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心の旅(えっ!エッセイ???)




人生を「時間という道を歩く旅」と考えれば、
過去の思い出や日々感じたことなどを綴ったエッセイは
一生という旅の紀行文といえるかもしれません。

エッセイとまではいきませんが、
私が心に感じたままを書き付けた駄文です。
いわば私の「心の旅」です。
よかったら読んでください。

※各編の文字をクリックすると
その駄文に飛びます

CONTENTS 患者さま(中年のボヤキ2)
まこちよか旅
こどもの名前
めがね
味噌汁あれこれ
二つの脚光(?)
「放送禁止歌」に思う
二つの疑問(中年のボヤキ)
T先生のこと
エエモン&ワルモン
声に出して読みたい抒情歌
バイリンガル考
アルバイトグラフィティ
深夜放送(ラジオ礼賛)
白熊、それは?
パチンコ
未知の道
父の旅立ち
港湾労働
同窓会考





      患者さま(中年のボヤキ2)

  最近、病院、クリニック、薬局などで定着してきた「患者さま」という
 表現が私には気になって仕方がない。
  医療現場の反省から、患者本位の医療という考え方が叫ばれる
 ようになって久しく、医療関係者が患者の呼称に配慮すること自体
 悪いことではない。が・・・医療界の用語である「患者」という名詞に
 「さま」という敬称をくっつけて造語した無神経さが、私は気にくわ
 ない。

  もちろん、病院は医療を提供する場であり、本質的には医療の質の
 善し悪しが重要で、患者の呼称は枝葉末節的なことには違いない。
 患者と医療関係者の親密度、年齢の差などによって「名前+さん」、
 「名前+ちゃん」、「あなた」、もっと砕けて「大将!」などケースバイ
 ケースで色々な呼び方はあると思うが、「患者さま」はいただけない。

  患者とは読んで字の如く「患っている者」という意味である。病人、
 けが人、負傷者などとほぼ同義の名詞である。例えば医師たちが
 治療法を協議したり、看護師が申し送りしたりする場面で対象者を
 第三者として表現するときに使われてきた事務的な言葉である。
  だが一方で患者本人にとっては、病気という忌まわしい状態に
 自分が置かれているということを想起させる悪いイメージを含む
 言葉であり、本来敬称を着けて呼ぶべきでない言葉であることに
 医療人は気づくべきである。「病人さま」、「負傷者さま」と言い換え
 てみるとよく分かるのではないか。

  「患者さま」と呼ばれることに当の患者としては、「バカにされている」
 とまではいかなくても、ある種の慇懃無礼な皮肉を感じることはある
 ような気がする。少なくとも「ああ、自分は医療関係者から敬意を
 払われているんだ、大事にされているんだ」と思う患者はおそらく
 皆無ではないか。私はそう思う。患者という言葉はそれ以上でも
 以下でもなく、第三者的な表現として使われる限り、患者は患者の
 ままでいいのである。
  
  ちょっと前、ある講演会で「患者さまという表現は使うべきではない」
 と言った医師がいた。やっぱり私と同じ考えの方がいるんだと身を
 乗り出しかけたが、理由を聞いてがっかりした。「医者と患者は対等
 なので『患者さま』という言い方は良くない。『患者さん』でいいんだ」と
 いうのがその理由だそうだ。「患者さま」も「患者さん」も私に言わせる
 と同じ穴のムジナである。

  確かに医者と患者が対等であることに異論はない。医師は「治して
 やるんだから」という不遜な考え方を持つべきではないし、患者も
 真剣に自分の病に取り組んでくれる医師に謙虚に心を開くべきだ。
 最近、不当な要求を繰り返す「モンスターペイシャント」などは、
 病院が取り組んでいる患者本位の医療の意味を取り違えた例と
 いっていいだろう。
 
  ただ、@hospital(=病院)の語源になったhospitalityに「丁重な
 もてなし」という意味があること、A患者の支払う治療費が報酬として
 病院の職員に還元されることの二つの意味を考えるとき、「お客
 (この言葉は病院では使えないが)」としての患者に対し、言葉上の
 配慮をすることは決して間違ってはないと私は思う。

  そこで、ここからは私の提案である。患者に対する真摯な呼称と
 して、「患者のみなさま(=患者という状態に今あるところの皆様)」
 或いは「患者の方」という言い方が適当ではないか。
  実はこの言いまわしには、先例がある。首相や大臣、或いは県知事
 や市長など行政府の長が、それぞれ国民、県民、市民のことを何と
 表現しているか。「公僕」である彼らは、これらの主権者に対する丁寧
 な呼称として、「国民のみなさま」「県民のみなさま」、「市民の方」と
 いった表現をしてしているのだ。「国民さま」とか「県民さま」といった
 表現は決して使われない。(疑われる方は一度議会の議事録で彼らの
 答弁を読んで欲しい。)

  なぜ医療現場に限り「患者さま」という座りの悪い表現が堂々と
 使われるのか、私には理解できない。こんな無神経な表現を使って
 いる医療人や病院の貼り紙を見かけると気になって仕方がない。




  
   
               まこちよか旅

   一昨年、私の仕事関係の業界紙から依頼があり投稿した駄文です。
   題名もズバリ「まこちよか旅」としました。このHPではすでに紹介した
   “事件”を2つあげています。よかったら読んでください。

          ○○○(職場名) 
                   △□×○(私の本名)

「まこちよか」は宮崎の方言で「本当にすばらしい」という意味
 です。「旅への恋心」という熱病に罹ってしまった私は、わずか
 なひまを見つけては全国をブラブラとさまようようになりました。
 
そんな私の旅日記から、まこちよか話をご紹介します。

 おしぼり(北海道・西聖和駅にて)

  一面真っ白な大雪原の中の無人駅。極寒のホームで美瑛行き列車
 を待っていると急に便意(大)を催してきた。公衆トイレはもちろ
 ん無い。

  矢も立てもたまらず近くの一軒家を訪ね、出てきた老婦人に
 図々しくもトイレの拝借をお願いした。用を足し身も心も軽く
 なった私に、何と熱々のおしぼりが差し出される。突然飛び込ん
 できた変な中年男を家に入れるだけでも相当な覚悟が要っただろ
 うにおしぼりまで・・・

  老婦人の何気ない表情に、優しかった亡き祖母の面影を見た。
 おしぼりを有り難くいただきながら目元がウルウルとなるのが
 わかった。

     


 混浴(大分・天ケ瀬温泉にて)

  玖珠川の河原にある露天風呂に私ひとり。裸で入るのが礼法
 (?)だが、両岸からの人の目が気になり持参の水泳パンツで
 入湯する。心地よい川のせせらぎを耳にしながら、ゆったり気分
 でつかっていると、突然二人の入浴客が! 腰にタオル一枚の
 青年と、全身バスタオルのうら若き女性のカップルだった。

  ここは混浴だから当然だが、彼らは先客の中年オヤジを気に
 するでもなく、ニコニコと会釈して湯に入ってくる。バスタオル
 の君はなかなかの美人。男性連れとはいえ、2時間ドラマ風の
 「若い女性と一緒に入浴」という中年男憧れの状況である。

  
  こんなラッキーな状態に置かれた私はどうしたのか?その女性
 と湯中の会話を楽しんだのか?・・残念ながら混浴に不慣れなウブ
 おじさんは恥ずかしさのあまり、「お先に上がります。どうぞ
 ごゆっくり。」と脱衣場に消えてしまったのである。肥満気味の
 お腹と、水泳パンツのお尻を見られながら・・

  露天の混浴だから何も意識する必要はなく、誰とでも話ができて
 初めて温泉通、そして旅の達人といえるのかもしれない。まだまだ
 私は素人だった。










         こどもの名前

    車で走っていると、「赤ちゃんの名前鑑定します。ご相談
   ください
」という看板が目に入ってきました。ふと、二十数年前に
   誕生した長男の名前をつけた時のことを思い出しました。初めて
   の子どもをもった新米パパとママの私たちは、何日も話し合って
   今の名前をつけ、命名の用紙を買いに、近くの文具屋さんに
   行きました。

    あの時のことは、今も苦々しくよみがえってきます。文具屋の
   オヤジが、老眼鏡の向こうでニコリともせずに、「どんな名をつけ
   たの?
」と聞きました。名前を決めた嬉しさもあり、「○○です。
   と私は得意げに答えました。そのとたん、オヤジは何か難しそうな
   姓名判断の本を持ちだしてきて、「あのね、どうもその名前は
   よくないよ。十代のうちに交通事故に遭って、命の危険があると
   出ているよ
」と偉そうに言うではありませんか。

    バカな私は、このオヤジに余計なことを言ってしまった後悔と、
   言葉通りになったらどうしようという不安で落ち込んでしまいました。
   「私がいい名前を考えてあげるから・・・・」というオヤジの言葉を
   背中に聞きながら帰宅しました。後で聞いた話によると、この
   オヤジは姓名学を研究しているとのことで、彼に子どもの名前を
   つけてもらった夫婦もけっこういるとのことでした。

     若くて未熟な私は悩みました。可愛い息子に、自分のつけた
    名前で何かあったらどうしよう・・・・やっぱり別の名前を彼に頼んだ
    ほうがいいんだろうか?心配でたまらなくなり、氏子になっている
    宮崎八幡宮の先代の神主さん(故人)に相談に行ったらこう言われ
    ました。「とてもいい名前じゃないの。ご両親が子どもさんのことを
    一生懸命に考えてつけるということは、責任をもって育てていこう
    という気持ちの表れなんだから、その名前で不幸になるなんて
    絶対にありません。見ず知らずの他人に名前をつけてもらうより
    自分たちで名付けたときの気持ちを忘れずに、一生懸命に育て
    ていきなさい。


     この「お爺ちゃん神主さん」の温かな眼差しと、穏やかな口調が
   涙が出そうに嬉しかったのを、今も憶えています。迷いが吹っ切れ
   た私は、妻と考えた元々の名前を長男につけ、出生届を出しました
   ・・・・・その長男も、もう27歳。大学院の博士課程で研究生活を
   送っています。もちろん彼の今までの道のりにも、 色々大変なこと
   はありましたが、親バカながら、夢に向かって一生懸命生きている
   姿を、心密かに自慢に思っています。

      
               誕生当時の長男と妻

     しばらくは、あの文具屋のオヤジに相当腹を立てていましたが
   彼も好意で言ってくれたのかもしれないと考え直し、むしろ長男が
   無事に育ってくれたことと、お爺ちゃん神主さんのたまらなく嬉し
   かったアドバイスに感謝しなければ、と思うようになりました。
   あの文具屋に限らず、自分では意識していなくても、ひとを救い
   ようのない不安に陥れる言動をしないように気をつけることが
   大事だと思います。。

    それともう一つ、やはり自分の子どもの名前は、産んだ責任、
   これから育てる責任を自覚していくためにも、自分たちで一生
   懸命考えてつけるべきだと私は思います。尊敬する人に命名して
   もらうとか、姓名学の大家に少しでもいい名前を考えてもらうと
   いう選択肢もありますが、何となくいやな名前が付いてしまっても
   断れませんし、何よりも、当の子どもが大きくなってから、「お前
   の名前は○○さんに頼んでつけてもらったんだよ」というよりは、
   「お父さん、お母さんがお前の幸せを願って2人で一生懸命考え
   たんだよ」と言ってあげられるほうが絶対にいいと思います。

    そんなわけで、長男だけでなく、2年後に生まれた次男、9年後
   の長女も、私と妻が考えた名前をつけました。「これで良かった
   んだ」という気持ちで、冒頭の看板を眺めながら、車を走らせる
   私でした。





      
           めがね


   目が悪くなり始めて10年ほどたつ。いわゆる老眼と
  いうやつで、近くのものがぼやけてよく見えない。
  それでも職場の健康診断は毎年視力1.5である。
  あの視力というのは遠くのものをいかに見分けるかで
  判定されるため、老眼でも数値には影響ないらしい。

   生まれてこの方、視力や目の病気で悩まされたことは
  一度もなく、遠くの看板などの小さな文字を読み上げては、
  近視に悩む友人を羨ましがらせていた私だが、異変は
  ゆっくりとやってきた。

   10年ほど前から、仕事で書類に目を通したり、寝る前に
  大好きな歴史書を読んだりするときに手元の活字がぼやけ
  始めたのである。「ちょっと疲れ気味かな」と思っていたが、
  いっこうに回復しない。

   ある日、銀行の窓口にあつた老眼鏡を、「もしや」と思って
  かけてみた。「おおっ!」ぼやけていた手元の景色がはっきり、
  くっきりと見えたのである。

   「俺が? 老眼?」・・・がくぜんとした。40代半ばで、白髪や
  お腹まわりが気になり始めていた頃である。目も同じように
  老化していくという当たり前のことが自分に起こっただけなのに、
  しばらくはショックで落ち込んだ。

     

   やがて自分にあった老眼鏡をあつらえたが、中年になって
  からのめがねは、思ってた以上に私を苦しめた。想像だが、
  近視の方たちは10代、20代の頃からめがねに親しみ、
  体の一部になっているように思える。

   若い頃は、めがねが似合うインテリ風の男性を見ると、
  「俺も度のないめがね(いわゆる「ダテめがね」)をかけて
  みようかな」などと不謹慎なことを考えたりした。ところが、
  いざかけてみると何と不便なことか。鼻の上、耳たぶの後ろ
  に人工物が接触しているという不快感、そして掛けたり外し
  たりしないといけないとう煩わしさ・・・とくにこの「掛けたり
  外したり」は老眼特有のものだと初めて気づいた。

   老眼鏡で手元の文字などはよく見えるが、掛けたままでは、
  こんどは遠くが見づらい。例えば仕事中、書類を見ていて
  日付を確認しようと、数メートル向こうのカレンダーを見る。
  数字がボヤけていて見えない。めがねを外してカレンダーを
  見る。まためがねを掛けて書類を眺める。こんどは時刻を
  知ろうと壁の時計を見る。また。めがねを外す・・・デスク
  ワークの場合はまだいいが、荷物を抱えて立っている時など
  は、外しためがねを片手で持っているのが結構大変だった。
  めがねにチェーン(又はひも)をつけて首にぶら下げることで
  手で持つという煩わしさは無くなったが、掛けたりはずしたり
  は相変わらず続いている。

   そういえば・・・小さい頃にタバコ屋のおじいさんがめがねを
  今にも落ちそうなほど下にずらして新聞を読み、お客が来ると
  ジロリと上目使いに見上げていた風景を思い出す。年寄り
  臭く、感じの悪いその仕草が老眼になった今よく理解できる。
  あれは手元の新聞をうんとずりさげためがねを通して読み、
  少し遠くのお客の顔はめがね無しの上目で見ていたのだ。
 
   レンズがもう一組装着されためがねも買ってみた。近くを
  見るときだけ遠視用のレンズを上に跳ね上げるのだが、
  かけたらけっこう重いし、チェーン付きのものより煩わしくて
  使い勝手が悪い。まだ試していないが、遠近両用というのも
  あるらしい。これも使っている人に聞くと、視線を煩雑に動かす
  必要があって目が疲れるということである。

   めがねの良し悪し、使い勝手とは別に、もう一つ老化を感じ
  させることが生じた。めがねを置いた場所をすぐ忘れるという
  こと・・・・・これもつらい。つけ始めた頃は当然一つしか持たな
  かったが職場に忘れてきたり、家の中で行方不明になったりと
  いう“事件”が相次いだ。最初はそれでも裸眼で何とかなったが
  遠視が進むにつれてめがねを手放せなくなってきたため、4つ
  揃えて職場、家の居間、書斎、寝室と置くことにした。

   便利はよくなったが、度が進んでレンズを替えるときは4つ
  全部なので大変な出費になる。今更に年を取っていくことの
  悲哀を肉体的、経済的両面から感じている。気持ちや気力は
  まだ20代だと思う私だが、体は確実に齢を重ねていくものらしい。

