ぶらり旅ひむか編
(みやざきの旅)

ふるさとみやざき編は、「ひむか編(日本の
ひなた宮崎県の旅)」としてリニューアル
しました。
大淀川の夕暮れ   
シャンシャン馬


再編 日向三代(みやざきの神話)


 宮崎の神話についてご紹介したいと思います。古事記・日本書紀に描かれた夫婦神イザナギ・イザナミの国造りの
話と、初代天皇の神武天皇が日本を統一する話をつなぐものが日向三代(ニニギノミコト→山幸彦→
ウガヤフキアエズノミコト))といわれるわが宮崎を舞台にした一連の物語です。

 神話というとすぐに神様のおごそかな話と思いがちですが、現代でもよくある男女間の愛憎劇などがモチーフに
なっていて興味深い物語です。

 宮崎市郊外の青島神社にある「日向神話館」のろう人形を用いたジオラマと、私が撮りためた
色々な伝説の地の画像を交えて組み立ててみました。ぜひご覧ください。(R3.7.10UP)
   @みそぎ
 
みそぎの池(宮崎市一つ葉)  アマテラスオオミカミ(神話館) アマテラスが祭られた伊勢神宮
 
  国造りを終えたイザナギは、亡き妻イザナミを死者の住む黄泉の国に訪ねましたが、変わり果てた妻の姿を見て、
 ほうほうの体でこの世に逃げ帰りました。「筑紫のひむかの橘の小戸の阿波岐ケ原」の泉で穢れた体を清めたところ、
 天上を治める最高神アマテラス(女神)が生まれました。神主さんののりとでも有名なみそぎ(ケガレを洗う)が行われた
 という池が宮崎市に残ってます。
  このみそぎの時に、アマテラスと一緒に生まれたのが、あのヤマタノオロチ退治で有名な、スサノオです。スサノオや
その子孫のオオクニヌシは出雲神話に出てくる神々ですが、元々は日向神話とは別系統の話で、古事記成立時に、
実はアマテラスとスサノオは姉弟だったというふうに結びつけたのだろうと言われています。
A天孫降臨    

 




の高千穂峡
アマテラスの命を受け
いざ、瑞穂の国へ
高千穂の峰

 アマテラスは、孫であるニニギノミコトに稲の穂と3つの宝を与え、トヨアシハラミズホノクニ(今の日本)を治めるよう命じました。
家来を連れたニニギは、日向(ひむか)の高千穂のクシフルタケに舞い降りました。アマラスの孫が降り立ったことから、高千穂は
天孫降臨の地と言われています。
 高千穂という地名は宮崎県北部の高千穂町と南部の高千穂峰の2つがあります。江戸時代に、天孫降臨の高千穂はどちらか?
と、真面目な大論争になったそうです。国学者で古事記の研究者だった本居宣長が「初めに北部の高千穂に降り立ち、その後
南部の高千穂の峰に遷った」という両者を立てる説を唱えています。どっちでもいいじゃないかという気がしないでもないですが、
昔から皆さん、熱かったんですねえ・・・。 
 
 B出会いと誕生  
 
コノハナサクヤが水汲みに来ていた
逢染川(あいぞめがわ/西都市)
ここでニニギと出あい恋に落ちた
炎に包まれた産屋 児湯の池(西都市石貫)
 
