西国・しまなみ編
(山陰・山陽・瀬戸内の旅)
 
ぶらり旅
宍道湖の夕暮れ
竹原港の夕暮れ



41周年の湯治旅(川棚温泉~関門海峡 平成31年3月)
 昭和53年3月21日の春分の日に妻と一緒になって、この3月で41周年を迎えました。いまだに信じられませんが、ことし不惑の
歳を迎える長男を筆頭に、3人の子供と3人の孫をもつ70代目前の老夫婦になってしまいました。
 というわけで今年は結婚記念日にどこかの温泉に行こうと思い立ちました。仕事やヤボ用で空いてる日が当日の21日と22日の
2日間しかなく、ダメもとで下関の川棚温泉の宿泊と福岡往復の航空券をあたったところ、運よくどちらもゲットできました。
 21日の昼過ぎの便で福岡空港に飛び、博多から新幹線でほんの2駅の新下関までいくとホテルの送迎車が迎えに来ていて
午後4時ころにはホテルに到着してました。何と離陸してわずか3時間あまりで、私たちは山口県の温泉の湯舟に浸かってたのです!

 下関側から関門橋を望む
 川棚温泉は山口県の西側にあり、下関からも近く、毛利の殿様や俳人種田山頭火などが訪れた湯治場としても
有名です。今回泊まったのは川棚グランドホテル・・・1泊2食で予約しました。ご覧のように夕食には6切れながら
ふぐ刺しが付き、結婚記念日ということでワインの差し入れもいただきました。シャブシャブなどのメインディッシュの
あとは、でっかいせんべいに白玉だんごとあんこを挟んで食べるスイーツのデザートがつきました。  
  温泉は透明のサラサラしたお湯で、泉質はホテルの説明によると「弱アルカリ性ナトリウムイオンの入ったラジウム泉で
角質を軟化しお肌をすべすべにして老化防止に効果的」とのこと。 大浴場はもちろん、部屋に内風呂と露天風呂があり
24時間お湯が流れてました。体がポカポカ温まりました。
 翌朝はゆっくり朝風呂と朝食を楽しんだ後、10時前に宿の車に乗り、下関港の唐戸市場に着けてもらいました。以前現役の
ときに、下関と対岸の門司で2年立て続けに学会があり、この市場で昼食にしたことがありました。場内の店舗をめぐり
ながら、好きな海鮮物を好きな量だけパックに入れてもらって食べる方式が楽しい市場です。あのときはあわただしかった
のですが、今回は妻と一緒にゆっくりとまわり、ごらんのようなプリプリのネタを買って、関門海峡を眺めながら食べました。  
 さて、帰るために下関から門司に渡るには、鉄道やバス、あるいは関門トンネルを徒歩という色々な方法がありまずか、
私たちは、すぐそばの唐戸桟橋から連絡船に乗って、有名な巌流島に途中下船したあと、門司港にわたる船のルートで
帰ることにしました。
 約10分の船旅で、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の場所、巌流島(正式は舟島)に上陸。何の変哲もない平べったい
島ですが、武蔵と小次郎の決闘の像や、幕末にあの坂本龍馬がこっそりと上陸して花火を打ち上げた話の説明板などが
あったり、水仙がたくさん咲いていたりと、けっこう楽しめました。  
  最後に動画を3つUPします。左から、川棚グランドホテルの湯舟、唐戸市場の賑わいそして関門海峡の様子です。

(R2.10.15UP)




妖怪たちがかっ歩する港町(鳥取県境港 平成29年11月)

 ゲゲゲの鬼太郎、悪魔くん、河童の三平などたくさんの妖怪漫画を生涯にわたって書き続けた漫画家、水木しげる先生が
育った、鳥取県の境港に行ってきました。中心の市街地は「水木しげるロード」として整備され、約800メートルの道路沿いは、
様々な水木作品に出てくる妖怪オブジェで埋め尽くされています。
 いっぽうで水木先生は、戦時中に召集され南方の激戦地を転々とし、生死の境をさまよう中で負傷により左腕を失うという
つらい経験を経て、多くの戦記物の漫画も残しています。今回の旅は、今でもたくさんののファンに愛されている水木漫画を
あらためて実感する旅になりました。
  境港には、米子駅から電車が出ていて、
0番ホームからの出発です。すでにホーム
の階段にネズミ男が描かれていて、
期待が高まります。
 入線してくる電車には、ねこ娘、目玉オヤジね砂かけばばあなど、おなじみの
水木漫画のキャラクターが所せましと得画れています。 
 車内のソファ、天井もご覧のとおりです    境港までの各駅も、正式名称はあるの
ですが、「べとべとさん駅」とか「どろたぼう
駅」とか全てニックネームとキャラクター
の絵が記されてます
  境港駅を出ると、すぐに「水木しげるロード」が続いてます。ちょっと見ただけでは普通の道路のようですが・・・
 いました、いました。約800メートルの道のあちこちで、鬼太郎や砂かけばばあが歩いていたり、一反木綿のマンホールが
あったり、悪魔くんのブロンズ像があったり・・・ここまで徹底していると、ほんとに妖怪の町といった感じに見えてきます。  
 この日は丸一日かけて境港を歩きました
が、お昼には名物のカニの海鮮丼を、
3時のティーブレイクには、鬼太郎の顔を
かたどったパンとコーヒーを食して、
幸せいっぱいでした。
  駅前に、水木しげる先生ご夫妻のブロンズ像がありました。奥様が書かれたエッセイ「ゲゲゲの女房」は朝ドラになる前から
興味深く読んでいましたが、ご夫婦の歩いてきた道が松下奈緒さん、向井理さんという美男、美女カップルでドラマ化されたときは
出勤ギリギリまで、ほぼ毎日見てました。ドラマの主題歌「ありがとう」をYouYubeから拾ってみました。
 最近、水木先生は惜しくも他界されましたが、一生をかけて取り組み、生み出された先生の作品や考え方が、出身地の
境港でいつまでも大切にされていくことを願います。(H31.2..13UP)



