街(京成線堀切菖蒲園駅) アメ横(上野御徒町)
 東京の都心から少し離れたところになると、こう
いった駅沿いの商店街をよく見かけます。
  夕方5時をまわると、買い物にきたおばさん、駅
から出てきたOLやサラリーマンなどでごった返して
います。いろんな店先で、下町風の小粋な東京弁が
交わされている日常の生活空間としての風景・・・・・
私は大好きです。
 こちらも線路沿いに開けたマーケットです。上野の
アメ横に初めて行ったときは、人通りの多さ、そして
売り手の兄ちゃんたちの独特の「ダミ声」に度肝を
抜かれました。
 アメ横のおもしろさは、食い物、衣類、日用品など
あらゆるものが、しかも国籍を問わずあふれている
ことです。中にはウサン臭いものもありますが、通り
抜けるだけでもワクワクしてしまいます。
有楽町高架下 道具屋筋(大阪なんば)
新天地商店街(伊賀上野) 林芙美子が描いた港町の坂道(尾道)
 わが宮崎も例外ではありませんが、地方都市では
郊外型大型店舗の進出などから、昔賑わった場所が
急激にさびれています。
 伊賀上野を訪れたとき、駅のそばのアーケード街が
目にとまりました。人一人通らないゴーストタウンに
なってました。「いらっしゃいませ」の派手な看板の
下に、不気味なほど暗い入り口が、今の日本社会の
問題をつきつけているように思えます。
 林芙美子の名作「風琴と魚の町」に出てくる坂道
は、おそらくこんな場所だったのでは。
 ゆるやかな石段があって、すだれのかかった古い
2階建てがあって、石垣の上にネコがうずくまって
いて・・・・・不意に、涙をいっぱいためた筒袖の少女、
幼い頃の芙美子が現れそうな昼下がりの尾道の町
です。




               司馬遼太郎を旅する                 
 旅好き、歴史好きの私にとって、司馬遼太郎さんの作品はバイブルです。今あらためて読み返してみると、
私の旅した所と、司馬さんが描いた場所がかなり一致しているのに気づきます。というよりは、ちっぽけな私の
旅経験などは、司馬作品に描かれた膨大な旧跡、名所のほんの一部にすぎないんでしょうね。
 このコーナーでは、そんな司馬作品を不遜にも私の旅経験とコラボレートしてみました。





桂浜の坂本竜馬像(高知) 竜馬が定宿にしていた寺田屋(京都伏見)
 幼い頃、寝小便たれと言われた男が長じて明治維新のプロデュースをやりとげました。
その業績ももちろんですが、寺田屋で風呂場から裸で急を知らせた話、高千穂の峰
での日本初の新婚旅行の話など、恋人おりょうとのエピソードにも惹きつけられます。




秋山兄弟・子規の故郷松山のハイカラ通り 日本海海戦の旗艦「三笠」(横須賀)
 日露戦争の勝利を決定的にした日本海海戦の作戦参謀 秋山真之、その兄で陸軍騎兵
部隊を組織した好古、親友の正岡子規、子規の畏友夏目漱石などの群像が描かれた小説
です。横須賀に係留されている日本海海戦の旗艦「三笠」を訪ねたとき、東郷平八郎や
真之らの立ち位置が甲板に記されていたのが印象的でした。





西郷隆盛像(東京上野) 田原坂の二の坂(熊本)
 維新の元勲西郷隆盛と大久保利通の対照的な生涯を描いた作品です。西南戦争で西郷
軍と政府軍が死闘をくりひろげた田原坂の戦いは、近代戦史に類を見ない激しさだったよう
です。圧倒的な人気の西郷どんに比べ、一蔵どん(大久保)はやや悪役的な見方をされがち
がちですが、司馬さんは近代日本の原型を作った人物として評価しているように思います。