   めがねが体の一部になってくれる日が来るかどうかは
  わからない。情けないが、めがねとの格闘はしばらく続き
  そうである。






            味噌汁あれこれ

      最近 味噌汁作りに はまっている。きっかけは、
    以前受講した「生きがいセミナー」だった。10年以内に
    定年を迎える者を対象に開かれたこのセミナーで、
    「一人で食事を作ることができますか」という講師の
    問いかけがあった。 私の友人・知人には、「主夫」かと
    みまがうほど家事にたけた男性もいるにはいるが、
    私自身はほとんど家事をしない。自分では亭主関白
    ではないつもりだが、煮炊きだけでなく、掃除、洗濯、
    庭の草むしりといった「仕事以外の労働」をたまに妻
    から命じられると、イヤイヤ体を動かす自分を意識して
    しまう。 

      だが、セミナーの講師の先生は、「夫の定年は妻業
    の定年でもある。稼がなくなった粗大ゴミを現役の時同様
    に面倒をみてくれる妻は皆無と知れ!」という厳しい指摘
    もしていた。私の定年もあと6年である。わが妻はそこまで
    薄情ではないとは思うのだが、こればっかりは実際に
    定年を迎えてみないとわからない。ただ一方では、自分で
    朝食を作ってみたいという興味も湧いてきた。

      ある日曜の朝、早起きして、自分なりの考えで朝食を
    作ってみた。いや作るというよりは「載せる」といったほうが
    いい朝食だった。私、妻、娘の3人分の大皿を取り出して
    ありったけの食材・・・加熱したり切ったりといった手をいれ
    なくてよい漬け物、サバの煮込み、卯の花、煮染めといった
    ものを少しずつ盛りつけていった。それはちょうど食べ放題
    のバイキングで、ずらりと並んだ料理の中から客が自分の
    好みのものを皿に取ったようなものだった。私なりの「合理
    的で手軽な朝食」という発想のつもりだった。これに炊き
    たてのご飯を茶碗に大盛りにして、箸を添えてテーブルに
    並べ、妻と娘が起きてくるのを待った。

      結果は・・・大ブーイングだった。彼女たちの主張を要約
    すると次の2点だった。

     @たとえ少量でも朝から、夜食べるような肉や魚は食べ
       たくない。焼き魚、納豆、目玉焼きなど何か一つ手を
       加えた一品がほしい。
     Aみそ汁がない(これは理屈ではないと妻はつけ加えた)

      この時から私への特訓が始まった・・・というと少しおおげさ
    だが、まずブーイング@の解決にとりかかった。休日ごとに
    妻の手際をまねるうちに、何とか焼き魚や卵焼きを作れる
    ようになってきたが、問題はAの味噌汁だった。

               ・・・・・・・・・・・・・・・・

      幼い頃の私は味噌汁がきらいだった。母の味噌汁がへた
     だったわけではないと思うが、何というか、味噌の独特の
     においを朝から嗅ぎたくないという気持ち・・・実際は朝に
     味噌の香りを楽しむのが日本人なのだが、とにかく少年
     時代までは味噌汁をほとんど飲まず、父からちゃんと飲んで
     から学校へ行けと叱られることもあった。
       大学入学後に一人暮らしをするようになっても似たような
     生活が続く。夜更かしの毎日で、普通の朝食をとることは
     まずなく、昼前に起き出して登校し、学食で朝・昼兼用の
     カレー、ラーメン、サンドイッチなどを数分でかき込んで
     授業に臨むという生活を繰り返していた。

      そんな私の味噌汁感(?)に転機が訪れた。秋の学園祭
     でのこと、クラスの仲間とおでんの屋台をやり、そのまま
     キャンパスで徹夜した。肌寒い夜明けに、「朝飯を食おう」と
     いう誰かのひとことで、我々は生協の食堂に向かった。
       出された朝の定食は、丼茶碗1杯の飯、納豆ひと皿、
     そしてご飯と同じ大きさの丼になみなみとつがれた味噌汁
     の3品。そう、たった3品だけだったが、これがうまかった。
     ほかにおかずが無いということもあったが、きらいだった
     納豆も全部食べたし、何より暖かい丼1杯の味噌汁が、
     胃袋に染み渡っていく感覚がたまらなかった。
      イヤなはずの味噌の香りも、何故かこの時は炊きたて
     の飯の香りとあいまって、この上なくかぐわしかった。

      以来、私が朝食を食べるときは味噌汁が不可欠になった。
     毎日の定食屋、帰省した時の実家、たまにお世話になる
     友人の家、そして一緒になってから妻が作るようになって
     からなど、それぞれの場所、それぞれの場合に飲む味噌汁
     の味が微妙に違うということも分かるようになってきた。
      化学を学んだ私には、そもそも味噌汁とは、発酵による
     味噌の味と香りのほかに、日本人好みの微妙なアミノ酸の
     味が関与していることは気づいていたが、それが出汁(だし)
     とよばれる日本独特の調理法や椎茸などの具材から
     来ていることを知るのはかなり後になってからだった。
      とにかく朝はホカホカのご飯と味噌汁がないと機嫌が
     悪い男になっていた。

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・

      そんなわけで、今の私は味噌汁大好き人間なのだが、
     あの微妙なアミノ酸と発酵化学の固まりのような独特の
     風味を自分で作るという大それたことが俺にできるの
     だろうか・・・
       妻から言われたとき、本当にそう思った。味噌汁を飲む
     ことには大いに関心があったが、妻がその味噌汁を作る
     ところに心を留めたことはついぞ無かった。
       とにかくやってみるか。私は自分なりに頑張ってみること
     にした。まず出汁が必要と思い、鍋に水をはり、かつおぶしと、
     イリコ(宮崎では煮干しをこう言います。以下同じ。)を
     ワンサカつかみ入れてグラグラたぎらせ、化学調味料を
     ふった。
      具には私の好きなジャガイモとタマネギをきざんで入れ、
     煮えたところで味噌を適当に放り込んで沸騰させ、お玉で
     かきまわして溶かした。

       またまた妻と娘の「まずい、塩辛い」のブーイングが
     起こった。飲んでみると確かにまずかった。「味噌が良く
     ないのでは?」と自分の腕は棚上げにして、私は別の味噌
     を買ってきて使った。が、できたのは、更にまずい味噌汁
     だった。

      ここから私の長い(といっても半年程度だが)味噌汁
     研究生活が始まった。妻の指摘、料理の本、ネットでの
    検索などでわかったことは次のとおり。(お料理にたけた方
    に見られると恥ずかしい内容ですが、無知な中年男の努力
    に免じて読んでください)

    @ 出汁(だし)について
      ・かつおぶしは味がきつくなるので使わないほうがよい。
      イリコのさっぱりした出汁だけで十分。化学調味料も不要。
      ・イリコは前の晩から水につけておくとよく出汁が出る。頭と
       はらわたを取ると苦みも出ない。(妻はそこまでする必要
       はないというが私はこだわる。)
      ・出汁をとるときグラグラたぎらせてはいけない。中火で
       じっくりと10分〜15分程度煮て、アクはたんねんにすくい
       取る。イリコを上げたら、日本酒をひとさじ垂らすと、イリコ
       の臭みが取れる。

    A 具について  
       ひところ「具だくさん」がいいと言われ、そう書いてある
     料理本も多いが、私のわずかな経験では、取り合わせて
     よいものと悪いものの組合せがあるようで、何でもかんでも
     入れればいいというものではないらしい。私のお勧めは次の
     とおり
      ・ジャガイモとタマネギ:タマネギの甘みとジャガイモの
       質感が最高
      ・ダイコンと豆腐と油揚げ:ダイコンは油分と相性がいい
       ようで、油揚げが引き立つ
      ・キノコ2〜3種:シイタケとシメジなど
      ・キャベツだけ:キャベツから出る旨みは私好み。シャキ
       シャキの触感もよい。
      ・タケノコとワラビ:これは母がよく作る取り合わせ。まさに
       春の味

     B 味噌について
        味噌の善し悪しを論じるところまではまだ行ってなくて、
      妻が買ってくる味噌(どこの味噌だったかまだ調べてない)
      をずっと使い続けているが、けっこういい風味だと思う。
      これから、白味噌のものや赤だしにも挑戦してみたい。
      味噌こしが我が家には無いので、すくい網を使って味噌を
      ゆっくり溶き入れている。

     C その他
        ひと煮立ちさせた後は火を止める。以後煮立たせては
      いけない。これを「煮えばなを味わう」というらしい。小ネギ、
      サンショウ、ユズなどの香りの強いものを少し散らすとよい。
      これを吸い口というらしい。

        
      私の“作品その1”・・ジャガイモとタマネギの味噌汁         

        以上、涙ぐましい勉強をして、近頃は何とか飲める
      味が出せるようになってきた。だがくやしいことに、私が
      これだけ調べ上げて、これだけ丁寧に作っても、妻が
      無造作に作る味噌汁の味にはとんと及ばない。イリコは
      前の晩でなく、朝準備して、頭も取らず丸のまま入れる、
      けっこうぐらぐらと煮たたせ過ぎる、時には面倒くさげに
      味噌をそのまま放り込む・・・それでも私のよりうまい。
        何かが違うのだろうが、それが何だかわからない。
      たった半年と、30年(私たちは再来年に何と結婚30周年
      を迎える)の年季の違いと言ってしまえばそれまでだが、
      案外そういうところが味噌汁の面白さもかもしれない。
        
        
        私の“作品その2”・・豆腐と油揚げの赤だし

       さて明日は土曜日。当直もないし、さしたる用事もない。
      せっせとイリコの頭とはらわたを取って、翌朝の味噌汁の
      準備をしようか・・・




     
       
二つの脚光(?)


       私の運動神経は、人並みか、いや多分人よりかなり
      劣っていると思います。

        小学校のときに入っていたソフトボールクラブでは
      5番でレフトを守っていました。やがて後から入部して
      きた後輩との競争に負けて、8番、ライトに回され、
      しかも他校との試合の時、三打席三振でベンチに引っ
      込められてしまいました。薄暗いベンチの片隅でうつむき、
      情けなくて、悔し涙をボロボロこぼしていました。

       一時期やっていたゴルフも、フェアウェイやグリーン上
      よりも、藪や林の中、砂の上などを歩き回る時間のほうが
      断然長くて、いつもハァハァと荒い息をしていました。

        

       スポーツの思い出というと、こんな情けない話が
     ほとんどの私ですが、2度だけ・・・そう、たった2度
     だけ脚光を浴びたことがあります。「何でこれが
     脚光なの?」と思われるかもしれませんが、まあ
     聞いてください。

       最初は、中学2年の運動会のとき。今の運動会は
      徒走、リレー、団技、ダンスなどが主流ですが、当時は
      砲丸投げ、走り幅跳び、走り高跳びなどのフィールド
      競技も行われていました。リレーの選手などになった
      ことのない私は、「全員出場の種目」だけに出れば良か
      ったのですが、フィールド担当の先生が突然やってきて、
      私に「走り高跳び」への出場を命じたのです。エントリー
      予定者が負傷したことによるピンチヒッターでした。

        走り高跳びは体育の時間にちょっとやっただけの私
      です。先生は「穴埋め」的な役割しか期待してなかったと
      思うのですが、競技が始まると奇跡が起こりました。

        何と跳べたのです!最初の2回(たしか120〜125
      cm)は難なくクリア。130cmは1回目失敗で、2回目
      クリア。この時点で、残ったのは私と相手チームの1人
      だけ・・運動神経抜群のA君でした。トラック競技も行われ
      ていたのですが、会場の視線は、スポーツマンのA君では
      なく、彼とともに最終戦に残っている運動オンチの私に
      注がれていたと思います。明らかに、「ウソだろう?」と
      いった感じのどよめきでした。

       今になって考えてみると、部活動でやっていたバスケット
     ボールでのジャンプ練習、それに中2という伸び盛りだった
     体力が、運動オンチに偶然の幸運をもたらしたのだろうと
     思います。

       さてバーは135cmへ。A君も私も2回ずつ失敗。勝負は
      3回目にもつれ込みました。最初に跳んだA君は結局バー
      を落として失格。いよいよ私の番です。助走→踏切り→
      思いっきりジャンプ! 当時は背面跳びやベリーロールと
      いった洒落た跳び方は知らないので、正面跳びだけです。
      「ガタン」というショックをお尻の所に感じました。(やっぱり
      失敗か・・・)と思って着地し、見上げると・・・何とバーは
      揺れながらも落ちずに残っているではありませんか!

       あの時の歓声と拍手を、今もはっきりと覚えています。
     スポーツ選手はこれを味わいたくて、苦しい練習に耐えて
     いるんだと実感しました。この時点で私の優勝が決まりまし
     たが、最後の140cmはクリアできませんでした。たしか、
     2mを越えている今の中学男子の記録からすると、ちゃち
     なものですが、生まれて初めてスポーツの分野で味わった
     快感でした。

       この時の活躍(?)を買われた私は、バスケ部に在籍
      しながら、にわか陸上部員として、郡の体育大会に出場
      することになりました。結果は・・・・・予選落ちという散々
      なものでした。「夢よもう一度」は起こりませんでした。

      

        2回目の脚光は高校2年のときです。私は弓道部に
      属していました。「礼に始まり礼に終わる」という武道
      本来の考え方が基本なのは言うまでもありませんが、
      勝敗は単純に「4本の矢が的に当たった数」で競われ
      ます。

       高2になってすぐ、私は矢を買い換えました。その
      頃から流行り始めていたジュラルミン製のものではなく、
      古来からの竹と貴重だった鷹の羽を使った憧れの矢
      でした。ゴルフでも「アイアンやパターを変えたら大化け
      した」といった話をよく聞きますが、新しい矢に変えた
      とたん、信じられないことに私は殆ど百発百中の腕前
      になりました。今考えると穴にでも入りたい気持ちです
      が、「的を外すなんて、考えられないんだよね」といった
      傲慢不遜なことを平気で言ってました。

        そして何と・・・同じように当たりの良かった2人の仲間と
      組んで出場したインターハイの県大会で、団体優勝、個人
      3位という成績を収めてしまったのです。九州大会と全国
      大会の出場権も手に入れました。高1のときの昇段試験で
      初段にも昇進していた私は、勝手に「3冠王だ」と鼻高々に
      なって喜んでいました。(本当に生意気な高校生だったと
      思います。)

       そんな得意満面状態で望んだ九州大会と全国大会
      でしたが、こちらも中学時代と同じく惨憺たる結果に
      終わってしまいました。とくに広島市で開かれた全国
      大会の1回戦では必要以上に緊張し、3人とも4射して
      的中なしという、普段でもあり得ないひどい成績でした。
      あまり練習せずに出場し、化けの皮が剥がれた瞬間
      でした。

     

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       2つの出来事を今振り返ってみると、色々なことが
      見えてきます。ビギナーズラックとでもいうのか、そこ
      そこの努力しかしなくても、対戦相手の不調、使用する
      器具の優劣など、偶然が重なってスポットライトを浴びる
      ことが人生にはあるということ。

       そういったニセモノの栄光は、より強い相手と対戦
     したり、本来の弱さが出たりして、いつか必ず去って
     いく運命にあること。

      ホンモノの栄光をつかむ人たちも、最初はこういった
     状態なのかもしれませんが、たぶん化けの皮が剥がれた
     ときから、本当の練習、本当の精進を繰り返して、一流の
     プレイヤーになっていくのだと思います。残念ながら私
     にはそういった根性が備わっていなかったのでしょう。

      私には3人の子どもがいます。長男は私に似て、いや
     私以上にスポーツが苦手でした。毎年小学校の運動会で
     ビリになりながらも懸命に走っていました。今もその姿を
     ふと思い出すとき、昔の自分と重ね合わせて切ない気持
     ちになっています。

      次男と長女は、私と違ってスポーツ大好きで、二人とも
     テニスにのめり込んでいます。私のような運動オンチに、
     こんな子どもたちができたのが不思議でたまりません。
    

      けれども、長男はもちろんですが、あれだけ努力して
     いる次男も長女も、昔、私が味わったような僥倖には、
     まだ恵まれてないように思います。本当に極めてまれな
     スポットライトだったのだろうと思います。

      神さまのくれたせっかくのチャンスも、元来の飽きっぽい
     性格と、とことんまでやり抜くスポ根ドラマが大嫌いな性分
     が災いして、生かせなかったのだろうと思います。その
     証拠に、ソフトボール、卓球、バレーボール、ボーリング、
     テニス、ゴルフ、ウェイトトレーニング、水泳など、数だけは
     沢山のスポーツをかじりましたが、結局、長続きしたものは
     一つもなく、平凡な運動オンチのまま、年を重ねてしまい
     ました。