早春の安芸路をゆく(呉・竹原の旅 平成28年3月)


 春が近くなると、旅の虫がうずき始めます。今年の春は長いことごぶさただった広島地方の、それもまだ行ったことのない
場所を歩いてみようと思い立ちました。選んだ場所は3つ・・・まえから興味があった旧海軍ゆかりの呉・江田島、平清盛が
開いたという音戸の瀬戸、そして安芸の小京都といわれる竹原です。

 いずれも古くから日本の洋上交通のかなめだった瀬戸内の海に面した土地柄の場所であり、歴史と旅好きの私にとって
たまらない魅力を持っています。今回は福岡で催された仕事上の学会が終わった後、博多駅から18時58分発の新幹線
「のぞみ64号」に飛び乗り、20時広島着、20時9分の快速ライナーで同39分には呉駅のホームに立ってました。3泊
4日の安芸の旅の始まりです。

 ①江田島・呉 
 2日目の朝、8時過ぎに呉港中央桟橋からフェリーに乗り10分ほどで江田島の小用港に着きました。ここからバスでわずか5分で
海上自衛隊幹部候補生学校(旧海軍兵学校だった施設)に着きました。10時から約1時間の見学コースに参加しました。
 正門は厳しい警備でした。
やはり自衛隊の施設です。
見学が始まるまで、この
エントランスで待ちます。
 海軍兵学校時代の重厚な建物群
 NHKドラマ「坂の上の雲」のロケでも使われた場所です。案内役は自衛官のOBの
方でユーモアたっぷりの楽しい口調でしたが、やはり職業柄、姿勢が見事でした。
 呉と江田島を結ぶフェリー
  江田島から呉市内に帰り、昼食をとった後、やまとミュージアムに行きました。あの戦艦大和の記念館です。大和は呉の
海軍工廠で造られ、太平洋開始直後の昭和16年12月16日に竣工、46センチ主砲3基9門を有する世界最大の戦艦でした。
 しかし、土岐はすでに大艦巨砲主義から、航空機中心の空母の時代になっており、太平洋戦争に成果をあげることなく、
当時珍しかった冷房設備やエレベータなどを備えていたことから「大和ホテル」などと揶揄されたそうです。そして、太平洋戦争の
敗色が確定的になった昭和20年4月に、沖縄での対米戦に特攻艦隊旗艦として出撃、鹿児島県坊ノ岬沖で米軍航空隊の
爆撃、魚雷攻撃により黒煙を上げ、沈没しました。このとき乗員3332名のうち3056名が大和と運命をともにしたそうです。
艦内には精巧な大和の1/スケールのモデルが置かれてます。これを見るといかに巨大な建造物だったかがわかります。
 多くの潜水艦が洋上に浮かんでました。  今でもドックで船が造られています。  呉の市街
 

宇宙戦艦ヤマト/海上自衛隊東京音楽隊


 直接は関係ないですが、戦艦大和をモチーフに
作られた、松本零士さんのアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の
主題歌を貼ってみました。
 海上自衛隊東京音楽隊の演奏です。三宅由佳荊さんの
バックコーラスがとてもいいです。



②音戸の瀬戸
  3日日は、呉の街を少し散策したあと、バスで郊外の「音戸の瀬戸」公園に行ってみました。あの平清盛が日宋貿易の
航路整備のために人工的に開削したと伝わる海峡です。権勢を誇った清盛は、音戸の瀬戸に沈もうとする太陽でさえ
扇をちょちょっと動かして、また上空に呼び戻したという伝説が残っています。バス停がある場所の海峡をはさんだ対岸には、
古い街並みが残されています。
 日本一短い航路の渡し船だそうです。船賃はなんと、大人70円、子ども40円! お客が一人でもいればすぐに出航し、
対岸にいる場合は、合図をすればすぐに迎えに来てくれます。(私が撮影した右端の動画をポチッとやってみてください)  
  海峡を赤い大きな橋がまたいでいます。
 清盛をまつった塚  立派な屋根の玄関がが4軒続いてました   びっくりするほどの無数のホタテの殻
昭和の街並みがそのまま保存されたような風景。あちこちで懐かしい看板などを見かけました。      