新撰組屯所が置かれた八木邸(京都) 土方らが抗戦を試みた五稜郭(函館)
 京都の壬生で産声をあげた新選組は、池田屋事件に象徴される勤王の志士への弾圧、
そして内部抗争など血塗られた5年間の後に、函館戦争で消滅します。武士の時代が終焉
を迎えようとしていた幕末に、「士道ニ背クマジキ事(新撰組法度)」という精神で悲しいまで
に武士としての生き方を貫こうとした近藤勇や土方歳三が、実は多摩の百姓出身だったと
いうのも歴史の皮肉でしょうか。


乃木夫妻の像(出身地の下関長府) 敵将ステッセルとの会見(水師営)
 今でも日露戦争の英雄として人気がある乃木希典陸軍大将について書かれたもの
ですが、「筆者はいわゆる乃木ファンではない」 「乃木は無能の人であった」といった
くだりが随所に出てきます。クールな視点でこの軍人の生涯を描くことで、明治という
時代が立体的に描かれているように思います。



関ヶ原の古戦場 JR関ヶ原駅
 死んだ先代社長の後継をめぐって、有力候補の副社長に秘書室長が「筋を通すために」
挑んだ戦いとでもいうのでしょうか。石田三成の智や正論が、徳川家康の根回しや、豊臣
恩顧の大名の裏切りといった極めて「人間くさい」現実に破れていく・・・・・・・・・・・・現代でも
考えさせられるテーマです。





道三が居を構えた稲葉山城(現岐阜城) 信長の夢の城「安土城」(屏風絵)
 斉藤道三、織田信長、明智光秀の3人がそれぞれの時代、それぞれの立場で天下取りの
夢をみていく物語だと私は思います。息子との戦いで討ち死にする道三、天下統一寸前で
光秀の謀反で命を落とす信長、山崎で名も無き野武士に殺される光秀・・・歴史が示す通り
の結末ですが、わたし的には爽やかな読後感がありました。


      もしも・・・歴史の現場にて                 

 歴史に「もしも」は無いとよく言われます。でも熱烈な歴史ファンであり、マニアックな旅好きである
私としては、歴史のターニングポイントになった場所を訪ねたとき、「ここでもし、こうならなかったら
・・・・・」とついつい考えてしまうのです。その後、どんな歴史を我々はたどったんだろうと、色々と
思いをめぐらせてみるのも楽しいと思いませんか? もしも・・・と考えながらブラついた歴史の現場
をご紹介します。

蘇我入鹿の暗殺
(645年:伝飛鳥板葺宮跡)
清盛の誤算
(1160年:牛若が預けられた鞍馬寺の山門)
 大化の改新、虫小屋(=645や)も改新と覚えた645
年当時に権勢をふるっていた蘇我入鹿が、中大兄皇子
(のちの天智天皇)及び中臣(のちの藤原)鎌足らの
クーデターによりこの板葺宮で暗殺されました。
(乙巳の変) 
 入鹿は、一族の蘇我石川麻呂が朝鮮半島からの
進物についての口上を読み上げる儀式に大臣として
出席し、時の皇極女帝の目の前で刺殺されたとのこと
です。
 入鹿はこの危険を事前に察知していたとの説もある
そうです。もしここで暗殺を免れ、逆に中大兄、鎌足側
が滅ぼされていたら、後の天皇親政や藤原氏の台頭は
無かったかもしれないなと、板葺宮跡の石畳の上で
思いました。
 平安末期の平治の乱で、源義朝を総大将とする源氏一門は
平家の平清盛によって滅ぼされました。義朝の遺児4人の
うち、頼朝は伊豆へ流罪、そして今若・乙若・牛若3兄弟は、
仏門に入ることを条件に命だけは助けられました。
 助命の理由として、義母である池禅尼の命乞いや、3兄弟の
母常磐の美貌など、平家物語は様々な記述をしていますが、
清盛の真意は今となってはよく分かりません。
 ただ、頼朝と牛若(後の義経)兄弟を助けたことで、まさか
平家一門が滅んでしまうことになるとは彼も思わなかったはず
です。誤算というには余りにも大きな代償ですが、清盛の憎め
ない人間性も伺えるような気もします。
 後の権力者である頼朝が、木曽義仲の子義高を、徳川家康
が豊臣秀吉の子秀頼をそれぞれ死に追いやった事実は、この
誤算が教訓になっているのかもしれません。
 もし頼朝や牛若の命がこの時絶たれていたら・・・平家の世が
そのまま続いたかどうかは疑問ですが。
大イチョウの陰で
(1219年:鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウ)
信長の息子たちの失敗
(1582年:安土城趾)
 約800年前、源頼朝の孫である公暁が、この大イチョウ
に隠れて、ある人物が石段を下りてくるのをじっと待って
いました。その人物とは、鎌倉幕府3代将軍源実朝・・・
公暁のおじに当たります。
 実朝は自らの右大臣就任の儀式を八幡宮で終え、日の
暮れた石段を下り始めました。積雪もあったとのことです。
そして突然飛び出した公暁に命を奪われました。実朝は
自らの運命を察知していたともいわれ、直前に詠んだと
いう次の歌が心を打ちます。