 降り立った日向の国を見回っていたニニギは、その土地を支配するオオヤマツミノカミの娘であるコノハナサクヤヒメが
水汲みに来ていた時に彼女と出会って恋をします。名前の通り木に花が咲くように美しい娘だったそうです。二人が出会ったと
される場所を逢染川といい、西都市に残っていますが何の変哲もない小さな川です。
 天上の神であるニニギとの出会いを喜んだ父のオオヤマツミはコノハナサクヤの姉のイワナガヒメも一緒にニニギに
嫁がせようとします。でもニニギは、妹ほど美人ではなかった(はっきりいって醜かった)イワナガを受け入れずそのまま実家に
帰してしまいます。それを聞いたオオヤマツミは、「コノハナサクヤは華やかな人生、イワナガは永遠の人生の象徴だったのに、
姉をを帰し、妹だけを残したニニギ様やその子孫の命は、素晴らしいけれどはかないものになるだろう」と嘆いたそうです。
こうして、本当なら永遠の命を得られたはずのニニギやその子孫、すなわち後の世の天皇たちも普通の人間と変わりない
限られた命を生きることになったのだそうです。
 さて、コノハナサクヤがニニギとのたった一夜の契りで妊娠したことから、ニニギは「本当に私の子か?」と妻の貞操を疑います。
怒った彼女、「神であるあなたの子ならば焼け死ぬことはないはずです」といって何と、自ら産屋に火をつけさせ、炎の中で3人の
男の子を無事に産んだのでした。DNA鑑定も無かったので(笑)、思い切った手段に出たものです。美しいけど気性の激しい女性
だったのでしょう。火の中でお産をするという話は荒唐無稽だとしても、ニニギとコノハナサクヤの愛憎劇は、まるで夫婦間の
ドロドロを描いたTVドラマのような人間臭さを感じます。
 生まれた息子たちの産湯をつかったという湧き水の池が今も児湯(こゆ)の池として残っています。この地方一帯を児湯郡
(こゆぐん)というのもそこからから来ているということです。
  
C海幸と山幸   
 
釣り針を無くして詫びを入れる 海の国への旅立ち 海の国の玄関「青島」の波状岩

 このときの3人の息子のうち2人は、成人後それぞれ海の漁で暮らす海幸彦、山の猟で暮らす山幸彦と呼ばれました。あるとき
弟の山幸彦が兄の海幸彦に「1日だけ仕事と道具を取り替えよう」と頼み、しぶる兄を説得して海で漁をしましたが、兄の大事な
釣り針を無くしてしまいました。 
 山幸彦はお詫びに自分の剣で釣り針を造って兄に詫びを入れましたが、兄はどうしても許してくれません。途方にくれた
山幸彦は、シオツチのオジという老人の勧めで失くした釣り針を探しに海の国(ワダツミ)に渡ります。 
D出会いと望郷   
壷の水面に映る顔で山幸に気づく 飲めや歌えやの大歓迎 望郷の念にひたる山幸彦
を悲しげに見守るトヨタマ

 海の国ワダツミに着いた山幸彦が木の上で休んでいると、海の王ワダツミノカミの娘トヨタマヒメの侍女が木のそばの井戸に
水を汲みに来て、壷の水面に映る山幸彦の端麗な面差しに驚き、トヨタマに知らせます。こうして山幸彦とトヨタマは恋に落ちて
結婚しました。このあたりは両親のニニギとコノハナサクヤの出会いと似ていて、「水汲み」がキーワードになっています。私は
私はこの話について、水中である海の国で水を汲むってどういうことなんだろう、地上の人である山幸彦は水中でも溺れずに
息ができたんだろうかと、くだらない疑問を持ち続けています(笑)
 トヨタマや父のワダツミは毎夜、それこそ「タイやヒラメの舞い、踊り」といったもてなしで山幸彦を歓待しました。やがて海の国に
来て3年の月日が流れます。トヨタマとの楽しい日々が続く中、山幸彦は、ふと望郷の念にかられ、日向に帰りたいと思うように
なります。
  
E帰郷・兄との闘い   
 
例の釣り針はタイののどに
ひっかかっていました
トヨタマに別れを告げて帰る山幸彦 山幸彦と海幸彦の闘い
 
  そんなとき、無くしてしまってた釣り針を探そうと、海の神の命であつまった魚たちの話から、タイの喉に刺さっているのが、
発見されます。山幸はその釣り針を持って、日向の国に帰ることになりました。当時超高速の乗り物だった(?)ワニに乗って帰る
山幸に向かい、「あなたの子を身ごもっています。もうすぐあなたの国にいって産みます。」とトヨタマが声を限りに叫びます。