 ③竹原 
  音戸の瀬戸から呉に戻り、呉線で東に約1時間で竹原に降り立ちました。その夜は竹原どまりでしたが、夕食前にホテル前から
バスに乗って竹原港に向かい、夕暮れのクルーズに参加しました。(※私の旅は、このように隙間時間があればすぐに何かを
企てるので、妻は着いていけないとよくいいます。妻を伴った旅のときは、できるだけゆったりした行程を組むスエさんです)
  竹原に一泊後、最終日の4日目は、文化庁の伝統的建造物群にも指定されている竹原の古い街並みを散策し、午後から
帰路につきました。(以下の画像は時間が前後します。)
  西方寺の階段から見下ろした竹原の街並み
 
伝統的建造物群にも指定された街並み
竹原は、朝ドラ「マッさん」のモデル
竹鶴政孝の出身地。生家の竹鶴
酒造は、今も現役で営業しています
 竹鶴酒造。あいにく今日はお休みでした。
「竹原」の名の通り、竹でできた生け垣や塀などをあちこちで見かけました。「竹まつり」というイベントもあるそうです。  
 西方寺のしだれ桜  古い街並みに、古い洋館が似合います
 
竹原港から周辺の島に渡るフェリーに乗って、夕暮れのクルーズを楽しみました。けっこう大きなフェリーが
着岸し、出港すると、すぐに洋上は黄昏の風景に変わります。鮮やかな夕日が目の前に・・・・・  
(29.01.14up)




点描:昼下がりの“風琴と魚の町”(尾道の旅 平成17年12月)

小学生の頃、林芙美子の自伝的小説「風琴と魚の町(※)」を読んだことがあった。怪しげな薬や化粧品を風琴(アコーディオン)
を弾きながら売り歩く男と妻と娘の貧しい一家が、尾道を訪れたときの話である。「一びんつければ桜色、二びんつければ
雪の肌、諸君!買いたまえ、買わなきゃタドンとなるばかり・・・
」という歌にのせて売り歩いた化粧水がニセものだったため、
警察にひっぱられた父が、何度も何度も巡査からビンタを受ける。その様子を盗み見た娘が「バカたれ!」と叫びながら
海岸へ走り去る・・・このラストシーンに胸をつまらせながら私は読んだ。

 その尾道を訪れるのは2回目だ。今回は受験の参考にと、高校生の娘を広島大学に連れて行った途中に立ち寄った。薄日
のさす昼下がり・・・かつての「風琴と魚の町」は静かにたたずんでいた。
 (※「風琴と魚の町」はこのサイトをクリックすると、朗読が聞けます。よかったらどうぞ)

ラタン製(?)の旅行カバンとパラソルを
置いて、物思いにふける林芙美子の像
昼下がりの尾道の海は、冬の日射しを
浴びて静かに凪いでいた
アーケードの商店街で見かけた
量り売りの魚屋さん
あちこちに小さな路地がつながって
いる。林芙美子も歩いたのだろうか。
坂道の途中でちょっと一休み。 路地の途中にまた路地が
顔を出す。迷ってしまいそう・・・
すっかり尾道の名物になったレトロバス 
定番の観光スポットをぐるぐると巡回している
千光寺公園の展望台にて 尾道の
町と細長い尾道水道が見渡せる




土塀の武家屋敷(長府古江小路 平成11年11月)

 山口県下関市の長府には古代、長門の国の国府や国分寺が
置かれていました。江戸時代には毛利家の支藩となり萩と並んで
城下町の風情を色濃く残している町です。所用で小倉に来たときに、
関門海峡を渡って長府の町並みを散策しました。もう20年も前のことです。
土塀が続く古江小路  

 下関駅からバスに乗り、約20分で長府の町です。バス停そばの観光協会でパンフをもらい、北側に歩いていくと、
町並みの様子がだんだんとが古めかしくなってきます。赤茶けた土壁の塀に両側をはさまれた小さな道が長く続き、
江戸・明治期にタイムスリップしていくかのようです。

 最近はこういった土壁を復元して小京都風に仕上げ、町おこしに役立てているところもありますが、長府の土塀は、
ところどころ剥げたり、崩れ落ちたりしていて見た目にも当時のままのホンモノと分かります。

 ひときわ長い土塀の道「古江小路」を歩いていくと、格式のある構えの門が右側に見えてきます。代々、藩の侍医を
務めた菅家の屋敷の「長屋門」です。門の前には石垣が何段かに造られ、右側の土壁には大きなひび割れができて
いて、時代を感じさせる重厚な建築物です。

