ぶらり旅ウチナー編(沖縄の旅) 


恩納村のビーチ
 
 沖縄西海岸




八重山の旅(石垣島・竹富島・西表島 平成28年1月)

  昨年11月に、日本の最北端宗谷岬に行ったあと、最南端はどこなんだろうと思い調べてみると、沖縄県波照間島に
あることがわかりました。沖縄には何度か行きましたが、本島内だけの旅だったので、離島を回ってみようということに
なり、今年1月、宮崎空港〜那覇空港〜石垣空港とつないで、石垣島に降り立ちました。
 石垣島を中心に、最西端の与那国島、最南端の波照間島など10余りの島々を八重山諸島といいます。すぐそばは
台湾です。とりあえず、このときの旅だけupします。


 @竹富島 
   お昼は、八重山そばをいただきました。瓶の中で熟成させた島唐辛子(右)を
少しかけると、味がピリッとしまります。タバスコと似ていると思いました。 
 
 
 海岸で「星の砂」を探す人たち。砂浜といっても、近寄ってよく見ると、きれいな
石や、サンゴなどの集まりでした。私は星の砂を見つけられませんでした。 
  ガジュマルの木。樹齢何年だろう?
     


 A西表島・由布島 
  翌日の朝、いよいよ最南端の波照間島にわたるつもりのワクワク気分で、フェリーターミナルを再び訪れました。
ところが・・・ターミナルビルに入ると「波照間航路は波が高く、運航中止」の表示が! あーあ、先日行った長崎の
軍艦島似たようなショックを味わいました。
     
 
      西表島といえば、特別天然記念物の
イリオモテヤマネコ。なかなか実物は
見れないそうですが、橋の欄干の上の
置物になってました。


 B小浜島・石垣島 
 西表島から小浜島へ  小浜島は、朝ドラ「ちゅらさん」の舞台になった島で、ヒロインの実家「古波蔵」家の
建物(左)は、何かの文化財に指定されているそうて゜す。観光客は少なく、
静かな島でした。
 石垣島は、元世界チャンピオンのプロ
ボクサー具志堅用高さんの出身地です。
港にあった像と彼のシンボル「カンムリ
ワシ」です。 
 メインストリートの商店街や、付近のビルは、南国らしい(正直に言うとちょっと
ケバケバしい)色合いで満ちてました。
     




二度目のウチナー(沖縄 平成23年11月)

父と母を連れて初めて沖縄に行ったのが平成9年の11月。ちょうど14年前でした。宜野湾市で開かれた学会に
参加するために、再び那覇空港に降り立ちました。今は空港から那覇市内を経由して首里城までモノレール
(ゆいレール)が走っています。便利になったものです。
 撮ってきたたくさんの写真を整理していて気づいたことがあります。どの写真も鮮やかな色彩に溢れているのです。
南国ということや戦後の米軍統治の影響もあるのでしょうが、例えば琉球舞踊の衣装やガラス製品など、古来から
沖縄の人たちの卓越した色彩感覚や厳しい環境に負けない気概といったものを感じました。
 那覇に宿を取り、学会の会場である宜野湾のコンベンションセンターまで両2日通いながらブラついた原色の
沖縄を見てください。

@国際通り 
   泊まったホテルは、モノレールの
旭橋駅付近のバスセンター近く
でした。
 交通の便がよく、メインストリート
の国際通り(左)の入り口にも
歩いて数分のところです。
 この日は天気も良く、11月
なのに半袖の人も歩いている
陽気の中でゆっくりと国際通りを
歩き回りました。 国際通りは、
日曜日には完全な歩行者天国
になります。
沖縄には甘い塩があります 目にも鮮やかな琉球ガラス ハブ酒・・・
あちこちで見かけた“輪タク” ちょっと脇道に入るとたくさんの市場が・・ 三線(サンシン)でライブをやってました
那覇市民の“台所” 牧志公設市場 原色の魚が多い 豚の顔、耳、足、山羊のソーセージ・・
ちょっとひきますが、ミミガーは旨かった
静かなたたずまいの「やちむん通り(焼き物通り)」

