ぶらり旅
 筑紫編(九州六県の旅)   

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ヒッパレー、ヒッパレー!(ヒットパレードクラブ/別府 平成30年3月)           
 
 
 近場ですが、おとなり大分の温泉地、別府に行ってきました。
数年前、東九州自動車道の全面開通後に宮崎-別府間は
定期の高速バスが走るようになり、我が家の近くのバス停から
約3時間半で別府に行けるようになりました。もちろんマイカー
でも行けるのですが、最近は長距離のドライブはかなり
疲れるようになったので、トイレ付きのバス旅にしました。

 宿で温泉にゆったりつかることも目的のひとつですが、
今回、ぜひとも行ってみたかったのは、別府市が誇る
ライブハウス「ヒットパレードクラブ」です。50~60年代の
いわゆるオールデイズと呼ばれるアメリカンポップスや
和製ポップス、グループサウンズなど、と゜ちらかというと私たち
よりやや年配世代の楽曲を、専属のミュージシャンたちの
パフォーマンスで楽しませてくれます。YouTubeでよく見てた
演奏を、生の迫力で楽しんできました。
 
  開演1時間前に席につき、妻とまず乾杯
 高速バスの車体には、日向を舞台にした
神話のキャラクターが描かれています
 ヒットパレードクラブは、別府駅東口
から歩いて約5分のところにあります。
開場は18時、ステージは19時からです
 予約料金、男性3000円、女性2800円で
ステージ間の入れ替えなし、飲み放題、
食べ放題の信じられない料金です

 19時、いよいよ1回目のステージが始まりました。往年の音楽番組のオープニングで使われた“ヒッパレー、ヒッパレー”の
メロディーに乗って、ボーカル2人、ギター、ドラム、エレクトーンの4人のバンドの登場です。女声ボーカルがサンディさん、
男声ボーカルがジーンさんというように、皆さんそれぞれステージネームを持っています。MCは特にいなくて、主に
サンディさんが少しおしゃべりを入れる程度で、1ステージ約30分を、次々に歌い、弾きまくって1晩に5回のステージを
こなすそうです・・・・・・
 ヒットパレードクラブは、もともと別府にあったキャバレーをライブハウスに衣替えして昭和63年にスタートしました。
経営難から一時休業もあったものの、何とか興行を継続してきたなか、思わぬ災難に襲われました。昨年(平成29年)
4月23日入居していたピルが、何と原因不明の失火で全焼し、衣装、楽器、音響システムなどを失ってしまったのです。
 そのままだと閉店に追い込まれたはずですが、地元の応援や店側の懸命な努力、そしてインターネットを通じた
募金活動などが幅広く展開され、半年足らずの仮店舗営業期間を経て、9月17日に現在の新店舗で再開された
そうです。こんなすばやい再建ができたのも、この店が別府市民だけでなく、全国各地に幅広いファンを持って親しまれて
きたからだろうと思います。

 平日だったのに、ステージが始まるとすぐに席は満席となり、サンディさんの歌に合わせて、リズムをとったり、
慣れた風に踊りだしたりするグループがあちこちに見られ、店内は盛り上がってました。

 私と妻は、とりあえずビールをもらい、ビュッフェ形式の食べ物コーナーに向かいました。鳥のから揚げ、ナゲット、ポテトチップスと
いった定番メニューのほか、各社のサラダ、フルーツ、ヨーグルト、パスタ、スープはてはご飯やカレーまであって、嬉しくなりました。
ほろ酔い加減になりながら、ステージを楽しみます。1つのステージで7~8曲の演目が演奏されますが時間はあっという間に過ぎて
しまいます。
 店内は、私たちのような“オールデイズ”のカップルだけでなく、けっこう20~30代の大学生、新人・中堅社会人らしいグループも
いました。びっくりしたのは、ポニーテールで60年代の衣装をびしっと決めたまだあどけない小学生の女の子と、私たちの孫くらいの
年齢(3~4才?)のリーゼント、蝶ネクタイでちっちゃなエレキギターを抱えた坊やが、ステージ前で踊りまくってたことです。
まさに老若男女入り乱れてという感じでした。
 この夜は、バケーション、ジェニジェニ、チューチュートレイン、のっぽのサリー(これは私のリクエストです)、ローズ、朝まで
踊ろう、マイボニー、愛の賛歌、真っ赤な太陽、ダイヤモンドヘッド・・・・・その他たくさんの楽曲を楽しませてもらい、第3ステージが
終わった9時半すぎ頃に店をあとにしました。満腹になった胃袋と、激しいリズムにさらされてやや痛くなった腰やひざと、そして
大いにみたされた心をかかえながら。
   
 私が撮った動画を3つ挿入します。
地方とはいえ、プロの演奏なので、撮影は一切NGと思ってた
のですが、スタッフに聞いたら、写真だけでなく、動画も
OKで、フラッシュ撮影だけはご遠慮くださいとのことでした。
 
Sandyさんが歌う“ローズ” 
ベンチャーズのヒット曲“ダイアモンドヘッド”
インストゥルメントも素晴らしいものでした。
ほとんどの客がノッて踊りまくってました。
もちろん私たちも・・・・ 

                                                                        (30.03.18Up)






軍艦島クルーズ(端島/長崎沖 平成26年11月)

 軍艦島って知ってますか? 正式には端島(はしま)といい、長崎市の沖合約20kmの海上に浮かぶ島です。そのシルエットが
軍艦のように見えることからこう呼ばれています。周囲1.2kmの小島ながら、最盛期には5700人もの人が暮らし、世界一
人口密度の高い場所だったそうです。良質の石炭が採れたため、三菱直営の採炭地となり戦前から昼夜を問わず採掘作業が
行われていましたが、石油へのエネルギー転換のため、昭和49年、あっという間に見捨てられ無人島となってしまいました。
 長く上陸が禁じられていましたが、最近厳しい条件のもとでの上陸クルーズがあると聞き、長崎で開かれた学会に行った
ついでに参加してきました。  
クルーズ船の船体には「Black Diamond」
とかかれています。旅から帰って気づいた
のですが、おそらく軍艦島で掘られた石炭
が「黒いダイヤ」と言われたからでしょう
あまり大きくない船なのに200名は
乗れるそうです。1時間も前に船着き場
に行ったのに、もう行列ができてました
午前9時40分に、長崎港を出港です

軍艦島(端島)/Wikipediaより要約

長崎港から南西の海上約17.5kmの位置にある島。江戸時代、ごく小規模に露出炭を採炭されていた。1869(明治2)年
以降、採炭に着手した業者がいたが、困難を極めようやく36メートルの第一竪坑が完成し本格的な採炭が始まった後、

1890(明治23)年、三菱財閥へ事業が譲渡された。以後社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給の
開始、社立尋常小学校の設立などの居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられていった。
(1897~1931年)。

 1916(大正5)年も日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設された。島の外観を「軍艦とみまがふ」との
報道から「軍艦島」と呼ばれるようになった。

 端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、日本の近代化を支えてきた。最盛期には約41万トンを生産し、人口も最盛期の
1960(昭和35)年には5,267人となり、人口密度は83600人/km²、東京特別区の9倍以上と世界一に達した。炭鉱施設・
住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備も
あった)・寺院「泉福寺」・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」・銭湯・
プールなどがあり、島内においてほぼ完結した生活を送れる都市機能を有していたが、火葬場と墓地、十分な広さと
設備のある公園だけは島内になく、近くの中ノ島に建設された。
    


当時の島の暮らし(「軍艦島上陸クルーズ」のHPより)

     
朝市                  坑道に入る炭鉱マンたち            高層住宅(左)とその階段(右


 
しかし、1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行により徐々に衰退し、1974(昭和49)年1月15日
ついに閉山となった。約2000人まで減っていた住民も4月20日までに全て島を離れ、ついに無人島になるという
衝撃的な結末を迎えた
 島は所有していた三菱から、2001(平成13)年、高島町(現在長崎市)に無償譲渡されたが、島内への立ち入りは
長らく禁止された。

 以後島の建物の崩壊が進んだが、2000年代になって、端島の近代化遺産として、また大正から昭和に至る
集合住宅の遺構としての価値が注目されるようになり、おりからの廃墟ブームの中で話題にあがることが
多くなった。
 このような中、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」の
2条例が成立し、島の南部に整備された見学通路に限り、2009(平成21)年4月22日から一般人が上陸・見学
できるようになった。上陸する観光客が急増しているが、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしている
ことが条件になっており、長崎市では上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる。軍艦島上陸ツアー
による経済波及効果は65億円に上る。  
 