 やがて古江小路がつきた北の交差点から右へ折れ、同じような土塀の道をそぞろに歩いていると、乃木神社に行き
着きました。戦前は海軍の東郷元帥とともに国民の英雄だった乃木希典陸軍大将を祭り、その生家が復元されています。
乃木将軍が長州出身ということは知っていましたが、正確には支藩長府の藩士の子として生まれたことをここで初めて
知りました。

 日露戦争のときの司令官として203高地攻略に当たり、多くの将兵の命を失なってく苦悩の姿は、様々なドラマ、
映画などで取り上げられていますが、その後は学習院院長となり、幼い皇太孫(後の昭和天皇)の養育にあたり、
明治天皇崩御の際に、殉じる形で夫人とともに自決し、生涯を閉じました。高潔な人柄の人物だったようです。

タイムスリップしたような・・・ 土塀と柿・・・日本の風景 乃木夫妻の銅像 水師営のナツメの木

 生家や記念館が並ぶ境内で、「水師営のナツメ」と記された木を見つけました。203高地陥落のあと、乃木と
ロシアの敵将ステッセルの会見が行われた水師営の庭にあったナツメの木を分枝したものだそうです。
唱歌「水師営の会見(下のYou Tube)」にうたわれている、あのナツメの木です。

唱歌「水師営の会見」 
詞/佐々木信綱  曲/岡野貞一 歌/ボニージャックス
 会見後の写真(中央が乃木とステッセル)  

この会見後に写された写真(上掲)では、敗軍の将としてではなく、友人として並んだ乃木とステッセルが
それぞれの部下とともに写っています。私の頭にもう一枚の写真が浮かびました。下って太平洋戦争開戦直後に、
シンガポールを攻め落とした日本軍が、相手のイギリス軍に強硬に「イエスか ノーか?」と迫っている光景です。

 戦争の是非はともかくとして、敵に対する明治と昭和の考え方の違いを伺わせる2枚の写真だと思います。
(17.06.22UP)



娘と歩くアイビーの町(倉敷美観地区 平成11年5月)

 当時小5だった娘の夏休みの時期に、二人で山陽地方を旅したことがあった。
 倉敷駅正面からまっすぐのびる中央通りを数百メートル歩くと、突然、江戸時代や明治時代にタイムスリップした
ような町並みが現れる。倉敷は江戸時代に幕府の天領地として、中国地方の物流の中心だった場所である。
倉敷川沿いに立ち並ぶナマコ壁の土蔵や商家風建物が往時の賑わいを偲ばせる。
 明治になってからは、「倉敷紡績」が設立され、糸の町として隆盛を極めた。これに関連した巨大な大原美術館や
赤れんがに蔦が絡まるアイビースクエアなど、飽きの来ないスポットが多い。

かつては、運河として町の経済を担っていた倉敷川沿いに柳の並木が続いている。
両側の道には、商家風の建物や美術館などが立ち並ぶ。全国に数ある町並み
保存地区の中でもここは別格の異空間である。
子連れのスエさんを、子連れの白鳥が
迎えてくれた。
脇道に入ると人通りがほとんど無くなる。
はしからはしまでナマコ壁の土蔵が
続いていて着物姿の町娘が現れそう・・・
ツタにおおわれた美しい赤レンガの壁に囲まれ、岡山出身の画家児島虎次郎の
記念館や倉紡記念館、ホテルなどが建っているアイビースクエア。
元は倉敷紡績の工場だったところ。

アイビースクエアのカメ、倉敷川のコイ・・・水辺の生き物たち
に語りかける娘
屋敷の古い壁にもたれて、
ちょっと疲れ気味
 倉敷川のほとり

(15.06.24UP)




Ⓢ小泉八雲と“裏日本”考(島根・鳥取 平成6年5月)


  言葉の響きとは不思議なもので、瀬戸内海側の「山陽」は「さんさんと光あふれるイメージなのに比べ、「山陰」と聞くだけで、
薄暗い寒々とした風景を連想してしまう。また、私たちが小・中学生のころの社会科の授業では、太平洋側を「表日本」、
山陰・北陸などの日本海側を「裏日本」と教えていた。

 「陰」といい、「裏」といい、何となく侮蔑的な感じの呼び名である。どうしてこんな呼び名が付いたのか、かねてから不思議に
思っていた。調べてみるともともと「内日本」と呼ばれていた日本海側が「裏日本」という地理用語にに変わったのは、
19世紀末であり、20世紀には次第に社会的、地域的格差を示す「表」と「裏」という概念が成立したという。新潟大学教授だった
故古厩忠夫(ふるまやただお)氏は、「裏日本」がヒト、モノの供給地としての役割を果たし、意図的に「表日本」のインフラ整備に
当てられたと主張している。「裏」と呼ぶことで意図的に「表」に対する劣等感を植え付けたとしたら・・・・・今の中央と地方の
構図もこれに近いのかもしれない。「地方の時代」といわれて久しいけれど・・・・・・・・