 さて、帰りついた山幸彦は兄の海幸彦に釣り針を返しますが、兄は機嫌を直さないばかりか何のかんのとイチャモンをつけてきます。
山幸彦は海の神からもらったシオミツ玉で洪水を起こして兄を苦しめました。とうとう兄は降参し、生涯弟の家来として仕えると
約束しました。この海幸彦の子孫が、南九州一帯に住む隼人族で、言葉通り山幸彦の子孫である天皇家に、忠実に使えることに
なったそうです。
F誕生と別れ   
 
幼ない我が子に別れを惜しむトヨタマヒメ  トヨタマの乳房だという岩が残る鵜戸神宮 鵜戸参り/byジャンク
(私の弾き語り)
 
 やがて言葉通り妻のトヨタマが山幸彦の後を追って日向にやってきます。2人が楽しく暮らす中、やがてトヨタマは産み月を
迎え、産屋が完全に出来上がらないうちに産気づきます。「決して私のお産をのぞかないでください」と言って
彼女は未完成の産屋にこもります。見るなと言われれば一層見たくなるのが心情・・・山幸彦は我慢できず産屋の中を
のぞいてしまいます。
 何と、産屋の中では、大きなフカがもだえ、苦しんでいるところでした。トヨタマはフカの化身だったのです。やがて男の子を
抱いたトヨタマが産屋の中から姿を現して、涙を流しながらこう言います。「あれほどのぞかないでと頼んだのにあなたは
のぞいてしまった。恥ずかしい姿を見られた私はもうここには居られません。この子をよろしくお願いします」
 こうして、悲しみのうちにトヤタマは赤ちゃんを残して海の国に帰ってしまいました。帰るとき乳飲み子のために両の乳房を
岩に貼り付けて残したといわれています。赤ん坊は「お乳岩」と呼ばれるふくらんだ岩からしたたるしずくを飲んで育ちました。
産屋が出来上がらないうちに生まれたので、この子はウガヤフキアエズ(=産屋出来上がらず)と名づけられました。
 日南市の鵜戸(うど)神宮がその場所とされ、大きな岩のほこらの中に本殿があり、裏の岸壁に両の乳房を思わせる
丸いふくらみがあり、その先端からは水のしずくが滴っています。わが子と別れねばならなかったトヨタマヒメの悲しみが
伝わるような、はかないしずくです。このしずくで練り上げた「お乳飴(おちちあめ)」が境内で売られています。
 鵜戸神宮は古くから縁結びの神社として知られ、結婚すると新妻を乗せた馬のたずなを夫が曳いて参拝する「鵜戸参り」
風習が古くからありました。この参拝風習をモチーフにした曲「鵜戸参り」が昭和50年代ころ、ジャンクというグループが
歌ってちょっとしたヒットになりました。よかったら、私の弾き語り(上段右側)を聴いてみてください。
また、このコーナーの冒頭のシャンシャン馬は、鵜戸参りの風習を再現したもので、宮崎市の秋の神武大祭での出し物として
有名です。
 
Gお舟出・東征   
 
イワレビコの出発/神武東征
(このへんからキナ臭くなります)
お船出の地「美々津」の海 神武天皇が即位した
といわれる橿原神宮
(奈良県)
  
 ウガヤフキアエズの息子がカムヤマトイワレビコ、後の神武天皇です。日本を統一して大きな国にしたいと考えたイワレビコは、
兄たちとともに船団を汲んで、日向市美々津の浜から東征の旅に出かけたと言われています。初めて船の軍隊が組織された
ということで、この地に「日本海軍発祥の地」と書かれた大きな石碑が建っています。
 東征の出発の日の朝には、美々津の人々が祝いのお餅をつくってお見送りしようと準備してました。ところが予定が早まって
真夜中の出発が急遽決まってしまいました。彼らはあわてて、「起きよー、起きよーっ!」と呼びかけあって早起きし、準備した
もち米とあんこを一緒くたについて差し出したそうです。このまぜこぜの餅が、起床の掛け声に因んで「おきよ餅」として地元で
売られています。
 イワレビコの船団は、各地で長く苦しい戦いを続けながら次第に日本の国を統一していき、奈良県橿原で政権を打ち立て
た後、初代神武天皇として即位したのです。もちろん伝説ですが、弥生時代のどこかの時点で九州から畿内や東日本に
向かって行動を起こした勢力があったのかもしれません。 