 一方で世界遺産への登録をめざす運動がが行われるようになり、2006年8月には経済産業省が、端島を含めた
明治期の産業施設を世界遺産への登録を支援することを決定し、2009(平成21)年1月「九州・山口の近代化産業
遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載された。本登録への取組は今も続けられている。
約1時間の航海で・・・端島の姿が見えてきました。まさに洋上に浮かぶ軍艦そのものです。そばに別の会社の白い
クルーズ船がいましたが、黒い軍艦に近づく補給船のように見えました。聞くところによると、大正年間に長崎のドックで
造られていた「戦艦土佐」にそっくりだったそうです。それにしても、外海に出ると波が急に荒くなり、さほど大きくない船は
立っていられないほど揺れ始めました。
 当日は相当波が高く、船は何回か接岸を試みましたが、残念ながら上陸はできませんでした。残念でしたが、安全のためには
これで良かったと思います。
 30分ほど島の周囲をめぐりながら説明をうける周回クルーズに変更されましたが、かなりの人が船酔いしていて、ビニール袋を
もらって嘔吐している方もいました。おまけに1室しかない船のトイレは給水装置が壊れて使用不能となり、かなりハードな
クルーズでした。私も少し気分が悪くなりましたが、幸い、嘔吐するほどではなく、船内をあちこち移動してシャッターを切りました。
ここからYouTubeにUPした動画がご覧いただけます。) 
  上の2枚は、島の裏側です。上陸しても見学できないエリアで病院、学校などのほか「端島銀座」と呼ばれてにぎわった
“繁華街”もあったそうです。危険な炭鉱労働のため高給取りだった島民の生活水準は高く、30年代には普通の家庭では
3割程度しか持っていなかったテレビの保有率はほぼ100%、アパートにはエレベータが設置され、映画館では長崎本土
より早く一番に新作が封切り上映されたとのことです。また、病院には手術室や大きな伝染病隔離病舎があり、当時としては
高度な医療が行われていたようです。
(このあたりの動画もYouTubeにUPしています。ここからどうぞ。)
  周遊の後、船は軍艦島を離れて帰途
に就きました。途中、高島という港で休憩
です。空模様も回復し、波も収まり
乗客は一様にホッとした表情です。
  高島には、軍艦島の精巧な1/100の
ミニチュアが展示されていました。これを
見ると本当に建物が密集していて、
当時のエネルギッシュな生活感が
感じられます。
 軍艦島の炭坑を運営していた
三菱財閥の創始者 岩崎弥太郎の
銅像がありました。 

(26.11.22up)



島津斉彬の夢(鹿児島 磯庭園 平成19年4月)
 今年(平成20年)のNHKの大河
ドラマは「篤姫」です。

 かなり前の「翔ぶが如く」以来、
久しぶりに幕末の薩摩が舞台になって
います。

 幕末の薩摩といえば、忘れては
いけないのは島津斉彬です。篤姫を
養女にして時の将軍徳川家定の正室に
送り込み「翔ぶが如く」の西郷隆盛を
手足のように使いこなし、明治維新の
礎を造った殿様として知られています。

 思い立って磯庭園に行ってきました。
宮崎からクルマで約3時間のところに
ある、島津氏ゆかりの庭園です。

 斉彬の弟で薩摩の「国父」と
いわれた久光が明治維新後も住んだ
別邸や仙巌園と呼ばれる庭園、
斉彬由来の博物館(尚古集成館)などが
あります。
快晴の一日でした。庭園から桜島や錦江湾の素晴らしい眺めを堪能できました。
仙巌園入り口の朱塗りの御門 別邸の和服姿のガイドさん 珍しい形の「鶴灯籠」 斉彬が日本初の
ガス灯をともした灯籠だそうです
名物「焼き芋シャーベット」
斉彬が建てた機械工場「集成館」・・建物は幕末のときのままです

 島津斉彬は、第10代薩摩藩主・斉興の長男として江戸摩藩邸で生まれました。 「高崎崩れ」と呼ばれるお家騒動ののち、40過ぎで
やっと11代藩主となり、西洋式の反射炉、溶鉱炉、地雷、ガラス、ガス灯、大砲、軍艦の製造などに取り組み、薩摩藩の富国強兵策を
推し進めました。一方で、福井藩主松平春嶽、幕府老中阿倍正弘らと幕政改革を論議したり、将軍徳川家定の正室に養女篤姫
(天璋院)を嫁がせたり、身分の低かった西郷吉之助(隆盛)・大久保一蔵(利通)らの登用を行うなど、後の明治維新の基礎をつくった
人物といえます。

 また、斉彬は現存するなかでは日本で最初の写真のモデルとなった人物としても有名です。わずかに陰影が残る斉彬の銀板写真を
私は昔、博物展で見たことがあります。自らも写真機を使っていたらしく、自分の3人の娘たちを写した写真(こちらはかなり鮮明)が
残されるなど、子煩悩なところもあったようです。しかし跡継ぎの息子たちは夭折し、自らも50才で急死(暗殺という説もある)し、夢半ば
の人生でした。

 大藩とはいえ日本最南端の外様大名だった人物が、なぜ当時の中央政府である幕府にものが言えたのだろうと歴史好きの私は
疑問に思っていました。幕府自身が弱体化していたことや、斉彬自身の老中・他藩藩主たちとの交友関係もあったのでしょうが、最近
彼の血筋について興味深い記述を見つけました。

 母の周子は、父方が鳥取藩主の池田家、母方が仙台藩主の伊達家でありその祖先はそれぞれ徳川家康と伊達政宗に連なっている
そうです。西洋的な思想を持っていた斉彬であっても、たぶん「毛並みのよさ」という極めて日本的な考え方に基づく優位性が彼の
発言力のもとになっていたのかもしれません。

 西郷や大久保に代表される明治維新ですが、その原動力を築いた幕末の殿様に思いをはせながら、磯庭園をあとにしました。
                                                                 (20.2.8 UP)




炭鉱の町(田川・飯塚 平成18年9月)  


 香春岳は異様な山である。けっして高い山ではないが、そのあたえる印象が異様なのだ。福岡市から国道201号線を
車で走り、八木山峠をこえて飯塚市をぬけ、さらに烏尾峠とよばれる峠道をくだりにかかると、不意に奇怪な山の姿が
左手にぬっとあらわれる。標高にくらべて、実際よりはるかに巨大な感じをうけるのは、平野部からいきなり急角度で
そびえたっているからだろう。南寄りのもっとも高い峰から一の岳、二の岳、三の岳とつづく。一の岳は、その中腹から上が、
みにくく切りとられて、牡蠣色の地肌が残酷な感じで露出している。山麓のセメント工場が、原石をとるために数十年に
わたって頂上から休まずに削りつづけた結果である。雲の低くたれこめた暗い日など、それは膿んで崩れた大地のおできの
ような印象を見る者にあたえる。それでいて、なぜかこちらの気持ちに強く突き刺さってくる奇怪な魅力がその姿にはあるようだ。
                                                      (五木寛之「青春の門 筑豊編」)


 学生時代に読んだ「青春の門」の書き出しの部分です。私が学生時代を過ごした福岡は、商人と武士の町福岡(博多)と
工業の町北九州が二大都市として有名ですが、内陸部の筑豊地方は、明治以降日本の工業力を支え続けた地域です。
 明治維新後、製鉄・発電・紡績・蒸気機関車などの需要から、筑豊地方は石炭の供給地として栄えました。

 今回旅した田川市の石炭記念公園は、旧三井田川炭坑の伊田坑の跡地です。ここには、“あんまり煙突が高いので・・・”と
炭坑節で歌われた大きな二本の煙突が今も残っています。掘った石炭を地上に巻き上げる蒸気機械(動力は当然石炭です)
から立ちのぼる煙をもくもくと吹き出していたそうです。
 2本の大煙突  当時の伊田坑の様子 
 明治・大正の頃は、男も女も裸同然で高温の坑内にもぐり、手作業で採掘と運搬を行っていた!
昭和以降は機械化が進んだが、それでも危険な重労働で
あることには変わりなく、私が子どもの頃も、「○○炭坑で
落盤事故があり△△人死亡」というニュースがよく流れていた。 
 当時採掘されたでっかい石炭の塊
 

  炭坑周辺には、働く人たちの社宅が棟割り長屋形式で作られていた。炭坑住宅・・・略して「タンジュウ(炭住)」と人々は呼んだ。
再現された炭住には当時の生活がそのままの形でありありと描かれている。私が小さい頃、父の勤務の関係で住んでいた
電力会社の社宅もちょうどこんな感じだった。ちょっと異なるのは下の中の写真だが、炭住では家庭のエネルギーが
石炭(無煙の処理をされたもの)だが、電力会社のほうはたくさんの薪だったこと・・・・
 