     出ていなば主なき宿となりぬとも 
       軒端の梅よ春をわするな 

 親族でもある執権北条義時や、その他の鎌倉のご家人たち
が、この凶行を計画していたともいわれています。公暁も
その後殺され、源氏の直系はここで絶えてしまいました。
 もし実朝が暗殺されず、源氏系の将軍が続いたとしても、
お飾り的な存在になっていたかもしれません。
 ただ、この後、室町幕府、江戸幕府の征夷大将軍は、源氏
の流れでないといけないという不文律が出来上がりました。
足利氏は間違いなく源氏ですが、徳川氏はちょっと怪しい
ような気もします。
 戦国の英雄 織田信長が、家臣明智光秀に襲われ落命
した本能寺の変・・・歴史の教科書はその光秀を滅ぼした
羽柴(=のちの豊臣)秀吉にあっさり天下が転がり込んだ
ように書かれていますが、ことは簡単ではなかったようです。
 信長には、長男信忠、次男信雄、三男信孝の3人の息子
たちがいました。まず信忠ですが、信長の死の直後に光秀
と戦い討ち死にしてしまいました。逆説の日本史(井沢元彦
著=スエさんの愛読書)によると逃げ出しさえすれば後で
光秀に勝つチャンスはいくらでもあったそうです。
 次に信雄は、十分な兵を持っていたにも関わらず、光秀軍
と戦わず、こともあろうに父の造った名城安土に放火しこれを
消失させたのだそうです。
 三男信孝は、知将秀吉のその後の戦略に翻弄されてしまい
ました。
 結局は秀吉が次の天下人になったわけですが、3人の息子
たちのそれぞれの判断ミスが一つでも無ければ、織田政権が
続いた可能性も否定できないと私は思います。
 もっとも秀吉の天下も、3番目の男徳川家康から奪われる
運命にあったわけですが・・・・・・
芹沢鴨一派の粛正
(1863年:京都壬生の新撰組屯所)
龍馬の危機一髪
(1866年:京都伏見の寺田屋)
 新撰組の局長は当初3人いました。芹沢鴨、新見錦そして
近藤勇です。近藤は格下の局長に過ぎませんでした。
 この時、新撰組の屯所は、壬生寺そばの八木邸に間借り
する形で置かれていました。まず、新見錦を切腹させた土方
歳三らの近藤一派は、深酒をして自室で寝込んでいた芹沢
を襲い、殺害しました。斬られながらも芹沢は隣室の子ども
部屋に逃げ込みました。そして八木家の子どもが使っていた
この座り机につまずいて転び、土方らにとどめを刺されて
絶命したとのことです。
 芹沢たちが粛正されることにより、近藤局長、土方副長という
我々がよく知っている新撰組の体制が出来上がります。
 以後の池田屋事件や、鳥羽伏見の戦い、函館戦争までの
一連の流れは、案外この小さな机から始まったのかもしれ
ません。
  幕末に活躍した坂本龍馬のターニングポイントは、役人に
捕らえられそうになって難を逃れた寺田屋と、何者かに暗殺
された近江屋だと思います。
 寺田屋での龍馬の部屋は2階にありました。恋人おりょうが
1階の風呂で入浴中、探索の気配に気づき裸のまま階段を
駆け上がって危機を龍馬に知らせた現場が、まだ残ってます。
 もしも寺田屋でつかまってたら、そして逆にもしも近江屋で
難を逃れ助かっていたら・・・幕末の短い期間の業績を考える
と日本の近代史に少なからずの影響があったと私は思います。
(写真は、おりょうが入っていたお風呂と、駆け上った階段
です。)
野口清作(後の英世)の火傷
(1878年:福島県猪苗代村)
終戦前夜の玉音盤(レコード)
(1945年:皇居)
 野口英世の生家にある囲炉裏です。英世(当時は清作)が
赤ん坊の頃落ち込んで左手に大やけどを負った有名な場所
です。
 彼はその後、不自由な手を治してくれた医学への情熱を
持ちつつ刻苦勉励して世界的な細菌学者になった歴史は
皆さんご承知のとおりです。
 「もしこの囲炉裏に落ちなかったら・・・」と私は思いました。
不自由な手のコンプレックス、そして医学との劇的な出会い
がなければ、単に猪苗代地方の頭のいい農業青年で
終わったかもしれません。この囲炉裏を見たとき、人の運命
を動かすような大きな力を感じました。
 太平洋戦争は、昭和20年8月15日正午に昭和天皇が
ポツタ゜ム宣言を受諾する旨のラジオ放送、いわゆる玉音
放送を国民が聴取する形で終結を迎えました。
 ところがその前夜に、戦争継続を主張する陸軍の青年
将校らが宮城の一部を占拠し、天皇の声を録音した正副
2枚のレコード盤を奪い去ろうとした事実があったことが、
大宅壮一著「日本の一番長い日」に描かれています。
 もしこのレコード(玉音盤)が奪われ、翌15日の放送が
不可能になっていたら・・・当時の体制からして、具体的な
天皇の命令なしの終戦はあり得なかったはずです。
 終戦工作の失敗→連合軍の本土上陸→ベトナム戦争の
ようなゲリラ戦の展開といった過程が、私の頭に浮かんで
きました。(写真は「HP東京発フリー写真集」さんから頂き
ました。)




