ぶらり旅日本海編(北陸・越後の旅) 
 佐渡尖閣湾の夕暮れ




佐渡の旅ふたたび(佐渡 平成28年10月)

  二十数ぶりに、新潟の佐渡島を訪れました。40代はじめのバリバリ中年おじさんだった私も、今年いよいよ「前期高齢者」
の仲間入り。当時は絶滅に瀕していた佐渡のトキも、約200羽が島内を野生で飛び回るほどに増えたそうです。

 @小木・宿根木 
  20年前は主に島の北側を回ったのでこんどは南側に足を向けました。まず、「たらい船」の小木港、そして伝統的建築物
群保存地区の指定を受けている宿根木(しゅくねぎ)の集落をまわりました。
小木は佐渡の南の玄関口です。たらい船は乗ってみると意外と安定してます。試しに漕がせてもらいましたが、同じところを
ぐるぐる回るだけで、全然進みませんでした。昔は(今もかな?)漁師の人たちがこの船を器用に操って漁をしたのだそうです。  
地元のB級グルメ「ブリカツ丼」とみかんジャムのソフトクリーム たらい船を動画でどうぞ。 
合併前に存在した小木町の役場跡と廃校になった小学校   秋です。佐渡にもトンボがいました。
宿根木の集落は狭い通路ばかりです。  清九郎と呼ばれている建物 
かつて吉永小百合さんが、JRのポスター
に出た時
の「船型のおうち」です。
ミステリアスなこの階段はどこに
つながっているんだろう?
集落の目の前には、静かな海岸が
ありました。


 A尖閣湾・揚島遊園
     
さっき乗った観光船が、また出航して
いきます。
ここは、一世を風靡した名作「君の名は」のロケが行われた場所です。岸恵子、
鈴木京香、新旧2人のヒロインは正統派の美人でした。今は全く別の「君の名は」
というアニメが流行ってますが、私は全然知りません。
尖閣湾は、佐渡の西側なので、湾や沿線できれいな夕日を見ることができました。3枚アップします。  
   

   
 

 B佐渡金山・奉行所・大佐渡スカイライン
明治以降に稼働していた金の精錬場跡です  


 復元された佐渡の奉行所  金の精錬場も復元されています  こんな岩からわずかな金が・・・
 
 いよいよ金山の坑道へ 坑内を降りていきます   坑内の坑夫の人形と目が合った 
 動画を3本入れます。左2本:佐渡金山の江戸時代の坑内跡です。リアルな坑夫の人形が作業を再現しています。右側:
大佐渡スカイラインの紅葉の中を走る観光バスです。紅葉とガイドさんの名調子は楽しめたんですが、あいにくの雨でした。   
 リアルに表現されて、まるで
タイムスリップしたようです
 金粉まぶしのソフトクリーム・・・
味は普通のソフトでしたけど・・ 
 道路沿いにも何か所か坑口が見えます


 C佐渡点描
新潟〜佐渡間を約1時間の高速で
結ぶジェットフォイルで両津港に到着
 名物「おけさ柿」のシーズンでした。
シャキシャキした甘味がたまりません
両津港の駐車場に建てられた佐渡おけさ
の人形です
 いました! 田んぼの中に野生の
トキたちのグループ発見
純粋の本土のトキの最後の1羽である
「キン」の剥製。遠い未来に最後の人類
「※※」の剥製が置かれたりする日が
来なければいいがなあと思います
 今回宿泊した両津港そばの「志い屋」
加茂湖のほとりにあり、昭和レトロを
感じさせてくれる温泉宿です
     
トキの森公園 野生に戻る訓練中のトキたちです  加茂湖周辺にも秋の気配が・・
     
宿根木集落の入り口は、浜が近くて
風が強いのか、竹で作られた壁が・・
長年の採掘でね佐渡金山の山は
大きくえぐられてしまいました
佐渡からの帰路ね立ち寄った新潟市内
でもイチョウ並木が色づき始めてました




 北原白秋作詞の名曲「砂山」・・・中山晋平・山田耕筰作曲で
2つの曲になってますが、山田ver.で、鮫島有美子さんの
歌唱です。


 





念願叶って金沢三昧(金沢市内 平成20年9月)

 何度か訪れてはいるのにじっくりと廻ったことが
ない旅先がいくつかある。私にとって北陸の金沢も
そんな場所のひとつだった。

 最初は新潟に出張に行った帰りにちょっと立ち
寄っただけ、2回目もやはり出張で目的地自体は
金沢だったのに、殆ど会議で日程を終えた。3回目
妻や娘と福井の芦原温泉に行ったとき
小松空港に降り立ったものの、金沢市内には
足を踏み入れなかった。そして4回目は
能登地方を回ったときに通過しただけ・・・
本当に縁のない町だった。

 ことし、職場の夏休みが9月に3日間取れそう
だとわかった今年、「そうだ、金沢に行こう! 
それも3日間ほど腰をすえてじっくり見て回ろう!」
と企てた。

 5回目にしてやっと実現できた私の金沢三昧の
旅を紹介します。

@まずは、兼六園と金沢城へ
金沢は言うまでもなく、前田氏の加賀百万石の城下町。まずはなんといっても兼六園と金沢城。以前あわただしく訪ねただけだった
ので、今回はじっくりと廻ってみた。最初は兼六園から・・・