 飯塚市にある何の変哲もない3つの山
・・・実は掘った石炭のカラを捨てた
ボタ山が積もり積もってこんな高さに
なったものだそうです。
   


 青春の門が映画化された際に挿入歌として作られた
織江の唄」(山崎ハコ作曲/五木寛之作詞)

遠賀川 土手の向こうにボタ山の三つ並んで見えとらす・・
と、上の画像そのままの風景が歌い込まれてます。

 (私がこの歌をギターで口ずさむと、妻は「そんな暗い歌は
やめて!」と本気で嫌がります。)

                                                                      (21.03.01up)



山のぼせ達の夏(博多祇園山笠 平成18年7月)
 夏・・・・・
男たちは夢をみる。鉢巻き、ハッピにふんどし姿で約1トンの
山を舁(か)きながら博多の町を駆け回る

 宮崎からの高速バスに揺られること約4時間、天神のバスターミナルに3時前に着きました。市役所前の通りに
かけつけると道の両脇にはすでにたくさんの人垣ができています。きょう7月13日は、山笠の「集団山見せ」の日です。
もともと商人の町博多区域内のお祭りだった山笠を、武士の町福岡までに見せにきてほしいという福岡市の要請を
受ける形で、「山見せ」が始まったのは昭和37年のことだそうです。山笠の「山」とは博多の各町(流れといいます)
ごとにテーマを決めて人形や情景を飾り付けて担ぐ一種の御みこしのようなものですが、乗るのはご神体ではなく
「台上がり」と呼ばれる指揮者です。

ちょうちん 今か今かと待つ沿道の人たち 法被の男たちが水をまき始めました

 流れは現在七つあり、あさっての追い山のときの順番で、今年は一番「恵比須流れ」、二番「土居流れ」、三番
「大黒流れ」、四番「東流れ」、五番「中洲流れ」、六番「西流れ」、七番「千代流れ」となっています。

 今年の一番山笠「恵比須流」が呉服町を出発するのが3時半、以後七番の「千代流」まで5分おきに出て行きます。
ちなみに、この出発を「舁(か)き出し」と言います。明治通りを市役所まで、一直線に約1.3kmの道のりを1トンの
山が走り込んできます。

抱かれて、肩車で、手を引かれて、そしてグループで・・・色々な格好で子どもたちの登場です

 市役所前で心を躍らせて待っていると、来ました、来ました。まず、それぞれの流れの名札を抱えた子どもたちが先頭
です。山笠というと、荒っぽい大人の男たちの祭りというイメージがありますが、色んな場面で小学生やそれ以下の子ども
たちが関わっていることに気づきました。

 自分と同じふんどしにハッピ姿の子どもや孫たちを、肩車したり、だっこしたり、あるいは手を引きながら満面の笑みで
通り過ぎる男たち・・・激しい祭りのはずなのに、これは一体どういうことなんだろうと考えてみました。山笠は鎌倉時代
から続けられている古い祭りです。一説によると「疫病退散」の祈願がルーツだとか。当時、子どもを健やかに育てる
ことは大人たちの切なる願いだったはずです。地域の中で子どもの成長を見守るという気持ちが、800年近くあとの
現代も息づいているのかも知れません。親が子どもに虐待を加えたり、命を奪ったりする殺伐としたニュースの多い
今、ほのぼのとしたものを見せてもらったと思います。

舁き手、台上がり、走る者、山を囲んでかけ声を出しながら走ってくる男たち

 子どもたちのあとに、舁き山がなだれ込んできました。鮮やかな人形たちを載せて、「オイッサ、オイッサ」のかけ声と
ともに。盛んに拍手がわき起こります。100万都市福岡の繁華街を、褌一丁で走り回ると、普通では「いかがなものか?」と
なりますが不思議と違和感がありません。何百年も続いてきた祭りだけに、博多の土地そのものになじんでいるのでしょう。

 山は5分おきに駆け込んできては、ゴールの市役所前のお偉方に表敬の一礼をして消えていきます。山にも舁き手の
男たちにも盛んに水が浴びせられます。これを「勢い(きおい)水」といって、炎天下の祭りである山笠には、
無くてはならないものです。

 たった40分ほどの間に七つの山が通り過ぎて男たちも消えたら、市役所前は人だかりも散り、またたく間に
普通の夕方のオフィス街に戻ってしまいました。あっけないほどのあっさりした持ち味も山笠独特のものかもしれません。

法被は左から、中洲流れ・東流れ・千代流れ・・・・・・見るだけでも楽しい色んな図柄の背中です

 翌朝、わくわくした気持ちで目覚めました。午前中は、十数カ所に造られた「飾り山」を見て歩く予定です。
朝食もそこそこに博多の町に飛び出しました。

 ここで、私のウンチクぐせをちょっと・・・。山笠のシンボルである「山」ですが、男たちが担いで回る「舁(か)き山」と
大がかりな飾り付けをした「飾り山」に大別されます。舁き山はコンパクトにまとめられていますが、
それでも人が何人か乗ったりして、おおよそ1トンはあるそうです。私は当然、車輪がついていて転がすのだろうと
思っていたら、下には何もなくただひたすら担いで走り回る仕組みです。山を舁くには、かなりの体力・持久力・
気力が求められるようです。
 
 見て回って気づいたのですが、舁き山は7つの流れごとに毎年造っているようですが、飾り山は、企業協賛形式で
色々な場所に造られているようです。材料は木、紙、布といったものなんでしょうが、質実な舁き山に比べ、
飾り山はとにかく艶やかで、でっかくて、構図も工夫がこらされています。描かれるテーマも古今東西、様々な分野から
何でもありといった題材が使われています。「誰でも知っている分かりやすいもの」というのが、唯一のコンセプトかなと
思いました。

 ホテルのある長浜から、天神の新天町→西鉄福岡駅裏のソラリア→中洲4丁目→上川端→下川端のリバレイン
→呉服町→千代町と、炎天下の中を5時間ほど歩き回りました。(全て徒歩です。私もホントに物好きだと思います)
約10か所の飾り山を見ましたが、人形たちも、背景も息をのむほどの鮮やかな色彩で造られています。ドラえもんや
母に捧げるバラードなど、ほのぼのとした気持ちにさせてくれる山も飾られていました。

 源平時代の木曽義仲と巴御前の
活躍を描いた倶利伽羅峠の戦い
福岡といえば太宰府、太宰府と
いえば天神さま 菅原道真です
ヤマトタケルノミコト・・神話の世界の
ヒーローも描かれています

 飾り山はいったい誰が作るんだろう? 調べてみました。まず人形ですが、博多人形を手がける人形師の人たちが
制作するのだそうです。下絵を描き、割り竹で形をつくり和紙を貼って博多織などの着物を着せて仕上げるとのこと。
顔の部分はオガクズと和紙を併せたり、ウレタンを彫ったりして整えます。そして飾り付け。毎年7月1日の公開に向けて
6月下旬に取りかかります。

 わく組みだけの山に登った作業員に、制作した人形師が下から指図しますが、取り付け位置の微調整が必要なときには
、「右」だ「左」だとは言わないそうです。使う言葉は博多の東西の土地の名である「箱崎」と「姪浜」・・・「もすこし箱崎へ」、
「姪浜寄りにして」といったかけ声が飛び交います。

渡辺綱の羅城門の鬼退治の話
むかし話で聞いたような・・・
 ごぞんじドラえもん。のび太、静ちゃん、
ジャイアン、スネ夫・・・・・おなじみの
メンバーがいきいきと描かれた楽しい山です
武田鉄矢さんと母のイクさん・・・そうです
「母に捧げるバラード」がテーマです

 もう少し、私のウンチクにお付き合いください。中洲から春吉橋を渡ってすぐのところに櫛田神社があります。山笠はもともと、
この神社に奉納される夏のお祭りなのです。歴史をひもといてみました。1241年(仁治2年)に博多の承天寺の開祖
「聖一国師」が、町の人たちが担ぐ台に乗って甘露水をまき、悪疫退散の祈願をしたことに始まるそうです。

 下って1432年(永享4年)の文献に、人形を載せた台を担ぐ「櫛田祇園祭」の記述がみられ、櫛田神社に奉納される今の形が
すでに整っていたことが伺えます。山笠を担う博多の七つの町内組織を「流(ながれ)」といいますが、九州遠征(島津征伐)を
終えた豊臣秀吉が、1587年(天正15年)に荒廃した博多の町の自治組織の制定(町割り)を行い、これを「流れ」と称したことに
始まるそうです。それから江戸・明治・大正・昭和と盛衰を繰り返しながら今の形になってきたようです。800年近い歴史を持つ
祭りは全国でもそんなにないのではと思います。