           ザ・職人                 
  全国を旅していると、それぞれの土地ならではの名物を見かけますが、何百年にわたって技術を
受け継いできた職人さんたちの地道な努力のたまものだと思います。
  コンピュータ制御の機械で簡単に製造して、宅配便等の流通手段で大半の産品が入手可能な時世に
なりましたが、もう一度私たちは「手仕事」の良さと重みをかみしめるべきではないでしょうか。旅先で
もくもくと仕事をこなしている無名の職人さんたちを見るにつけ、つくづくそう思います。今回はそんな
「手仕事の風景」をご紹介します。
下北の裂き織り(青森県佐井村) なまはげの面彫り(秋田県男鹿半島) とろろ昆布作り(東京浅草)
 下北の奇勝「仏ケ浦」の観光船乗り場で
見かけた織物です。古着を裂いて細くし
それを再び織るのです。昔の人の知恵ですね
 男鹿半島をまわった時に、「なまはげ館」で
見かけました。この方の真剣な顔のほうが
なまはげより恐かったです
?   削りながら作るんですね
信州の蕎麦打ち(長野県善光寺参道) 丸薬作り(富山市池田屋本舗) 絵ろうそく(石川県七尾市)
 全国各地にそれぞれの蕎麦がありますが
善光寺の蕎麦は口に入れたときの歯触りと
独特の香りが印象に残っています。
「越中富山の反魂丹、鼻くそ丸めて万金丹」
で有名な富山の置き薬・・・昔ながらの丸薬
はこうやって作られるのですね
?
道頓堀のたこ焼き(大阪の大たこ) 犬山の鵜飼い 越前竹人形
 今ならどこでもたこ焼きは食べることが
できますが、大阪ミナミの喧噪の中での
立ち食いが一番あってるように思います。
 露店で次々と焼かれ、次々と売られ、
そして次々と食べていく・・・浪花のパワー
を感じます。
 鵜飼いといえば長良川が有名ですが、
犬山でも日本ライン(木曽川)の鵜飼い
を見ることができます。
 それにしても縄をつけられてひたすら
鮎を取って吐き出させられる鵜をみると
現代のサラリーマンのようにも思えます。
?
梅が枝餅(福岡県太宰府天満宮) 白玉まんじゅう作り(宮崎県国富町) 傘貼り(大分県中津市和傘屋)
 普通のあん餅を独特の型にはめて、両面
から薄く焼き上げた形が、太宰府の菅公ゆ
かりの梅に似ています。ほのかな甘さを
感じる素朴な名物です。
 この道何十年も、米の粉をこねて真珠の
ような輝きをもつ小さな饅頭を作り続けてきた
おばあちゃんです。売り切れればそれで
店じまい・・・スエさんはこの饅頭が大好きです
余り使われなくなった和傘です
が、竹と紙だけで折りたたみの
複雑な日用品を作ってきた先祖
たちの技に脱帽です。