徽軫(ことじ)灯籠
2本の足が琴の弦を支える「琴柱」に似ているので、この
名がついたとのこと。片方は地面に、もう片方は水中にある。
唐崎松(からさきのまつ)
枝振りがよい。加賀藩3打目井藩主前田斉泰が近江の国から
取り寄せた名松とのこと。冬には有名な「雪吊り」が見られる
園内点描・・・あちこちの何気ない風景に日本式庭園の面白さが伺える。
そして金沢城。この城の屋根瓦は真っ白。まだ夏の残暑が厳しい季節なのに、
屋根だけは極寒の雪景色のように見える。こんな城はほかに無いように思う。

A目を奪われる工芸品の数々
兼六園のはずれにある「石川県立伝統産業工芸館」に寄ってみた。九谷焼、加賀友禅、輪島塗、金沢金箔、七尾の和ろうそく、水引き
細工など、石川県の伝統工芸は全国に知れ渡ったものが多い。ふだん目にしているものもあるが、改めて展示された36業種の工芸品を
眺めていると、私たちの先祖が、日ごろの衣食住の暮らしを“精神的に”豊かに暮らす知恵を持っていたかを感じさせられた。

 例えば水引きの場合、婚礼や出産などのハレの日にする贈り物に添えられるものだが、中味だけではなく華やかに彩りの飾りをつける
ことで、贈る側の気持ち、贈られる側の気持ちが通じると思う。更に水引を「結ぶ」ことで両者の強い絆も表現できるし、「結びきり」は
一度だけという意味を持つことから、一生添い遂げる婚礼の日にふさわしい象徴になる。

 数年前に唐沢寿明・松島菜々子主演で作られたNHK大河ドラマ「利家とまつ」のオープニングに使われたのが、この加賀の水引きで
館内に展示されていたのが印象的だった。

鮮やかな絵付けの九谷焼 10円硬貨大の金を畳一畳の広さまで
広げる職人技で国内98%のシェアを
誇る金沢の金箔は輝きが違う・・
金、銀、赤、白・・・様々な色の水引き
には日本人の細やかな手作業とハレ
のお祝いに込めた気持ちが伺える10
陶器がCHINAと呼ばれるように漆器は
APAN、まさに日本を代表する工芸品
鮮やかだけでなく丈夫が輪島塗の身上
前に七尾でみたことがある和ろうそく 加賀の和紙

B3つの茶屋街と2つの川
今回の旅で、「遊びと文学が根底にある町」というイメージを金沢に持った。様々な工芸品も単に日常生活に使うだけなら、ただ丈夫で
長持ちして使い勝手がよければいいのだが、高い芸術性を高めてきた裏には、いい意味での「遊びごころ」が金沢の人たちの心に根付いて
いたのだと思う。
 遊びごころといえば、江戸や京に負けない「茶屋遊び」も金沢の特徴かもしれない。ひがし、にし、主計町の3つの茶屋街が残っている。
にし茶屋街はむかしの風情はあるものの、建物の材質は新しい感じがした。たぶん最近の建て直しなのだろう。ひがしと主計町のほうは
本当に古いままの造りの家が多く、特に主計町は浅野川沿いの散策の道がしっとりとした雰囲気ですごく良かった。

 そういえば先日、DVDで見た映画「舞妓Haaan!!」の中で、主人公が歩く京都の茶屋街が、この主計町の風景にとてもよく似ていた。
「主計町は、茶屋街の本場である京都を真似して造ったのだろうか」と思って見ていたら、最後の字幕で、「協力:金沢市主計町茶屋街」という
スーパーが出ていた。何のことはない。金沢を京都に見立てて撮っていたのだ。京都が金沢の風景を借りていたのだ。すでに国際観光都市と
化した京都には、こういった意味での日本の原風景が無くなっていて、むしろ地方の金沢に生き残っているのかもしれないと思ったら興味
深かった。

にし茶屋街 ひがし茶屋街 主計(かずえ)町茶屋街
にし茶屋街で見せてもらった茶屋の部屋 ひがし茶屋名物
“チリンチリン”の豆腐屋さん
だんな衆が主計町にこっそりと
遊びに行くときに通ったという“暗がり坂”
犀川 ひがし茶屋街付近の
バス停のお洒落なバス待ちイス
浅野川

 この3つの茶屋街、主計町とひがし茶屋街は、市内北側を流れる浅野川の両岸に、にし茶屋街は南側の犀川沿いにある。元々この2つの
川は、金沢城築城の際に「外堀」として利用されたとのことで、江戸初期に百万石の加賀藩が幕府から攻め立てられる危険性も十分あった
ための防衛ラインとしての意味があったとのこと。
 表情の違う2つの川を対比させて、犀川を「おとこ川」、浅野川を「おんな川」といったりもするらしい。確かに、犀川が開放的でおおらかな
感じがするのに比べ、浅野川は、どこかしっとりとした女性らしい雰囲気があるようにも思えた。