      時々、スポーツ何でもござれという友人や仕事仲間を
     見て、羨ましい気持ちがないわけではありませんが、まあ、
     これも私らしい生き方かなと思っています。今はひまを
     見つけてのウォーキングが唯一の情けない私ですが、
     そういう自分も嫌いではありません。

        





        「放送禁止歌」に思う
      
      先日、一冊の本を読んだ。森達也著「放送禁止歌」・・・
     いろいろ考えさせられることが多かったので読後感を
     記してみたい。

     

      子どもの頃や学生時代によく聞いた、あるいは好き
     だった曲が、いつのまにか放送されなくなって、「あれは
     放送禁止歌になったんだって」という話をあとで知らされ
     たことが何度かある。

       著者はテレビディレクターとして、数多くのドキュメンタ
     リーを手がけた方で、「放送禁止歌」をテーマにした番組
     を生み出す中での経験を、この本にまとめられている。
     
       まずは「ヨイトマケの唄」・・・私が少年時代に聞いた
     この歌も「放送禁止歌」の仲間に入れられていたらしい。
     丸山(今は美輪)明宏さんがせつせつと歌いあげたのは、
     貧しい暮らしの中でいじめられて学校を飛び出した少年
     が、つらい工事現場で働く母親を見かけ、「勉強するよ」
     と戻っていくシーンである。

     

       いじめや貧しさに耐えて、力強く生きている人々のことを
     歌った名曲がなぜ禁止されたかというと、何と「土方」や
     「ヨイトマケ」という差別用語が使われているからだという・・・・・
     差別の不当性を訴える歌が、逆に「差別用語」の問題で、
     抹殺されてしまうということに驚きを禁じ得ない。

      著者はこれらの曲が規制されてきた傾向を時代ごとに
     抽出することによりその変化に気づく。

      すなわち、70年代前半までは「メッセージを歌詞全体の
     文脈から捉えたうえでの規制が、主としてフォークソングに
     加えられていた」が、70年代後半以降は、「放送禁止用語
     の概念が広がり、差別用語など言葉自体の有無が規制の
     考え方の主流になっていった」と述べている。

       この本で紹介された「禁止歌」を理由別に一部列挙
     してみると、部落差別をテーマにした「手紙」、
     「チューリップのアップリケ(クリック!)」、
     「竹田の子守唄(クリック!)」、「赤い橋」、暴力性・
     反社会性であるという理由で「網走番外地」、「東京流れもの」、
     「ネリカンブルース」、性的なものを扱っているということで
     「時には娼婦のように」、「悲惨な戦い」、「セーラー服を
     ぬがさないで」、政治的な理由から「イムジン河」、「自衛隊に
     入ろう」、「ヘライデ」など、私にとっては、むかし印象に残った
     名曲ばかりである。

     

       たしかに何の判断もなしに、これらの曲が放送される
     ことで、特定の人々の心を傷つけたり、差別を助長したり
     青少年に影響を与えたりすることは十分考えられるだろう。

      だからといって戦前のように国家による一律の規制が
     行われることの危険性を考えると、業界による自主規制
     が望ましいという理由から、「放送禁止歌」が生まれたと
     いう。

      だが、追い続けた「放送禁止歌」はまぼろしだった。
        
      取材を通じて、「放送禁止歌」という規制が、元来メディア
     には存在しなかったという衝撃の事実を著者は知る。

       「ナイーブなテーマを扱っているため、放送に当たっては
     その是非を含め事前に十分検討すべきという主旨の「要注意
     歌謡曲指定制度」という自主規制のしくみが業界にあり、
     これに指定されたものが一律に放送されないという現象が
     続き、「放送禁止歌」になっていったという。

       そのうち、規制の主旨も忘れられ、誰が「放送禁止歌」を
     定めているのか、何のために禁止なのかということも考えず
     に、「とにかく放送できない曲だ」ということになったらしい。
     
      なぜそうなったかということについての著者の問いに、
     こうコメントした方がいる。
     
         ・・皆が自分で考えないからでしょう。
         マニュアルや他人の判断を鵜呑みに
         して、自分自身で考えるという当たり前
         のことをしていない・・

         
      ある曲を自分が制作する番組で放送する際に、それが
     「要注意曲」の指定を受けていたら、番組にとっての意味や
     放送の可否について「自分で」判断することを避け、一律に
     放送自粛をしてしまう・・・・・・これはメディアの世界の話なの
     だが、ここまで読んで、私たち公務員の世界でも、同様のこと
     があるのに気づいた。

      既成の業務手順に従って、前任者のやった通りに事業を
     ひたすら推進する、しかもソツなく、モレなく・・・そこには
     その事業が住民にとってどういう意味があるのか、どうし
     たらよりよくなるのかを自分の頭で考えようとしない「先例
     主義」という魔物が潜んでいる。たしかにそのほうが楽だし
     トラブルもない・・・が、国や自治体が永年やってきたこの
     手法が今の大変な日本の情勢を招いたのだと思う。

      以前、「エエモン&ワルモン」のところでふれたハンセン病
     元患者の方々への宿泊拒否問題のことを思い出す。宿泊
     拒否したホテル側のみを悪者にして執拗に責め続けたり、
     あるいは逆に抗議の声をあげた療養所の方々に心ない非難
     を浴びせたりしたりという社会の反応にも、自分の目で見て、
     自分の考えで判断するという当たり前のことを避け、流れや
     雰囲気に身をまかせるという体質が伺える。

      著者が追ってきた「放送禁止歌」が生まれた背景、それは
     ひとり流行歌の問題だけでも、あるいはマスメディアの体質の
     問題だけでもなく、我々の社会の至るところに潜む病巣かも
     しれない。

      正しい情報を十分つかんで、自分の判断でものごとの是非を
     決めるということを言葉で言うのは簡単だが、責任を持つと
     いう点では、非常につらい。他人が決めてくれた基準に従って
     「お仕着せの判断」を享受するほうが楽だし、議論をしなくて
     すむ分、もめ事も少ない。

      メディアの人たちも、我々公務員も、そして社会全体も、
     私たちは、居心地のいいそんな生活を重ねていくうちに、
     大事なものを少しずつ失っていってるのかもしれない。

      著者は、「竹田の子守唄」と被差別部落の問題を調べる
     取材から帰った後、こう述べている。

         ・・今回の取材で、僕はほんの僅かだが
         見て、触れて、聞いた。大切なことは
         知ることだ。知って思うことだ。それさえ
         停止させなければ、同じ過ちを際限なく
         繰り返すエッシャーの騙し絵のような
         世界から、きっと僕らは、いつかは離脱
         できる。僕はそう信じている。・・


      見ること、触れること、聞くこと、そして知って、思うこと・・
     「放送禁止歌」が教えてくれたことは単純に見えて実は深い。








   二つの疑問(中年のボヤキ)

      私も年を取ってきたらしく、社会の色々な出来事についつい
      ボヤいてしまうことが多くなった。くだらないことかもしれないが、
      今も2つのことが気になっている。素朴な疑問だと思うのだが
      いかがだろうか。
    
           スピードメーター


        1年間に交通事故で死ぬ人の数は、最近減っている
       らしいがそれでも1万人近くのはずだ。その原因の
       大半はスピードの出し過ぎという。
        法律で許された速度は、高速道路で100km/H
       までのはずだが、どの車の速度計にも160〜200
       km/Hの数字が刻まれ、出そうと思えば100km
       以上のスピードは簡単に出すことができる。

        法律で100kmまでしか出したらいけない、しかも
       スピードが原因で毎年多くの死者が出ている・・・・・
        
        なぜ車の会社は100kmまでしか出せない車を
       作らないのだろう?なぜ法律で100km以上出せる
       一般車の製造を禁止しないのだろう?たぶん今の
       最先端の技術をもってすれば100km以上でエンジン
       の出力をダウンさせることは可能なはずだ。
   
        パトカー、救急車、消防車などの緊急車両だけが
       100km以上で走れるるようにしておけば、逃走車両
       もすぐ捕まるだろうし、邪魔な一般車両を追い越して
       現場にかけつけることも容易なはずだ。そして何より
       スピードが原因の死傷者は確実に減ると思うのだが。

        私のこの素朴な疑問を車好きの人にぶつけたら

        「スピードを出したいという個人の欲求まで
         法律が関与するのは民主主義に反する」

       という答えが返ってきた。冗談じゃない! 100km
       以上が禁止された道路を150kmで走らせることが
       民主主義なのか?私はどうしても納得できない。
        
        
              スギ花粉症
         
       妻は、もう何年も花粉症に苦しんでいる。花粉が飛ぶ
      シーズンのかなり前から必死に色んな薬をのんでいるが、
      それでもシーズンになると鼻がグズグズ、目は真っ赤と
      いう状態になって外出もつらそうである。そばで見ている
      私もつらい。

       花粉の時期、TVニュースでは毎日「花粉情報」が伝えられ
      巷には、マスクした人々があふれ、薬などの治療法の
      話題が関心を呼ぶ。
        国もかなりの予算を治療法確立の研究のためにつぎ
      込んでいるという。

       個人も、社会も全てが「花粉情報をこまめに把握し、
      花粉症を防ぐ、あるいは治療する」ことのみに心血を注いで
      いる。

        


       だが、ようく考えてみよう。そもそも花粉症の原因は
      何なのか。主としてスギやヒノキの花粉が引き起こす
      アレルギー疾患ではないのか。感染症を起こす細菌や
      ウィルスなどのように完全な「天然物」ならまだ納得がいく。
      少なくともスギ・ヒノキ花粉は天然物のように見えながら
      照葉樹のような自然林がもたらすものではない。実は
      植林という産業活動の結果ではないのか。

       もっと踏み込んでこの関係を公害病の原点である水俣病と
      比較してみたい。水俣病が化学関係企業「チッソ」の排水に
      よるメチル水銀を原因として引き起こされた公害病である
      ことは広く知られている。

       被害者はもちろんチッソの過失責任を問う訴訟を起こし、
      チッソ側も国も責任を認めて補償などに応じた・・・・・当然の
      ことである。「いや、チッソの産業活動は社会に必要なので
      水俣病の治療や予防手段の研究だけを進めるべきだ」と
      言う者がいたとしたら、「ふざけるな!」と袋だたきにあう
      だろう。

       @チッソによる製品製造⇔植林による木材産出、A排水の
      たれ流し⇔スギ花粉の放出、B水俣病の発症と治療⇔花粉
      症の発症と治療・・・・・・・確かに身体機能が著しく損なわれたり、
      命を落としたりする悲惨な水俣病を花粉症と同列に扱うことの
      不遜は認めるとしても、国民の約10%が各地で苦しんでいる
      といわれる花粉症も決して見逃していい病気ではない。

        少なくとも水俣病以後定着した「公害病が例え発生しなく
      ても、その危険性がある工場などの排水や排ガスは社会に
      影響がないようにすべきだ」という考え方に比較して、林業は
      重要なのでいたしかたない、影響を受ける我々のほうが、
      それぞれ予防や治療に専念すべきだという“常識”が堂々と
      まかり通ることに私は疑問をおぼえる。

       治療といっても薬や外科的処置は全く安全とは言い切れ
      まい。副作用や体への傷害の危険性もあると思う。治療費も
      只ではない。使われる医療費は我々が収める保険料や税金
      である。スギ花粉さえ飛ばなければ、冒さなくてよい危険、払わ
      なくてよい金ではないのか。

       私の妻のような花粉症患者のつらい状況がありながら
      なぜ原因であるスギ花粉が飛ばないようにするための
      抜本的な対策、すなわち山林対策を個人も社会も要求
      しないのか。医学的な治療・予防対策のみがあって、根本
      的な山林対策がなぜないのか。もしかすると少しはあるの
      かもしれないが、妻のつらさを見ているとシーズン前に花粉を
      飛ばすスギの枝を根こそぎ切り取る、あるいは花粉の飛ばない
      品種に植え替えるといった抜本的な対策ができないものかと
      思ってしまう。
      
        ※最近、2つのニュースを耳にしました。ひとつはどこかの
          NPO(だったと思いますが・・)が、花粉症患者から募金
          を集めて、スギを伐採する資金に充てるという話。もう一つ
          は、東京都が税金を投じて、スギ山のスギを買い取って
          伐採するという計画です。方向性はいいと思いますが、
          被害者側が金を払うこと、公的資金を投入することについ
          て、私は不満を覚えます。林業を営む側の「俺の知った
          ことじゃない」という姿勢が見え隠れしているように私には
         思えてしまうのですが・・・・・・・



      



         T先生のこと


         また体罰のニュースがTVに流れていた。
        中学の教師が生徒の態度が悪いとして、ビンタ
        をしたところ、鼓膜が破れていたという。
        これとは逆に最近は生徒に殴られる教師とい
        うのも時々話題になっている。

        言うことをきかない、ムカつく・・・
        様々な理由で繰り返される体罰や暴力。
        こんなニュースを耳にするたびに高校時代の
        T先生のことを思い出す。

         高校一年の時の古文の担任だった。どちら
        かというと風采のあがらないタイプでもの静かな
        おとなしい先生だった。定年を目前にされていた。

         古文の授業というのは地味で解りにくく、大半
        の生徒にとって退屈なものである。入学当初は
        おとなしくしていた我々生徒の間に、少しずつ私
        語が飛び交うようになってきた。
        それでもT先生は何も言わない。たしか45分
        間だったと思うが授業時間の間じゅう、もくもくと
        難解な古文の解説を続けておられた。
         最初は遠慮がちだった私語がだんだんと増え
        ていき、教室の雰囲気がだらしない感じになって
        いった。

       
                    私の母校     
                  
         次回の授業までにやっておくようにと先生が
        我々に出す宿題の提出物もだんだんと怠ける連中
        が多くなってきた。私も含めて・・・
        先生は授業を始める前に宿題をやってきた者に
        挙手をさせていた。挙手の数が次第に減っていき
        そのたびに何ともいえない寂しげな笑みを浮かべて
        背中を向けると、チョークを黒板に走らせていた。我々
        は以前にも増して遠慮のない私語をするようになって
        いた。

         夏休みを前にした頃だったと思う。とうとう宿題の
        挙手が1割にも満たなくなった。しかもまじめに手を
        あげた者をちゃかすようなヤジまで飛んだ。そのとき、
        先生は例の静かな声でポツリと言った。

        「皆さんは僕の授業をどうも満足して聞いてくれ
         ないようですね・・・・・皆さんが悪いのではなく、
         僕に力量がないからだと思います。僕が今から、
         教師としての僕に体罰を与えます。」

         言い終わった先生は、、教科書を教壇に置くやいなや、
        両の平手で思いっきり自らの頬を叩き始めた。
        パン、パン、パン、パン、パン・・・・・・・手加減は
        一切ないビンタだった。先生の眼鏡が吹っ飛び、
        ふだんは青白い頬がたちまち真っ赤に腫れてきた。

         自分で自分にビンタをあびせるという情景は、たぶん
        この文章を読んでいてもピンとこないだろう。あの情景
        は、あの時あの教室で目撃した我々四十数名のクラス
        メートにしか絶対にわからないと思う。

         我々はうつむいていた。教室にビンタの音だけが長く
        響いていた。本当に長く感じられた。ひたすら早く終わっ
        てほしいと思っていた。
         やがて「自らへの体罰」を終えた先生は落ちた眼鏡を
        かけ、黒板を向き何事もなかったかのようにチョークを
        走らせ始めた。真っ赤に腫れた頬以外は普段のままの
        先生だった。声の乱れも全くなかった。

         その次から、宿題をして来ない者は全くいなくなった。
        私語も無くなった。

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         TVの青春ドラマではよく「愛情としての体罰」が描かれ
        ている。感情ではなく理性で行う体罰は教育の一環だと
        いう意見もよく聞く。
         私はウソだと思う。叩かれれば痛い。痛みを与えた者に
        それ以後服従しても、それは威嚇による服従だと思う。
        理性的に叩くなんていうのはなおさら論外で、そういう
        人物は氷のような無機的な心を持っている気がする。

