三都・みずうみ編
(北近畿の旅)
 
 ぶらり旅

東山から眺める洛中の夕暮れ/長男の嫁が撮影(一部加工)

 初体験!普茶料理(京都閑臥庵 令和4年10月) 
 
筝羹(しゅんかん)/季節野菜の煮合わせ   最初から目を奪われます 
梅干しの日の出揚げ 揚油(やんうー))/揚げ物  
 
  
      (R05.03.27Up)




城崎にて(城崎温泉 平成29年7月)

  兵庫県豊岡市の城崎温泉・・・かつて文豪志賀直哉が滞在し、名作「城崎にて」を書き上げた。国語の教科書にも登場する。
この短編小説を、中学時代に読んで、ネズミ、ハチ、イモリといった小動物がやたら傷つけられたり、殺されたりする小説だった
記憶があり、あまり好きな内容ではなかった。いま考えると、生と死といったことをテーマにしてたような気がする。
 そんな城崎温泉には40代のころ出張のついでに立ち寄ったことはあるが、あわただしい旅だったので記憶があまり無い。
改めておととしの夏休み、妻と二人で一泊二日でまわってきた。
     (31.02.06Up)

                                                                     


桜の通り抜け(大阪造幣局 平成26年4月)

 桜前線も東北まで達し、そろそろ列島のお花見シーズンが終わろうとしています。名残に、先日所用で行った大阪での
「造幣局の通り抜け」の様子をUPします。
   
     大阪市北区の旧淀川沿いに位置する本局(注:造幣局)は藤堂家大坂屋敷の土地にあり、同家が植栽していた
    樹桜樹木約120品種、約400本が造幣局へ引き継がれている。造幣局長遠藤謹助が「役人だけが花見をして
    いてはいけない」と1883年(明治16年)に一般公開を始めて以降、大阪大空襲で多くを焼失したが職員らが
    蒐集し多品種の桜並木が復元され、日本さくら名所100選に選定されるなど毎年4月中旬から下旬の開花
    時期に春の伝統行事として賑わう。一般公開は川崎橋方向の南側ゲートから入場し桜宮橋方向の北側
    ゲートへ抜ける一方通行で「通り抜け」と呼ばれ、夜間照明により日没後も夜桜鑑賞ができる。
    (ウィキペディア「造幣局/桜並木一般公開」の項より)


天気もよく、のどかな春の一日でした。ちなみに、上に書かれた造幣局長「遠藤謹助」は、伊藤博文らと
ともに幕末に禁を犯して海外留学したいわゆる「長州ファイブ」の一人です。
  この時期の公開と聞いて、「エッ?大阪でも満開はもう過ぎたのでは」と思ってましたが、
見慣れた「ソメイヨシノ」以外にも桜はたくさんあるということを改めて知らされました。 
無数の屋台も出ていました  横を流れる大川ではのどかに船が・・・  人の波に妻はやや疲れ気味
白、濃いピンク、薄いピンク・・・色も形多種多様です。
   
 “日本人ってホントに桜が好きなんだなあ”と思って歩いていたら、周りから
中国語やハングル語が・・・・・お隣の国からもたくさん来ているようです。
     (26.04.20up)




古いお寺の綾錦(東福寺/京都 平成25年11月)
 前日に大阪で長男の結婚式に出た私と妻と次男夫婦(東京在住)ですが、どちらも最終便の飛行機だったので、京都まで
足をのばしてみました。ちょうど紅葉の見頃・・・嵐山、嵯峨野、大原といった名所は人出がおおいだろうと思い、平日なら
ここは穴場じゃないかとなと選んで出かけたのが、伏見の東福寺。結果は見事に外れ、駅から参道まで人であふれかえって
いました。
 “平日なのに世の中にはヒマな人が多いんだなあ”と思いましたが、自分もその中の一人だということに気づいて、
おかしくなってしまいました。すご過ぎる紅葉だったので、ぜひご覧ください。

赤、橙、黄色・・・お寺の建物が暖色系の海の上に浮かんでいるように見えます
 平日なのに、参道はたくさんの人であふれかえっていました 結婚式に東京から来てくれた次男夫婦も一緒です 
 顔まで赤く染まってしまう錦の波に、目がくらみそうです
  参道で売られていた焼き草餅をみんなでほおばりました
 途中からあいにくの雨に見舞われましたが、圧倒的な色彩がどんよりした空を一切気にさせませんでした。(25.12.01UP)




菜の花の書斎(司馬遼太郎記念館 平成24年4月)