 浅野川沿いのひがし茶屋街を歩いていると、「チリン、チリン」と鈴を鳴らしながら、リヤカーを引くおじさんとすれちがった。最初は、私たちが
幼い頃によくあった「アイスキャンデー売り」の人かなと思ったが、載せている箱がどうもアイスキャンデーとは違う。「高山」と書かれてはいるが
何が商品として入っているのか予想がつかないまま、「写真撮らせてもらっていいですか?」とお願いしたら、少しぶっらぼうながら
「はいはい、どうぞ」という返事が返ってきたが、こちらを見ることもなくリヤカーを引き、鈴を鳴らしてせわしげに通り過ぎてしまった。後で調べて
みたら、「とっぺ」と呼ばれる豆腐を売り歩く地元では有名な方で、「高山のとっつぁん」と呼ばれているらしい。

Cレトロな金沢

ウメサ食品 錦谷小作薬局 広澤紙店 黒田ろうそく店
三田商店 森忠商店(油屋) めぼそ(毛ばりの店) 金澤文芸館

金沢のあちこちを歩いていると、古い建物が目に付く。それも町並み保存運動などでレトロ風に新築したものではなく、正真正銘に古い
ものばかりだ。格子造りに、剥げかかった看板を構える商家や、明治・大正期のレトロモダンなビルなどが町の至る所に建っていて、しかも
まだ現役で使われている。主計町茶屋街が京都の映画で使われたことでも分かるように、ホンモノが生きている。

 そんな建物の中で、「めぼそ」という看板の家が目にとまった。釣りの「毛ばり」を商う「目細商店」という名の店だが、何と金沢出身の作家
泉鏡花の親戚でその小説にもモデルとして登場する「目細てる」の実家とのこと。あれだけの文豪との関わりがあれば何らかのパフォーマンス
がありそうなものだが、うっかりしていると気づかずに通り過ぎてしまいそうな地味なたたずまいの商店だった。“泉鏡花ですか?・・・・・・
一応うちの古い親戚
になりますが、それがどうかしました?”とでも言いたげな看板を見上げていた。何気ない場所に思わぬ凄さが潜んでいる
・・・そんな魅力が金沢にはある。

D近江町市場にて
江戸時代から続く金沢市民の台所「近江町市場」。魚貝類や惣菜など約140店が営業している。旅先であり、もちろんいつも寂しい
ふところなので、もっぱら見て楽しむだけだが、市場の活気に触れるのは嬉しい。毎度のことながら、何も買わず、ひたすらカメラを
構える怪しげな中年オヤジに注がれる周囲の冷ややかな視線に耐えるのは辛いものがあるが・・・


Eサムライタウン長町

城下町だった金沢には、当然ながら武士階級の住人がいたわけで、金沢城の西側の長町一帯に当時の武家屋敷が残されている。小さな
堀沿いに歩いていくと突然タイムスリップしたかのように土塀の路地道が現れ、たくさんの屋敷が並んでいる。武家屋敷というと、以前
千葉の佐倉を訪ねたときに知ったのだが、厳しい身分制度の中で屋敷も格式が異なっていたらしい。佐倉の武家屋敷が茅葺きで極めて
土の匂いに富んだものだったのにに比べて長町の場合は都会的(江戸時代にこんな言い方はなかったが)に洗練されていて、格式の
違いもそれほど明確には分からなかった。これも金沢の文化なのかもしれない。

そんなこんなで、金沢でのあっという間の2日間が終わった。一つの町に、それも仕事上の出張ではなく、まる2日間も居続けて、じっくり廻ると
いう今回の旅は、今までにない楽しさだった。バタバタとすませる旅では味わえない、本当の意味の安らぎがあった。(20.12.29UP)



越前・若狭 早春の港町(敦賀〜小浜 平成20年3月)

 日本海側の旅で、
今まで行く機会が
無かった若狭地方。

 折しもNHKの朝ドラ
ちりとてちん」が
放送されたり、米国の
大統領選挙で、あの
オバマ氏を小浜市が
応援している
といった
言葉遊びのような
ニュースが流れたりで
「これはひとつブラつい
てみるか・・・」と
私の旅の虫が疼き
だしました。

 時刻表を出して
調べてみると、大阪・
京都から琵琶湖を
はさんで、けっこう
色々な列車が数多く
走っているんですね。

 というわけで、当直
明けの眠い目をこすり
ながら土日+年休1日
で2泊3日の越前・
若狭紀行を楽しんで
きました。
 朝の8時過ぎに京都駅からJRの新快速に乗り、山陽本線、湖西線、北陸本線と乗り継いで10時前には港町敦賀に
着いてました。さっそく駅構内の観光案内所に寄って、レンタサイクルを借りました。自転車での散策も私の好みですが、
今回はほぼ半日、敦賀の町をブラつくことになるので、電動の自転車にしました。ペタ゜ルを少し強く踏み込むと、軽やかに
走り出します。こんな自転車が心地よく感じられるということは、とりもなおさず老化の一途をたどりつつあるということでもあり、
少し複雑な思いです。