清道旗で


棒を担ぎます
櫛田神社の鳥居 山はこの境内でターンします

 毎年、山笠のとりこになっている男たちのことを「山のぼせ」とか、「のぼせモン」とかいうそうです。商売人が多かった昔は、
シーズンが近づくと旦那たちはソワソワとして家業も上の空になるため、しっかり者の奥さんが商売を取り仕切ったとのこと。

 山笠に血道をあげる旦那(ご亭主)と、厳しく商売に取り組む奥さん(ご寮さん)の様子が、「博多子守唄」に
ユーモラスに描かれています。

 博多柳町 柳はないが、歩く女郎衆が 柳腰
 うちの御寮さんな、がらがら柿よ。 見かきゃよけれど、渋うござる。    
 うちのご亭主(てい)どんな、位(くらい)がござる。 なんの位か、酒喰らい。                    

男としては何かののぼせモンになれるというのは幸せなことかもしれません。今では「夢を見る」というキレイな
言葉で表しますが、奥さんはたまったもんじゃないかもしれませんね。

 さて、汗びっしょりになった体で、お昼過ぎにホテルに戻りシャワーをして、2時間ほど仮眠しました。
午後4時前に再び中洲に足を運びます。4時から中洲流れの、5時から大黒流れのそれぞれの
「流れ舁き」が始まります。「流れ舁き」とは流れの中すなわち自分の町内を舁いてまわり、明日の本番「追い山」の
ための大事な調整になる行事です。

未来の赤テノゴイたち 夜の街中洲もきょうは昼の街です

 中洲の飾り山が立っている所で待っていると、各町の男たちかけ声をかけながら集まってきました。中洲流れの舁き山は、
でっかい猿です。そう、西遊記の孫悟空をかたどっています。いつもは夜の歓楽街になる通りを、水ハッピにふんどし
姿の男たちが山を囲んで走り回りました。ここでもおおぜいの子どもたちが先頭を走っていきます。

三番山の大黒流れ

 5時が近くなってきたので、こんどは川端町のリバレインの裏側にまわり、大黒流れの舁き山に行ってみました。こちらも
各町からのグループが次々と集まってきます。流れの長老たちが待つ舁き山の所に集まると、鉢巻きを取り、一礼したあと
手拍子であいさつを交わします。よく聞いていると2,2,3拍子という独特な手打ちでした。どのグループも集まるたびに
この手拍子をしてから列に入っていきます。

 軍国主義的な敬礼でもなく、政治家風の「いやあドーモドーモ」でもない、見ていて清涼感のある爽やかなあいさつでした。
手拍子の音で気もひきしまります。これから行うのは祭りとはいえ、まかり間違えば命の危険すらある作業なのです。
危険性といえば、ふと気づいたのですが、道路脇のポールや石の柱などには、柔らかなスポンジのようなものが
巻き付けられ、青いビニールシートにくるまれてました。山が蛇行したりして、これらのポールにぶつかると舁き手が
大変なケガをします。一見荒々しい祭りですが、こういった安全への細かい配慮がなされているのに初めて気づきました。

あいさつとして手が入ります 勢揃いした大黒流れの男たち 事故防止のための細かい配慮が・・・

 やがて、5時。大黒流れの舁き山が動き始めます。追い山の前日で気心のしれた町内ということもあり、体力的にも精神的
にも、最後の予行練習的な意味もあるようです。かなり多くの舁き手が交代しながら次々と肩を入れて舁いています。勢い水
が何度も、何度もかけられます。馴れない者も先輩や長老たちから厳しく指導を受けながら一人前の舁き手になっていくんで
しょう。

 やがて、「オイッサ、オイッサ」のかけ声を残し、山が上川端の通りを走り抜けていきました。勢い水が打たれた
アスファルト道路の上を、ひとときの風が吹き抜けます。私の前の若い女性が、突然私の方を向いて、博多弁で
つぶやきました。

「ああ、よかね~ 博多ん誇りタイ」

 よそ者の私ですが、その時ほんの一瞬だけ自分が「博多んモン」になった気がして、「ほんなこつよか」と思わず
博多弁で返してました。留年2年を含め6年間の学生生活を送った博多の町・・・・・博多はやっぱり私の第2のふるさとでした。

 あした15日は、いよいよ山笠のグランドフィナーレ「追い山」です。今年の一番山「恵比須流れ」は早朝4時59分に櫛田入りを
します。人混みを考えると真夜中の2時過ぎには櫛田神社に行った方がよさそうです。神社のすぐそばのホテルを早くから予約
していたのも明日のため・・夕食をさっさとすませ、午後7時にはホテルに帰って寝ました。

台上がりの男たちの体から汗が飛び散ってました ぴったりと舁き手の息が合っています 勢い水

 7月15日午前2時きっかりに目を覚ましました。ホテルのすぐそばの櫛田神社に再びでかけます。あたりの道はもう黒山
の状態です。もう一度言いますが、時刻は真夜中の2時過ぎなのです。祇園山笠の追い山が、いかに沢山の人たちに
親しまれているかがわかります。

 各流れの舁き山が、櫛田入りの順に沿道に並び始めました。舁き手の腰には、大きな山舁き縄が結わえられています。
この縄を持ち場ごとに6本の棒に巻き付け山を担ぐ(舁く)のです。台上がりの人は静かに前方を見つめています。彼らが
山のリズムを取り、全体の指揮をします。

 昨日の飾り山と違い、コンパクトな舁き山ですが、改めて近くで眺めると迫力があります。台の下に舁くための棒が6本
太い麻縄でがっちりと結わえられています。棒と棒の間は、人の頭がやっと入るほどの幅しかありません。これを二十数名
で担いで全力疾走するわけなので、転倒したら命に関わるような事故になることは容易に想像できます。特に中の方を
担ぐ人たちは、かなりの体力、敏捷さ、持久力が要求されるでしょう。見てる私のほうも徐々に緊張感が高まってきます。

東流れの山をバックに 肩書きを染め抜いた提灯が一斉に並びます

 足の踏み場もない現場で、私が陣取った場所は櫛田入りのスタート地点でした。申し分ない場所なのですが、ちょっと
困ったことに、勢い水をためる大きなポリバケツが幾つも置かれた場所でもあったのです。そばで二十歳前後のお兄さんが
二人、激しく吹き出す消防ホースを抱えて必死に立っています。

 聞くと彼らは学生のアルバイトとのこと。水の噴出の反動で今にもホースが飛び跳ねそうです。「手の感覚が無くなった」と
いいながらひたすらバケツに水をためていきます。「大変だけど時給どのくらいでやってるの?」と聞いたら「千円ぐらいかな」
という答えでした。時間を考えると3,4千円という額です。苦労のわりに安いような気もしますが、この兄ちゃんたちも山笠
大好き人間らしく、一生懸命です。

 次々に各流れの若者がやってきては布製のバケツに水を汲んでいきます。顔を洗う年配者もいます。汲まれた水が
舁き手の足下、肩が当たる棒のまわりなどにかけられていきます。しっかり湿らせておかないと大けがをする可能性が
あることは、経験のない私にもピンときました。

 みんな脇目もふらず水と格闘しています。「水が足りんぞ!」と怒鳴られながらアルバイトの兄ちゃんたちも必死で水を
ためていきます。ポリバケツから大きくはねる水しぶきで、前にいた私のジーパンもぐっしょりと濡れてきましたが、後ろの
人混みに身動きも取れないし、第一ここをいったん離れたらもうベストショットを狙える場所はgetできなくなります。濡れる
にまかせるしかありませんでした。水は容赦なくジーパン生地にしみわたり、足が冷たく、重くなってきました。パンツまで
しみわたっています。我が愛するカメラ(EOSのkiss)にハンカチをかぶせて水から守るのが精一杯の私でした。

水を手にする仕草にも年季が・・・ 次々と汲まれていく勢い水 はじける水で、何も見えなくなります

 ズブ濡れで待つこと2時間ほど、いよいよ一番山の櫛田入りの時刻です。「一槍動天(やり1本で天下を動かす)」と
書かれた加藤清正の人形・・・今年の一番山「恵比須流れ」がスタート地点に静止します。ベテランのオヤジさんが、
一升びんを抱えてきて、舁き手の若者一人ひとりの口につけて一口ずつ飲ませていきます。緊張の高まりとともに
アルコール臭が漂い始めます。