         そして何より・・・体罰を与えようとする人たちは気づいて
        いない。相手が自分の言うことをきいてくれない原因の
        半分が実は自分にあることに。
         私自身、職場や家庭で若い部下や子どもたちを叱る
        必要があるとき、「相手を変えるのは難しい。しかし自分
        が変わるのはたやすい」という気持ちを持ち続けたいと
        思っている。(かなり難しいことではあるが・・・)そして
        その気持ちの裏には、T先生のあの時の光景がいつも
        ある。

          私は、あの「自らへの体罰事件」以来、T先生の古文の
        授業にしだいにのめりこむようになっていった。いにしえ人
        が残した様々な記録や、石柱に彫られた古代の文字
        などに強い興味を覚えるようになっていった。
          いま、ブラリと旅に出て、各地の神社仏閣の由来や
        博物館の陳列物に見入る私は、あの時のT先生が「身を
        挺して」育てあげてくれたのだろうと思う。

          今も正月明けに、宮崎市内の高校対抗の百人一首
        大会が開かれている。実は私はこの伝統ある大会の
        第一回の出場メンバーの一人である。T先生の強い勧め
        で出場したが、相手の高校の女生徒にコテンバンに
        された楽しい(?)思い出がある。

         T先生には、高校卒業以降一度もお会いしていない。
            



       エエモン&ワルモン

        映画全盛期の昭和30年代には私が育った
       小さな村にも映画館があった。田舎なので
       年間に数えるほどの興行回数だったが、
       父や母に連れられて見た時代劇は、今も
       記憶に残っている。もちろん詳細な内容は
       ぼやけているが、次のようなワンパターンもの
       が多かったように思う。

    色分けされた出演者
        まず出演者だが、正義の味方と、悪い奴らが
       はっきりと色分けされていた。正義の味方は
       美男か、たくましい顔つきの俳優、そして悪い奴ら
       は必ず恐ろしげで、憎たらしくて、そして小ずるい
       顔をしていた

        正義の味方側には決まって三枚目のおっちょ
       こちょいと美しいお姫様又は町娘がいた。
       正義の味方役には大川橋蔵や東千代之介、
       悪役には進藤栄太郎や吉田義男、三枚目は
       堺駿二(マチャアキ氏の父君)、お姫様役は
       丘さとみ、花園ひろみといった顔ぶれが記憶に
       残っている。
           
         私たち子どもも、大人たちも正義の味方グル
       ープをエエモン(=良い者)、悪の軍団側をワル
       モン(=悪者)と村の方言で呼びならわしていた。

    ストーリーの展開
        次にストーリー・・・まず何かの事件を発端に
       して「エエモン」側と「ワルモン」側に対立が起こる。
       それは大名のお家騒動であったり、やくざのけんか
       などであっ たりした。ワルモンたちは、ひきょうな
       手段を次々に使ってエエモン側を苦しめる。お姫様
       の貞操(今や死語ですが・・)を脅かしたり、善良な
       百姓・町人たちを捕らえていたぶったり・・・。
        往年の名優が演じる悪の親玉たちは、それは
       それは恐ろしく見えた。本当に腹が立つほど憎ら
       しかった

     ヒーロー現わる!
        エエモンの誰かが徹底的に苦しめられ、
       「ああ、この世に正義はないのか」と観客みんな
       が思い、もうダメだとなったとき、突然エエモン
       側のヒーローが現れる。
         彼らは白馬や大鷲に乗ってかけつけたり、
       忍術・妖術のたぐいでいきなりSF的に出現したり
       して、ワルモンたちを次々と斬り倒していった。

         たまたまの例外として改心してエエモン側に
       鞍替えするワルモンがいることはいた。だが
       ストーリーの定番として彼らには必ず「死」が用意
       されていた。
        改心直後に元のワルモン仲間に斬られ、
       ヒーローやお姫様の腕の中で「反省しつつ」息絶え
       たり、自ら切腹して果てたり・・・・・
        改心したワルモンが生きて償うことは勧善懲悪
       の精神に反するので絶対に認められなかったの
       だろう。

        改心するという例外はあるにせよ大部分の
       ワルモンたちは「悪い心」と「悪い行い」を残して
       死んでいくわけだが、今考えると不思議なことが
       あった。
         ひとつは下っ端のワルモンたちは斬られたら
       すぐ倒れるのに、必ず最後に斬られる悪の親玉は
       苦しみ、うめき、のたうち回ってなかなか絶命しなか
       ったこと。
        そして二つ目の不思議は、あれだけたくさんの
       ワルモンたちが斬られたはずなのに、めでたし
       めでたしとなる戦闘直後の庭や原っぱには死体
       もしくは負傷者が一人としてころがっていなかった
       ことである。
 
         この場で行われたのは間違いなく「殺人行為」
       なのだが、まるで華やかな舞踊でも見るかの
       ような「チャンバラ」に見事に置き換えられていた。

       

         ヒーローがかけつけるシーンや戦闘シーンの
       場面になると、子どもも、大人も観客全てが割れる
       ような拍手をしていた。今考えるとたわいない
       ストーリーだが、あの娯楽の少なかった時代に、
       こんな拍手をしていた人たちの気持ちを、たまらなく
       愛しく思い出す。

    ある疑問

         けれども拍手をしながら、私の心にはある疑問が
       湧いていた。
         (エエモンに斬られたワルモンたちにも、僕の
       お父さんと同じように奥さんや子どもが居たんじゃ
       ないだろうか。残されたワルモンの家族たちは
       これからどうするんだろう・・・・・)

        現実と非現実がまだ心の中で混同していた時代の
       感覚が、
         (世の中は、エエモンとワルモンといふうに
         きっちりと区別できるものではないんだ)
       という認識へと変わっていったのは、中学、高校と
       いう多感な時期を過ぎてからだったように思う。

         そして、色々な経験を積んで中年になった今、
         (世の中には、善人と悪人という2種類の人間
          が住んでいるのではない。どこにでもいる
          ありふれた人間の心の中に実は、善と悪が
          混在している)
       と実感するようになってきた。
       
        時代劇に対する考え方も変わってきた。今も続いて
       いる超ロングランのお化け番組「水戸黄門」や、松平健
       の甘いマスクが売り物の「暴れん坊将軍」には、幼い頃
       見た映画の雰囲気が色濃く残っている・・・・・が、私は
       今はどうも好きになれない。
 
         公務員である立場の私としては、何の権限があって
       隠居した(今でいえば退官した)黄門様が関係のない
       他藩を歩き回って口だしや仕切りをやるのか、首相格
       のマツケン将軍様が江戸の町のささいなこぜありあいに
       いちいち関わって裁くのかといった、ひねくれた感想を
       持ってしまう。

         ひねくれついでにもう一つ言わせてもらうと水戸黄門
       の主題歌も気に入らない。

             「後から来たのに追い越され
              泣くのがいやならさあ歩け」


         バリバリの競争社会に身を置いてムチをふるうように、
        せき立てるように聞こえてしまう。
         「いらん世話じゃ!(余計なお世話だという宮崎弁)と
        開き直りたくなる。

         そして何よりエッと思うのは、視聴者も納得する
        ように巧みにカモフラージュされてはいるが、黄門様
        やマツケン将軍の価値観だけでエエモンとワルモンの
        区別をしていることである。

          たかが娯楽番組、そんなにめくじらを立てなくても
         ・・・・と言ってしまえばそうかもしれないが、今の社会、
        色んな場面で安易にエエモンとワルモンの色分けが
        なされてしまっていることに気づく。

           ひとつの例をあげたい。

     宿泊拒否事件
          「ハンセン病元患者の宿泊拒否事件」。昨年11月
        に起きたこの事件を見ていると、このホテルの判断や
        その後の対応を強く非難する意見が圧倒的に多い。

          ただ一方では、「明らかな伝染病などの場合を
        除きいかなる宿泊も拒んではならないという旅館業法
        の規定を教えなかった県(熊本県)が悪い。ホテルが
        気の毒だ」といった意見も出ている。

          たしかに許可申請時にこういったことを指導する必要
        はあるかもしれない。だが、この意見に対する私の
        気持ちは「?????」である。

          問題はそんなところにはないような気がする。

          こんな規定が法にあるのは何故か?人権がいかに
         重いものなのか・・・かりにも旅館業をなりわいとして
         いくプロとして、また社会的責任も大きい企業体として
         本質的に理解していなかったのではないか。
          一方的に教えなかった行政が悪いと決めつける
         だけでいいのだろうか?

           行政に責任があるとすればこんな簡単な規定を
         教えなかったことよりは、むしろそんなことすら理解
         せずに旅館業をやろうとした安易な体質の企業体
         に許可をおろしてしまったことだろう。

           けれども問題はここにもないような気がする。

           この事件の一連の流れを見ていくと、小さい
          頃の時代劇映画と同じように「エエモン&
          ワルモン」の図式が潜んでいるように私には
          思える。
 
           ホテル側の釈明や対応のみをあげつらい、
         一方的に制裁を加えるべきという意見だけが
         ひとり歩きしているのではないか。 
          そう、ホテルだけがワルモンで、私たちや
         行政はエエモンという図式ではっきりと色分け
         されている。対応に疲れ切ったこのホテルの女性
         マネージャーの顔を、意図的に(私にはそう思える)
         かつてのワルモン風に描いているニュース映像も
         目につく。

           一方で、抗議の声をあげたハンセン病療養所
         の元患者のところにもかなりの誹謗中傷が寄せら
         れているとのニュースも流れている。
           ここにも元患者=社会やお上にたてつく
         ワルモン、自分たち=関係ないエエモンという図式が
         見て取れる。

           そもそも何故に元患者の方々は差別され、忌避
         されなければならなかったのか。間違った政策を
         続け正しい知識の普及に十分取り組んで来なかった
         行政の責任は、当然ながら極めて大きい。では私たち
         や私たちの父祖の世代も含め一般大衆は何も悪く
         ないのか。

           ホテルをワルモンとして一斉にバッシングすると
         いう大衆やメディアの制裁論や、元患者に寄せられる
         非難の声は、

          (近所にらい病の奴がいる→
          国が人にうつるから隔離すると言っている→
          あの家の奴らはとんでもない連中だ・・・・・)


         という具合に、過去に元患者や家族を一斉に
         追いつめていった過去の社会的偏見と何の違いが
         あるだろうか。
          
        

    自分は関係のないエエモンですか?
          「教えてくれない、啓発してくれない」といって
         行政の施策を非難するのはたやすい。

          TVとまったく同じ調子で、もっともらしいことだけ
         コメントして一億総「ヒョーロンカ」になったり、
         安易にエエモンとワルモンを色分けしてしまうのは、
         もっとたやすい。

          でも自分の目で見て、自分の考えで判断すること
         を怠り自分たちは関係ないよね、エエモンだよねと
         思っていていいのだろうか。
           どんな人でも、エエモンであったりワルモンで
         あったりするという事実を直視し、受け入れるべき
         ではないのか。

          と、ここまで書いてきて結局これは私自身に
         向けられた言葉ではないかと思う。最近こんな
         ことをよく考える。

     





声に出して読みたい抒情歌

私たちの世代は、
フォークやニューミュージックを
聞いて育ちましたが、
もう少し年配の方たちは、
歌声喫茶にひたって
いたようです。

当時の若者たちは歌声喫茶で
ロシア民謡や反戦歌などとともに、
抒情歌というジャンルの歌も
よく歌っていたそうです。

明治から
戦後にかけての
古きよき日本が歌い込まれた
抒情歌・・・・・、

そのメロディーは
コードでいうと
AやFなどの明るい長調ではなく
短調のAm、Dmがメインで
哀愁をおびたものが多く、
別れ、郷愁、慕情、せつなさといった
人間の情がせつせつと描かれています。
楽器も今の若者はギターが中心ですが
歌声喫茶当時は
アコーディオンやハーモニカなどの
しっとりとした音色のものが
よく使われていたようです。

メロディーもすばらしいのですが、
歌詞をあらためて読みかえしてみると
七五調を基本とした
薫り高い詩の構成になっていて
陶然となってしまいます。

年配の方たちは歌声喫茶などで、
私たちより下の世代の方は
学生時代の
音楽の時間に、
それぞれ歌ったかもしれない
抒情歌たちに
もう一度出会ってみませんか

お気に入りの歌を
私の雑感とともに
少しずつUPしていきます。
よかったら読んでください。

※テーマにした抒情歌を
You Tubeから
貼り付けています。
ただし同サイトで
著作権上のトラブルが
生じた場合は
ただちに削除されます。



惜別のうた

1 遠き別れに 耐えかねて
  この高殿に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ

2 別れと言えば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな

3 君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

(詞:島崎藤村/曲:藤江英輔)



戦争にいく友だちを
送るときに歌われたとのことです。
たしかに一番の歌詞は
同性の友を送る雰囲気に
満ちていますが、
二番では、おや?涙?
男同士の別れにしてはちょっと・・・
と思い始めます。
そして問題の三番です。
雰囲気がガラッと変わって
しっとりと艶めかしい展開です。

さやけき目
くれないの唇
みどりの黒髪

これはどうみても
同性の友を送る歌ではない、
女性を、
それもいとしい恋人と
別れていくせつなさを
歌った歌以外の
何者でもない。

一番から三番までの
情感のちぐはぐさに
かえって当時の人たちの
せつない想いが
伝わってくると
思いませんか。

※追記
上記をUPしてから色々調べたところ、
この歌の始まりについて
興味深い記述を見つけましたので
ご紹介します。

「惜別の歌」は私たち中央大学の学生にとっては「蛍の光」に代る
歌とされ 親しい友と別れる時離れがたい心情にかられた時この歌を
唄って別れる慣わしとされている
 時、昭和19年の春、自由なる学園中央大学の庭にも戦雲は容赦なく
吹き寄せついに学徒動員の斬が下った 私たちの先輩である中央
大学の学生は長野県は遠く諏訪湖の付近に配属きれ それと時を同
じくして東京のとある女子大生が勤労奉仕をしていた 初めのうち
はただ目を見かわしていたが二人の間に淡い恋心が湧き 清く美しく
そして激しく燃えた

春が過ぎ 夏が過ぎやがて枯葉の吹きずさぶ秋となった頃 上の一
見習士官が二人の間をねたみ 中央大学の学生を千葉県は遠く習志野
の地へ転属を命じた
 この悲しい知らせを聞いた二人は深い悲しみに
うちひしがれ とある高殿に登って島崎藤村作「若菜集」の一節より
口ずきんだ
のがこの歌の始まりとされている
                    (中央大学マンドリン倶楽部HPより)

楽曲の背景はわかったのですが、
この記述には、少々がっかりもしています。

青色にした文を見てください。

淡い恋心が清く美しく激しく燃えて・・・・・(?)

やがて嫉妬で転属になった先が
遠い習志野・・・・・・(?)

深い悲しみにうちひしがれて
高殿で口ずさんだ・・・・・(?)