      がっかり名物・ハズした名所             
 季節、時間、天候・・・・・訪ねた旅先での色んな条件があわずに、名物・名所をハズしてしまうことがあります。当然がっかり
して帰ることになりますが、考えてみるとその土地の1年365日の営みの中でわずか1〜2日の旅ですから全て好条件という
ことは皆無に近いのかもしれません。また、その土地の名物が期待はずれで「エッ」と思ったりしますが、これも旅人である
私の勝手な主観で、関係者の人たちからすると心外なことでしょう。
 ハズした旅もいっぽうでは味わい深いものです。例えばしょっ中みぞれに降られた能登半島・・・旅行としては最悪ですが、
荒れた日本海を目にすると、南九州にはない冬の厳しい姿を知ることができます。むしろこちらのほうが能登半島の本当の
姿かもしれません。このコーナーでは、そういった「ハズした旅」をまとめてみました。
回っていない三連水車
(福岡県朝倉街道)
全然咲いていない滝桜
(福島県三春)
紫陽花が咲く前のあじさい寺
(鎌倉明月院)
江戸時代から使われてきた三連水車の
様子は、時々TVなどで見ていました。
河川の流水という環境に影響しない
エネルギーは、これからも注目に値すると
思います。楽しみにして訪ねていったの
ですが、ご覧のように、白い骨組みだけ
残されて休止中でした。今も現役で働き
続けているらしく、当然需要のない冬季は
回す必要がないのだそうです。
Net上で知り合ったWoodyさんのHPを
見て、三春の滝桜をぜひ訪ねてみたいと
思っていました。
やっと行けたのが3月末・・・南九州では
ほぼ満開を迎えてましたが、東北の桜は
まだ蕾にすらなっていませんでした。
「お化け柳」のような滝桜にガッカリは
しましたが、反面、桜をとおして日本という
国の春がゆっくりと北上していく様子を
実感することができました。
わずか数輪咲いているのがわかりますか。
満開は1〜2週間後とのことでした。
ちょうどこの場に来ていた修学旅行中の
小学生たちにお願いしてこの写真の
シャッターを押してもらいました。
しつけの行き届いた愛くるしい子どもさん
たちでした。
あじさいの無いあじさい寺でしたが、
もっとすばらしい花を見たように思いました。
ガスで何も見えない美ヶ原
(長野県松本)
改築工事中の彦根城
(滋賀県彦根市)
同じく改築中の時計台
(札幌市)
松本から観光バスで美ヶ原に登ったの
ですが、高山特有のガスが立ちこめて
視界がまるっきりききませんでした。
たった一つよかったのは、頂上の店で
飲んだ地元の牛乳の味です。冷たくて
こくがあって最高でした。ガスの白、
牛乳の白・・・美ヶ原の思い出は白一色
です。
こちらは天候や季節ではなく、名所自身の
都合による「ハズレ」です。
幕末の大老井伊直弼を産んだ彦根の城は
こじんまりしているけど、形のよい様が
組んだ足場の奥に見え隠れしていました。
古い建物を安全に末永く維持するためには
こういった地道な保全をしていく必要が
あるのですね。
私が学生時代の頃、フォークグループ
「ふきのとう」が札幌をテーマにした「初夏」
という曲を歌っていました。
    時計台を見て たむろしている
    大きなリュックの 黒いカニ族・・・