 「3分前」・・・「2分前」・・・「1分前」・・・・時刻を知らせるスピーカの声がするたびに、あれだけザワめいていた会場が
だんだんと静かになっていきます。「10秒前」・・・山を背負った男たちは前方の一点を見つめたまま、本当の静寂が
やってきました。、「5秒前」、「4」、「3」、「2」、「1」、「ヤァーッ!」男たちの叫びが静寂を破ります。
太鼓が響きます。山が突然浮き上がり、ものすごい速さで突進し始めました。(冒頭の写真)静から動への一瞬の転換です。
山とともに加藤清正の背中は右折して神社の境内に消えていきました。後からついて走る男たちも次々に境内に吸い込まれて
いきます。

舁き手が山のまわりに集まってきます 土居流れの台上がり 緊張感が高まってきました

 中は当然見えませんが、無事櫛田入りを果たしたのでしょう。スピーカを通して「恵比須流れ」の祝いめでたが聞こえてきます。
  祝いめでたの 若松さまよ 若松さまよ
 枝も栄ゆりゃ 葉もしゅげる
 エーイショエ エーイショエ ショーエ ショーエ
 ハア ションガネ アレワイサノ エソサエー ションガネー

 歌詞は山形の「花笠音頭」と似ています。調べてみると、元歌は伊勢地方の「北伊勢音頭」という説が有力とのこと。江戸時代の
一大イベントだったお伊勢参りに出かけた人たちが土産代わりに覚えて帰り、それぞれの土地で歌い出したために似たような
歌詞が全国に広まったそうです。

 そもそも、一番山のスタートが、なぜ5時じゃなくて4時59分なのか、一見中途半端に思える時刻なのか・・・前から不思議に
思ってましたが、今回追い山を見てわかりました。1分間のずれ・・それは多分、一番山笠を担う流れにだけ認められた
「祝いめでた」を唄う時間だと思います。

千代流れの大きなちょうちん 東流れの台上がり 西流れが入ってきました

 一番山笠恵比須流れの櫛田入りタイムは、32秒95でしたスピーカが速報でタイムを告げました。追うように拍手がわき
上がります。タイムは櫛田入りと全コースに分けて発表されますが、だからといって表彰されたり、賞品が出たりするわけでは
ありません。思うに男たちにとって「他の流れと競ってどうだった、こうだったではなく、自分として納得できるものかどうか」が
大事なんでしょう。実に潔いと思います。

二番山笠「土居流れ」のスタートです 七番山笠「千代流れ」

 

  櫛田入りを果たし、祝いめでたを唄った恵比須流れは、
休む間もなく明け方の博多の町に走り去りました。5分
後に二番山笠の土居流れ、そのまた5分後に三番山笠の
大黒流れと次々に櫛田入りしては消えていきます。
 
 ひたすら走り抜く姿に、凛とした男の潔さを感じました。
最後の山が走り去ったあと境内では鎮めの能が
行なわれます。
 私は須崎町の回り止めをめざして、5kmの道を走り
続ける舁き山ともう少しお付き合いしたくて、大博通の
ほうへ歩き始めました。

 櫛田神社は、元の静けさに戻りつつあります。きょうも
暑くなりそうです。
 博多っ子純情/歌:チューリップ  

                                                      (18.07.31UP)



帰るなき機をあやつりて(知覧 平成17年4月)

   帰るなき機をあやつりて 征きしはや
      開聞よ 母よ さらばさらばと  (鶴田正義)


 今回は鹿児島の小京都「知覧」の話です。

 薩摩半島のまん中にある知覧町・・・江戸時代からの武家屋敷とお茶畑がのどかに広がるこの町には、かつて陸軍の
特攻基地が置かれていました。アメリカ軍の沖縄への侵攻が現実味を帯び始めた昭和20年の3月頃、軍部は劣勢を
一挙に挽回しようとかねてから行っていた特別攻撃隊による戦いを強化することになりました。

 特別攻撃隊・・・「トッコータイ」と呼ばれたこの攻撃法は、戦闘機に片道分の燃料と250kgあるいは500kgの爆弾を
積んで敵艦に体当たりするものでした。現在の兵器であるミサイルはITにより目標物をとらえ爆発しますが、特攻機はITが
担う操縦性能を生身のパイロットにやらせる「人間ミサイル」とでも言うべきものでした。パイロットが生還できる確率は殆ど
0に近かったのです。春から夏の終戦までの早朝、彼らは愛機に乗って帰ることのない「旅」に出て行きました。

 生き残った元特攻隊員の方がこう言われていたそうです。

    出撃の朝、覚悟はしているものの、つらい瞬間が2度訪れる。1度目は愛機に乗り込むとき、
     片足を翼にかけてもう一方の足を地面から離す瞬間・・・もう自分は2度と生きて祖国の土を
    踏むことは無いんだという思いにとらわれる。2度目は、沖縄への空路として必ず通る開聞岳
    (九州最南端の山)の頂上が後ろの水平線に消える瞬間・・・

 体験者でないと語れない重い話です。

特攻観音へと続く初夏の桜並木 「とこしえに」の像と戦闘機 出撃までを過ごした三角兵舎


 裏手の駐車場から平和会館に向かう途中、三角の屋根をもち、半ば地面に埋もれた長い建物があります。特攻隊員
たちが出撃の日まで寝泊まりしていた「三角兵舎(復元)」です。中に入ってみると真ん中の通路の両側に粗末な毛布と
まくらが向かいあわせに並べられています。照明は薄暗い裸電球1灯のみです。

 当時は日本全国の人々が貧しくつらい生活をしていたとはいえ、20年前後のわずかな一生の最後の晩が、こんな寂しい
場所だったのかと思うと、何かやりきれない気がします。

 この兵舎から少し行ったところに日の丸のついた大きな戦闘機と、飛行服姿の若者の像が建っています。「とこしえに」
と名付けられたこの像は、昭和49年に知覧町の呼びかけに全国から集まった寄付金で造られたのだそうです。固く握り
しめた左手と対照的に、右手は何かを求めようとするかのように軽く前へ差し出されています。

 この像の横に、特攻隊員たちの遺影や多くの遺書が展示された「特攻記念平和会館があります。隊員の出身地は
全都道府県のみならず、当時領土だった樺太や植民地支配をしていた朝鮮半島も含まれています。

 遺書は原本が傷まないように、殆どコピーで展示されていますが、みごとな筆遣い、しっかりした内容のものが多く、
改めて当時の有能な知識人でもあった彼らの才能がうかがえます。両親へ先立つ不孝をわびるもの、残していく若い妻に
あてたもの、育ててくれた継母にどうしてもいえなかった「おかあさん」ということばを初めて伝えたものなど、思わず時を
忘れて読みふけってしまいました。

遺書が展示されている平和会館 ホタルの碑 鳥浜トメさんの富屋食堂(復元)

 なかでも、愛知県出身の久野正信さん(中佐 昭和20.5.24戦死 29才)の遺書は胸を打ちます。年齢からわかる
ように、この方は妻と1男1女を残しての戦死でした。原文は、まだ5才と3才だった幼子が読めるように、平易なカタカナ
文字で書かれた遺書です。   

   父は姿こそ見えざるも、いつでもお前たちを見ている。よくお母さんの言いつけを守って
   お母さんに心配をかけないようにしなさい。そして大きくなったなれば、自分の好きな道に
   進み、りっぱな日本人になることです。(父がいないからといって)人のお父さんをうらやんでは
   いけませんよ。「正憲」「紀代子」のお父さんは神さまになって、ふたりをじっと見ています。
   ふたり仲良く勉強をして、お母さんの仕事を手伝ってください。お父さんは、「正憲」「紀代子」の
   お馬にはなれませんけれども、ふたり仲良くしなさいよ。

                             (漢字かな混じり文への変換は私の判断です)

 遺していかねばならない我が子への想いが、便せんの行間からあふれていました。子を持つ父親として、万感胸に
せまり、読んでいて涙が止まりませんでした。

 当時、特攻隊員の世話をし、隊員たちから「知覧のお母さん」と慕われた鳥浜トメさんが生前語ったという韓国人の
特攻隊員や「ホタル」の話も心に強く響きます。映画「ホタル」やトメさんを描いた本でも有名になったエピソードなので
ご存じの方も多いと思います。

   ○韓国生まれで特攻隊員となった光山文博さんが出撃の前夜、トメさんとその娘さんの前で、
    ふるさとの歌「アリラン」を唄った。帽子を深くかぶって目を隠しながら唄う光山さんと一緒に
    唄ううち、3人ともいつしか泣いていた。