A首里城周辺
 首里城や周辺の玉陵(たまうどぅん)をめぐってきました。沖縄出身の仲間由紀恵さん主演のドラマ「テンペスト」の記憶も
新しいとこです。日本(薩摩)と中国(清)の間で微妙なバランスをとりながら生き抜いてきた当時の琉球の様子がパネル
などで紹介されていました。 
真正面から眺めた首里城正門
琉球王の玉座 文武百官が居並ぶ琉球王朝
(城内にあったミニチュア)
テンペストにも出てきた玉陵
(歴代の王が眠る場所です)
お城の庭では、鮮やかな衣装で琉球舞踊が披露されていました

B美ら海水族館
 学会が終わった日の帰りの飛行機が取れなかったので(残念なことに宮崎−沖縄間は1日1便です)、帰宅を1日延ばしました。
ということで最終日は観光バスで北に向かい、ほぼ1日を海洋博公園の「美ら海(ちゅらうみ)水族館で過ごしました。 
 水族館の入り口は最上階の4階にあります。まず浅瀬の海、サンゴ礁の海、そして黒潮の海、最後は深海の海と、階を降りるに
従い、水深も深くなっていき、まるで自分たちも海中にいるかのような体験をすることができます。特に圧巻なのは黒潮の海。
世界最大級の水槽に3匹の巨大なジンベエザメのほか70種16000匹の海洋生物が悠然と動き回っています。
熱帯魚の海 イルカショー(我ながらいいショット
だと思うのですが、いかがでしょう)
あいにくの天気でしたが、水族館の
すぐ前に大海原が広がっていました

Cネーネーズ

 学会初日の夜、仕事関係の仲間とライブハウス「島唄」で会食し、ネーネーズのショーを最前列で楽しんできました。
島唄はネーネーズをプロデュースした知名定男さんのライブハウスで、国際通りの真ん中にあります。予約できるかな?と
不安でしたが、何とステージの真ん前で泡盛を味わいながらネーネーズを聞くという最高のシチュエーションとなりました。

 ショータイムは午後7時から10時まで計3回あったのですが、入れ替えは無し、3回とも同じ曲は一切無し、しかも
メジャーのアーチストなのに写真撮影もOK(ただし、動画や録音はNG・・・当たり前ですが)、おまけにショータイムの
間には客席をまわって一緒に写真を撮ってくれるという至れり尽くせりの一夜でした。東京はおろか、地方のローカルな
アーチストでもこんな話は聞いたことありません。沖縄の大らかな雰囲気を感じました。(当然私たちは3回のショーを
全部楽しみ、看板まで粘りました。)

 このとき聞いた曲の中で私的には「黄金の花」が最も好きです。心に染みる曲です。よかったらクリックを。彼女たちの
日々のコメントが読める「ネーネーズ便り」もぜひ見てください。
 
ネーネーズは90年代から活躍していて、もう3代目になるそうです。
席まで来てくれました 最後は沖縄名物の「カチャーシー」で盛り上がりました
左から、保良光美さん、上原渚さん、比嘉真優子さん、仲本真紀さん
(彼女たちから、「3回も見たのにまだ私たちの名前を憶えていないの?」とお叱り(?)を受けました)
 ネーネーズのライブから
「黄金の花」

当時のメンバーと代替わり
しているようです。

D点描
タコライスとオリオンビール 沖縄そば ゴーヤチャンプル
ゆいレール パイナップルの芽 シーサー(やちむん通り)
シーサー(首里城付近(おいし−さ−)) シーサー(首里城) シーサー(海洋博公園)
シーサー(やちむん通り) シーサー(国際通り) シーサー(国際通り)
   


名曲「芭蕉布」・・・歌もすばらしいですが、踊り手のしぐさ、
表情がたまりません。古い琉球の文化と沖縄への愛着が、
しっとりとした歌詞とメロディーに歌いこまれています。

この曲はもう二十数年前にもなりますか、
仕事上の東京での長期研修で偶然同じ部屋になった
沖縄県庁の方から教えてもらいました。





父母との最後の旅(沖縄本島中南部 平成9年11月)