 駅前の通りを走り始めてすぐ、色々なブロンズのモニュメントがあちこちに立っているのに気づきました。近寄ってみると、
あの松本零士さんの名作アニメ「宇宙戦艦ヤマト」と「銀河鉄道999」の色々なキャラクターたちです。はて、敦賀って
松本零士さんの出身地か何かか?と思いますがさにあらず、敦賀のイメージ「港と鉄道」がヤマトと999に投影されることから、
松本さんのプロデュースでシンボルロードが整備されたのだそうです。キャプテンハーロック、古代進と雪、哲郎とメーテル・・
・なつかしい主人公たちに出会える楽しい敦賀のまちです。
ハーロックの勇姿 哲郎とメーテルの別れ 進と雪 これも懐かしいスターシャ
 
 「宇宙戦艦ヤマト」のテーマ(ささきいさおさん歌唱)です。
最後に「ヤマト生還」のテロップが流れますが、私はどうしても
第2次大戦末期に、無数の敵機の爆撃にさらされて
鹿児島沖に沈没した本物の戦艦大和が頭に浮かびます。
 こちらは「銀河鉄道999」の最後のシーン。上記ブロンズ
写真の左から2番目、哲郎とメーテルの別れの場面です。
人生という旅の中で、ほろ酸っぱい青春の終わりといった
ことを象徴しているように思います。
   
 シンボルロードをしばらく行くと、赤く大きな鳥居が見えてきました。地元の人たちに「けいさん」の愛称で親しまれている気比(けひ)
神宮です。この鳥居、何と11mの高さがあり、広島の厳島神社、奈良の春日大社と並んで、日本三大鳥居の一つだそうです。
 神宮から海のほうに向かうと、赤茶けたレンガ造りのこれまた大きな倉庫が現れました。敦賀はもともと海運で栄えた港町です。
ひと昔前には、かなりの荷物が荷揚げされ、また積み出されていたのでしょう。レトロな倉庫の並びは往時の繁栄を今も語って
いるかのようです。
気比神社の赤い鳥居 赤レンガの倉庫
 さて、お昼もまわり 小腹が空いてきたので敦賀に来たらぜひ行ってみたいと思っていた「ヨーロッパ軒」で昼飯にということに
しました。ヨーロッパ軒・・・いかにも洋食屋さんといった感じの面白いネーミングのこの店の名物はソースカツ丼です。どんぶり飯
に揚げたてのでかいトンカツ3枚を載せ、ウスターソースをかけた丼にタクアン2切れが添えられてます。
 卵とじにしてあって、甘辛い醤油だれで三つ葉なんかが添えられてという普通のカツ丼と比べると何となく粗野でお手軽すぎる
感じですが、食べてみると・・・ハマってしまいます。あっさりした油で柔らかく揚げられたトンカツは、サクっとした噛み心地ですし
かけられたソースも、トゲトゲしさがなくカツにもご飯にもまろやかにフィットしています。たぶん市販のウスターソースではなく、
カツに合わせてきちんとブレンドされたソースなのでしょう。ハフハフという感じで一気に平らげてしまいました。
 どんぶり飯にトンカツ3枚・・・私の健康を気遣う妻の前では、絶対に食べたりできないメタボなメニューですが、今日は自転車も
半日漕いでいるし、まあいいかと妻の怒る顔を頭のスミに押しやっての昼食でした。
 テーブルにかけられたビニール製のクロス、やかんに入れられデンと置かれたお茶、観葉植物、客に媚びないフツウの
お嬢さんっぽいウェイトレス・・・改めてヨーロッパ軒の店内を眺めてみると昭和30年代のなつかしい雰囲気が残されています。
今風のフレンチやイタ飯(もはや死語?)などのレストランではなく、私が子どもの頃いたる所にあった「洋食屋さん」でした。
ボリューム、味ともに最高 ヨーロッパ軒のソースカツ丼 リアカーとおばあちゃん
 満たされたお腹をかかえて港の周辺を自転車でうろうろしていると、行商のリアカーを押しながら歩いているおばあちゃんを
見かけました。頭に野球帽、首に巻いたタオル、定番の前掛け、長靴、たくさんの発泡スチロールの箱を載せたリアカー・・・
昼下がりの静かな港町にぴったりのおばあちゃんです。
 「こんにちは、写真撮らせてもらっていいですか?」と声をかけると、「アラ、どうしよう、こんなババの写真撮りはるやて・・・」と
誰に言うでもなくテレながらもポーズを決めてくれました。(上の写真)
 「どこから来なはったの? 今どき、こんなリアカー引いとるババはおらんようなったけえ、珍しいのですやろか?」と話される
笑顔が、とってもチャーミングでした。おばあちゃん、ありがとうございました。いつまでもお元気で。

 港沿いの道を西にペダルをこぎ、名勝「気比の松原」をめざします。敦賀湾に面した東西約1.5km、南北400mの広がりを
もつ松林で、日本3大松原の一つです。(ちなみに、あと2か所は、静岡の三保の松原と佐賀の虹の松原です。)入り口に
「松原公園」と刻まれた巨石があり、後藤新平書(大正9年)となっています。古くから市民に親しまれてきた松原のようです。
昼なのにほの暗いほど、うっそうと繁った松林を出ると、細やかできれいな砂浜が波打ち際に弧を描きながら延々と広がって
います。まさに白砂青松の風景でした。
まさに白砂青松:気比の松原
 翌日は、早起きして7時44分発の小浜線に乗り、9時前に若狭地方の中心である小浜の駅に着きました。この前終わったNHK
の朝ドラ「ちりとてちん」の舞台になったところです。ここでもレンタサイクル(こんどは非電動車)を借り、町巡りを始めました。