 一方「山陰」という呼び名について・・・・・「陰」とは「陽」の対義語であり、現世を示す「陽」に対し、神秘的または「あの世」的な
イメージを伴っている。以下はまるっきり私の想像だが、記紀神話の「国譲り」の話と関係があるように思える。
  古代出雲の支配者オオクニヌシ(大国主命)が、アマテラスの一族に自らの国を譲ったとされる話である。古事記には、勝手に
出雲の領有を宣言したアマテラス一族(ヤマト朝廷に通じるのかもしれない)が、豊かな出雲の王であったオオクニヌシのところへ
使いをよこした。結局は小さなこぜりあいの後で、結局出雲はヤマト側に「ゆずられ」、オオクニヌシは立派な祭壇(後の出雲大社)
に祭られた黄泉の国の支配者になったと記されている。おそらくヤマトに征服される過程で殺されたのだろう。
 「裏日本」という言葉はさすがに使われなくなったが、「山陰」のほうは今もニュースや天気予報などでいつも使われているが、
私には、黄泉の国を支配するオオクニヌシの無念の気持ちを象徴する言葉として生き残っているように思えてならない。

 その山陰の中核をなす島根、鳥取地方を旅してみた。
  宮崎を深夜の特急「ドリームにちりん」で発ち、明け方に小倉へ到着。そこから鈍行に乗り換え、下関、長門、益田とつないで
「おき2号」で出雲の国は松江の駅に着いたのは、午後2時前だった。所用時間約14時間あまり・・・・・わが宮崎から山陰地方は
本当に遠い。距離的にはもっと離れている東京・関西・沖縄などのほうが飛行機・新幹線などで短時間に行くことができる。
なかなか縁の薄い地方である。
 宍道湖  松江城  松江の武家屋敷  旧小泉八雲邸  鳥取城  鳥取砂丘

 さて、ホテルに荷物をおろしたが、日暮れまでにまだ時間がある。駅前の通りを歩き、松江大橋のたもとまで行ってみた。あいにくの
曇り空で、橋の下を流れる大橋川もよどんだ色をしている。宍道湖はもう目と鼻の先である。この古い城下町は、昔から人々の心を
惹きつけてきたらしい。明治期の作家小泉八雲(ラフカディオハーン)の名著「知られぬ日本の面影」に、当時の松江の朝の様子が
いきいきと描かれている。


       ・・・・私は障子の窓を開け放つ。そしてまず、川沿いの庭に芽吹き始めた柔らかな新緑の茂みの向こうに
       朝の様子を眺めわたすのである。眼下に流れる大橋川の幅広い鏡のような水面が、すべてをうつろに映し出し、
       きらきらと光っている。その水面は宍道湖へと注ぎこみ、灰色に霞む山々の縁まで、右手方向に大きく広がっている。
       川向こうでは、尖った青い屋根の家々がどこも戸を閉め切っていて、まるでふたを閉じた箱のように見える。夜は
       明けたが、まだ日は昇っていない。・・・・・朝日の方角に向かって、大橋川をはるか先まで見やると、たくさんの橋脚が
       並ぶ木造の橋の向こう側で、船尾の高い一艘の船がちょうど帆を巻き上げている。・・・・


 川のたもとにある船着き場から、宍道湖巡りの観光船に乗り込む。八雲が描いた木造の橋は、今や頑丈なコンクリート製の
「松江大橋」となり、その下を私の乗った帆掛け船ならぬディーゼル音の最新船が波をかき分けてくぐっていく。湖に出ると左手のほうに
ほんの小さな島が見えてくる。「嫁が島」と名付けられたこの島には、言い伝えが残っている・・・・昔、姑にいじめられた嫁が世を
はかなんで宍道湖に身を投げた。翌日湖底が盛り上がり、島ができた。そこには変わり果てた嫁の姿があった・・・・・
 嫁が島を照らす夕日はすばらしいらしい。この日もやや悪天候ながら、対岸の祖師公園には、何人かのアマチュアカメラマンたちが、
三脚をたて、間もなくの日没を狙っていた。


 翌朝、松江大橋を渡り松江城天守閣へ行ってみた。この城は松江を領していた堀尾吉晴が17世紀初めに築いたもので、重厚な
黒っぽい造りになっている。この地は後に家康の子「結城秀康」につながる松平家の領地となり明治を迎えたが、7代目に、
松平治郷(不昧公)を出している。
 この殿様は、治水や商業振興に力を尽くした名君としても知られているが、何より一派「不昧派」の祖としてお茶の世界で名をあげた
人らしい。今も松江は、お茶の購入量が全国の約5倍、お茶につきものの和菓子の購入量が1.5倍もあるそうで、不昧公以来の
茶の湯の町とのこと。
 城山公園を出て、さらに北へ進むと、昔からの武家屋敷が並ぶ通りに出る。「ヘルン旧居」と名付けられたバス停の前に
「ヘルン先生」こと小泉八雲が、妻セツと1年3ヶ月を過ごした家が建っている。古い家の造りも風情があるが、八雲は小さな池が
今ものこの家の庭が、ことのほか気に入っていたらしく、例の「日本の面影」で庭のことを一章をさいて描写している。とくに西洋式の
ブーケやフラワーガーデンと日本の生け花や「庭」を比較・考察したくだりはなかなか面白い。