平和を享受する時代なら
いいでしょうが、
昭和19年といえば
多くの若者が戦場で
命のやりとりをしていた頃です。
現に私の伯父たち
(父の兄たち)も中国や
フィリピンで戦死しています。

戦後生まれの私から見ても、
国内で学徒動員や
勤労奉仕というのはかなり
恵まれていたのでは
ないでしょうか。
(もちろん空襲とかはあったにせよ)

学歴のない貧農の子であり
妻子や恋人と別れて
激戦地で命を落とさざるを
得なかった伯父たちと比べ、
学生という特権階級の
ゆえなのかなと感じます。

死別でもなく、
遠い外国に送られるわけでもない、
そんな中にあって、
何という甘えんぼな
気持ちなのか・・・・・・

もちろん戦後の平和な
時代に生まれたお前に
何がわかるという
反論もあるでしょうが、
好きな歌だっただけに、
背景は知りたくなかったな
というのがホントの気持ちです。

一方で、70年代の頃に
親の仕送りを受けながら
「反ブルジョア!」などと
青臭い議論をしていた私たちも
当時のモーレツ社会の
企業戦士たちから
こんな目で見られていたのかなと
思ったりもしています。



平城山(ならやま)

1 人恋うは 悲しきものと
  平城山に もとほり来つつ
   たえがたかりき

2 古(いにしえ)も 夫(つま)に恋いつつ
   越えしとう 平城山の路に
   涙落としぬ

(詞:北見志保子/曲:平井康三郎)



高校の音楽の教科書に
載っていた歌の中で
最も好きな歌でした。

二番の「つま」という言葉を
私は文字通り「妻」と解釈して、
若くして妻に死なれた夫の
悲しみの歌と思っていましたが・・・
調べてみたら完全に間違っていました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦前の頃のはなしです。
夫以外の男性と道ならぬ恋に落ち、
無理矢理引き離された
女流歌人がいました。
名前は北見志保子さん・・

失意のあまり
平城山をあてもなく
さまよったときに
できた歌二首に、
彼女と同郷の
作曲家平井康三郎さんが
メロディーをつけました。
こうして生まれたのが
「平城山」なのです。

「古(いにしえ)も」とあるのは、
平城山が、いとしい仁徳天皇を
慕い続けた「磐之姫」という女性のお墓が
あるところから、
古代の女性に自らの想いを
だぶらせているからだそうです。

志保子さんは、その後夫との
離婚が成立し、
恋人と結婚することが
できました。

したがって「つま」とは「夫=恋人の男性」の
ことであり、激しい恋の歌なんです。

(今の私の解釈)

悲しい恋に
耐えかねて
とうとう平城山まで
彷徨ってきた私・・・

昔の女(ひと)が、
恋焦がれて越えたという
平城山の路に
あなたを慕う
涙がこぼれます



花かげ
※タイトル(↑)をクリックすると
メロディーが流れます

1 十五夜お月さま ひとりぼち
  桜吹雪の 花かげに
  花嫁すがたの おねえさま
  俥(くるま)にゆられて ゆきました

2 十五夜お月さま 見てたでしょう
  桜吹雪の 花かげに
  花嫁すがたの ねえさまと
  お別れおしんで 泣きました
(詞:大村主計/曲:豊田義一)



月、桜、花嫁、俥(人力車)・・・
明治・大正期の日本が目に浮かびます。
この情景に触発されて
私が書き下ろした(?)
ショートショートストーリーをどうぞ。
       花かげ残照

   大店の薬種問屋「日向屋」の
  ひとり娘お美代は、出入りの人
  力車夫の息子慎吉を兄のように
  慕って育った。

  「ねえ、慎ちゃん、大きくなったら
  あたいをきっとお嫁さんにしてね」

  「おう、まかしとき。おいらの嫁
  さんはお美代坊しかいねえよ。」

  「うれしい!約束げんまん」
       
         ・・・・・・・

   時は流れ、お美代は美しい娘に
  育ち、若者になった慎吉は死んだ
  父のあとを継いで人力車をひいて
  いた。
   あちこちから寄せられる縁談に
  お美代は見向きもしない。ただ
  ひたすら慎吉の妻となることを
  夢見ていた。

   やがて隆盛を誇った日向屋の
  身代に翳りが見え始める。お美代
  の父清兵衛は、店の建て直しの
  ため取引先の稲穂銀行の頭取の
  息子とお美代との縁談を決めて
  しまう。

   逆らいようのない父と先方の
  強引な段取りで、見合い、結納
  と過ぎ、いよいよ今夜は祝言の
  春の宵・・・・・・
   白無垢をまとったお美代は
  いとしい慎吉の引く俥で嫁ぎ先
  の家へと向かう。

   夜空にぽっかりと浮かぶ満月。
  その淡い光に照らされて、花吹雪
  を舞わせる桜並木。
   やがて人力車に揺られて花嫁
  御寮が通り過ぎる・・・

   「慎ちゃん、これでいいの?
   お嫁さんにしてくれるんじゃ
   なかったの?
   このままあたいを乗せて
   どっか遠くへ連れてってよ。」

   「お美代ちゃん、いい縁談じゃ
  ねえか。しがねえ俥屋の女房
  なんて
苦労するだけだぜ。
  悪ぃがおいら所帯なんてえ
  窮屈なもん、持ちたくねえしよ
  ・・・・・幸せになんなよ。」

   白い綿帽子に隠れたお美代
  の顔と、編み笠の下の慎吉の
  ほほを、ともに二筋のキラリと
  光るものが流れ落ちる・・・・・

   わだちを転がる車の音だけの
  月夜の道。桜吹雪がいっそう
  激しく乱れ飛ぶ。



坊がつる讃歌
※タイトル(↑)をクリックすると
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ジャンプします

1 人みな花に 酔うときも
  残雪恋し 山に入り
  涙を流す 山男
  雪解の水に 春を知る

2 みやまきりしま 咲き誇り
  山紅に 大船の
  峰を仰ぎて 山男
  花の情けを 知る君ぞ

3 四面山なる 坊がつる
  夏はキャンプの 火を囲み
  夜空を仰ぐ 山男
  無我を悟るは この時ぞ

(詞:神尾明正/曲:竹山仙史)



「四面山なる」村に育った私は
坂道がきらいになり
山登りを
あまりしない大人に
なってしまいました。

そんな私でも

高い尾根から
下界を見下ろすときの
爽快感

緑がうっそうと繁る
木立の中を
木洩れ日を浴びながら
歩くときの空気のうまさ

とっぷりと暮れた山あいで
キャンプファイアーの火を
みんなで囲むときの感激
(これはボーイスカウトでの経験)

そういった感激を
たまに味わうと
山に魅せられた人たちの
気持ちが少しは
解るような気がします。

この歌は、
そんな山男(山女もかな)たちの
熱い想いにあふれていると思いませんか。。

たしかNHKの「みんなの歌」で
聞いたのが最初じゃなかったかな。

「坊がつる」は
大分の九重にあるらしいのですが
当然のことながら
まだ行ったことがありません。
(肥満体の怠け者が登れる
場所かどうかも知りませんが・・・)

山好きの方がいらっしゃったら
ぜひ掲示板かメールで
坊がつるへの想いを
語っていただけませんか。



さすらひの歌

1 行こか戻ろか オーロラの下を
  ロシアは北国 はて知らず
  西は夕焼け 東は夜明け
  鐘が鳴ります なかぞらに

2 泣くにゃ明るし 急げば暗し
遠いあかりも チラチラと
  とまれ幌馬車 やすめよあお(馬の名)よ
  明日の旅路が ないじゃなし

3 燃ゆる思いを 荒野にさらし
  馬は氷の 上を踏む
  人はつめたし わが身はいとし
  町の酒場は まだ遠し

4 わたしゃ水草 風吹くままに
  流れ流れて はて知らず
  昼は旅して 夜は夜で踊り
  末はいずくで 果てるやら

(詞:北原白秋/曲:中山晋平)


大正時代に、絶大な人気があった
わが国初の新劇女優「松井須磨子」が
トルストイの「生ける屍」上演時に
歌った劇中歌だそうです。
レコードに残っているのは
往年の名歌手 佐藤千夜子のものです。

当時はまだ海外の情報が
今ほど豊富ではなかったはずです。
1,2番の歌詞にある
オーロラ・ロシア・幌馬車など
遠い異国を伺わせる言葉や
夕焼けと夜明けが同時に出るといった
「誇大広告」的表現が
人々に与えたインパクトは
かなり大きかったろうと思います。

日露戦争勝利に引き続く
シベリア出兵や、
その後の満州国建国など
大陸への夢
(今となっては侵略の野望ですが)
を伺わせる歌でもあります。

いっぽうの3,4番の歌詞には
寒々とした心や
虚無的、投げやり的な
言葉も目立ちます。
後に
恋人島村抱月の
後を追って自殺した
松井須磨子の死を
暗示しているような
歌詞のようにも思えます。



白鳥(しらとり)の歌
※タイトル(↑)をクリックすると
メロディーが流れます

1 白鳥は かなしからずや
  空の青 海のあをにも
  染まずただよふ

2 いざ行かむ 行きてまだ見ぬ
山を見む このさびしさに
  君は耐ふるや

3 幾山河 越えさり行かば
  寂しさの はてなむ国ぞ
  今日も旅ゆく

(詞:若山牧水/曲:古関裕而)



このHPのあちこちに
若山牧水の歌を引用しています
郷土の先人ということもありますが
私は牧水の歌が大好きです

「旅」と「酒」をこよなく愛した
牧水の歌には
必ずといっていいほど
孤独の影が織り込まれています

「白鳥の歌」は
牧水の旅の歌三首に
曲がつけられたものです



ひとり旅・・・・それは
たしかに道楽の一つですが
日常から離れ
ある種の孤独に
身を置くことで
また新しい自分を
見つけることが
できるような気がします



さくら貝の歌
※タイトル(↑)をクリックすると
メロディーが流れます

うるわしき さくら貝一つ
去り行ける 君にささげん
この貝は 去年(こぞ)の浜辺に
われ一人 拾いし貝よ

ほのぼのと うす紅染むるは
わが燃ゆる さみし血潮よ
はろばろと かよう香りは
君恋うる 胸のさざなみ

ああなれど 我が想いははかなく
うつし世の なぎさに果てぬ

(詞:土屋花情/曲:八洲秀章)



歌詞の字面だけだと
失恋のうた、又は恋人同士の
別離のうたのようにも思えますが・・・

「去りゆく」と「うつし世」の
2つの言葉に注目してください
去りゆく=去り逝く
うつし世=現し世(この世)

・・・・・・そうです
この曲は、亡き恋人への想いを
うす紅色のさくら貝にたくして
せつせつと歌い上げた
ものなのです

「二人で」ではなく
われ一人拾いし貝・・・

「熱き」ではなく
さみし血潮・・・

「激しい怒濤」ではなく
さざなみ・・・

どれをとっても
二度と会えない恋人への
想いが静かに
たんたんと語られています

でも、控えめだからこそ
「現し世の渚に果てる」しかない
残された者の慕情が
いっそう胸に
迫るのかもしれません


(Photo by HP花恋さん)

この歌は作曲家 八洲秀章さんが
病でこの世を去った恋人を思い
浜辺にたたずみながら詠んだ

わが恋の如く悲しや さくら貝
かたひらのみのさみしくありて


という歌をモチーフに土屋花情さんが
詞をつくり、八洲さんがあらためて
作曲したものだそうです。

さくら貝が「かたひらのみ」
というのも一層孤独感を
表していると思います



(以下は、とりあえず歌詞だけ)

人を恋うる歌
※タイトル(↑)をクリックすると
メロディーが流れます

1 妻をめとらば 才たけて
  みめ美しく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分の侠気 四分の熱

2 恋の命を たずぬれば
  名を惜しむかな 男ゆえ
  友の情けを たずぬれば
  義のあるところ 火をも踏む
(詞:与謝野鉄幹 曲:不詳)



砂 山
※タイトル(↑)をクリックすると
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1 海は荒海 向こうは佐渡よ
  すずめ鳴け鳴け もう日は暮れた
  みんな呼べ呼べ お星様出たぞ

2 暮れりゃ砂山 潮鳴りばかり
  すずめ散り散り また風荒れる
  みんな散り散り もう誰も見えぬ

3  帰ろ帰ろよ ぐみ原分けて
  すずめさよなら さよならあした
  海よさよなら さよならあした
(詞:北原白秋 曲:中山晋平 山田耕筰)








バイリンガル考


中学生の娘は、幼稚園の頃から
英会話の教室に通っている。
おかげで、学校に駐在している
国際交流員の外国人の先生とは
何とか日常会話ができるらしい。
ホームステイの希望も持っているようだ。

娘が近い将来、英語を話すようになり、
どのような形にせよ国際交流に
関わることができるというのは、
親として、とてもうれしい。

これからの日本人が、
外国語の一つや二つを話せることは
当然という時代になりつつある。

だが、最近ちょっと気になったり
不快になったりすることがある。
TVに以前から流れている
CMや番組のことである。

一つは、どこかの英会話教室のCMで、
海外から来た欧米人に
いきなり英語で話しかけられる
人の好さそうな中年男性の話である。

結局つうじなくて、しどろもどろしたあげく
その男性は突然石に変わってしまう。
(“石のように押し黙る”の例えだろう)

話しかけた外国人は
彼ら特有のジェスチャーである
“肩すくめ”をやって
あきれたような表情を見せる。

もう一つは教育TVの
英会話番組である。
やはり外国人にいきなり英語で
道を聞かれたりする。
こちらはある程度
英会話ができる人が対象なので、
何とか会話するが、
よりよい表現はこうだといった
例示のための設定らしい。
いずれもユーモラスに表現されている

もちろん、海外からみえるお客様に
快適にすごしてもらうために
我々もその国の言葉を学ぼうという
考え方は大賛成である。

・・・・が、
ようーっく考えてみると、
ちょっとおかしくないか?

CMにせよ、英会話番組にせよ、
描かれているのは日本国内の町だ。
ひとの国に来て、そこの住民に
いきなり自国語で話しかけて
通じないことをあきれたり
笑ったりするなんて
設定はおかしくないか?

もちろん、これは実際に
英語文化圏の人たちが傲慢だと
いうことをいっているのではない。

私は何度か、たどたどしい日本語で
必死になって語りかけてくる
欧米の人たちに
道をきかれた経験があり、
自分なりのたどたどしい英語で
教えてあげたことがある。

そんなとき彼らは
「ドモアリガト」と何ともいえない
笑顔を残して去っていく。
これが本当の国際交流ではないのか。

そうなのだ。
人の国を訪れるときは、
その国の文化や歴史にふれたいと
いう気持ちで来るわけだから、
その国の言葉を自分なりに
勉強していくのが当然なのだ。

この問題は、むしろ我々の側の、
それもこんなCMなどを流す人たちの
意識にあるのではないか。

英語が世界共通語であるのは
周知の事実であり私も理解できる。

かといって英語を話せるのが
当たり前で、話せない奴はおかしい・・・・
こんな考え方は、「○○ができない」
といったレッテルを貼ってあざ笑う
一種の差別的考え方ではないのか。

逆の場合もしかりだと思う。
毎年おおぜいの日本人が
海外に出かけていく。
ハワイなどは日本人が
あふれかえって、
ほとんど日本語ですませられる。

が、
「経済大国日本の言葉が
通じて当たり前」といった
気持ちでふるまう
日本人たちが
いなければいいがと思う。

いきなり土地の人に日本語で
話しかけてうまく会話が
できなかったりした場合に
相手をあざ笑う
日本人たちが
いなければいいがと思う。

国内でも海外でも同じだと思う。
旅先の文化・風俗・歴史
そして言葉(方言も含めて)に
私たちは
常に謙虚であるべきだと思う。

併せて、自分の土地や
自分の国の文化や
言葉も大事にすべきだろう。

何かの本で読んだことがある。
欧米では、
自分たちの文化や歴史を理解し、
きちんと伝えることができない人は
相手にされず、バカにされるという。
当然だと思う。

うすっぺらな英語尊重主義、
うすっぺらな日本語当然主義からは
真の国際交流は生まれない。

娘にはぜひ、日本の文化や歴史を
熱っぽく語れるとともに、
相手国の文化や歴史にも
深い理解を示せる
バイリンガルに育ってほしい。



アルバイトグラフィティ
学生時代には、
多種多様のアルバイトに手を出した。
金のため、生活のためとはいえ、
体もこわさずよく続いたもんだと思う。
いくつか書き記してみたい。

デパート店員
 最初にバイトらしいバイトを経験したのは、
大学1年の夏休みに帰省中に行った
某デパートの店員だった。
昭和40年代半ばのことで、
まだ高度成長期の余韻が続いていた。
お中元商戦まっただ中の各デパートは
それなりに忙しく、
こぞって学生アルバイトを募集していた。
 日給800円(時間給ではない。
日給である。くれぐれもお間違えなく)で、
たしか15日間の
連続勤務だったと思う。
私と友人2人で応募し、
I君は地下のお惣菜コーナー、
S君は2階の紳士服コーナー、
そして私は6階の寝具コーナーに配属された。
 かくして、庶民的で人のよいI君は
白い割烹着で1日中天ぷらを揚げ、
都会的でハンサムなマスクのS君は、
紳士服のモデル然として売場に立ち、
体格を認められたのか
私は汗だくで布団やタオルケットと
格闘するという
適材適所(?)の
毎日が始まった。