 私の父は平成11年1月に72歳で他界した。70代を前に大病を患い奇跡的に回復したが、4年足らずの
余命であった。父は色々と物書きをするのが好きで、日記・エッセイ・手紙など様々な形での文書を遺している。
 息子の私も、下手好きの物書き志向が強く、究極的にこういったHP開設にかりたてたのは、父のDNAのせい
かもしれないとふと思ってしまう。叶わないことだが、父にこのHPを見せたかったと思う。どんな風に評してくれた
だろうと色々と想像してしまう。

沖縄の象徴「シーサー」 琉球舞踊をかたどった人形 ハイビスカス

 父が亡くなる2年前、母と3人で沖縄を旅した。これまで、節目節目に父や母とは一緒の旅をしたことがあったが、
母も平成27年3月に世を去ったため、この沖縄の旅が両親との最後の旅になってしまった。
 この旅から帰ったあと、父は日記に次のように書き遺している。
 
     平成9年11月、○○(私の名)が俺と△△(母の名)を、沖縄に行れて行ってくれた。朝6時に日向市
   (父の居所)を発ち、9時半にはもう沖縄の地を踏んでいた。50年前、俺と同世代の特攻隊員たちは粗末な
   プロペラ機に乗り、悲壮な決意でこの空を南下したことだろう。哀れな時代に生まれ合わせたものだ。
   そう考えると今は何と便利で、そして何と平和な時代になったものか。
     沖縄には一度行ってみたいと思っていたが、こんな体になってとても行くことは叶うまいと思っていただけに
   嬉しかった。(当時父は人工肛門がとれ、回復期にあったものの、以前の頑健な体はもう望むべくもなかった。)

 
 
実はこの時の旅の実現のために、努力していただいた方がいた。私が出張などのときにチケットの手配をよくお願いしていた
旅行代理店のKさん(女性)である。そのとき沖縄の航空券はすでに完売されて無かったが、彼女は、病み上がりの父を連れて
行きたいという私の気持ちを察してくれて、必死にパック旅行などを探しまわり、3人分3泊4日のチケットを手に入れてくれた。
 「取れましたよ!」満面の笑みでチケットを持ってきてくれた彼女に、旅行代理店としての
プロ根性をみた思いだった。うれしかった。
  この旅の1年ちょっと後に父は他界し、最後の旅となってしまったことを考えると、父が行きたかった沖縄連れて行くことができて
よかったという大きな満足感とともに、旅を実現してくれたKさんへの感謝の念がわいてくるのである。「旅は単なる移動ではなく、
内なる思いをもった人生そのものである」ということを私はこのごろよく思う。

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那覇市内
 那覇空港に着陸したのは、父の日記のとおり朝の9時半頃だった。那覇市内に向かうタクシーの中で、父はしきりに
「暑い、さすがに沖縄だ。」という言葉を連発していた。 国際通りの土産物店を見たあと、迷路のような通りが入り組んだ
マチグワーと呼ばれる市場通りを歩いた。

 もともとこのあたりは、戦前は田畑だけのところだったらしいが、戦後の焼け跡にできた闇市がだんだんと巨大化し、
やがて那覇市の管理下に置かれ「沖縄の台所」となったとのこと。
 野菜・果物・魚・肉そして衣料品などが所せましと並べられている。どうやって食べるんだろうと思ってしまう派手な色の
魚類や、食べないのは鳴き声だけといわれる豚の顔・耳などふだん目にしない食材に父や母は目を丸くしていた。

 お昼に国際通りの料理店に入り、「ゴーヤチャンプル」と「ソーキそば」を注文した。父も母もどんな珍しい料理が出てくるかと
期待していたらしいが、「ゴーヤチャンプル」を見て、「ニガゴリの豆腐炒めじゃないか。」とややがっかりした声をあげた。
ニガゴリは宮崎弁でにがうり(ゴーヤと近い品種と思う)のことで、豆腐や鰹節と炒めて食べる料理は、すでに経験済みだった。
ソーキそばも「いつか食べたような気がする」といった程度の感想だったように思う。宮崎も南国であり、料理については
少し似たところがあるのかもしれない。