 まだ朝が早いため、人通りもまばらですが、水揚げされたばかりの魚を商う「いづみ町」のアーケード街では、トップ写真のように、
さばを豪快にまるごと1本、焼き売りしている店や、うまそうな干物が所狭しと並べられた店で、元気なかけ声が行き交っていました。
浜焼きと呼ばれるさばの1本焼き(1本=千円)をほおばってみようかという食いしんぼの虫が疼きましたが、昨日トンカツを食べ、
きょうの昼もお寿司を食べようと思っていたので、さすがに妻の怒った顔を思い浮かべながら断念しました。付け足しみたいに
申し上げると、かつて小浜から京の都に新鮮な魚を運んだ「さば街道」の起点が、このいづみ町に残っています。
魚の小売店が並ぶ「いづみ町」 干物が所狭しと並べられてます さば街道の起点
 魚とともに、小浜のもう一つの名物は「若狭のぬり箸」です。ちりとてちんのヒロイン清美の父が、一心にぬり箸を作るシーンが
よく出てきましたが、そんな箸の店の一つ「大下漆器店」をのぞいてみました。ふだん見慣れているし、使い慣れているはずのお箸
ですが、色々な種類、大きさ、形、色、風合いのものを店頭で一度に見せられると、(うーん!)と心の中でうなってしまいました。
 聞くところによると、漆を何度も何度も重ね塗りしたり、少しずつ削りだしたりして整えていくのだそうです。もちろんお手頃な値段の
ものもありますが、何十万円といった逸品も、作業工程を考えるとうなずけます。今まで妻任せにして、箸を自分で買ったことなど一度
もない私ですが、今回は大奮発してそれなりの値段のペアのものを私たち夫婦の物として買いました。(帰ってから毎日の食事に
使ってますが、手にすっとなじむ感覚が何とも言えません)
 このあと、古いたたずまいを残す三丁町界隈を自転車で通ったあと、「若狭フィッシャーマンズワーフ」に向かいました。
町じゅう至る所に
「ちりとてちん」のポスターが・・・
大下漆器店の「若狭塗りばし」 古いたたずまいが残る三丁町
 フィッシャーマンズワーフで昼食を摂るつもりですが、まだ少し早いので、「蘇洞門(そとも)めぐり」の遊覧船に乗ることにしました。蘇洞門
は、小浜湾の東に突きだした半島の沿岸が、永年の海の浸食で削られてできた景勝地です。フィッシャーマンズワーフの船着き場から
百畳敷きと呼ばれる岩場までを往復する約50分の船旅ですが、次々と現れる奇勝、珍勝に時を忘れてしまいます。

 時々、岩場の上やゴムボートの上で釣りをしている人たちがけっこういました。この日はあまり大きな波はありませんでしたが、それでも
小さなゴムボートでは、かなりの揺れがあるようです。(気持ち悪くならないんだろうか? トイレに行きたくなったらどうするんだろう?)と
余計な心配をしてしまいました。

 やがて遊覧船のアナウンスが、日本神話の「山幸彦・海幸彦」の伝説がこの地に伝わっているという話を始めました。古事記・
日本書紀に出てくる兄弟神が一本の釣り針をめぐって争う話です。(エッ!その話は我がふるさと宮崎の神話では?)と思っていると、
私の心を見透かしたように、「同じような伝説が九州の日向地方にも伝わってます。」と結びました。わが宮崎にも「鬼の洗濯岩」という
海岸線の奇勝がありますが、イメージが近いのかなと興味深く聞いていました。 
岩壁に大きな穴があいた「大門・小門」 ゴムボートに揺られながらの釣り人
遊覧船の上で 海から見た小浜の風景 海のそばなのに、真水の湧水が
湧いている所がありました
 さて、遊覧船を下りるとちょうど正午頃。私の腹も本格的に空いてきました。すぐにフィッシャーマンズワーフの中にある
とれとれ寿司」のコーナーに向かいます。毎朝、近くの魚市場で競り落とされた地どれの魚が、パック詰めの寿司になって
売られていて、そばのカウンター席ですくに食べられるようになっているのです。しかもありがたいことに、エビなどが入った
あったかい「漁師汁」が無料で振る舞われているのです。

 トロ、小鯛、ボタンエビ、カンパチ、ウニ、アジ・・・華やかで色とりどりの沢山のネタを前にして大いに迷いました。
できれば東海林さだおさんのエッセイのように「あれも食いたい、これも食いたい」状態だったのですが、あのソースカツ丼の
翌日の昼食だったので、妻の怒った顔がまた浮かんできました。

 結局、ここでしか食えない物を2パックだけと自分と、心の中の妻の顔を納得させる形で、6種類の地どれネタセットと、
「焼きサバずし」を買うことにしました。とくに焼きサバは、あぶりを入れて少し酢でしめたサバが、口の中でトロッと香ばしく、
一切れ、また人切れとモクモクと口に運びます。