甲羅のようなリュックから手足が出ている
後ろ姿が、まるでカニの様だったのですが
こんな「カニ族」も「カニ族」という言葉自体も
もうどこにもありません。
心に描いていたよりもずいぶん小さな
時計台でした。
食べられなかった幻の赤福氷
(三重県伊勢)
出会った「あんこ」はマネキン人形
(伊豆大島)
影も形もない数寄屋橋
(東京銀座)
私はかき氷が大好きです。伊勢に行った
ときは猛暑の真っ最中でした。おかげ横丁
をブラついていてふつうのかき氷を食べた
のですが、あとでこんな名物があったと
知ってとても悔しいです。
たかが「かき氷」というなかれ。何度も
言いますが、私はかき氷が好きなのです。
冷たくて口の中でホロりと融けそうな氷、
その白い色をやさしく覆い隠そうとする抹茶
の緑、そしてわずかに私の大好きな金時が
濃い茶色の顔で微笑んでいます。
伊勢名物「赤福」の会社が、夏期限定で
出しているのだそうです。ああまた伊勢に
行きたい!
「あんこ」って確か「若い娘さん」という
意味だったと思うのですが、大島の
短い滞在時間(わずか6時間!)では
あんこさんに会うことはできませんでした。
仕方なく、帰る前の大島空港のロビーで
マネキンのあんこさんと2ショットの写真を
撮りました。
あとで聞いたところによると、あんこの扮装
で島の女性がイベントに出ることはある
らしいのですが、高齢化も進み、けっこう
私と同年配のアンコ型あんこさん(失礼!)
も多いそうです。
私が生まれた頃、ラジオの連続ドラマ
「君の名は」がすごい人気だったそう
です。数寄屋橋で別れ別れになった
男女がすれ違いを繰り返す内容なの
ですが、放送時間帯には女性がラジオ
の前に釘付けになって女湯が空になった
とのこと。訪ねてみると、橋はすでになく
「君の名は」の作者菊田一夫揮毫の
「数寄屋橋ここにありき」という石碑が
建っていただけでした。
この写真を撮った直後、若い女性が突然
話しかけてきて、執拗に寄付をねだられる
というイヤな思い出までできてしまいました。
あまり美味しくなかった甘酒
(東京神田明神)
渦が全然できなかった鳴門海峡 迫力がなかった東尋坊
あとから考えると、甘酒の店はいくつか
あったんだと思います。私は甘い物に
詳しいのですぐわかりました。この甘酒は
「酒かす」をといて砂糖で甘味をつけて
います。やっぱり麹(こうじ)から仕上げた
ものでないとおいしくないのだと思いました。
値段も安かったし、こんなものかもしれ
ません。
「観潮船」乗り込む前に、女性のアナウンス
で「うまく渦潮ができない場合もありますので
ご了承ください」と言っていたが、その通りに
なってしまった。
海流が影響する自然現象なので、当たり前
のことなのだが、やっぱり残念だった。
ただ、鳴門大橋を下から見上げたときの
大迫力を味わえたので差し引き0という
ことにしておきます。
東尋坊関係の方、ごめんなさい。TVの
長時間サスペンスなどでよく見るので、
期待して行ったのですが、正直言って
大したことないと思いました。たぶん
私が見た部分以外にもすごい場所が
あったんだろうとは思いますが・・・
私の印象では、母が住んでいる
宮崎県日向市の「馬ケ瀬」のほうが、
上だと思います。