朝はまず各階ごとの朝礼がある。
そこでは昨日の売り上げ額が、
0から9までの数字や
千、万といった位の数が
デパート独特の
隠語に置き換えられ、
毎朝交代で担当が読み上げていた。
「トイレに行く」、「食事をとる」、
「万引きが発生した」などの
言葉も隠語で発するように
言い渡された。
殆ど記憶に残っていないが、
「カワマタ」とか「アリキュー」といった
たぐいの言葉だったように思う。
何の意味があったんだろう。
今考えると不思議でならない。
隠語といえば、
警察、芸能界、職人の世界などで
よく使われるが、
しいてその意義をあげるとすれば、
身内にしか通用しない
言葉を使うことで、
何か自分たちだけの秘密を共有し、
一体感、親密感を得ていたのかもしれない。
たった15日間だったが、帰宅するたびに、
あるいは友だちに会ったときに、
得意になってこの隠語を
使っていたように思う。
意味もバレバレで、
もはや隠語とはいえない。
もし秘密保持のためだったとすれば、
我々を雇ったことは、
デパートにとって大きな失策だったのかも。

デパートは、殆どが
私と同年輩からせいぜい
数年年上の人たちばかりだったが、
社会人と学生の違いを
見せつけられた。
「プロ意識」という言葉は
まだ世間で使われてはいなかったが、
「この仕事で食っている」という
雰囲気があった。
「お客様第一」という言葉も
よく聞かされた。
 勤め始めて
数日たった昼休みのこと。
S君と、売場をウロウロしていて、
お客様用のイスに腰掛けて
休んでいたら
若手の男性社員に
こっぴどく怒られた。
「アルバイトといえども社員の1人だろう、
お前たちのために
疲れたお客様が
そのイスに座れなかったら
どうするんだ。」
といった内容だったと思う。
その時は
どうせ空いているんだから
いいじゃないかと
心の中で思ったが、
今は叱ってくれた人の
気持ちがよくわかる。

最初はぎこちなかったが、
「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」という
お客様への言葉が
15日たつ間に自然に
出るようになり、
商品を買ってくれそうな客と、
単なる冷やかし客の区別まで
何となく判るようになった。
客との会話も余裕をもって
楽しめるまでになっていた。

 そして最終日、
待望のバイト料が支給された。
¥800×15日=¥12,000
ただし、1割ほどの税金が
引かれていたように思う。
当時1万円以上の額を
手にすることはほとんどなかったので、
聖徳太子(当時は千円、五千円、
1万円全ての図柄が聖徳太子だった)の
入った茶色の封筒を
大事にポケットにしまった。
 ところが、帰りにとんでもない
事件が起こってしまった。
一緒に働いたI君が、
何とこの虎の子のバイト料を
どこかに落としてしまったのだ。
彼は家に帰ってから
両親にひどく叱られたらしい。
毎日毎日、暑い惣菜売場で
天ぷらを揚げ続けたあげくがこの結果だった。
この事件は私にとっても
労働とそれで得られる対価が
いかに貴重なものかを教えてくれた。


港湾労働
(この部分は、別掲「港湾労働」に記しているので省略)


土木作業員

大学1年の春休みのこと
帰省中に土木作業に従事した。
中学時代からの友人M君の実家が
土木の会社を経営している関係で雇ってもらった。
私と、M君、そしてやはり中学からの
友人のN君の3人だった。
N君は、成績がよく、スポーツマンで
しかもハンサムと3拍子揃っていて、
高校時代から女の子に人気があった。
たしかこの時は浪人中だったが、
2年目に宮崎にある航空大学校を受験し、
ちょうどこのバイトの最中に
合格通知が届いたように記憶している。
私やM君はハンサムな彼が
航空会社の機長の制服で
ジャンボジェットを操縦する姿を
想像し、祝福したが、
残念なことに
彼はこの数年後不治の病に冒され、
パイロットになる夢を抱いたまま、
帰らぬ人となってしまった。
同世代の友人が夢半ばで
他界してしまったという事実に、
何とも言いようのない空しさを
感じたことを今でも覚えている。

 約2週間程度だったと思うが、
最初は堤防かどこかの
でっかい岩を運ぶ仕事がわたった。
3人とも日ごろ運動不足の上、
重い石を「腰を入れて」運ぶという
肉体労働に不慣れだったため、
とてももちそうになかった。
普通ならすぐクビだと思うが、
社長すなわちM君の父親は、
すぐに数ランク楽な仕事に変えてくれた。
(見た目は怖そうだったが、
本当に優しい方だった。今は故人である)

 そういうわけで
次の仕事は芝生の貼り付け・・・
数十センチ四方の芝生を
整地した地面の上に
すきまなく置いていき、
四隅に竹片を打ち込んで
固定するというものだった。
時はのどかな春、
ゆったりと流れる川を眺めながら、
堤防沿いに芝生を
貼っていく仕事は
楽しかった。


教師
いきなり「教師」と書くと、
本物の先生たちに怒られそうだが、
受験塾の先生と、
家庭教師をした思い出がある。

塾のほうは、
大学2年の夏休みに
当時中学の教師を
していた伯父の紹介で、
彼の友人が
途中退職をして開いていた進学塾で、
1ヶ月ほど臨時で働いた。
塾のメンバーは
塾長、教職を定年になった男の先生、
就職浪人中の
若い女性の先生、そして私の4人で、
教職免許が無いのは私だけだった。
 今、この塾は大きく発展し、
県内各地にたしか数カ所の
教室を持つマンモス塾になっており、
おそらく先生たちも
全て免許保持者だと思う。
開設直後だったからこそ、
私みたいな無免許の若造でも
勤まったのだろう。
 だが、自分なりに教材を工夫し、
一生懸命教えたつもりではあった。


塾の教え子たち(?)と行った海水浴にて

理科系ではあったが、
むしろ歴史や文学が好きな私は
進んで中学生の社会や国語の
教科を担当させてもらった。
 小中学生から、「先生、先生」と
寄ってこられると悪い気はせず、
今考えると
穴の中にでも入りたくなるような
いっぱしの青臭い人生論なども
ぶっていたのを思い出す。

家庭教師は、
たしか大学1年から2年に
かけてだったと思う。
下宿のおばさんの紹介で、
その下宿の隣家の娘さんの
数学と理科をみてほしいということで
引き受けた。
彼女は県立高校の
普通科2年に在籍する
明るくてかわいいお嬢さんだった。
今でも、色白の卵形で、
えくぼの出る笑顔が
心に残っている。
 週2回で、時間は
夜の8時から10時頃、
場所は4畳半の私の部屋に
彼女が訪ねてくるという条件で、
報酬は1ヶ月3千円だったと思う。
 彼女の親御さんが
どう考えていたのか判らないが、
年頃の娘を二十歳そこそこの男の
個室で夜中に一緒に
過ごさせるという状況は、
今、中学生の娘をもつ身で
考えてみると、
いかがなものかと思う。

 けれども、教える私は楽しかった。
たしかに彼女の数学・理科の
成績はいまいちだったが、
大学受験まで、できる限り
順位を上げてやりたいと
必死になったものである。
この楽しい「教師」生活は、
約半年後続いたが
何と私自身が留年してしまい、
ひとを教えるどころでは
無くなったところで終止符が打たれた。
無責任きわまりない先生で、
彼女には大変申し訳なかったと
今でも思っている。


レストランのウェイター

 大学の留年が決まると
(私の出た大学は
2年の途中でに本学への進学となるので、
留年生活は秋から翌年の秋までとなる)、
時間がたっぷりできたため、
アルバイトも長期化していった。
年が明けてすぐ、
私は友人と共に、
福岡市内のレストランに
学生ウェイターとして勤めたが、
このバイトは約2ヶ月に及んだ。
 別掲「パチンコ」に記したように、
このレストランには、
競馬に夢中で何回も留年していたF氏など
ユニークな学生ウェイターが
おおぜいいた。
 
「食事つき」という条件をみて、
レストランの豪華メニューの
おこぼれにあずかれるのではと
期待して来たが甘かった。
 従業員の食堂は畳2畳ほどの
せまい倉庫のような部屋にあり、
年取ったまかないのおばさんが作る
みそ汁と飯だけの食事が、
毎回毎回続いた。
みそ汁は、ホントに味噌を
お湯でといただけのような
味気ないものだった。
 店内では客が注文したほかほかの
湯気の出る「ハンバーグ」や
「サーロインステーキ」を運び、
わずか10分間の休憩で
「みそとお湯のスープ」を飲む毎日。
しかも先輩ウェイターたちは、
容赦なく我々新入りに
必要以上の仕事をさせた。
それでも、この職場で
私は、本格的な洋食の食器の並べ方や、
料理を出す順番、
華麗なカクテルの作り方などを
叱られながらもかいま見ることができた。
 
バイト期間の2ヶ月の間、
社会ではとんでもない事件が起きていた。
昭和47年2月、
あの「総括という名のリンチ」
そして「あさま山荘」という
一連の連合赤軍の事件である。
客が口々に
 「テレビのスイッチ入れてよ」
と入ってきて、
食事がすんでもずっと席を離れず、
従業員の私たちも
一緒になってあの雪山の事件に
釘付けになっていた。


メッキ工場

 これも留年中のこと、
学生のための
アルバイト紹介所をとおして、
福岡市郊外の小さなメッキ工場で
1ヶ月ほど働いた。
社長と従業員数名、
そして私ともうひとりの学生アルバイトで
こじんまりとやっている工場だった。
 私は一応理科系の学生なので、
熱や電気を利用した金属メッキの
原理については知っていたが、
実際の工場を見るのは初めてだった。
 広い水槽に電解質液が満たされ、
メッキをするもの・・・窓わく、スプーン、
工具など様々なものが電極につるされ、
沈められる。
電源のスイッチが入ると
それらがきれいな銀色や金色に
キラキラ輝いて変わっていく。
指導してくれた従業員の人はやさしかった。
我々が感電や薬液やけどをしないように
いつも注意してくれていた。
その彼の開いた襟から見える胸元は、
かつて若い頃にかぶったという
アルカリ原液による大やけどの
ケロイドが見え隠れしていた。
まだ日本はオイルショック前の
高度成長期末期の頃であり、
こういった中小企業が
社会の発展の原動力だったと思う。


深夜放送(ラジオ礼賛)

 車通勤をしているせいで、
朝と夕にカーラジオを
聞くことが多くなった。
朝の7時から8時台は
けっこう聞き応えの
ある番組が多い。
例えば「武田鉄矢の
今朝の三枚おろし」
・・・
哲学や宗教など硬派の
テーマや、季節のできごと、
彼の芸能生活などを、
女子アナとのかけあいと
いう形で、わかりやすく
10分間にまとめて
伝えてくれる。

 次の「朝の歳時記」では
声優川久保潔氏の
絶妙な語り口が楽しめる。

続いてはパナソニック提供の
歌のない歌謡曲。、
BGM的な曲を主役にすえ
さわやかな語り口で
色々な話題を提供して
くれる内容だが、
「エッまだ続いているの」と
いった感じの長寿番組である。
たぶん私の幼少期から
あったように思う。。
最近 関知子さんという
地元局のベテランアナが
担当するようになり、
英会話コーナーなども
増えて更にPower Up
したように思う。
 
 ラジオには郷愁を感じる。

最近は、テレビ、インターネット、
携帯電話といったメディアに
囲まれた生活を送っているが、
十代から二十代初めまで、
私はラジオにどっぷりと
つかっていた。
 
ラジオがまだ
高価だった中学時代、
私は乏しいこづかいを貯め、
真空管やトランスなどの
パーツを買い集め、
ハンダごてを握りしめて
手作り品を完成させた。

私の手作りラジオ


まだ宮崎の民放が
12時ころで終わっていた
高校時代の深夜、
親には試験勉強を
しているように思わせながら、
イヤホンをはめ、
手作りラジオの
アナログのダイヤルを
少しずつ回す。

やがてイヤホンの奥から
かすかに聞こえてくる
音を慎重に追い求め
ダイヤルをほんのわずか
右や左に動かし
より鮮明にキャッチするのに
やっきになっていた。
 
今のデジタルチューナー
では味わえない
マニアックな楽しみが
そこにはあった。

そして・・・

タモリ氏がときどき
モノマネでやる、
まさにあのとおりの
雑音の多い
周波数帯の中から、
韓国語や中国語の放送を
くぐり抜け、
キー局であるTBSや
文化放送などの
お気に入り番組を
探し当てたときの喜びは
今も覚えている。 
 
とくにナッちゃんこと
野沢那智氏、
チャコちゃんこと
白石冬美氏のコンビによる
TBS(だったかな?)の
「パックインミュージック」や、
レモンちゃんこと
落合恵子氏の
「セイヤング」などに流れる
洗練された標準語に、
まだ見ぬ東京という
大都会の香りをかいでいた。
(耳だからかぐというのは
おかしいか? )
 
 ディスクジョッキー
(まだパーソナリティーという
言葉はなかったように思う。)が
リクエストの葉書を読み上げ、
後を追うようにお気に入りの
曲が流れる・・・
今は当たり前になった
音楽番組の形態だが、
流しっぱなしの放送を
聴取するしかなかった頃に比べ、
「番組に参加している」
手ごたえを私も含め
当時の若者は
感じ取っていたのだと思う。
いうなれば今の
デジタルハイビジョンが
やっている双方向放送の
走りだったかもしれない。
 
番組で葉書を読まれたい・・・
この一心でせっせと書いて送ったが、
残念なことに一回も
読まれたことはなかった。
ただ、当時私が強く惹かれていた
森山良子さんのフォークソング
(「愛する人に歌わせないで」とか
今日の日はさようなら」など)が
リクエストでかかったりすると、
つい嬉しくて口ずさんでしまい、
ラジオを聴いていることが
バレたりした。
 
葉書のリクエストということでは、
高校時代にこんなことがあった。
ポップスに詳しいクラスメートの
提唱でビートルズの
「ピコーズ」という曲を
クラス全員で葉書に書いた。
NHKだったか、民放だったか
忘れたが地域限定のローカルで
「ポップス今週のベスト10」
的な番組があり
我々はいっせいに同じ曲を
リクエストしたのだ。
間違いなく組織票である。

ビートルズは人気絶頂だったが、
「ピコーズ」はすでに過去の曲であり
とうていランク入りするような
ものではなかった。
ところがその週に順位は忘れたが
ベスト10の上位をしめたのである。

「今週は何故かわかりませんが、
ピコーズが返り咲きましたね。」
というDJの驚いたような言葉
たった数十の組織票でどうでもなる
ベスト10番組だったのである。
今考えるとほのぼのとしたものを感じる。

 
やがて大学に進学し
博多に住むようになると、
親の目が届かなくなった分、
私は深夜放送にのめり込んだ。
あのときの私は、福岡の地元局と
全国ネットのニッポン放送が流す
二つの番組の熱狂的ファンだった。
 
 まず地元RKBの「スマッシュイレブン」
忘れられないDJが林田スマさん
甘いセクシーな声で、
孤独な下宿生活を慰めてくれた。
私は彼女の名前から
「スマッシュ」という番組名が
ついたんだと思っていたが、
いまだに真偽を確かめていない。
番組が人気絶頂の頃に
RKBを結婚退職されたが、
今もご活躍のようだ。
団塊の世代はやはりすごい。
あと男性DJのモーキーさん
(この方はライバル局の
KBCだったかな?
たしかモトキさんという
お名前だったと思う)や
コガサトコさん?
(これもうろ覚えです。
すみません。)が
印象に残っている。

福岡のKBC放送の電波塔

この番組から生まれた
「海の若者」という曲のことが
今も思い出される。
番組がアマチュアから
曲を公募した際の
グランプリ作品だった。
作曲者の方とその妹さんの
デュオで唄われ、
福岡ではちょっとしたヒット曲になり、
レコード化もされた。
(CDじゃなくレコードですよ。
それも45回転の
ドーナツ盤というやつです。)

・・・・・・・・
  カモメが飛んでるあの海へ 
こぎ出そう若者よ
小さな船が波に揺られても 
恐れず進め 海の若者
星の夜は静かに目を閉じて 
あの子の笑顔をまぶたに映そう
遠くでささやく波の口づけ
そっと抱きしめ行こう若者

・・・・・・

細かい部分は違っている
かもしれないが、
たしかこんな歌詞だった。
私は4畳半の下宿
(今のようなトイレ、バスユニット、
キッチンなんか無い
ただの4畳半です。)で
下手なギターを爪弾きながら
よくこの歌をうたった。
 当時のスマッシュイレブンのような
完成度の高い深夜放送が、
後に博多やその周辺出身の
ミュージシャンが
何人も輩出する要因のひとつに
なったと私は思う。
事実、今で言うオーディション企画の
走りのような番組が
他局にもいくつかあった。