 サバずしの最後の一切れを口に放り込みながら、はるか昔、この小浜の海から都へ魚介類を運んだという「さば街道」に
思いをはせる私でした。
とれとれコーナー(左上)  私が選んだ地取れずしと焼きサバずし(左下)  色とりどりの取れたての寿司(右)

(20.05.05UP)



胡弓の音色に秋の気配(越中八尾「風の盆」 平成16年9月)

 毎年9月1日から3日までのわずか3日間だけ、
しかも悪天候のときは何の遠慮もなく中止にして
しまう。順延もない。我々の側からみると極めて
手前勝手だが、地元の人たちからすると、図々
しく押し寄せる我々のほうが手前勝手なのかも
しれない。

 「おわら風の盆」・・・・・・・長い間憧れていた
このイベントのために2ヶ月前から休暇の調整、
飛行機の手配、宿泊の予約、演舞会指定席の
申し込みと涙ぐましい努力をしてきた私にとって、
大型の台風16号の接近が気かがりだった。
だが天は私に味方した。台風が過ぎ去った翌日
名古屋空港に飛び、高山本線を北上した。

 今年、そう今年初めて、おわら真っ最中の富山
県八尾町に降り立った・・・・・


特急ワイドビューひだ9号は、午後4時すぎに八尾の駅に着いた。おおぜいの客と一緒に電車をおりると、胡弓と三味線のあの
音色が聞こえてきた。おわらのメロディーである。駅舎を出て右へ進むと、「おわら風の盆」と看板が架けられた舞台が目に入って
きた。すでに踊りと唄が始まっている。

 ふだんは駅前の駐車場らしいスペースの舞台の前に、おおぜいの客が座り込んでいる。オレンジ色や桜色の華やかな浴衣を
着て、編笠を深々とかぶった若い女性の踊り手が交代で次々と登場する。私と息子もどうにかスペースを確保して踊りに見入った。
案内によると福島(ふくじま)町の舞台と書いてある。

 おわらは八尾の中心部にある11の町がそれぞれの支部をつくり独自の唄、演奏、踊りをくりひろげるという。その点、各町が
「○○流れ」というそれぞれのヤマを造る博多祇園山笠と似ている。祭りは9月1日から3日の3日間、午後3時から11時まで
開かれ、内容は各町内での輪踊りや町流しのほか、このような特設舞台での演舞、踊り方教室などである。






腰をかがめたり、後ろにそったりと、女性らしさを表現してます 力強い男踊りの所作 男女のからみの部分もあります

 優美な女性の踊り、力強いがこっけいな仕草も見せる男の踊り、カン高い歌い手と、それをさますかのような囃し手、全てをリードする
三味線と胡弓の音色。着いたばかりなのに、私はもうおわらの世界のとりこになっていた。

 そろそろ暗くなりかけたので、演舞場のある八尾の小学校へ行ってみることにした。初日(私が着いた日)と2日目の夜7時からは、
11の支部総出演の大演舞会が八尾小学校で催されることになっていて、私はこの演舞会の観覧予約をしていた。

 実はこのチケット、少しプラチナがかっていて、入手するために涙ぐましい(?)努力の過程があった。チケットは1ヶ月ほど前に現地
八尾で売り出されると同時に、電話予約での受付けもしてくれる。売り出し開始はたしか午前9時からだったと思うが、電話をまわした
とたんに「お客様がおかけになった電話は、大変混み合っております。恐れ入りますが・・・」というメッセージが流れた。それから2時間
全くの話し中状態・・・あらためて風の盆の底知れぬ人気を思い知らされた。やっと電話が通じたのがお昼前だった。
 やや興奮気味にチケットが欲しいと言うと、「A席は完売しました。B席ならありますが、早く代金をお振り込みいただいた方から、
前の方の席を割り当てます。」とのこと。すぐに予約して近くの銀行から2人分4,600円を振り込んだ。早かったせいか何とかB席の
2列目をGETできた。

顔が見えない分仕草に目がいく ペアの踊りには盛んにフラッシュが・・ この仕草が女っぽい!

 会場は小学校の運動場に造られていた。この演舞場では、おわらを構成する八尾の11の町全ての踊りが披露される。各町ごとに
男性、女性、地方(じかた=三味線・胡弓・太鼓・唄などを担当する演奏者集団)それぞれに衣装が異なる。また踊りや節回しなども
各町独特の雰囲気があるらしい。

 昼間の踊りとはまた違った幻想的な世界が闇の中に浮かび上がる。舞台の背景には橋や川べりの様子など古き日本の風景が
描かれ、おわらのメロディー(クリック!)にのって次々と各町の女踊り、男踊り、子どもたちの踊りが演じられる。夢中で見入って
しまい時間がたつのを忘れてしまった。

 ただ、残念なことが2つあった。ひとつは舞台からかなり離れていたので、写真が十分に撮れなかったこと。固定のためのスタンドと
スエさん自慢の望遠レンズを装着していたのだが、上記のようにピントの甘い画像になってしまった。

 もう一つは、これはかなり腹が立ったのだが、演舞が始まって後から遅れて入場してくる連中。踊りに夢中になっている我々の前を
腰をかがめてくるならまだしも、堂々と胸をはり、無粋な大声を張り上げて通り過ぎる一団に何度興ざめしたことか。観光ツァーらし
い旗をおったてて、ゾロゾロと歩かれると、かなりの時間、舞台が見えなくなった。