             日本三大○○                
 どこかのページにも書きましたが、唯一絶対の存在を強調する欧米キリスト世界や中東イスラム世界に比べ、「やおよろずの神たち」を
祭る我が国では、複数の物や事柄を好まれるように思えます。四天王とか十勇士など枚挙にいとまがありませんが、「3」という数にちなんで
「三大○○」といったたぐいが特に多いと感じます。
 その証拠に旅に出ると「この○○は、××及び△△とならび日本三大□□に数えられる名★★で・・」といった看板をよく目にします。そして
そんな看板は決まって3つの中で最も知名度の低い場所に立てられているように私は感じますが、いかがでしょう。「三大○○」の旅を
画像中心にご紹介します。「未踏」はまだ行ったことがない旅先、「写真なし」はあいにく撮らなかった旅先です。



松島(五大堂):宮城県 天橋立:京都府 安芸の宮島(厳島神社):広島県








偕楽園:水戸市 後楽園:岡山市



美保の松原(静岡県清水市) 気比の松原(福井県敦賀市) 虹の松原(佐賀県唐津市)



恐山:青森県 比叡山(根本中堂):京都府 高野山(奥の院):和歌山県



十津川郷(野猿):奈良県 祖谷地方(かずら橋):徳島県 椎葉村(鶴富屋敷):宮崎県



鎌倉の大仏(高台院) 高岡(富山)の大仏(大仏寺) 奈良の大仏(東大寺):絵はがきスキャン



輪島の朝市:石川県 高山の朝市:岐阜県(高山市HPより) 呼子の朝市:佐賀県(呼子町HPより)



函館の夜景:北海道(「やす」さん提供) 神戸の夜景:兵庫県 稲佐山からの夜景:長崎県






多賀城遺跡:宮城県 平城京跡;奈良県 太宰府政庁跡(都府楼):福岡県


未踏
富士山(五合目):山梨県 立山(室堂):富山県 白山:石川県


未踏
草津温泉:群馬県 下呂温泉:岐阜県 有馬温泉:兵庫県




未踏 写真なし
鶴岡八幡宮 石清水八幡宮 宇佐八幡宮






              戊辰戦争を歩く               
 私見ですが、我が国では、東西の対立という構図の中で歴史の大きな変わり目を迎えているように思います。@縄文
先住民(東)VS弥生騎馬民族(西)、A壬申の乱:大海人皇子軍(東)VS朝廷軍(西)、B源平合戦:源氏軍(東)VS
平氏軍(西)、C関ヶ原:家康軍(東)VS石田三成連合軍(西)、D戊辰戦争:旧徳川・奥羽列藩同盟(東)VS薩長官軍
(西)、そしてE西南の役:政府軍(東)VS西郷軍(西)などです。
 国内各地を旅すると、これらの戦の跡をけっこう目にします。なかでも戊辰戦争や西南の役はわずか百三、四十年ほど
前の出来事です。実際、会津に行ったときに白虎隊関係の遺品の膨大さ、なまなましさにおどろいたことがあります。
 今回は、明治維新を迎えるための陣痛ともいうべき戊辰戦争に関係した旅先をまとめてみました。
○明治維新をなしとげ、日本の近代の
 扉を開くきっかけをつくったのは、
 それまでの支配階級だった上級
 武士ではなく、ほとんど百姓・町人
 と同じ身分の郷士と呼ばれる下級
 武士たちでした。
○鹿児島の鍛冶屋町、萩の菊屋横丁、
 高知の上町などに育った西郷隆盛・
 大久保利通・桂小五郎・高杉晋作・
 坂本龍馬といった志士たちと、彼らに
 「日本」という国の在りようを教えた
 吉田松陰・佐久間象山・島津斉彬・
 勝海舟といった思想家、政治家たちの
 存在があってこそだと思います。
          吉田松陰の松下村塾     坂本龍馬像          西郷隆盛像
  (山口 萩)          (高知桂浜)          (東京 上野公園)
○もう一つは西洋列強による外圧
 です。1853(嘉永6)年の黒船以前
 も各国の船が我が国の開国を求めて
 来ていました。
○江戸幕府は、鎖国の国是に従い、
 海防のための砲台を各地に作りまし
 たが、やむなく開国し、和親条約や
 各種の協約を列強と結びました。
○それまでは日本国内での視点で
 ものを考えてればよかったのでしょ
 うが、海外列強と対峙することで、
 「日本」という国が人々の間に強く
 意識づけられていつたのだと思い
 ます。
     砲台が置かれた寝姿山(左)と日米協約が結ばれた了泉寺(いずれも下田)
○幕末の舞台は、やがて朝廷がある
  京の都に移ります。坂本龍馬、桂
  小五郎など多くの志士たちが
 倒幕の声をあげて暗躍を始めます
○治安の悪化を恐れた幕府は、京都
 の守護を会津藩に命じました。勤王
 浪士には同じ浪士をもって立ち向
 かわせるという考えで、浪士組(後の
 新撰組)が組織されます。やがて
 会津藩預かりとなった彼らは、池田
 屋事件などのように徹底した浪士
 弾圧に乗り出しますが、時代の流れ
 は如何ともし難く、幕府の崩壊は
 決定的になっていくのです。 
 