  歴史と旅が好きな私が、司馬遼太郎の作品を読み始めたのは、そう昔のことではありません。最初はとっつきにくいというか、
余りにも淡々とした書き口、語り口である種の違和感を覚えました。例えば「新選組血風録/油小路の決闘」のくだりです。

  書き出し(大意)
  “篠原泰之進は井戸ばたでざぶざふと耳の穴を洗う癖があった。同棲相手の女がやめろと言ってもやめなかった。
  結末
  “泰之進は中耳炎で死んだ。耳を洗うくせがこの男の命取りになった。が、とにかく、畳の上で死ねたことは
   たしかである。”


  一見どうでもいいような書き出しと結末に思えますが、両者の間に息もつかせぬような物語が、淡々と展開され、異様なほど
あっさりしと終わってしまいます。そんな短編を次々と読み進むうちに、余計な描写をそぎ取ったからこそ見えてくる臨場感に、
いつのまにか、どっぷりと浸かりきった私がいました。・・・・・・やがた私は長編小説に手を出すようになりました。

 初期には、花神、播磨灘物語、翔ぶが如く、坂の上の雲、殉死、最後の将軍、王城の護衛者、馬上少年過ぐ・・・といった
歴史小説を手当たり次第に読み耽りました。幸い司馬さんの本は廉価な文庫本が複数の出版社から出されていて懐が痛まずに
どんどん入手できました。こうして私はますます「司馬マジック」の虜になっていました。
 次に夢中になったのが「街道を行く」シリーズです。元来旅好きの性分から翌日の勤務に差し支えるような徹夜をしたことも
一度や二度ではありません。特に未完となった濃尾参州記に惹かれて、徳川家発祥の地「松平郷」や、有名な出来事ながら
場所がはっきりしない「桶狭間」などの歴史ポイントを尋ね歩きました。

 そして定年前頃から、歴史評論的なエッセイに親しむようになりました。きっかけは「明治という国家」です。明治維新から日露
戦争あたりまでの明治日本と、太平洋戦争の破滅につながる昭和日本を対比させ、“明治は透き通ったリアリズムの時代でした。”
と論じた後に、“それに引き替え、敗戦までの昭和は、薄っぺらなイデオロギーだけで、リアリズムの無い時代だったのです”と
切り捨てて見せました。“明治日本と昭和日本は別々の国ではなかったかと思える”と述べています。またまた色んなエッセイや
歴史評論を読みました。・・・司馬さんはただの物書きではない、私たちの国日本を、日本人をイデオロギーや感情論に左右されず
に語ってくれる語り部だ・・・大げさではなく、真からそう思えるようになりました。
 司馬さんが亡くなったのが平成8(1996)年、お生まれが大正12(1923)年だから、大正15年生、平成11年没の私の父より3歳上、
ほぼ同世代です。

 2年前、所用で関西に行ったついでに、東大阪市にある司馬遼太郎記念館を訪ねてみました。生前のご自宅に併設され、今も
奥様(福田みどり夫人)がお住まいになっているとのこと。書斎も当時のままに残っています。司馬さんは菜の花がとても好きだった
ようです。江戸時代の商人「高田屋嘉兵衛」を描いた小説のタイトルも「菜の花の沖」となっています。春のころだったので
ご自宅の周辺にはとても鮮やかな黄色い菜の花が揺れていました。

   
私の書斎の本棚には、何段にもわたって司馬さんの本が並んでいます   司馬さん自筆のTVドラマのタイトル


嵐電沿線の旅(京都 平成23年6月)

京福電気鉄道嵐山線は、京都の中心
市街をつらぬく市電で、繁華街四条大宮と
嵐山を結ぶ本線と、帷子(かたびら)ノ辻と
北野白梅町の間を走る北野線を併せて
嵐電(
らんでん)の愛称で親しまれています。
100年以上の歴史があり、京都市民の
生活の足としてだけでなく、私たちよそ者の
観光客にとっても京都観光の力強い
味方です。

梅雨空のあいまをぬって、嵐電のいくつかの
駅に途中下車して界隈をぶらついてきたので
ご紹介します。

 嵐電の電車の車体色は、
現在、京紫(きょうむらさき)と
呼ばれる独特の紫色に統一
されようとしています。
 四条大宮駅  運転席の窓から


壬生寺(四条大宮駅)

新撰組ゆかりの壬生寺 御存じ、新撰組局長近藤勇の像 「土方歳三大好き!」や
「祝・池田屋事件」
といった熱い絵馬が
いくつも並んでます

広隆寺(太秦広隆寺駅)/仁和寺(御室仁和寺駅)