市場通りにて 若者のコンサートも三線(さんしん)つき 沖縄のもう一つの顔「米軍基地」


 翌日は、沖縄南部の戦跡を主に廻った。

 父が、沖縄に特別な思いを持っていることを私は昔から知っていた。大正15年生まれの父は、戦時中に電気関係に就職し、
まだ徴兵前であったにもかかわらず、そこを辞し、海軍の甲種予科練(どんなところだったのかはよくわからないが)を志願・入隊した。
入隊前に離職のあいさつに出向いたとき、職場の上司のほとんどから、叱られたり怒鳴られたりしたようだ。
 順風満帆の仕事を捨てて、命のやりとりをする軍隊に入ったこのときの父の気持ちは、平和な中に育った私には計り知れないが、
たぶん国や愛しい人たちを守りたいという、当時の若者全てに共通する純粋な気持ちだったのだろう。

 結局は訓練中に終戦を迎え、失意のうちに帰郷するという結果になったわけだが、自分と同世代の多くの若者が、特攻隊員として、
水兵として、または地上戦の歩兵として死んでいったことへの想い、とりわけ激戦だった沖縄戦の若い戦死者たちへの想いなど、
複雑な心境で戦後を生き抜いてきたようだ。

 バスの窓から見える風景でまず気づいたのは延々と続く鉄条網付きのネットの塀に囲まれた米軍基地関連の建物である。
沖縄本島のかなりの部分が基地で占められているという現実をこの長い塀を見て実感し、複雑な心境だった。

 最初に訪れたのは「旧海軍司令部壕」。昭和20年6月、司令官の太田実少将以下約4千人の将兵が悲惨な最期を遂げた
地下壕が当時のままの形で残されている。壁に残るツルハシの跡や、手榴弾自決ので飛び散った破片の跡が生々しい。太田少将の
最後の打電「沖縄県民かく戦えり 県民に対し後世特別のご高配を賜わらんことを」の文言に強い感銘を受けた。もちろん非戦闘員の
県民を巻き込んでいった軍の責任は大きいものがあるが、それゆえに太田少将の県民への想いは強かったのだろう。以下は父の日記での
所感・・・

    現地の海軍地下壕を見た。勝利の見込みもない負け戦の中、多くの命を預かった太田少将の司令官としての
    苦悩が思われる。沖縄県民のことを思いやる打電の文と、その自決の現場を目の前にして瞼が熱くなった。

ひめゆりの塔の記念碑 平和の礎(いしじ) 戦没者一人ひとりのお名前が・・・

 ひめゆりの塔をまわり、沖縄戦終結の地である摩文仁の丘と平和記念公園を訪れた。広い公園内に「平和の礎(いしじ)」が
100基以上設置されている。国籍を問わず判明した戦没者全ての名前を刻銘することを目的として平成7年に完成した花崗岩の
記念碑で、現在二十数万人の方の名前が記されている。自国の犠牲者のみを記すという事業はあるかもしれないが、国籍を問わず
という趣旨により、この事業は真の意味の世界的な平和祈念事業になったのではないか。かつてこの地で繰り広げられた悲惨な
戦いにたくさんの命が失なわれたという事実の前には、国籍・国境なんて小さなものでしかないように思える。

 父たちは旅に出る前、近所のある方から、沖縄で亡くなったという父親の名前が刻まれているかどうか確認してほしいとの依頼を
受けていた。碑の名前は沖縄出身者(市町村別)、県外出身者(都道府県別)、国外出身者(国別)に分けられている。宮崎県の
ところを探していくと、この方の父親のお名前が確かにちゃんと記されていた。
 「いいみやげができたね。」とほっとしたような顔で母に語りかける父のこのときの姿を今もおぼえている。名前の調査は今も続けられて
いるらしい。
 
  沖縄のこの壮大な平和祈念事業は、広島・長崎の原爆被災者の慰霊事業とともに、ぜひしっかりした形で続けていってほしいし、
私たちも常に関心を持って次の世代に語り継いでいく必要があると思う。

沖縄の海は
どこまでも青い
万座毛 両手に花で父もご満悦  この帽子が父の
お気に入りだった

万座毛と植物園
 三日目は、北上して沖縄中部をまわった。まず万座毛に立ち寄る。昔琉球の王様が「万人を座するに足る」と評したほどの
広い草原が断崖絶壁の上に横たわっている。バスを降りたときこの草原から見える海の上に見事な虹がかかっていた。
冬間近なので草は黄色くなっているが、エメラルドグリーンの海の上にかかる七色の橋は雄大で美しかった。