 いかがでしたか。わりと面白い物語でしょう? 日向三代の話には、天上の神、山の神、海の神の
3つの神々の融和が描かれています。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの出会いと結婚、山幸彦とトヨタマヒメの
出会いと結婚がそれです。天上の神を大陸からの渡来騎馬民族、山の神を以前からの土着民族(縄文人?)、
海の神を沖縄やそれより以南の島々の民族と考えれば、わが国は決して元から単一民族だったのではなく、
色々な地域からやってきた複数の民族が長い間に同化してきたことを神話は教えてくれているような気もします。

 それにしても、海の国に行って歓待を受けて3年がたって帰るという話は、浦島太郎にソックリですし、
見るなといわれてもつい見てしまってひどい目にあうという話は昔話によく出てきます。何となく親しみを
覚えますよね。

 一方で日向三代のあとに始まる神武東征や、出雲の国譲りの話などは、日本という国家が成立する以前に、
間違いなく征服、被征服の血なまぐさい戦闘があったことを示しています。
 また、日本の神話は、西洋の聖書などのように、神さまを完全無欠な存在には描いていません。むしろ恋を
したり、美人を好んだり、貞操を疑ったり、ねたんだり、兄弟ゲンカをしたり、夫婦別居をしたり、わが子を愛しく
思ったりと、我々と同じような極めて人間的な存在として扱っています。どちらかというとギリシャ神話に近い
人間讃歌の物語ではないでしょうか。

 みやざきの神話・・・私は大好きです。





おがわ作小屋の秋(西米良村/令和2年11月)

宮崎県で一番小さな村西米良村の「おがわ作小屋村」を訪ねました。ところどころ紅葉が始まっていました。
     
     
   
   



私の好きな宮崎の風景(県内一円)

 宮崎生まれ、宮崎育ちの私スエさんが県内の大好きな場所、大好きな風景を何枚かupしてみました。

 
真夏の日南市の海岸です。さりげなく置かれた青みがかったベンチが
プロバンス風に思えるのですが、いががでしょうか?
  西都原(さいとばる)は、大規模な古墳群で知られてますが、春は桜と
菜の花が競い合うように、ピンクと黄色のコントラストを見せてくれます。
     
 
諸塚村は、亡き父の故郷です。山の斜面に何百年も前からあった父の実家は
春から初夏にかけて、お茶畑が鮮やかなグリーンに染まります。
  県北部の延岡市は、内藤藩の城下町、旭化成の企業城下町、そして鮎の
豊富な水郷都市としても知られています。毎年秋には鮎やなが造られます。
 
     
     
県外にも有名な高千穂峡ですが、いつもと違った方向から狙ってみました。    宮崎市の北側の平和台公園には、いろいろな表情の埴輪(はにわ)たちが集う
森があります。夏でも涼しくて、少年時代に自転車をこいでよく来てました。
 
 
えびの高原の大浪池です。引き込まれそうなエメラルドグリーンですが、
火山性の湖のため、魚は一匹もいません。
 
  私が勤務していた宮崎県庁前の楠並木通りです。今でも大好きな場所です。
     
     
えびの市に行くと、田んぼを守る神様「田のカンサァ」をあちこちで見かけます。
人が好さそうで、何となく宮崎県人によく似た風貌の神様です。 
  クラフトや民家レストランで県外にも有名な綾町ですが、圧倒的な照葉樹林に
育まれた清流綾北川、綾南川が国の名水百選に指定されています。
     
 
  宮崎市の母なる川「大淀川」の朝焼け風景です。河畔はかつてホテルが何軒も
並んで、観光宮崎のシンボルになってましたが、ほとんどがマンションに変わって
しまいました。これも時代の流れなんでしょうね。
   こちらは、宮崎市の南端、日南海岸の堀切峠です。フェニックスの木々間から
登る朝日も見どころの一つです。