広隆寺 仁和寺
緑あふれる仁和寺の境内   仁和寺山門の仁王像

竜安寺(竜安寺駅)

竜安寺の石庭・・・海原とそこに浮かぶ島々を模したものだそうです。しばらく廊下から眺めると、そんな風に見えてきます。
竜安寺の境内は、さりげない「和」の雰囲気がただよっています。  

車折神社(車折神社駅)

 車折(くるまざき)神社は、遠い昔、ある貴族が牛車に乗って社前を通りかかると急に車輪が裂けてしまったため、
名づけられたといわれています。社殿には「芸能神社」があったり、映画のロケ地として使われたりすることから、
芸能界関係の人たちがよく訪れるそうです。 
 ちょうど「茅の輪くぐり」が行われてました。茅で編んだ輪をくぐったり、名前を書いた紙の人型を納めたりすることで
半年間の穢れを払う夏越(なごし)の行事だそうです。もちろん私も輪をくぐり、自分の名前を人型に書いて納めてきました。  

嵐山駅周辺

 天龍寺の山門 渡月橋 
 天龍寺沿いの道にはお地蔵さまが・・・  野間神社の見事な竹林の道  嵐山界隈にはおしゃれな店が多い

                                                                       (29.11.27)Up


定年間近の“修学旅行”(琵琶湖・京都 平成21年10月)

 私も、あと2年半で定年退職を迎えます。旅好きの私ですが、職場の出張の場合は当然仕事なので、「旅を楽しむ」という欲求は
封印して、旅行命令通りに出かけて復命するという役人生活を送ってきました。そんな中、今年の10月に滋賀県大津市であった学会に、
職場の仲間5人と行ってきました。今回は出張ではなく、休日を利用して全て自腹の慰安旅行・・・

 今振り返ってみると、一種の修学旅行のような楽しい旅でした。定年間近の“おじいちゃんの”私と、こんな修学旅行に付き合ってくれる
若いスタッフがいる今の職場って本当に有り難いと思います。留守番してくれたスタッフにも感謝しつつ、画像をUPします。

 何だかあちこちを遊びほうけてうろついただけのように思われるかもしれませんが、ちゃんと学会にも参加して研鑽を積んできましたので、
一応申し添えます。何度も言いますが、これは自腹かつ休日を利用しての職場の慰安旅行ですので、誤解なく(笑)

宇治の平等院鳳凰堂前で  みんなが手にしているのは、この鳳凰堂が描かれている“10円玉”です
宇治大橋(上)/伏見の造り酒屋(下左)/伏見の銘酒「月桂冠」の記念館(下右)
1日目の夕食は、京都室町の希味(のぞみ)  ご覧のようにバラエティに富んだ料理が次々と出てきました
学会初日の翌日、会場がある大津市に着いたとたん、琵琶湖のあまりの美しさに圧倒されました。大津市ではお祭りの当日でした。
2日目、京都タワーが夕焼けに染まる頃に先斗町にある六傳屋(りくでんや)の土手焼きで夕食を囲みました
最終日は、学会のあと、湖東線ぞいの古い町「近江八幡」に行ってきました



岸壁の母の桟橋(舞鶴・平(たいら)桟橋 平成20年3月)
 京都の北部、舞鶴市の平という地区に、海に突き出た小さな桟橋があります。今は使われていないこの桟橋、というよりは
いったん壊されていたものを復元した桟橋は、終戦後、旧ソ連に不当に抑留されていたたくさんの人たちが引き揚げてきた
場所です。

 終戦当時、派兵や入植などで海外にいた日本人は数百万人といわれ、たくさんの人たちが命を落としました。
昭和22(1947)年、舞鶴港は、やっとの思いで引き揚げてくる人たちを迎える港に指定され、以来13年間に
生存者66万4531人、遺骨1万6269柱が帰ってきました。
 私が生まれた昭和26年前後は、こういった引き揚げの最中でしたが、当然ながら記憶はまるでありません。
二葉百合子さんが唄った「岸壁の母」が、この平桟橋での実話だと知ったのは、だいぶあとになってからでした。
端野いせさんという老母が、戦地に赴いた一人息子を待って、何度も何度も桟橋を訪ねたけれども、とうとう帰ってこなかった
そうです。おそらくこんな話は、当時たくさんあったのでしょう。