 当時植民地支配を受けていた日本の軍隊にあって、特攻に行かざるを得なかった朝鮮半島の方が、隊員名簿を見ると
11名記されています。

   ○出撃の前夜、宮川三郎さん(少尉 昭和20.6.6戦死 20才)がトメさんのところに来て、
     「明日敵艦をやっつけたら帰ってくると言った。「どうやって帰ってくるの?」と聞いたトメさんに、
    「ホタルになって帰って着る。」と答えた。翌日の夜、トメさんのところに 約束どおり1匹の大きな
    ホタルがやってきて白い花にとまった。

知覧は武家屋敷の町としても有名です 堅牢で独特な造りの門構え 緑がどこまでも続くお茶畑


 知覧に行くと、いつも色々なことを考えさせられます。「志願」という嘘っぱちの体裁の国家命令により、究極の決断を
強いられ、家族・友人・親しい人々などに別れを告げるだけでなく、自らの人生にも終止符を打たねばならなかった若者たちが
ほんの数十年前に数多く存在したという事実を我々は平和な暮らしの中にあっても重く受け止めていかなければならないと
思います。

 また、波に浮かぶ不安定な剛体である戦艦にはるかに小さな戦闘機が爆弾を抱いて衝突したとしても、科学的な観点
からは大きな戦果は生まれないということが分かっていたにもかかわらず、このような作戦を前途ある若者たちに強いた
当時の軍の指導者たちの無責任な方針や、いたずらに讃美して迎合した当時のマスコミや世論に対しても、強い憤りを
感じます。
 もちろん後世の平和な時代に育った私のような人間には窺い知れないものもありますが、隊員たちが、「自分はいったい
何のために死んでゆかねばならないのか?」と自問自答しながら南海の空を飛んでいったのではないかと想像すると
とてもやり切れません。

 特攻平和会館や、特攻観音に通じるかつて滑走路だった長い道には、何体もの石灯籠と桜の並木が植えられていて、
鮮やかな若葉が木洩れ日の中に揺れていました。あっという間にバッと散ってしまう桜を特攻隊員はことさら愛したそうです。
花が散った桜にはこうして若葉が繁りますが、彼らにとっての若葉の季節は永遠に訪れませんでした。(17.05.17UP)




サムライの終焉(田原坂 平成16年10月)  
駐車場にて

 熊本の田原坂まで車で行った。
駐車場に車を止め、車外に出る。
今にも雨が降り出しそうな曇り空。
人影はまばらである。きれいに
整備された田原坂公園に立って、
私は約130年前の戦いのことを
思った。

 雨はふるふる 人馬は濡れる 
越すに越されぬ田原坂・・・・・・民謡に
まで唄われた西南戦争最大の激戦
「田原坂の戦い」は、明治10年3月
4日から3月20日までの17日間に
わたってくり広げられた。唄のとおり
早春の冷たい雨が降り続く中での
死闘だったという。、

 攻めるも地獄、守るも地獄の
戦いの中で、当時の若者たちは
何を思いながら死んでいったの
だろう。
 三の坂
 公園のはずれに、田原坂の入り口があった。私は歩いて坂を下り始める。道はばは、車1台がやっと通れるほどの狭さだ。
勾配は緩やかで、ゆったりとカーブしている。道の左側にはのどかなミカン畑が広がっている。

 何の変哲もないただの田舎道である。西南戦争の激戦地として、小説やTVドラマで描かれた強烈なイメージから、大きく
急峻な坂道を予想していたが、あっけないほどの小さな坂道だった。こんなだらだら坂を奪い合うために、17日間もの戦いが
あったのだろうか?

 300mほど下った土手のところに、「三の坂」という標識が見えてきた。 坂を見下ろす私の今の視点は、当時の薩摩軍、
すなわち田原坂を死守する側の視点である。銃撃戦の場合、低い方から見上げながら攻めるよりも、相手を見下ろしながら
守る方が有利だという話を何かの本で読んだことがある。あとで「田原坂資料館」の文献で知ったのだが、実際、低い方から
坂を攻め上がらねばならなかった政府軍は、戦いの初日にこの三の坂まで迫りながら、占領までに17昼夜を要したらしい。

 薩軍陣地があった公園から、三の坂までは、ほんの300m程度・・・・・多くの戦死者を出した「越すに越せない」戦いが、実は
わずか300mの攻防戦だったということを、今回初めて知った。
 一の坂  二の坂  三の坂 

抜刀隊のこと
  苛烈を極めた戦いの一つに、「抜刀隊」の話がある。夜間に、
刀のみで決死の覚悟で切り込んでくる薩摩の抜刀隊に
手を焼いた政府軍は、これに対抗するため、3月14日に
警視庁の巡査を中心とした「官軍抜刀隊」を組織する。
刀と刀の壮絶な白兵戦の結果、両軍ともに多くの犠牲者を
出しながら、田原坂は3月20日、政府軍の手に落ちた。

  この、銃火器に頼らず刀だけで切り込むというやり方が、
日本陸軍の伝統として受け継がれ、日露戦争時の203高地
の「白たすき隊」、太平洋戦争時の南方諸島玉砕の際の
「バンザイ突撃」といった無謀な戦法につながっていったらしい。
やり切れない話である。

 警視庁抜刀隊には、多くの会津出身者が含まれていた。
戊辰戦争で、薩摩藩を中心とする官軍に多くの同胞を殺され、
故郷の山野を踏みにじられた旧会津藩の士族たちにとって、
遺恨をはらす千載一遇の機会だったのだろう。彼らにとって、
明治維新は終わってなかったのかもしれない。
西南戦争後に作られた「抜刀隊の歌」
勇ましい曲ですが、歌詞は悲愴・悲惨です

 

かちあい弾、弾痕だらけの土蔵  
  さらに坂を下っていく。緩やかに左にカーブする二の坂をすぎ、竹林が広がる一の坂にあっという間に
着いてしまった。公園から一の坂まではわずか1.5km。私の毎日のウォーキングコースの半分もない
短い距離だった。

 一の坂から再び公園に戻る。改めて思った。130年前に激しい戦いがあったことが信じられない
静かな坂だ。だが、この坂のあちこちから、今でも当時の弾丸が見つかることがあるらしい。戦いの間、
使用された弾丸は、政府軍だけで1日当たり32万発にのぼるという。

 公園の資料館には、珍しい「空中かちあい弾」が展示されていた。両軍が撃ち合った弾同士が、
空中で衝突し、くっつき合って地上に落ちたものだという。マンガに描かれそうな話だが、現実に至る所で
見つかっていると聞く。先がへしゃげて、いびつな形になった二つの弾に、当時の銃撃戦の激しさが
思われて背筋が震えた。

公園の一角に、戦いのすさまじさを伝えるものがもう一つあった。白い壁に銃撃の弾痕が無数に残る
土蔵である。長い年月に白壁のところどころが剥げ落ち、弾の痕をいっそう際だたせている。当時の銃声が
聞こえてきそうな不気味さがある。
 
 両軍の弾が衝突した「かちあい弾」
激しい銃撃戦だったことがうかがえる
 薩摩軍兵士の服装(資料館)  当時の弾の跡が今も残る土蔵

ラッパと琵琶  

かちあい弾や弾痕の土蔵など、悲惨な戦いの様子を伝えるものばかりの中で、少しだけ心が安らぐものを
資料館に見つけた。短いラッパと弦のない琵琶である。このラッパはフランス製で当時の政府軍が使って
いたらしい。士気を鼓舞する進軍ラッパと思われるが、余りにも小さくて可愛らしい姿に、心がなごんだ。

 一方の、琵琶だが重たくて持ちにくそうで、戦場には似つかわしくない楽器のように思えるが、うっかりして
説明を見損なった。そういえば西田敏行の「翔ぶが如く」か、里見浩太郎の「田原坂」のどちらかに
描かれていたように思うが、若い女性が薩軍に身を投じた恋人を追いかけてきて、弾が飛び交う戦場で
琵琶を弾き続けるというシーンがあった。死んでいく男たちの陰には、母、妻、恋人、娘・・・様々な立場で
深い悲しみに耐える女たちがいたことを伺わせる

     
 展示されたラッパと琵琶  静かな田原坂公園 「右手に血刀、弓手に手綱」と、
民謡「田原坂」に歌われた
馬上の美少年像


再び駐車場・・・雨
 西南戦争120周年を記念して建てられた田原坂の慰霊碑には、政府軍約6900名、薩摩軍7100名の
約14000名の戦死者の名が記されている。