 

宮崎のまつり・芸能(県内一円)

 カメラ片手に県内を歩き回って集めたお祭りや踊りなどのシーンをいくつかご紹介します。どれも地元の方たちが、
大変な苦労をして守り続けていることを、忘れてはいけないと思います。

 御田祭(おんださい)美郷町西郷区

西郷地区の田代神社に古くから
伝わる田植えの祭りです。
田植えの代かきのために
人、馬、牛が一体となって
水がはられた田んぼの中を
縦横無尽に走り回って、
豊作と無病息災を祈願します。
 裸参り
宮崎市青島地区


毎年旧暦の12月17日(現在は
1月の成人の日)に行われる
青島神社の冬のお祭りです。
神話の中で山幸彦が海の国から
帰られたとき、村人があわてて
衣類をまとう暇が無く裸のまま
お迎えしたと言う古事にちなみ、
約200名の男女が男はふんどし、女性はじゅばん姿で海で禊ぎを
行い、参拝するという全国的
にも珍しい祭りです。

   泰平踊り/
日南市飫肥地区


日向の小京都ともいわれる
日南市飫肥地区に伝わる
郷土舞踊です。身分制度が
厳しかった江戸時代に
武士と町人が一緒に仲良く
踊っていた様子を、今に
伝えています。
踊りは今町の鶴組と本町の
亀組の2つの流れがあり、
大きな朱紐のついた折れ
編み笠に顔を包み、着流しに
太刀の落とし差し、腰に印籠と
いう元禄時代の武士の粋な
衣装が特徴的です。
   雛山(ひなやま)
綾町


綾に古くから伝わる伝統行事で
女の子の健やかな成長を願う、
独特の雛まつりです。女の子の
初節句祝いのとき、家の中に
木や石を運んで作った“山”に
雛人形を飾るもので、現在は、
商店街の歩道から見える場所
にも飾られるので、観光客も
楽しむことができます。
   シャンシャン馬/宮崎市橘通ほか

宮崎には、昔から新婚夫婦が
鈴のついた馬に新婦をのせて
新郎が手綱を引き、海沿いの
鵜戸神宮に参拝するという
風習がありました。馬の鈴が
シャンシャンとのどかな音を
たてるのでシャンシャン馬道中
とも呼ばれています。毎年秋の
宮崎神宮大祭で、各企業の
女性が花嫁姿で馬に乗り、
道中を再現しています。
 ひょっとこ踊り/日向市

日向市塩見に伝わるユーモラス
な踊りです。昔子宝に恵まれない
夫婦がお稲荷さんに願をかけた
ところ、妻の美しさに魅せられた
お稲荷様が、手招し、ついていこうとする妻を、一緒にいた夫や近隣の村人が慌てて追いかけるという
シーンが、軽快でリズミカルな鉦
と笛と踊りで表現されています。
先頭がお稲荷様の化身のキツネ、
2番目が妻をあらわすオカメ、
3番目以降は夫や村人の
ひょっとこが、こっけいな仕草で
観衆の笑いを誘います。。



心象風景 もろつか(東臼杵郡諸塚村)

 県北の山間部に位置し、人口
3千に満たない小さな村「諸塚」は、
私の父母のふるさと、電力会社社員
だった父のかつての勤務地、そして
私自身が生まれ育った土地です。
 
 今はもう当時の建物や風景は殆ど
残っていませんが、その場所に立つと
「そうそう、ああだった、こうだった」と
幼い日のことが色々と蘇ってきます。

 1年に1回程度は祖父母の墓参り
などで訪れますが、前期高齢者に
なった今でも、私にとっては、心の
風景として刻まれた大切な村です。

 平成の市町村大合併にも従わず
独自の道を歩む我がふるさとは
私の誇りです。
  私は、諸塚の「滝の下」という地区で生まれました。団塊の世代の少しあとです。滝の下には、山の斜面に石垣が段々に
築かれ、電力会社の二棟続きの社宅が何十軒と立ち並んでいました。当時の社宅は子どもたちで溢れかえっていました。
男の子はチャンバラや鬼ごっこ、女の子は鞠つきやおじゃみ(小豆や大豆などを入れた布の小さな袋 標準語は
「お手玉」)などをしていたことをかすかに覚えています。