  龍馬が常宿にしていた伏見の寺田屋     新撰組屯所があった壬生の八木邸
○最後の将軍徳川慶喜は、1867(慶応
 3)年大政を朝廷に奉還することを京の
 二条城で宣言しました。
○時代は倒幕へと大きく動き始め、翌
 1868(慶応4)年に、京の鳥羽伏見で
 薩長連合軍と幕府軍の間に衝突が
 起こり、戊辰戦争が始まりました。
○薩長土肥の官軍は東に進み、江戸は
 無血開城されましたが、上野の山で旧
 幕臣の彰義隊の戦いがありました。
           二条城(京都)                 彰義隊墓所(東京 上野)
○江戸を収めた官軍は、北陸・東北へと
 進軍し、長岡藩(新潟)、二本松藩・
 会津藩(いずれも福島)など奥羽列藩
 と官軍との激しい戦いが繰り広げられ
 ました。
○戦いは、二本松少年隊、会津白虎隊
 に象徴されるように、少年・老人・女性
 も巻き込んだ総力戦となり、今も各地
 の悲劇が伝えられています。
○この東北での戦争の間に、旧幕臣榎
 本武揚らが軍艦を率いて蝦夷の箱館
 へと逃れました。
       二本松少年隊像                白虎隊士が飯盛山から眺めた会津の町
○箱館(現函館)へと逃れた榎本らは、
 1868(明治元)年12月「蝦夷共和国」
 をつくり、官軍に抵抗しましたが、翌年
 5月に降伏。戊辰戦争は終結しました。
○旧幕府側についた藩や人物にはその
 後過酷な運命が待っていました。中で
 も会津の人々は本州北端の地に追い
 やられて「斗南藩」をつくり、悲惨な
 開拓生活を余儀なくされました。
○それでも榎本ら旧体制の人々が明治
 政府に組み込まれて復活するなど
 日本史独特のふところの深さも後日談
 としてうかがえます。
       函館五稜郭の蝦夷共和国跡         斗南藩開拓のモニュメント(青森下北)


トップ アイコン
 HOME

旅への想い
 自己紹介

 ぶらり旅
(アルバム)

 心の旅
(エッセイ)

 旅先の
 つぶやき
 (ポエム)

眠りの旅
(夢日記)

小さな旅
(私のウォ
ーキング)

 旅の
おみやげ

  リンク

               BGM:月の砂漠 by HP音楽研究室さん