 早春の誰もいないこの桟橋に立ち、舞鶴湾の静かな海面を眺めていると、帰ってきた人、迎えた人、帰れなかった人、
会えなかった人・・・60年前のさまざまな人たちの万感の思いが、せまってくるような気がしました。
桟橋の近くの引揚記念館には、感激の
再会を果たせた家族の写真がありました
いっぽう、一人息子の新二さんを待ち続けて何度も
桟橋を訪ねながら、とうとう会えないまま亡くなった
端野いせさんの写真を見て、ふいに涙がこぼれました
 You Tubeから、「かえり船(左/田畑義男さん歌唱)」と「岸壁の母(右/ちあきなおみさん歌唱)」を貼りました。
ともにこの舞鶴の桟橋が舞台になっています。 
 
 「岸壁の母」には“極寒のシベリア
 は寒かったじゃろう”
という歌詞が
 あります。不当に抑留された
 旧日本兵たちの様子が再現されて
 いました。
長い抑留生活では、粗末な
コーリャンや凍ったパンしか
与えられず多くの人たちが
命を落としたそうです
桟橋付近には、私ひとりしかいません
でした。早春の風が寂しく吹いてました
(セルフ撮影)
当時の様子と、桟橋復元の由来を示す写真
かつての戦争の悲劇を象徴するこの桟橋を、世界平和への
架け橋として21世紀に引き継ぎたいという主旨が書かれています
帰りのバスの窓からは、傾きかけた
日ざしを浴びて、水の中で釣りをする
人達ののどかなシルエットが見えました

                                                                        (22.4.4UP)



Ⓢ年末に1泊2日のひとめぐり(丹後半島 平成10年12月)

 年末年始の休みに入り年も押し迫った12月の29日の夜、妻が子どもたちを連れて、あるパーティーに出ることになった。
私だけ家にいてもつまらないので、前日の28日の夜に急遽1泊2日のひとり旅を企画した。
  今回は大坂伊丹空港から鉄道で行ける宮津・天橋立周辺に決め、宿もオフシーズンということで朝食付き5400円の
ビジネスホテルを押さえることができた。

 29日の朝、始発便で伊丹空港に降り立ち、モノレール→阪急線→宝塚→福知山線→福知山→タンゴ鉄道とつないで、昼過ぎに
丹後半島の付け根にある宮津についた。(伊丹空港から大阪市内に出るのに、昔はバスしかなく、これが確実に渋滞することが
わかっていたので、大変な思いをしていたが、モノレールの開通で本当に楽になった。)

縞の財布
  宮津は、江戸時代に東北(酒田など)や九州・大阪を結ぶ北前船航路の港として栄え、回船問屋・ちりめん問屋・醤油の
醸造元などの商人たちの店が軒を並べていた。これらの商人や船乗りたちにより、今も飲食店が多い新浜界隈はいわゆる
花街として賑わったらしい。民謡「宮津節」に次のように唄われている。「ピンと出した」というのは、財布から大枚を出すことらしい。

         二度と行こまい丹後の宮津 
                   縞の財布が空になる
                       丹後の宮津でピンとだした

  わが宮崎にも、「じょうさ節」という似たような歌詞の民謡がある。

         赤江城ヶ崎や鐘木の町よ 
               鐘(かね=金銭)がなければ通られぬ  
                   可愛がられて蚕の虫は 糸に取られて丸裸

 花街での遊びは尻の毛までむしられると昔から言われている。帰途につくとき、スッカラカンになった財布を握りしめて
「ちくしょう、もう金輪際行くもんか!」とそのとき思っても、またぞろ遊びの虫が騒ぎ始め、何日か経つとまた花街に向かっている 。
そんなどうしようもないバカな男心を表した歌は、日本全国にあるようだ。

  宮津節

天橋立旅館業組合の総会で演じられたものだそうです。


 宮津節の碑  カトリック教会  知恩寺の文殊堂 懐かしい造りの医院を2つ見つけた 

 宮津節の碑を見たあと、キリスト教のりっぱな教会があるというので行ってみた。宮津カトリック教会・・・・・明治の頃にフランス人
宣教師が建てたそうだ。日本の瓦をを使っていることと、中に畳が敷き詰められることに驚いた。ステンドグラスや十字架などと
うまくマッチしていて、和洋折衷の教会だった。

天の橋立
  更にタンゴ鉄道で天橋立駅に着き、宿に荷物を置いた。再び駅の方へ引き返して天橋立に向かう。入り口のところは珍しい
廻旋橋になっていて、船がとおるたびに通行止めになり、橋桁がぐるっと回転する。ちょうど私が来たときに船が通っていて、
写真のように橋が廻る様子を見ることができた。
  天橋立は、宮津湾を斜めに走る細長い砂州で、総延長やく4km、美しい松の林と白い砂浜が続いていて、仙台の松島、広島の
宮島とともに「日本三景」といわれている。(ちなみに、芸能界には「日本三けい」というのがあって、谷啓さん、すまけいさん、真里邑ケイさん
なんだそうだ。非常にくだらない話です。)
  松島には平成4年に、宮島には高校の頃にそれぞれ行ったことがあるので、私は、ついに日本三景を制覇」したことになる・・・・・
これもどうでもいいことでした。