  どの家も、壁には当時の一般的な燃料であった「焚き物」・・・・いわゆる薪が積み上げられていました。炊事にも
お風呂にも焚き物は無くてはならないものだったのです。当時の父親にとって、「タキモンカルイ(薪を調達してくること)」と
「タキモンワリ(薪を斧で割り、燃やしやすい形にすること)」は、当然の仕事だったようです。(ガスや電気が普及した
時代の父親でよかったと思うスエさんです))

  社宅の建物はかなり前に取り壊され、今は村営住宅に変わりましたが、当時の石垣が懐かしい姿をとどめています。

  「滝の下」のそばの「柳原地区」から山道をかなり登ったところに、「家代(えしろ)」という集落があります。父の実家が
あるところです。私はおばあちゃん子で、小学生の頃は日曜になると祖母のいる家代に行ってました。山道をふうふう
いいながら登りあがると、下の畑のところで祖母が待っていてくれました。一緒に柿や栗をとったり、お風呂に入ったり
した思い出があります。その祖母も私が30代の頃に亡くなりました。94歳の長寿でしたが、悲しくてたまりませんでした。

 夏休みの頃は、自宅近くの七つ山川で毎日泳いでいました。かなつき(魚を突くもり)と水中めがねが必需品でした。
今でもきれいな川です。秋から冬にかけては、「くびち」という鳥の罠をしかけて山バトを捕ったり、アケビや山栗などを
求めて歩き回っていました。「原始的狩猟生活」の時代(?)でした。

 今でも印象に残っている「やま学校」という言葉があります。学校に行ったふりをして、山の中で遊ぶこと・・・
つまりサボることです。今の「不登校」と違い、何かワクワクするような楽しい響きの言葉だったように覚えています
諸塚村のHPでは、村が主催して山村体験をさせるエコツアーに「やま学校」の名前が使われています。
チャンバラごっこをしていた「滝の下」
※上段の白黒写真が当時の滝の下
と幼い頃の私です(昭和30年)
大好きな祖母が住んでいた父の実家 夏は毎日泳いでいた七つ山川

 私が通っていた諸塚小学校は、塚原地区(ここは母の実家があります)にあります。私が3年生のとき当時としては
立派な3階建ての鉄筋コンクリートになりましたが、今ではそれも建て替えられ、おしゃれな校舎に生まれ変わっています。
自宅から子どもの足で40分程度の山道を歩いて通学していました。

 ご覧のように(下段の左の写真)、夏は涼しい木洩れ日の道ですが、冬は積もった雪が凍り付いて、よくころびました。
当時は集団登校になっていたため、6年生が下級生をひっぱって「急がんか!」と登っていました。かなりの寒さ
だったんでしょう。手足にひびや霜焼けができたり、耳たぶが軽い凍傷になって血が出たりしていました。

   わが行くは 山の窪なるひとつ道 冬日ひかりて氷りたる路(牧水)

 小学校の遠足は、諸塚の山間地の中で数少ない平野と呼ばれている(かどうかは知らないが)
「池の窪(いけのくぼ)」か「恵後の崎(えごのさき)」に行っていました。「池の窪」は今グリーンパークとして
整備され、ハーブガーデンやログハウスがあるすばらしい場所になっていますが、当時は細い山道を一列に
なって登る厳しい遠足でした。

  「恵後の崎」は秘境椎葉に行く道沿いにあります。秋は広々とした黄金色の田んぼがとてもきれいな場所です。
「恵後の崎」といえば、死んだ父が村のある老婆のコメントをおもしろおかしく話していました。戦前、大陸進出の
野望を持った政府が、旧満州にたくさんの開拓団を送り込むために、その広大さ、すばらしさをしきりと宣伝していた
頃のこと。老婆はこんなことを言っていたそうです。