        ・・・・・花をつけた枝をただ1本だけ生ける、その何ともいえない美しさがわかるようになってきた。・・・・枝を選定し、
        形を決め、美しく生けるまで、まるまる一時間はかかっている。西洋人がブーケと呼ぶ花束などは、花を生殺しに
        する行為である。・・・・・日本の庭園がどのようなものかを知ったあとでは、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、
        いったいどれけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか。
        ただ富を誇示しているだけではないかと思える。そもそも日本の庭は、フラワーガーデンのことではない。植物栽培が
        目的で造られるのでもない、十中八九、日本の庭には花壇らしいものは見あたらない。緑の小枝すらない庭もある。
        ・・・・日本には床庭という小さな庭があり、風変わりな器の中に、小山があり、ちっちゃな家が並び、虫眼鏡で見ないと
        わからないような池から小川が流れ・・・・日本の風景がそこにいきいきと美しく凝縮され、再現されているのだ。


 次の日はさらに山陰本線を東にすすみ、有名な鳥取砂丘に遊んだ。我々が普段見る海辺の砂浜と違って、砂が細かい。風がちょっと
吹くとすぐ舞い上がってくる。砂丘のあちこちに大きな砂の山があり、ふうふう言ってそこを登りあがると、真っ青な日本海の海原が
眼下に広がる。砂丘の茶色と海の青のコントラストがすばらしかった。

                                                                      (15.12.05UP)



回想:日本ジャンボリー(美作那岐山麓 昭和41年8月)

  中学時代の古いアルバムを久しぶりに開いて、「ジャンボリー」の写真とその時の投稿文(自治体の広報誌)を見つけた。
日本ジャンボリーは、おおむね4年に1回開かれるボーイスカウトの全国規模のキャンプ大会で、海外からの参加も多い。
私は小学校から中学校にかけて、ボーイスカウトに入っており、中3のときに岡山県で開かれた第4回ジャンボリーに
参加した。当時ふるさと宮崎と周辺の九州各県しか行ったことのなかった私にとって、初めて本州に渡った記念すべき
旅でもあった。

  飛行機や新幹線での旅行が日常茶飯事となったいま、海外経験者もいて、ある程度英語が話せる今の中高生たちから見ると、
ほんの小さな旅に思えるが、戦後まだ20年程度しかたっていない頃に、田舎の村からほとんど出たことの無かった少年にとって、
関門海峡を渡り、様々なお国言葉を話す全国の仲間と出会い、中学入学時に習い始めて3年目の英語を必死に駆使し、
海外からの人たちと語り合ったあの5日間が、どれだけのカルチャーショックだったか・・・

  ジャンボリーの会場は、名山那岐山の麓に広がる「日本原」と呼ばれる台地だった。高瀬舟水運の集散地として名をはせた「津山」
から北東に十数キロ行ったところで、当時から自衛隊の駐屯地があり、演習なども行われるとてつもなく広い平原である。
美作地方にはあれから一度も行ってない。いつかまた訪れてみたい。


  何か大事なものを忘れて生きているような気がするいま、この投稿文を原文のまま載せてみた。いわば少年期に初めて
したためた旅日記といっていいかもしれない。(稚拙な表現もありますがお許しを。もっとも今もあまり変わりませんが・・・・
それと、当時のものなので写りが悪い白黒写真についてもご勘弁を。)

 
宮崎県庁で結団式
があった。将来
ここに勤務する
ことになるとは
夢にも思わな
かった。
遠くに那岐山を望む日本原野営場  設営中のショット
(当時はこんなにスマートでした) 

8月4日

昼ごろ、日本原、あこがれの日本原へ到着した。
  広い、ほんとうに広い。日本全国3万人のスカウト(※1)が野営するのだから、大きなところだとは思っていたが、
これほどだとは思わなかった。日本連盟本部のテントが、はるかかなたにかすんで見える。
  さあ、これから設営だ。見る間にサイトができ上がっていく。雨が降っても、もう大丈夫。その晩はゆっくり眠った。

8月5日
  いよいよ今日からジャンボリーが始まる。午前中は隊でまとまって需品部(※2)へ行くことになった。300mほど
離れた場所にある。すごい。売店の前に群がる人、人、人。その群れをかき分けて商品をのぞいてみる。あまりに
多くてどれを買っていいのかわからない。やっとの思いで、ペナント、ネッカチーフ、飾り皿を買って群れを抜け出した。
ほかの連中もしこたま買っている。帰りにハガキを求めて、父母に手紙を出した。ちょっと家が恋しい。