  橋を渡り、いよいよ細長い砂州を歩き始める。500mほど行ったところに、「磯清水」がある。不思議なことに、両岸が海なのに真水が
涌いているというところで、不老長寿の霊泉といわれている。飲んでみたが、本当に塩味はしなかった。
  さらに進むと、「岩見重太郎仇討ちの碑」というのが建っている。豪傑岩見重太郎が、これまた豪傑の塙団右衛門・後藤又兵衛の
助けを借りながら、父の仇、
廣瀬軍蔵を天橋立のこの場でみごと討ち果たすという物語は、江戸期の頃から歌舞伎で演じられていたらしい。
日本人好みの仇討ち場面の上に、その背景として日本三景の天橋立がお膳立てされていることから、結構人気のある芝居で、錦絵も
残っているとのこと。
  長い砂州を渡りながらふと気づいたことがある。進む方向の右側(すなわち外海側)には白い砂浜がところどころ広がっているのだが、
左の内海のほうは松林からすぐ海となっている。潮の流れか何かが関係しているのだろうか。

  砂州を渡り終えて左に少し進むと、ケーブルカー乗り場があり4分ほどで天橋立を展望できる傘松公園についた。
海の中を斜めに伸びる
天橋立の優美な景色が眼下に広がる。有名な「またのぞき」の台があり何組かのグループが次々と足の間からさかさにのぞいている。
私もやってみたが、景色を見る前に、まず出っ張った腹がかなり苦しいのに気づいた。ダイエットの必要性をこんなところで改めて気づかされた。
またの間で空と海が逆転することで、「天にかかる橋」のように見えるというのが「天橋立」の名の由来らしい。・・・・・結局腹がきつくて、
景色を十分に味わえるほど長くはのぞけなかった。

 廻旋橋  磯清水 天橋立   股のぞき  砂州の浜辺


丹後半島
翌日は、レンタカーを借り、丹後半島めぐりのドライブに出た。まず伊根湾をめざす。朝の連続ドラマ「ええにょぼ」の舞台となった伊根町の
「舟屋(ふなや)」をぜひ見てみたかった。伊根はブリ漁が盛んなところで、湾に面して2階が住居、1階が漁船のガレージともいうべき船倉という
一体型の「舟屋」が約200軒連なっている。道路沿いから眺めた舟屋の連なりは圧巻だった。(どうでもいいことですが、私は「ええにょぼ」に
主演した戸田菜穂さんの隠れファンなのです。)

 伊根の舟屋

  この日は、本当に天気が悪かった。それでも宮津を出てしばらくは曇り空を保っていたが、伊根を過ぎた頃から小雨がパラつきだした。
そして半島最北端の「経ケ崎」に着いた頃には本降りになり、かなり冷え込んできた。駐車場には2~3台の車しかなく、
映画「新歓びも悲しみも幾年月」のモデルになった灯台も雨にかすんでよく見えない。
 腹もすいてきたので、近くにあったレストランで昼飯を食べることにした。店内もガラガラだし、メニューもそんなにはない中で、
たいして期待せずにカツ丼を注文したのだが・・・何とこれがめっぽううまかった。カツやごはんの具合も良かったが、驚いたのはカツを
とじる卵が、通常のベチャベチャした甘辛い味付けのものではなく、フンワリと軽く焼いた卵焼き風のもので、かすかに胡椒か何かで
スパイスを効かせている。初めての味だった。景色がいまいちだったが、このカツ丼は本当にうまかった。思い出すたびにまた食べたくなる。

晴れていれば風光明媚な海岸線も、厳しい日本海の冬景色の連続だった    お土産に買った
丹後ちりめんのがま口

雨風の中、車をさらに走らせる。天気さえよければ「丹後の松島」と呼ばれる海岸線は、もっとすばらしいものになっただろうが、
それでも入り組んだ奇岩が次々と移り変わっておもしろかった。山手の方に入る分岐点の「てんきてんき村」というオートキャンプ場に
着いた頃から、名前が幸いしたのか、天気が回復し始めた。
  年末に駆け足での丹後半島の旅だったが、冬の日本海の旅情を味わうことができた。(15.02.15UP)

                                   




 ②項目地名 
趣旨