夜更かししてラジオを聞いていた学生時代の間借り部屋

さて、もうひとつの番組

深夜1時になると、
「パラッパ パッパラパ パッパラ 
パッパラパ パッパラ・・・・」という
軽快な
ビタースィートサンバ(クリック!)
のオープニングで始まる
朝5時までの何と4時間の
長丁場の番組
 
そう、今も続く超ロングランの
オールナイトニッポン

人気芸能人が
パーソナリティーを務める
この番組・・・当時は
ニッポン放送のアナウンサーや
ディレクターの方々がDJをやっていた。

 今でも月曜から土曜までの担当を
すべて覚えている。
(ただし漢字で書けない方もいるが)
このときの6人は
それぞれ個性豊かだった。・・・

月曜日が「ゴーゴーゴー&ゴーズオン」の
糸居五郎さん。

火曜日がアンコーこと斉藤安弘さん。

水曜がヒデ坊こと高島秀武さん。
(通勤時のカーラジオで
硬派のジャーナリストとしての
彼の声を聴くことができる。)

木曜はアマちゃんことアマイクニオさん。
(英語の曲を直訳して
自ら歌うという変なコーナーを持っていた。)

金曜は春日部のテツことイマニテツオさん。
(自分の誕生日に、
「今日はテッちゃん誕生日 おめでとう」
というこれまた変な唄を流していた。
4時間という長丁場の放送時間内に
かけた曲がわずか数曲で
あとはずっとお喋りというか、漫談の
やり続け・・・といった夜もあった)

土曜はカメこと亀淵昭信さん
(この方は声量豊かな亀淵ユカさんの
お兄さんときいていたが、
痩身の写真を見たとき、
あまりにも妹さんと体格が違うのに
びっくりした思い出がある。)
最近知ったのだが、
何とカメさん、
今はニッポン放送の社長にまで
登り詰めているという。
サラリーマンとしても
有能な方なのだろう。

 キラ星のごとく多彩なDJの中でも
糸居五郎さんは、
DJの草分けといわれた人で、
何日かぶっ続けでマラソンDJを
するのを聴いたことがある。
トイレにまでマイクを持ち込んで
いたらしいが、ドアをトントンと叩く音と、
 「糸居さん CM終わりました」という
スタッフの声がラジオから流れてて
びっくりしたことがある。
DJにおもしろい話をする「ディスクジョーク」が
求められるような時代になっても、
あくまで曲を中心にすえるという
自分のスタイルは絶対に崩したくないと、
いつも言っておられた。
今はすでに故人である。
 
もう一つ、この番組には
今では絶対に考えられない
特別なパーソナリティーが登場したことがある。
三笠宮寛仁親王殿下・・・
あのヒゲの殿下が
マイクの前に立たれたのである。
「トモさんのオールナイトニッポン」
こういうご発声で番組は始まった。
皇室のお方なのに
非常に気さくで、
わかりやすいお話しぶりだった。

 思えばあの頃、
ながら族で試験勉強をしながら
深夜放送を聴き、
試験が終わったから
ゆっくりしようと思って深夜放送を聴き、
結局いつも夜更かしをしていた。
やがて・・・・
一人暮らしの4畳半の窓が白みかける頃、
ようやく私は
眠りの世界に入るのだった。
ヒデ坊担当の水曜の番組終了時
(すでに木曜日の朝だが)に
エンディングテーマとして必ず流れる曲・・・
アルフレッドハウゼの碧空
(「あおぞら」と読みます)のメロディーが
とても好きだった。



冒頭書いたように車通勤している関係で朝の
ラジオ放送にお世話になる毎日を過ごしている。
 先日嬉しいことがあった。地元局MRTで8:45AM
からやっている超ロングラン番組「歌のない歌謡曲」で
私のリクエストがパーソナリティーの関知子アナの
さわやかな声で読み上げられたのだ。
 リクエスト曲は「フェニックスハネムーン」・・・朝夕に
日南海岸のフェニックス並木を眺めるにつけ、昭和30
〜40年代の観光宮崎全盛の頃に思いをはせてメール
したものだった。番組スタッフの方は私の意を解して
くれたのか、ほぼ全文を読み上げてくれた。
 最近は、プロ野球やJリーグのキャンプ地として脚光を
浴び始めてはいる宮崎だが、季節限定なのが残念だ。
 あちこちを旅するのが好きな私だが、全国各地と
比べても、決してひけをとらない宮崎に一年を通じて
国内外のお客様に来ていだけたらと、いつも思って
いる。





                白熊、それは?
 
        南九州出身者・・・仮にA氏とします。東京・大阪
       どこでもいいのですが、とにかくA氏が、夏の暑い
       昼下がりに、南九州以外のどこかにいたとします。

         照りつける日差しを避け、地下の喫茶店に入った
       A氏は、冷たいおしぼりと涼しい冷房にひと息いれた
       後、オーダを取りに来たウェイトレスに、うっかりと
       こう言ってしまいます。

        「白熊を一つお願いね。」

        たちまち、ウェイトレスは、「エッ!」といったまま、
       A氏を気味悪そうな目で見つめ始めます。彼女の
       頭の中には、極点付近に住むあの白い猛獣の肉が
       ステーキになり、熱々の鉄板の上で湯気を立てて
       いる様子が浮かんでいるに違いありません。こんな
       経験をした南九州出身者がかなりいると思います。
       (私もそうでした・・・)

        白熊・・・それは我々南九州人にしかわからない
       夏の風物詩なのです。


        やや大きな器に、雪のような氷がたっぷりと載り
       底のほうには小豆か金時豆が息を潜め、周囲は
       西瓜、メロン、桃、ミカン、ブドウなどの色とりどりの
       果物が飾られ、真っ白なコンデンスミルクがかけられて
       います。頂上に白いバニラアイスが載っている場合も
       あります。

        そう、白熊は我々南九州の人間にとって、幼い日の
       思い出に連なる独特のかき氷であり、こたえられない
       盛夏(=セイカ・・・・・ここにシャレを入れたつもりなん
      ですが、たぶんこれも南九州の人しかわからないと
      思います
)の味覚なのです。

        かき氷を食べると、眉間の所が痛くなる経験をされた
       方は多いと思いますが、白熊の痛みはハンパじゃありま
       せん。全部食べ終わる頃には、体は冷え切り、冷房なんか
       まるで必要なくなるほどです。

        宮崎や鹿児島の夏は温度・湿度ともに高く、他県から
       来られた方にはつらいとよく言われます。こんな、うだる
      ような暑さの中だからこそボリュームたっぷりの白熊が
      生まれたのだと思います。      

           
              (フルーツたっぷりの白熊)

        甘党の私は、白熊だけでなく、かき氷類が大好き
       です。イチゴやレモンなどの色や香りがついたもの
       よりは、ただの蜜ががかかった「みぞれ」か、白熊の
       バリエーションとしてのミルク金時、抹茶のホロ苦い
       味が楽しめる宇治金時などに目がありません。

        同じ氷で作っても、氷かきの刃によってその触感は
       まるっきり違います。あまり粗いと、氷に蜜がうまく
       からまないし、また細かすぎるとすぐびちょびちょに
       なって風情がありません。

        かみしめると口の中で甘くホロホロと溶け、歯ぐき
       まで優しく冷やしてくれる程度の細かさが欲しい。そして
       途中で氷の山をサクサクと少しずつつき崩しながら、
       シロップの池に沈めていく楽しみも欲しい。市販の家庭
       用かき氷器や、祭りの屋台に出ている電動の機械では
       こんな程よい感触はどうも無理のようです。

        昔、甘いもの屋さんにあった大きな手回しのかき氷器
       削ったものが、溶け具合、舌触りとも最高に思えます。

        さて、無類のかき氷好きの私にとって、食べ終わる頃
       に悩ましい瞬間が訪れます。容器(これは当然切り子
       模様のガラスの器でないといけない。)の底に溶け残った
       氷がヒタヒタと浮かんだ甘い汁を、大概の人たちは、
       残してしまいますが・・・・・・・恥ずかしいけれど、思い
       切って言います。私はこの汁を、何とかして全部胃袋に
       収めたい。それも、できれば口を皿に持っていって一気
       に飲み干したいのです

        でも人目がある。いい年こいた中年オヤジが恍惚と
       した表情でかき氷の溶けた水を、皿から直接ズルズルと
       飲み干す様は見せたくない。でも飲みたい。・・・・ああ
       悩ましい。
 
         しかたなくスープを飲むように、スプーンで一口ずつ
       すくって口に持ってくることになります。(これも見られた
       光景ではありませんが)

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         私には夢があります。まず叶えられることのない夢。
        それは、数万年にわたって結晶した南極の「万年氷」で
        作ったかき氷を食してみたいという夢です。

         太古から降り積もった雪が、気の遠くなるような年月
        の間に、その重みでピュアな氷になるとのことです。

          これをウィスキーにいれてオンザロックで楽しむと
         いう話をきいたことがありますが、私はぜひかき氷に
         してみたい。真っ白な雪を思わせる練乳とたっぷりの
        蜜をかけて口に運べば、悠久の時の流れと極点に吹き
        荒れるブリザードの響きが心に染みていくのでは・・・。

          もうすぐ夏が来ます。かき氷の季節がやって来ます。



          パチンコ

      パチンコときくと、無為に過ごしていた学生時代を
     思い出す。パチンコ店から流れてくる喧噪な音、独特
     の臭気に中毒になっていた。
     「今日はしないぞ」と思っていても、あの音、あの臭い
     を感じたらもうだめだった。
      フラフラと店内に入り、500円分の玉を買い、ふと
     気付くともう打ち始めている。

       身もだえするほどの恥ずかしい思い出がある。例に
     よってパチンコ店に入りたくなったが、仕送りも底をつき
     バイト代も無くなっていた。
      ポケットにあったのは、大学の生協食堂の「夕定食券」
     2枚だけ。今はどうかわからないが、当時の生協食堂は
     食券をそのままの額で換金してくれていた。
      
      わずかに残っていた理性が「やめろよ」と心の中で
     叫んだが、私はこのなけなしの食券を180円の現金に
     換えていた。(当時は90円で夕飯を食することができた
     のである。180円といえども大金だった。)
       必死の思いの180円を握りしめ、気がつくともうパチ
     ンコ台の前に座っていた。玉は1個2円だったので90個
     買って、即打ち始めた。

      これがドラマだったら、奇跡が起きて大儲けして、その
     日は豪遊ということになるが、現実はいつものとおり・・・
     最後の玉は空しくはずれ穴にバイバイしていった。
 
      2食分のメシが喰えなくなった状況をかみしめつつ
     肩を落として店を出るときのあの何とも言えない感情は
     今も心の中に染みついている。

      ここまで書くと、いかにも湯水のように金を使う大ばくち
     を打っていたように見えるが、私は1回に500円以上は
     使うことのできない小心者だった。あれほど熱中したのに
     「打ち上げ」まで持っていった経験はわずかに3回しかない。
     あとは500円をドブに捨てることが大半、たまにそこそこ
     勝って大好きなチョコレートをしこたまゲットする程度だった。
       身を持ち崩すこともなく、ある意味つまらない青春時代
     だったかもしれない。

      パチンコ→麻雀→競輪・競馬という発展(?)の過程は、
    私のまわりの学生たちにとって特に珍しくは無かった。今も
    印象に残っているのは、アルバイト先のレストランで一緒に
    働いていた別の大学のF氏である。休憩時間は、場外馬券
    (どんな買い方をするのか知らないが)の行方を追うために、
    すごい形相でトランジスタラジオに耳を押し宛てていた。 
      あの頃4回留年して、満期除隊(規定年限で卒業できず
    放学になることをこう呼んでいた。)寸前ときいていたので、
    恐らく卒業はできなかったと思う。それでも私は500円以上
    パチンコにつぎ込めない中途半端な自分に比べて、ここまで
    集中できる彼のことを、一種畏敬の念で眺めていたように
    思う。
                    
        

      パチンコは、戦後、名古屋で考案されたとのことである。
    当時はやたら釘があって、工夫のない入賞穴だけのもの
    だったが、またたくまに広がっていったらしい。

      私の父も、娯楽の少なかった昭和30年代、就学前の
     私をよくパチンコ屋に連れていった。その頃のパチンコ台
     は、まだ玉を左手で1個ずつ投入して、右手でハンドルで
     はじく非効率的な、しかしほのぼのとしたものだった。
     ハンドル操作はかなりの重労働だったらしく、連れだって
     パチンコ店から出る時にふと見ると、父の右手が真っ赤に
     腫れ上がっていたのをおぼえている。
 
      台の後ろに玉を補給するおばちゃんたちがいて、「オーイ
     出ないぞ!」と台を叩くおじちゃんたちがいて、お定まりの
     軍艦マーチ(クリック!)が流れていて・・・・幼い私は、早く
     大きくなって一人でパチンコをしたいと、この「大人の空間」
     に憧れていた。

      父がパチンコ上手だったかどうかは判らないが、ある
     程度玉が溜まると、私は10個だけ抜き取って景品交換所
     に持っていった。

      2円×10個=20円で、キャラメル1箱がもらえた。
     (ややこしくて無粋な消費税なんてものは無かった)溜まって
     は10個、また溜まっては10個と玉を抜き取る。必死に
     打った玉の行方を追う父は気がつかない。・・・

      玉が無くなる頃、父は色々な種類のキャラメルでいっぱい
     になった袋を抱える私に気付き、「帰るぞ」とひとこと言った。
      それでも父は玉をこっそり抜き取った私を叱ることは一度
     もなかった。父の完全な浪費をキャラメルという形でかろうじて
     防いだ(と思っていた)私は、何か誇らしい気持ちで帰路に
     ついた。キャラメルは当時股関節脱臼でギブスをはめていた
     妹へのいいおみやげになった

      やがて大学生になった私自身がパチンコを楽しむように
     なった昭和40年代半ばに、パチンコ台に玉の自動投入装置
     がつけられた。今もあるが、傾斜をつけただけのしかし画期
     的発明だった。
      これにより左手は玉を1個ずつ入れるという過酷な労働
     から解放されたが、右手は相変わらずハンドルをはじいて
     いた。

      この右手が、考えられない速さで次々と玉をはじくハンドル
     をただ握りしめるだけの現在の形に代わり、「777」が登場
     する昭和50年代になったとき、パチンコはすさまじい射幸心
     をあおる完全なばくちに変わっていったように思う。

      私は3段重ねのチューリップがついた台が好きだった。
    おぼえておられる方も多いと思う。1番上のチューリップに
    入賞したら3段のチューリップが一斉に開く。ここからが
    大事である。理想的なのは、

         3段一斉開き→下段入賞・下段閉じ→
         中段入賞・中段閉じ・下段開き→
         下段入賞・下段閉じ→
         上段入賞・上段閉じ・中下段一斉開き→
         下段入賞・下段閉じ→
         中段入賞・中段閉じ・下段開き→
         下段入賞・下段閉じという

      「1回で8回おいしい」過程をたどることであった。
     最も悲惨なのは、3段一斉開き→上段入賞・3段一斉閉じ
     という「1回で2回しかおいしくない」末路を辿ることだった。

      今も思い出してわくわくすることがある。ささやかに、
     そして可憐に開くチューリップはパチンコ界の花、いや
     芸術品だったといってもよい。特にこの3段チューリップ
     はすばらしかった。

       そういえば当時、「開けチューリップ」という歌が(確か間
     寛平だったと思うが、)流れていた。 

     

       やがて・・・・・・・「777」もしくはこれに準じる方式で、
     入賞穴(いやむしろ入賞板というべきか)がパカッと
     一定時間、節操なく だらしなく(私の感想です)開くよう
     になった今のパチンコ店に、私は入らない。入ろうとも
     思わない。





未知の道
記憶の中で、強く印象に残っている「道」がいくつかある。
1回しか通らなかった道もあるし、通い慣れた道もある。
もともと私は方向音痴がひどいので、
色々な道が心に残るのかもしれない。

 今も宮崎市にある仏教系の
S幼稚園に通っていた頃のこと。
ある日遠足があった。
放送局を見学した後、現地で解散になった。
園児を遠足の場所から一人で帰宅させるなんて
今では考えられないことだが、
当時は車も少なく
安全だと判断してのことだったのだろう。