  万座毛では、もう一つ父を喜ばせることがあった。海沿いの道を歩いていると、あでやかな衣装をまとった沖縄美人と
写真を撮るコーナーが設けられていた。両手に花の状態でカメラにおさまった父は、何ともいえず楽しそうにしていた。

 海洋博が開かれた沖縄記念公園を経て、東南植物楽園を訪れた。亜熱帯をイメージした植物園で、ポリネシアン風の家や、
トロピカルなムードのヤシの林など、南の国に迷い込んだような気持ちにさせてくれる。目にも鮮やかな花々のトンネルを
過ぎていくと、ヤシの実のジュースを飲ませてくれるパーラーに出た。飲んでみようということになり、1個注文すると、
店の人がナタのような刃物で黄色いヤシの実のてっぺんを器用に切り開いて、ストローを3本立ててくれた。飲んでみると
青臭い甘い味で、とりたてて美味しいというほどではなかったが、天然の甘味なのだろう。この初体験の椰子の実のジュースを
摩訶不思議な表情で飲む父のユーモラスな写真(右下)は、私の実家の仏壇の横に飾られ、今も残された母の慰めになっている。

万座毛に虹を見た 東南植物楽園にて 初体験の椰子の実のジュース

再建なった首里城にて
  四日目は旅の最終日。午前中に首里城を歩いた。首里は県庁所在地那覇の奥座敷といった位置にあるが、かつて15世紀に
統一王朝が立てられてから、明治の廃藩置県を迎えるまでの約450年間、琉球国の首都として栄えた都市である。琉球王の
居城「首里城」は小高い丘の上にあったが、戦災で灰燼に帰し平成になってから再建された。

 城壁に使っている石は、内地と違って石灰岩風のものをきれいに削って造られている。「守禮之邦」の額がかかった有名な「守礼門」の
下は、観光客でごった返していた。記念撮影が方々で行われている。更に登り久慶門をくぐると中心地の正殿・北殿が見えてきた。
建物は赤を基調としたやや中国風の造りだが、深みのある鮮やかな赤色である。日本の城のように銃眼の穴などの戦いをイメージ
するものはなく、どちらかというとゆったりとした迎賓館的な雰囲気を感じた。日本と中国のバランスシートの中で交易国家として生きてきた
琉球国のポリシーがよく現れていると思う

 構内に円覚寺という臨済宗のお寺があることを知り、意外な気がした。沖縄といえば、独特のシャーマニズムを基調とした宗教が
メイン思っていたが、仏教寺院が存在するというのは不勉強ながら知らなかった。このお寺の前には円鑑池というちょっとした池があり、
中之島に琉球瓦におおわれた弁財天堂という建物がある。何でも15世紀当時に朝鮮王から送られた教典を収めるためのものだったという。

石灰岩の城壁 父の笑顔が今も心に残っている 首里城は小高い丘に建っている

 こうして、3泊4日の旅の日程を終わり、機上の人となった。機内で父がポツリと「おおきに おおきに(本当にありがとう)」と
言ってくれたのが嬉しかった。
 父と母がいなくなった今、妻や妹などと、ときどき話すことがある。最初の大病から奇跡的に回復した父が、4年足らずのわずかの
期間のあとに他界したときは当然悲しかったし、もっと生きて欲しかったという気持ちが強かった。でも「たった4年しか生きられなかった」と
思うよりは、「回復して4年間も私たちと一緒にいてくれた」と感謝の気持ちでいることが大事なんじゃないかと考えるようになった。
「神さまがくれた4年間」・・・・・妻や母と冗談めかしてこんな風に言っている。沖縄の最後の旅で、父が見せてくれた笑顔が、私にとって
大事な宝物になった。今もときどき生前の父とよく似た老人を見て、ハッとすることがある。

         どの爺の かほもいづれもみななつかし みな善き父に似たる爺たち(牧水)

弁財天堂 首里城正殿 旅先で両親と3人で撮った最後のショットになった

(15.01.16UP/28.12一部改訂)