  夕方から、開会式である。場所は中央会場。そこまで相当な道のりだった。迷子になりそうなときもあったが、宮崎
の緑と黄(※3)のネッカチーフを目印に歩いていって、やっとたどりついた。
  中央会場は、ちょうどすり鉢の側面半分に底をつけたような形である。底のほうで式典が行われ、すりこぎを当てる
側面部分に何万ものスカウトたちが座るというぐあいだった。向こうの土手では参加国国旗のポールが立ち並び、
その下には鼓笛隊がじっとひかえている。

  会場はザワザワしていたが、自衛隊のブラスバンドが演奏を始めると、急に静かになった。外国のスカウト、各県の
スカウトが行進した後隊旗の入場。赤、青、緑、黄、紫・・・・・鮮やかな色の無数の隊旗に目がチカチカする。
  そのとき、僕は日本連盟の旗を持っている人に気がついた。彼は人形のように少しも動かない。2時間もの式典の
間に、僕はチラリチラリと彼のほうを見たが、とうとう最後まで動かなかった。よっぽど心身の鍛練ができている人で
ないと、ああはできない。僕ならしょっちゅう動いていただろう。

  式が終わってからの帰りがまた大変だった。3万人が一度にどっと出ようとしたために、ぎゅうぎゅうづめになり、
息が詰まりそうである。その人混みの中を救急車がサイレンを鳴らして進んでいく。(ああ、病人が出たんだな)と思うと
ひとごとではない気がして、身がひきしまる。
  そんな中、延岡隊のH君と一緒になった。会うのは初めてだったのに、帰り着く頃にはすっかり友だちになっていた。
彼と親しくなれたことをあの混雑に感謝したい。
 

8月6日
 大きな行事はないので、どこでもノンビリとした気分である。ふと県連本部のほうを見ると、何か大きなものが建って
いる。表にまわり近づいてみると、「平和の塔(※4)」と書いてある。おそらく目印と郷土色の出し物のために建てたの
だろう。何だかうれしくなる。
  今日はほうぼうで交歓会が行われている。僕たちのところにも大坂と名古屋の二つの隊が訪れ、たいへん和やかに
交歓がなされた。

8月7日

 「大行進」、「大営火」と二つの行事が今日のうちに行われる。「大行進」には皇太子ご夫妻(※5)もお見えになるという
ことで、みんなも落ち着かない。今日は僕が旗手として隊旗を持つことになった。
  行進場の前で1時間ほど待たされて、いよいよ宮崎県連盟の行進。旗手以外の者の手には白い花が輝いている。
鼓隊のリズムに乗って行進していくと、ご夫妻のテントが見えてきた。旗手は敬礼のときもずっと前を見て進めという命令
だったので、残念だったがご夫妻のほうを見ずに歩いた。

  夜は「大営火」である。「遠き山に日は落ちて・・・・」の合唱のうちに点火が行われ営火が始まった。まず、「東京連盟」の
「お江戸日本橋」を皮切りに、次々とすばらしい出し物、お国自慢が披露される。僕たちは夢中になって見入っていた。
  やがて「九州地区」の出番がまわってきた。僕たち九州地区は、熊本地方に見られる不知火(しらぬい)をやることに
なっていた。名前を見ると難しそうだがやってみれば何のことはない。ジャンボリーの歌に合わせて色をつけた懐中電灯を
タクトをふるように動かすだけのことである。僕たちが中央に出ると前の外国人席のほうから、十人ほどのアメリカ人スカウト
が飛び出してきて一緒に歌った。その中の一人が僕の隣にきて、ニコニコと笑いかけるので、僕も笑顔を返し、かたい
握手を交わした。彼の肩の団号章が「84」となっていたので、思い切ってそれを指さし、“Eightyfour?”と叫ぶと
彼はニコニコと“Yes!Yes!”と答えてくれた。僕の英語が通じた(※6)と思うとうれしくて、彼と堅く握手して別れてきた。

  その夜は心が高ぶったり、暑かったりしてなかなか寝つかれなかった。

同じ隊の人たち
(今でもみんな元気かな?)
朝餉のひととき  仲良くなった
韓国のK君と 

8月8日
  体に少し疲れが残っていて、眠くてしょうがない。今日はハイキングに行くことになっている。目的地は「滝神社」。名前の
とおり冷たい滝があるとのこと。それだけが魅力だった。ハイキングとはいっても本当の目的は洗濯らしい。その証拠に
みんなのナップサックは汚れ物でいっぱいだ。いさんで出発した。

  途中、まむしがいるという草むらや、不発弾(※7)が埋まっている野原などを横に身ながらびくびく通った。やがて道が
二つに分かれたところに出た。リーダーたちも迷っているらしい。そのとき、日向隊のU君が、「僕が見てくる」と言って一方
の道を走っていった。まもなく彼は滝神社への道しるべを見つけて帰ってきた。このときの彼の働きがなかったら、僕たちは
ひょっとして別の道をたどったかもしれない。彼には感謝しなくてはいけない。