 明治維新以降、各地で頻発した士族たちの反乱は、西南戦争を最後に終息し、世は自由民権の時代へと移っていく。
田原坂の戦いを、薩摩の士族、会津の士族、平民出の兵士・・・「色々な人たちが命をかけて演じた祭り」だったと
いうのは不謹慎な表現だろうか。千年近く続いてきたサムライという存在に終焉をもたらした最後の打ち上げ花火の
ようなものだったのでは・・・そんなことを思いながら車に乗り込むと、田原坂にポツポツと雨が降り始めた。
当時の兵士たちを悩ませた激しさはなく、優しい降り方の雨だった。




アラの宿(呼子 平成9年10月) 

 映画「男はつらいよ」にも出てきた呼子の港。今回は寅さんのように飯付きの和風旅館に泊まった。
「日浦屋旅館」というその宿は、港からタクシーで数分の波止場沿いにあった。

 夕食までまだ時間がある。電話をかけようと思い、帳場に降りてみると、玄関上がり口のところに、
畳1枚ほどの広さのいけすがあるのに気づいた。覗くと鯛や青物の魚が泳いでいたが、底のほうに
ケタはずれにでかい魚がじっとしている。とにかくでかい。ぶあつい唇と眠たそうな眼・・・・・アラだ。

 以前漫画の「美味しんぼ」に載っていたアラだ。少しも動かずじっとしている。漫画では、白身で
すばらしい味覚の魚として描かれていた。客の注文があれば刺身や焼き物にするのかと帳場の
女性に尋ねると、この魚だけは出さないとのこと。

 何でも、今は家を離れているこの旅館の息子さんが生まれた年にこの水槽で飼い始めて以来、
ずっと家族同然に養われてきたのだそうだ。
 「
今では、私たちの言うことや気持ちがわかるんですよ。」とこの女性。まさか」という私の表情を
みてとったのか、続けて語ってくれた。「
例えば、いけすにの他の魚をこいつが食べてしまうことが
あるんですよ。板場から怒鳴られるでしょ。そしたらこいつ、ションボリして動かなくなるんですよ。
もう身内みたいなもので、旅館の誰も料理に出そうなんて思っていません

 
 そういえば、このアラ、どことなく人間くさい。年老いた哲学者のような風貌にも見える。
いけすの底から何かを考えるようなふうで、私を気にとめるでもなく眺めていた。

呼子の港 日浦屋旅館 鯛茶漬けがうまかった



Ⓢ国境の島(対馬/壹岐 平成8年3月/9年10月)
 旅をするといっても、大部分が北海道、本州、四国、九州内をまわることが多いが、周辺の島々にも面白いところはたくさんある。
日本自体がもともと島国であり、ヨーロッパ諸国などのように国境というものを意識することはほとんどないが、2つの島はどちらも太古の
時代から大陸との交通のかなめであり、魏志倭人伝にもそれぞれ「對馬國」、「一支国」として記されていることや、13世紀の
元寇のときには、大陸からの軍隊の侵略を受けたことなどを考えると、まさに国境の島だと思う。
 平成8年~9年にかけて、たまたま福岡に行く機会があって、対馬と壹岐まで足を延ばしてみた。

①対馬の旅


福岡の空港を飛び立って1時間近くすると、対馬の切り立った海岸線が見えてきた。以外と近い。空港からバスで厳原へ行き、
まず県立歴史民俗資料館で対馬の歴史に触れる。

  対馬は国境の島である。古くは魏志倭人伝に「海を渡ること千余里。対馬国に至る。」と記され、朝鮮半島との交流を通じて
日本と大陸を結ぶ架け橋の役割を果たしてきた。ときには、元寇の時代のように元・高麗の襲撃を真っ先に受けるという悲惨な
歴史も残っているが、江戸時代になってからは、将軍家の代替わりのたびに訪れる朝鮮通信使の仲介を行い、鎖国期における
ある意味での国際化の担い手であったらしい。

 資料によると、当時の朝鮮通信使はおよそ500名の一大文化使節団であり、まず対馬藩が朝鮮まで迎えに行き、藩主が
警護して江戸まで半年かけて往復したという。藩主宗家が、藩の低い生産力にもかかわらず、10万石の高い格式を持って
いたのは、日朝貿易の莫大な富と、こうした国家的イベントを仕切る重要な役割を担っていたかららしい。今ふうにいうと、
「国際コンベンション藩」か。

 少し前に韓国の大統領が来日した際にスピーチで触れた「雨森芳洲」も江戸期の「国際交流功労者」である。対馬藩に
仕官し、対馬の学問、教育の興盛を築きくとともに、藩の交官として「誠外信交隣」の精神で善隣外交を実践した。
歴史上あまり知られていない人だと思うが、国際交流が声高に叫ばれる現代にあって、もっと評価されるべきだと思う。


「ろくべえ汁」と「かすまき」

  昼が近くなり、腹が減ってきた。「志まもと」という 郷土料理店に入る。メニューを見ると、「ろくべえ」というわけの
わからない料理に目が行った。対馬で昔から食べられてきた保存食さつま芋を砕いて発酵させ、麺にしたものとのこと。
かけうどんのように、だしの効いた汁の中に麺が浮かんでおり、ワカメや天かすなども入っている。つなぎがないとみえて、
ぷつぷつと切れるが、ほのかに芋の香りがあり、食感がよい。素朴で今まで経験してことのない味だった。

 外に出て、港のほうに歩いていく途中に、「かすまき」という看板の店を見つけた。かす=残り物を巻いたお菓子かと
思ったが、のぞいてみると、私好みのカステラ&あんこ系のお菓子で、試食してみたら以外と旨い。おみやげに一箱、
歩き食いに3本買って店を出た。説明書を見ると江戸時代に、参勤交代で帰ってくる藩主を迎えるために
考えられたという。津和野の源氏巻きや倉敷のむらすずめと同系の味だ。

 ろくべい汁を食す  朝鮮通信使の碑  万松院

万松院と武家屋敷
  港から、宗家の墓所の万松院に廻る。何でも、日本三大墓所(“三大○○”というのはよくあるが、お墓にも・・)の一つだという。
巨大な石灯籠がある段を登ると、歴代藩主や家族の無数の墓が立ち並んでいる。

  帰りの空港行きのバスに乗る前に、武家屋敷を歩いた。国境の島であっても、本土に残る武家屋敷と殆ど変わらない。
藩という地方分権制度が充実していた江戸時代でも、普遍的なサムライの文化がすでに行き渡っていたのだろう。

 対馬・・・もう一度じっくりと廻ってみたい島である。(14.12.10UP)

  

②壹岐の旅

レンタカーでいざ出発
  博多港をジェットフォイルで出港し、1時間近くすると壱岐の郷ノ浦に着いた。船を下りようとすると、岸壁で「レンタカー
6000円」のプレートを持って立っている男性に気付いた。バスを使おうと考えていたが、効率よく島内を廻るには
レンタカーのほうがいいかなと思い、1200CCのカローラを借りて出発。貰った地図を見てみると、ほぼ半日で島内を
一周して帰れそうだ。

 まず、港のそばの寒神社(さいじんじゃ)に行く。お宮の横に男性のシンボルをかたどったご神体(?)がチン座している。
縁結び、安産、夫婦和合、性病平癒の神様ときいて、なるほどと思う。それにしても見事なシンボルだ。

 続いて壱岐郷土資料館に行ったあと、島内の中央を南北に走る国道382号線を北上する。途中で、島の西部に温泉が
湧いていることに気付き、左の道に入った。湯ノ本の壱岐島荘という国民宿舎に立ち寄りお願いしたところ、外風呂を
することができた。早朝に出てきたので、熱い湯が気持ちよかった。
  ロビーでくつろいでいると、小さなみやげ物コーナーにカラフルな凧があるのに気付く。大きな目玉の怪物の下に兜を
かぶった武将の姿が描かれている。添え書きによると、むかし鬼の島といわれていた壱岐で「百合若大臣」という武者が
鬼退治をしたという伝説がもとになっており、この絵を描く人も少なくなっているらしい。一番小さな凧をひとつ買った。

無数の石猿
  更に北上し、北端の勝本町に出たあと、南東に進む。国民宿舎で教えられた男岳山にいく。駐車場で車を降り、
細い山道を登っていくと神社がみえてきた。境内の小高い斜面に、数え切れないほどの石のお猿さんが置かれている。
島の人たちが願をかけ、めでたく成就したときに、祭神の猿田彦に石猿を奉納する風習があるらしい。

 とすると、この石猿は過去からの夢が叶った象徴ではないか。一人ひとりの夢や希望が無数に寄り添っていると
考えると、境内の静かな雰囲気の中に、過去からの人たちの熱い想いが、この石猿たちを通してただよっているような
気がした。