「満州がいい、満州が広いと大騒ぎしているが、なんぼ広くても恵後の崎ほど広くはないじゃろう。」

  若い頃は、「井の中の蛙」的なおもしろ話として聞いていましたが、終戦直後の満蒙開拓団の悲劇や、今も続く
中国残留孤児の人たちの辛酸を考えると、この老婆は、深い考えを持った人だったのではと思うようになりました。
彼女のいう「広さ」とは、物理的、金銭的なものではなく、ふるさとでつましく暮らしていく「心の広さ」だったのかも
しれません。
恵後の崎の静かなたたずまいを見るとつくづくそう思えてきます。
冬は積雪が凍って歩きにくかった通学路 小学校周辺(当時の建物はない) 遠足の定番だった恵後の崎平野(?)

  「滝の下」で幼少時代を過ごしたあと、父の勤務の関係で宮崎市に転居しましたが、小学2年のときに再び
諸塚の「吐の川」社宅に住むこととなりました。耳川本流と七つ山川が合流するところで、6万キロワットの出力を
持つ水力発電所のすぐそばでした。高い落差から落ちてくる水が発電機のタービンを回し、昼も夜も
「ウォン ウォン」という独特の音が周囲に響き渡っていました。今ではただの騒音になるのかもしれませんが、
当時の私にとっては子守唄のようなものでした。下の左の写真は私にとって忘れられない風景です。

  発電所の関連施設として水を大量にプールするための堰堤(ダム)があります。「吐の川」の下流の
「鳥の巣」という地区のダムに母の縁戚になる「Nおじさん」と「Uおばさん」の夫婦がいわゆる堰堤番として
住んでいました。二人ともすでに故人です。在職中一度も異動はなく、ずっと鳥の巣ダムとともに数十年間を
過ごした夫婦でした。別の仕事をしたいとか都会に住んでみたいとかいう希望をNおじさんが持っていたか
どうかわかりません。堰堤番の仕事に打ち込み、シシ(いのしし)撃ちと晩酌の焼酎を楽しみとして定年を
迎えました。

 ・・・・・プロジェクトXでもよく描かれていますが、世に知られないたくさんの人たちが、戦後日本の歩みを
支えていたのだと思います。
 そういえば、寒い冬の夜、変電所の夜勤に向かう父の背中に、母が必ず「ご安全に!」という言葉を
かけていたのを覚えています。何も起こらずに無事に勤めを終えて帰宅してほしいというのは、昔も今も
変わらない家族の切ない気持ちなのでしょう。

  旅に出て夜汽車に乗り、線路沿いの民家にポツンと灯った温かい電灯の光を見るとき、電力事業の
底辺にいた父やNおじさんたちの目立たない仕事を思い出してしまいます。私の弟が父と同じ電力会社で
頑張っています。

  ※追記(平成23年)
   未曾有の東北大震災に見舞われた今、福島の原発事故が大きな問題になっています。
   避難されている方、風評被害に苦しんでいる方、それぞれ大変な思いをされています。
   一方で、いつ果てるともわからず、放射能の危険にさらされて昼夜厳しい勤務に耐えている
   東京電力の人達のことをTVで拝見するたびに、亡き父やNおじさんたちの姿とダブッてしまいます。
   もちろん原発の是非や東電の責任は十分議論すべきですが、電力事業に従事する全国の社員や
   その家族が一方的に非難されているのを見ると切なくなります。
   水力も、火力も、原子力もみんな“社会を、家庭をすみずみまで
 明るくしたい”
という、強い使命感に基づくものだと思います。

父が勤務していた塚原発電所 父の夜勤の弁当を届けていた変電所 鳥の巣ダムと堰堤番の社宅跡


                                   



冒頭写真
趣旨

@項目地名 

   

     
     

   


   
   


 @項目地名 
趣旨
     
      
     


   
 

 A項目地名 
趣旨