  夕方、サイトの前を外国スカウトのリーダーらしい人が通りかかった。僕たちはいっせいにペンとサイン帳を持って彼を
取り囲む。びっくりした表情の彼は「縦隊に並べ」の手信号をした。胸のマークを見るとオーストラリアの人らしい。そこで
“Is your country AustralIa ?”と聞いてみると“Yes”という答えが戻ってきた。うれしくなって名前、年令、背の高さ
まで聞いてしまった。名前は発音が難しくて聞き取れなかったが、年齢は52才、身長は5フィートいくらと答えてくれた。
こんどは彼が僕の年を聞いてきたが、すっかりあわててしまって“fifteen(15才)”と答えるところを、“fifty(50才)”と言って
しまい、彼の肩をすくめさせてしまった。

  夜は県連の「小営火」。アイデアを効かせた寸劇に僕たちは大笑いした。

8月9日

  いよいよジャンボリー最後の日。朝は班ごとに交歓に出かけた。僕たちの班はカナダのスカウトと交歓しようということになり出発したが、
サイトがどこにあるのか誰も知らない。しかたがないので、行き当たりばったりで歩いていくと、韓国のスカウト二人に出会った。
さっそく英語と身振り手振りで話しかけてみる。ちょうど持っていた日本切手を彼らにあげると、「自分も韓国の切手をあげる
から、あとで私のサイトに来い」と言ってくれたが、とうとう最後まで行けず、残念だつた。

  午後からは撤収作業。本当は明日でもいいのだが、「明日流す汗を今日流せ(※8)」とばかりにみんなで一生懸命にやった
ので、本部のテントのほかは何も無くなってしまった。原っぱになってしまった僕たちのキャンプ地をながめると、さびしくなる。

  夕方からは閉会式である。格式張った式典が終わると、夜空に何発もの花火が上がった。僕たちは歓声を上げ、お互いに
「さようなら」を言い合ったり、握手したりして和やかな気分のうちに閉会式を終えた。

  帰りにちょっと面白いことがあった。同じ隊のK君が、一人の背の高い外国スカウトをつかまえて、
“You are a tall boy”と話しかけると、ニコニコ笑った彼の口から、“You are a short boy”という答えが返ってきた。
背の低いK君はくさってしまい、
“My name is Ringo Starr(※9)”と言って逃げ出してしまった。見ていた僕たちも外国スカウトもいつまでも笑っていた。

8月10日

  朝からかたづけ。きのうほとんどやってしまったので、予定より2時間ほと゜早く終わった。すぐにバスに分乗。去りがたい
日本原を後にして、一路宮崎へと向かった。
  すばらしかった5日間。苦しいときもあったが、それだけに強く心に残る5日間だった。さようなら日本原。
 日本ジャンボリーばんざい。



脚注(※)

※1 スカウト ボーイスカウトを略した言葉。野球のスカウトマンではありません。
※2 需品部  今風には「グッズショップ」とでもいうのだろうか。ボーイスカウト
そのものが軍隊をモデルに作られたらしいので、こんな表現で呼ばれていた。 

※3 
宮崎の緑と黄  昭和39年に制定されたばかりの宮崎県旗(⇒)のこと。
緑の地に黄色でカタカナの「ミ」をネッカチーフにかたどっていた。 
※4 平和の塔  「八紘一宇」と書かれた宮崎市にある塔のこと。終戦からまだ
20年しかたっていない当時のことを考えると、この塔の持つ
戦争と平和の意味も複雑なものがある。 
※5 皇太子ご夫妻 今上天皇・皇后両陛下。美智子さまの気品のある美しさは、少年期の我々にも感動的
だった。
※6 英語が通じた・・ 今のバイリンガルたちからみると、稚拙な教科書的会話のくりかえしに過ぎないが、
習いたての英語を話しかけたときに、異国の人が、まがりなりにも“Yes”と
返してきたときの喜びがどんなに大きかったか・・・
※7 不発弾  戦争中のものか、自衛隊の演習によるものかよく解らないが、単なるデマだった
のかもしれない。 
※8  明日流す汗を
今日流せ
・・・ 
ボーイスカウト同士でよく掛け合ったことばの一つ。当時は、高度成長期のまっただ中
でもあり、「普段の努力」という強い意志が伺えることばです。
今は逆に「明日できることは今日するな」という生活にどっぷりつかった生活を送って
いることにはっと気づき、ちょっと反省しているスエさんです。 
※9  リンゴスター  当時人気絶頂のピートルズのメンバーの一人リンゴスターは、4人の中でたしか
一番背が低かった。 

(15.03.16UP)

                             


 ①項目地名 
趣旨
     
      
     


冒頭写真
趣旨


 

 ②項目地名 
趣旨