 寒神社(後ろに例のシンボル) 奉納された石猿たち  腹ほげ地蔵  清石浜の観音岩

はらほげ地蔵
  更に南下し、芦辺地区から東に方向を転じ、八幡半島に向かう。このあたりは、清石浜(くよしはま)と呼ばれる
風光明媚な海岸線が続く。半島の端の左京鼻では、観音岩と呼ばれる昔の冠のような岩礁が青い海と白い波に
映えてきれいだった。

 この半島の戻り道にある食堂で昼食をとった。この民宿には「はらほげ」という面白い名前が付いている。はらは
「腹=おなか」、「ほげ」は「ほげている=穴があいている(九州弁)」という意味で、何でもこの近くに、おなかに穴の
あいた「はらほげ地蔵」という石の地蔵さんがまつられていることからの命名らしい。はらほげ食堂の名物は「うにめし」
とのことなので、刺身やさざえの壺焼きなどがついた「はらほげ定食」を頼んだ。店内は混んでいるが、話す言葉から
地元客が多いようだ。うにめしは、地元の海女が取ったうにをご飯に混ぜ込んで炊きあげたとのことで、生のうに
独特のどぎつい潮臭さはなく、ご飯と一体となった香ばしさを味わうことができた。

 店を出てから、くだんの「はらほげ地蔵」を訪ねてみる。地図上ではこのあたりだと思うところに来ている気はするが、
どうしても行き着かない。通りがかった人に聞いたところ、黙って海のほうを指さした。見ると、道から海の方に
向かって一段低くなったところに真っ赤な布を巻いた石のかたまりが6個あり、これが赤い頭巾とよだれけかけを
した地蔵さんであることに、ようやく気付いた。6体の地蔵さんは、大きさも色々でありおなかに穴があるはずだが、
よだれかけでよく見えない。深くかぶせられた頭巾がベレー帽のようにも見えて、子どもの頃に漫画で読んだ
「まぼろし探偵」を彷彿とさせる。
  おなかの穴はお供えが満潮になって流されることのないようにあるともいわれているが、よくわからないとのこと。
元々は海女さんたちが仕事上の安全を祈願するために置かれたものらしい。遠い昔から海女さんたちに
まつられてきた地蔵さんたちは、愛らしくもあり、また神秘的でもある。


電力王 松永安左エ門
  島内一周の旅も終わりに近づいた。帰りのフェリーが出る印通寺(「いんどうじ」と読む。)港のそばの「松永記念館」に
立ち寄る。戦後の混乱期に国家統制されていた電力事業の分割・民営化をなしとげた松永安左エ門は、明治8年に
この引通寺に生まれた。

 資料館のパンフレットの経歴欄に電力王としての輝かしい足跡のほかに、「大正9年45歳のときに雑誌の読者投票で
日本三大美男に選ばれる。」という記述があった。館内の晩年の写真を見ると眼光鋭く、一徹な志を持っていることが
伺える風貌だ。今の日本人には殆どみられなくなった顔だが、当時の人々がうわべの顔でなく中身で「美男」を選んで
いたことがわかる。

 港を離れるフェリーの窓から改めて壱岐の島を見ながら、こんどは日帰りでなく、一泊して廻ってみたいと思った。
(14.12.10UP)

 


ハーモニーランドの一日(大分日出町 平成5年6月)

 娘が三歳の頃、日出町にオープンしたばかりの「ハーモニーランド」に連れて行ったことがあった。もう十年も前になる。
 活発に跳んだりはねたりするのが好きで、それまでキャラクターものには興味を示さなかった娘だが、
キキ&ララ、たあ坊、けろっぴ達に握手をしてもらったり、写真を撮ったりするうちに、けっこう楽しんでいたように思う。
それ以上に私や妻のほうが園内いっぱいに繰り広げられるパレードやショーに夢中になっていた。今では当たり前になった
各種のテーマパーク風イベントも、このころはまだ珍しかった。

 十代半ばになった娘は、キティちゃんより阿倍清明、ケーキより梅干し・お茶漬け、浜崎あゆみよりビートルズ、
トレンディドラマよりJリーグ観戦といった毎日を送っている。

(15.12.14UP)




“あの頃”へのセンチメンタルジャーニー(福岡 ’70年代)

学生時代は福岡にいました。4畳半の下宿、時々サボった講義、代返(わかるかな?)、アルバイト、チンチン電車、
どんたく、山笠・・・・・・・頭の中で全てがセピア色になろうとしています。学生時代という過去への旅に出てみました。

学園祭でやったおでん屋やうどん屋の屋台。1コ
15円のコンニャクを4つに切り分けてそれぞれ
50円で売るなんて悪どい(?)商売で儲けたりした
こともあったっけ。あのときの仲間たち・・長く会って
ないけどみんな元気かな?中央後ろの黒い
セーターにブレザーのハンサム(?)が私です。
当時はまだ痩せてたなあ。
バイトで買ったAIWAのステレオとTEACのカセット
デッキが自慢の財産だった。下手なアコギをかき
鳴らし、ジョーンバエズやサイモン&ガーファンクル
をよく聞いていた4畳半の部屋。帰省中に泥棒に
入られて盗まれてしまったあのデッキのことを
思い出すと今も悔しさが蘇る。
薬学部だったので、専門課程に進むと、午前は講義、午後は実験という毎日が続いた。私の入った研究室は
生物の細胞をテーマにしていたので、指導してくれる大学院生の方と泊まり込みの実験などもあって、ある意味楽し
かった。ヘマをやって怒られながら徹夜したあと、その院生が作ってくれた即席ラーメンがめちゃくちゃウマかった。
※この院生の方とは、令和元年5月に研究室の主任教授を偲ぶ会で再会した。懐かしかった。
50代のころ出張で博多に行った際に大学周辺をぶらついてみた。校門横の市場の中にあった食堂は、何と今もまだ
営業していた。
ここのメンチカツ定食は皿からあふれるほどの大きさで、かぶりつくと口いっぱいに肉汁のうまみが広がった。
校門前の商店街も昔の雰囲気がまだ残っていて、何となくホッとしたのを覚えている。
教養部の頃は大濠公園の南側の
草香江(くさがえ)というところの
4畳半下宿に住んでいた。キリッと
したおばあちゃんが家主で、試験
時期には夜食を差し入れてくれた。
一度腹痛で苦しんだときは看病
までしてもらった。お世話に
なりました。
私が入学した70年代の初めは、
まだチンチン電車が走っていた。
渡辺通1丁目や千鳥橋などの
電停ではいつも大渋滞が起こって
いた。たしか’75年に電車が全廃
され、バスに変わった。最後の日は
全線無料となり、別れを惜しんだ。
博多といえば山笠。夏に入ると
あちこちの町ごとに飾り山が立った。
フィナーレの追い山を一度朝早く
起きて見に行ったことがあったっけ。
大濠公園には色々な思い出がある。イヤなことがあった
時などはここに来ると不思議と落ち着いた。中洲であった
コンパで泥酔して気がついたら下宿に寝ていたということも
あった。わずかに天神のネオンと、大濠の中道を歩いていた
ことだけは覚えているが、前後の記憶は全くなかった。
一緒に写った当時の同級生M君、去年(平成28年)、
教授の米寿の祝いに久しぶりに会ったら、穏やかな
好々爺風になってた。私も見習わないと・・・
生協の食堂。当時朝食が50円、昼・夕の定食が
90円だった。こんな値段でもときどきトンカツが
出た。「おばさん! よくこんなに薄く切れるね。
ハムかと思ったらちゃんとした豚肉だね。名人
芸だね」
という私の失礼な軽口に、食堂のおば
さんは、ニコニコしながら、「まともなカツを食い
たかったら、早く卒業して自分で稼いだ金で
食べなさいね」
と軽くいなしていた。
 
母校の学生歌「松原に」
若い後輩たちの混声合唱です。
 
 私が出た薬学部など医系学部は当時と同じ
福岡市東部の堅粕地区に残ってますが、
上記の教養部や大学本部などは伊都キャンパスに
移転しました。教養部があった六本松キャンパス
跡地は、再開発され当時を忍ぶものはほぼ皆無
です。
 この動画には、懐かしい旧キャンパスと
新キャンパスの風景、そして若い後輩たちの
姿が描かれていて、隔世の感があります。。

(16.04.29UP)

                                 




表題(地名 平成※※年※※月)

冒頭写真
趣旨

①項目地名 


表題(地名 平成※※年※※月)

     
     
     

     
     


   
   


 ①項目地名 
趣旨
     
      
     


   
 

 ②項目地名 
趣旨