方向音痴は昔からだったらしく、
当然のことのように私は迷子になってしまった。
背の低い街路樹が並んだ道を長いことあるいたが、
見慣れた景色はいつまでたっても現れなかった。
 心細い私は、
やがてしゃくりあげながら
夕暮れの街をとぼとぼと歩いていた。
燃えるような秋の夕焼けが
涙で滲んでいたのをおぼえている。
そのとき、どこかのおじさんが
「どうしたの?」と声をかけてきた。
そして私のカバンに書かれた名前と園名を見つけて
電話をかけてくれた。
「知らないおじさんについていったらいけない」と
子どもに教えなければならない
今の世の中にあって、あの優しさが懐かしい。

 小学校の頃は山深い諸塚村に住んでいた。
冬になると数十センチは雪が積もる山道を
1時間ほどかけて通学していた。
1年生から6年生までの集落ごとの集団登校・下校である。 
 雪と、杉の木と、
野いちご(春になると酸っぱい実がなった。)の葉っぱしか
目に入らない狭くてそしてくねくねと曲がった淋しい山道。
「急がんか!」
上級生の怒声にせき立てられながら冷たい足を運んだ。
しもやけで手や耳が痛かった。
 怖かった上級生だったが、
私たちがケガをしたり
他の集落の子どもたちからいじめられたりすると、
身を挺して助けてくれた。
こんな「たて」の繋がりが昔の田舎にはあった。


 
大学時代は博多にいた。
下宿と校舎は電車で約40分の距離であった。
今思うと大変だったと感じるが、
この距離を私は毎日自転車で通った。
 博多の街に詳しい方は頭に地図を描いていただきたい。
六本松から国体道路に出て、
渡辺通4丁目交差点を横切り、
中州の春吉橋、続いて緑橋を渡り、
福岡高校の浦を抜けて千代町から堅粕へ・・・・
当時の博多の町中では自転車に乗っている人を
あまり見かけなかった。

私はこの通学路がとても気に入っていた。
城下町のたたずまいを残す赤坂周辺、
色街の春吉、
お寺だらけの御供所町(「ごくしょまち」と読む。)など
博多の色々な顔を見せてくれる道だった。
 中でも強く印象に残っているのは、
中州にかかったいくつかの橋と、
それらの橋を色っぽく照らすネオン
そして行き交うおおぜいの男と女の風景である。
“橋見えて 橋の上行く人見えて 博多の町は 眺めあきずも”
(たしか吉井勇の歌だと思う)
ここをクリックすると、
懐かしい博多の町を紹介してくれるHPに行けます。)

宮崎に帰り、
就職してしばらくの間は、
宮崎市内伯父の家に居候していた。
通勤はやはり自転車で、
市内を流れる大淀川左岸のサイクリング道路を利用していた。
 この道は春が似合う。
風薫る五月、
大淀川がゆったりと流れ、真っ青な空に雲雀の声が響き、
咲き乱れる色とりどりの野花の間を可憐な蝶々が飛び交う・・・・
思わず自転車を降りて
草むらに寝ころんでしまいたい気持ちになる
のどかな通勤路だった。

やがて結婚し、妻と子どもたちを連れて歩くたびに
豊かな気持ちになれる道を知った。
有名なリゾート地シーガイアができる前の
「一ツ葉の松林」を抜けていた道である。
かつては軍用道路と呼ばれていた。
正確に測ったことはないが、4〜5qはあったと思う。
とくに夏がすばらしい。
長く続く木漏れ日のトンネルを通っていくと、
心が少しずつ癒されてくる。
今はリゾート地の中で整備され、
車で駆け抜ける道になってしまった。

 気に入った道をゆっくりと楽しみながら歩くこと・・・
それは私の人生そのものなのかもしれない。


父の旅立ち
夜中すぎにに自宅の電話が鳴りました。
父が倒れたことを知らせる妹の旦那の声でした。
 父は4年前に、腸の血管が詰まり、
小腸・大腸の大部分を摘出するという大病を患っていました。
その時の主治医の言葉は、
 「今回は何とか命をとりとめました。
でも大きな血栓が心臓にたくさんありますから、
また同じような病気を起こすでしょう。
おそらく致命的なことになるでしょうから、
気持ちの準備をしておいてください。」
 というものでした。

父は、健康を取り戻したことをとても喜んでいました。
 「子供も孫も順調だし、
俺も健康に正月が迎えられて、今が一番幸せだ。
70まで生きればいいと思っていたが、
80まで頑張りたいもんだ。」
その年の正月、父は言いましたが、
とうとう叶いませんでした。

急いで入院先の病院にかけつけると、
目こそ閉じていましたが、
まだ意識もはっきりしており、
会話をかわすこともできました。
 「迷惑かけてすまん。○○(母の名)が
救急車まで呼ぶもんじゃから
ピーポーピーポー鳴らしながら
大騒動で入院してしまった。」
こんな状況の中でも、
いつもの律儀な冗談の混じった返事が返ってきました。

「心臓からの血栓で、脳の右側全体が梗塞状態になっています。
近いうちに脳ヘルニアの状態になり、かなり難しいと思います。」
 医師の説明も予想したとおりでした。

 時間がたつにつれ、
だんだんと意識のレベルが低下してきました。
幼なじみの方がお見舞いにみえたとき、
父の閉じたまぶたからツッとひとすじの涙が流れ出ました。
自らの死を悟り、
ふるさとのこと、
幼い頃のこと、
たどってきた人生などを
思い出しての涙のように私には思えました。

意識が無くなった頃、
医師が私と母を呼んで事務的な説明を始めました。

「まもなく、自発呼吸ができなくなります。
人工呼吸器をつけないと あとわずかの命です。
でもつけても植物状態のままです・・
どうしますか?」

隣の病室では、
父が規則正しいいびきの音をたてて
昏々と眠っています。
すがるように 私ををじっと見つめる母の視線
部屋の空気が
岩のように固くなった気がしました。

(父さん どうする?)
(父さん 教えて!)

父が元気なころ、
ある方の死に際して言った言葉を
ふと思い出しました。
「助かる見込みもないのに、
管につながれて何の楽しみもないまま
医学の力で延命されて死ぬなんて・・・」

次の瞬間、
私の渇いた口から
主治医以上に事務的な答えが出てきました。
「つけずに・・自然に・・お願いします。
でも苦しまないようにしてください。」

(父さん きめたよ これでいいよね)
(これでいいよね・・・・ホントにいい?)
話しかけましたが、
父はベッドの上で眠り続けるばかりでした。

 2日あとの明け方
大きな呼吸を一つ、小さな呼吸を一つして、
母、私たち兄弟に看取られながら
父は逝きました。
「父さん、ありがとう。もう頑張らんでいいよ。
後のことは心配せんでゆっくり寝ないよ。」
と声をかけて送りました。

大正15年生まれの父は、
昭和の時代そのものの人生を歩んできました。
同世代の人々と同じく
戦争という暗い時代を
かなりの苦労をしながら送ったようですが、
仕事面でも、家庭のことでも
自分の夢を一つひとつ実らせ、
たくさんの人たちとの出会いに恵まれたことで、
ある意味幸せな人生だったのではないかと思います。

若い頃はピンと来ませんでしたが、
自分が中年になり
仕事や子育てに苦労しながら生きている今、
父が常日頃言っていた言葉が
しみじみと思い出されます。

○ 親からしてもらった以上のことを親ではなく子供にしてやれ
○ 人との出会いは大切だぞ 大事にしろ
○ 無理はせんでいい 勉強を楽しみ、仕事を楽しみ、
遊びを楽しみながら人生を送れれば人間幸せだ



           港湾労働

             大学1年の晩秋の頃だったと思う。
            何に使ったのかは憶えていないが、
            月半ばで家からの仕送りが底をつき、
            大学の生協食堂の食券も無くなると
            いう事態が生じた。

             部屋の中を探しても、食うものは
           何も無かった。実家も妹・弟がいる状
            態で、父の給料をやりくりしている母の
           ことを思うと、どうしても仕送りの追加を
           頼む気にはなれなかった。
            
             電熱器で湯を沸かし、醤油と味の素
           を入れただけの特製スープ(?)で1日、
           2日をしのいでいたが、いよいよ何とか
           せんと飢え死にするぞという状況に
           なってきた。
 
             ちょうどそのとき、友人のR君が、
            「築港に行こう」と誘ってきた。
            福岡市北部の博多湾岸には、「築港」という
            色々な船荷が陸揚げされる場所があり、
            港湾労働で日銭が稼げるという話は
            前から聞いていたが、かなりきつい仕事との
            ことだったので、二の足を踏んでいた。
            もうこうなると行くしかない。
             
             翌日早朝に乗った電車が港に着くと、
           「手配師」と呼ばれるおじさんたちが待って
            いた。

            「○○班に来んしゃい」
             「△△組は払いのよかけん」

            盛んに掛け声が飛び交っている。
           ある手配師のところの行列に並ぶと、
           なにやら言い争っている声がする。

            仕事希望の老人(かなりの高齢で、
          70はとうに越えているように思えた)が、
          手配師ともめていた。
      
            何でもいいから仕事をまわしてほしいと
          言っている老人に、手配師は言った。

            「そがんヨタヨタした体でケガでんされたら、
            寝覚めの悪かけん。」

           そして私を指さした。

           「こん兄ちゃんたちんほうが働きもよか・・・」
 
           この時、老人が私に注いだ眼差しは、今も
          はっきりと覚えている。無言のままだったが、
          憎しみと哀しみの入り交じった目は、たぶん
          こう言っていたと思う。

           (お前たちは、遊ぶゼニ欲しさに来るとやろう。
            親の仕送りもあるけん気楽な身分たい。
            こっちはその日暮らしやけん、仕事ん無う
            なったたら食うていけんとばい。)

           もちろん私も前述のとおり食い詰めて来ては
         いるのだが、親から仕送りを受けている以上、
         気楽な身分には違いない。
 
           この日私たちは、陸揚げされたタバコの葉を
          トラックに運ぶ仕事をもらった。乾燥して幾重
          にも巻かれたタバコは、かなりの重量があり、
          背中に乗せるとそれだけでヒザがガクガクした。
          2、3日まともに食っていない体にはこたえた。

           「気を付けて運べ!ケガしたらつまらんぞ。
            保険も治療費もなかけん、お前たちの親が
            泣くだけたい。」

          冗談とも本気ともつかない叱声がとんだ。日が
          傾きかけた頃、ようやく作業が終わり、現場の
          監督から渡された日当は二千円、それも裸の
          ままの千円札2枚だった。
 
           帰路につき、行きつけの食堂に入り、晩飯
          (たしかトンカツ定食だったと思う)をガツガツと
          食べた・・いや食べるというよりはむしろ口に
          押し込んだ。

           ふと、朝のあの老人はどうしただろうと思い出
          しながら、食い物をのどに無理やり押し込んだ
          感覚は、今も体のどこかに染みついている。
 



「同窓会」考
 三十代の頃、
出身高校の同窓会の世話を同期の連中と一緒に
担当したことがあった。
何しろ、旧制中学、女学校と合同の
マンモス同窓会なので、準備も1年がかりである。
私はアシスタント程度のかかわりだったが、
それでもチケットの販売、パンフレットの広告とり、
アトラクションの企画と追いまくられ、
けっこう体力と気力を要したことを覚えている。
 
この「同窓会」というしろもの、
世間では色々な形で開催されており、
様々な角度から見てみると、けっこう面白い。


 まず、「名称」で考えてみよう。
第○期卒業生同窓会:
同期の者ばかりで集まる真の意味の同窓会。
出席者も気心の知れた連中や懐かしい担任の先生ばかりで、
あの時どうした、
あれはどうなったという話題が多く、
気楽に楽しめる楽しめる無難な会である。

△△大学同窓会(又は△△会):
こちらは、昔私が関わったような
世代を超えた学校全体の同窓会。
伝統校ほど当然年齢の幅も広がり、
ふだん会ったこともないお爺さんやお婆さんを
ひたすら「先輩」と呼び
自分たちがまるで知らない
戦前の思い出話などに付き合わされることもある。
雰囲気を和らげるために、
校歌(又は寮歌)斉唱が不可欠である。


 次に「目的」で分類したらどうだろう。
PTA的:
クラブやサークルのOB会、
スポーツ少年団の父母の会、
企業の退職者の会など。
自分たちの楽しみだけでなく、
後輩(又はこども)たちの現状
(すなわちクラブ等の勝敗や会社の実績など)を
常に気にする。
とくに大学のラグビー部等がわかりやすいが、
後輩にとって、
金も出すが口も出すという、
有り難いけれどちょっと迷惑な集まりとなる。
また、学校の父母の会などでは、
先生も加わり、
子どもそっちのけで
盛り上がってしまうこともあるようだ。(経験あり)


記念行事的:
「○○先生退官祝賀会、
××病院創立100周年記念パーティーなどが
これに当たる。
○○先生や××病院に少しでも縁がある人には
必ず声がかかる。
「少しでも・・・」の口の人たちには、
ちょっと迷惑な感じもするが、
何より苦労するのは、
たまたまその時期(退官や△周年など)に行き合わせ、
幹事を務める部下や庶務の人たちだろう。
○○先生が尊敬できる人であり、
参集者がひきも切らない場合はいいが、
その逆だった場合の人集めの苦労もありうるようだ。

励ます会的(又は「囲む会」或いは「連帯する会」など)
これはもう政治的目的以外にはありえない。
一見すると、
退官記念と同じように特定個人にゆかりの人が集まる会ではあるが、
活動の終止符としての意味がある
退官記念に対し、
励ます会は
以後の活動の開始点となる点が異なる。
とてもキナ臭い同窓会・・・
本音では、
励ましたくない、囲みたくない場合もあるが
特定個人を担ぎ出すための
同じ野心の人達が集まることから、
「同想会」といったほうがいいのかもしれない。


宮崎市の繁華街「ニシタチ」

最後に「会費や場所」に注目してみよう。
お手軽ランク:
会費が千円から3千円程度で
会場は「赤ちょうちん」。
そう、我々安月給の公務員や
企業の方などが仕事帰りにちょっとやる同窓会。
上司の「おい、帰りにどう?」といった命令的通告や、
女性同僚からの
「○○君、私の悩み聞いてよ」などの鼻の下を伸ばすお誘いが
突然の開催通知となる。
お手軽だが、
たまに同僚とのケンカや
男女関係などの修羅場が潜んでいることも・・・・


それなりランク:
会費は4,5千円前後で
料理はそれなりの会席か中華。
(ちなみに年度初めの宮崎では、
S海楼やT天閣で、
毎週のシリーズが開催される。)
参加者もやや多く、
数日以前からの開催通知が必ず出される。

もちろん完全ワリカン的会費制なのだが、
例外的に、課長級以上6千円、
課長補佐級5千円、係長以下4千円という
階級社会的ワリカンや、
ウーロン茶しか飲まない男性が5千円
(実は私の上司)、
うわばみのような女性が4千円
(これも私のまわりに数名いる)といった
逆セクハラ的ワリカンなどもあり得る。
また、遅れて来た場合、
料理や酒が
殆ど残っていないという悲劇も起こる。

おいおいランク:
資金集めのパーティー券が発行されることが多い同窓会。
私は行ったことはないが、
実質3千円程度の立食形式なのに、
2万円から3万円ぐらいの参加費となるようだ。
一流ホテルで開催され、
人寄せパンダのための有力者や
有名人があいさつすることもある。
事前に企業や団体に
ノルマ的にパーティー券が割り当てられることもあり、
「おいおい」と思いつつも、
「ま、しゃーねーか」と諦めて参加してしまうことになるらしい。


いかがだろうか。
酒や料理、
そして歓談する相手全てが美味であれば最高だが、
不況で憂きことも多い社会・・・・
お互い思わぬことで
健康や人間関係を損なうことのないようにしたいものだ。
たまには家人へのおみやげもお忘れなく。

そうそう、
何年か前の「宮崎版サラリーマン川柳」に
こんなのがありましたっけ・・・

さあ五時だ!
今夜は「やまと」か万作か

たぶん判るのは、宮崎市周辺の方だけでしょうけど・・・




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