 でもこの夜の踊りはこういったことを差し引いても、素晴らしかった。何と表現したらいいのだろう。編み笠からわずかにのぞいた
若い女性の口元の色気、かざした手のたおやかさ、静止画像のように数人が次々と所作を止めてみせる男踊りの妙、女性がそっと
恥ずかしげに男性に手をさしのべることで表現される恋愛感情、甲高くツヤのある歌い手の声とツヤっぽい歌詞、そして何より
すすり泣くような胡弓の音色・・・・・日本人に共通する情念に迫るというか、あえていうと官能的に訴えかけてくるような、そんな世界を
ものの見事に描ききっている。激しく心を揺さぶられた。この祭りが富山地方だけでなく全国にファンを持つ理由が分かったような
気がする。

提灯が暗闇に浮かび上がります 暗闇に艶やかな踊りが映えます
(写真をクリック! →大画像へ)
三味線の音も風情があります

 演舞会が終わって再び通りのほうに出てみると、何カ所かで町流しを見ることができた。男女の踊り手が輪になったり、
縦に並んだりして、地方(じかた)の演奏にあわせて踊っている。さきほどの演舞会ほどの人数はいないが、近くで見ることができる分
迫力がちがう。見物人が予想していたよりは多くない。というよりは、少ない状況で踊りを始め、集まり始めたところでさっさと切り上げる
ような展開だった。おかげで上記のような、ぐっと寄った写真を撮ることができた。

 たぶんそれぞれの町の踊りにそれぞれのファンがついているのだろう。次の踊りの場所までぴったりとくっついて歩き回る人たちも
けっこう多い。これは翌日富山市内で言葉を交わした熟年夫婦のはなしだが、もう十年ほど「おわらの追っかけ」をやっているとのこと
だった。例の演舞会の入場券もわざわざそのためだけ八尾に出向いて、A席のいい場所を購入したそうだ。八尾の主催者側も1年を
かけて必死に準備するそうだが、見に来る客もこれだけの執念で訪れる人たちがいるというのは驚きだった。予約の電話がたかだか
数時間つながらないことにやきもきした自分が、少し恥ずかしくなった。


  今回、八尾の町を2日間歩き回って、おわらの歌詞をいくつか
    メモしたり、帰ってから本などで調べたりして、
    おもしろいものをいくつかピックアップしてみた。

  まず唄い手が高々と唄い上げる「本歌」だが、男女の恋の歌、それも
 けっこう大人向けの官能的なものが多いように思えた。日本語特有の
 かけ言葉も使われていて、文字にしてみると文学的な香りすら
 感じられる。
 
     
○雁(かりがね)の翼欲しいや海山越えて 
        妾(わたし)ゃ逢いたい人がある

     ○竹になりたや茶の湯の座敷のひしゃくの柄の竹に
        いとし殿御(とのご)に持たれて汲まれて一口呑まれたい

     ○あなた今来て早やお帰りか
        浅黄染めとは 藍(逢い)たらぬ

     ○お風邪召すなと耳まで着せて
        聞かせともない明けの鐘

     ○もしや来るかと窓押し開けて
        見れば立山 雪ばかり


  
一方のお囃子。もともと日本の民謡では、「チョイナチョイナ」とか
 「アア ドッコイショ」といった合いの手を入れる「囃し手」は控えめで
 目立たない場合が、多いが、おわらの場合、重要なリーダーシップを
 とっているように思える。皮切りは次のとおり・・・


     ○きたさのさ どっこいしょのしょ 唄われよ わしゃはやす

 
そして越中立山のお国自慢へと続く

     
○越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ


   また、囃し唄にも男女の仲をテーマにしたものが多い。それも
相手を強く想う激しい内容である。

    
 ○三千世界の松の木ァ枯れても
        あんたと添わなきゃ娑婆(しゃば)へ出たかいがない

     ○手打ちにされても八尾の蕎麦(そば)だよ
        ちっとやそっとでなかなか切れない


 
更には、「ケセラセラ」や「Let it be」などにも通じそうな人間の
 生き方的を説いたような歌も見受けられる

     
○浮いたか瓢箪(ひょうたん)軽そうに流るる
        先行ァ知らねどあの身になりたや

 
 さて、囃し手による次のような唄い上げもよく聞かれた。

     
○しょまいかいね、しょまいかいね
              ここらでしょまいかいね 
               一服してから またやらまいかいね


 最初は何と唄っているのかよく解らなかったが、このお囃子が出ると
踊りが必ずぴたりとやんだ。ははあ、「しょまい=お終い」という
意味かとも考えたが、あとで富山の方言などをサイトで調べてみると
「為(し)ょまい」という言葉が当てはめられており、これだと後段の
 「一服」を先取りして、「しようよ、しようよ
一服しようよ」ということにもなるのかと、ますますこんがらがっている。
誰か富山弁に詳しい方がおられたら教えてください。

智子さんのこと〜昼の流し(上新町の踊り)







これは農作業をあらわしています おわらの将来を担う真剣な表情です

 さて、翌2日目は昼過ぎから再び八尾の町に行った。昨夜の八尾小より更に先のほうへ歩いていくと「上新町」と書かれた
はっぴの一団がまさに町流しをスタートさせるところに出くわした。(上新町といえば・・・・・)私は心にかすかな期待をしつつ
地方(じかた)の人たちに視線を投げた。(いた! 若林美智子さんだ!) 藍染めの浴衣に身をつつみ、胡弓を手にした
女性は、まさに若林さんその人だった。

 若林美智子・・・・・数年前、NHKのドキュメンタリー番組で紹介され、一躍全国的に多くのファンを持つことになった八尾町
在住の胡弓奏者である。最近はコンサート活動やCD制作など、メジャーとしての活動もされている女性アーチストである。
実はスエさん、朝夕の通勤マイカーで彼女のCDから流れるせつせつとした胡弓の調べを楽しんでいる大ファンなのである。
 その若林さんが、今目の前にいる!!  たぶん彼女の息子さんだと思うのだが、男の子と一緒に立っている。ふだんは
遠慮深い(?)スエさんだが、断られるのを覚悟の上で写真撮影をお願いしたところ快くOKをいただいた。(やった!)とはやる
気持ちで写させていただいたのが下の写真。手にした胡弓と、甘えるように顔をよせる息子さんの姿が一緒になっていい表情に
仕上がったと自分なりに思っている。







美声を張り上げる 若林さんと息子さん(?) 「かかしの手」という所作 小さいのに見事な手つき

 この日の私は、かなり図々しかった。「若林さん、一緒に写真をお願いできますか?」と2ショット撮影までお願いしてみた。さすが
にちょっととまどった表情を見せられたが、「いいですよ」と承知してくれた。で、息子にシャッターを切らせたのがその下の写真です。
「お父さん、この写真だけでもう帰っていいね」と息子から冷やかされてしまった。(その通りです。)

嬉しくてたまらない私と
やや迷惑そうな若林さん
うなじを撮りました(オヤジ好みショット)
(写真をクリック! 大画像へ)
うなじショットをもう一枚・・・・・・

 上新町の踊りは町のはずれにある公民館から始まったが、見物客が以外と少なくて十分に近くで楽しむことができた。昼なので
昨夜はわからなかった踊りの所作、着物の細かい色や模様までよく観察できた。聞いたところによると、踊りには、江戸期から伝え
られた旧踊りと、昭和期になって振り付けが完成した新踊りに大別されるという。

 旧踊りは「豊年踊り」とも呼ばれ、農作業の様々な動作がベースになっているらしい。種もみまき、もみふるい、稲刈りなどの形を
優美におおぜいの踊り子たちが輪踊りしながら表現している。ほかにも農作業の始まりを告げるための手を高く持ち上げて三回叩く
所作や、一日の仕事が終わってどっこいしょと笠を脱ごうとする仕草などがあって、じっと見ているとなかなか興味深い。

 一方の新踊りだが、これは女踊り(四季踊り)と、男踊り(かかし踊り)に別れるという。女踊りは、八尾の四季を唄ったおわらの曲に
若柳吉三郎という舞踊家が大正期に振り付けを行ない、昭和初期に完成したという。もともとは芸者衆だけのものだったらしいが、
一般女性も踊るようになり、優美でつややかな雰囲気の踊りとして定着した。旧踊りが全国の盆踊りに通じるいわば「大衆型」なのに
比べ、女踊りは現代人好みの玄人っぽい踊りである。

 女性がみせる様々な仕草、例えばお化粧のときに鏡を見たり、髪をといたり、蛍とたわむれたりする形が色っぽく表現されている。
今回の旅で(俺もつくづくオヤジになったなあ)と感じたのは、上の右の写真である。笠に隠れた顔を前から見たときの口もとや、
後ろからのうなじの艶っぽさに、ついついカメラを向けてしまった。

 男踊りも若柳吉三郎の振り付けで始まったらしいが、定着したのはかなり後になってからとのこと。こちらは凛々しく、力強い所作が
盛り込まれていて、田植え、草のかき分け、稲穂の実りなどを、黒いハッピ姿で表現されている。優美な女踊りと対で見ると味わい深い
ものがあった。

 ずっとついていったが、上新町の集団は3回ほど踊りの場所を換え、「しょまいかいね〜〜」のお囃しとともに休憩に入った。
昼の流し(東町の踊り)〜地方(じかた)について

 上新町を離れて次は東町のほう行ってみたら、こちらは総踊りの真っ最中だった。成人男性、女性のほかに小さな子どもたちまで
一緒になって隊列を組んで踊りながら進んでくる。先ほどの上新町と違って人数も多い。見物客も多い。伝統芸能保存というのは
後継者の確保に苦労するものだが、この東町は中学生、小学生、幼児の層が厚いところだそうで、青年男女、地方(じかた)まで
含めるとゆうに百人は超す大所帯なのだそうだ。よく見ると、小さい子どもたちの踊りの列の両側には、これまたたくさんの付き添いの
お母さんたちが、ずっと見守っている。

 ふと、女性の帯に目がいった。黒が基本と聞いていたが、東町の帯は、黒と金と銀の市松模様になっていて、けっこう華やかである。
踊りの所作も、素人の私の目から見て解るくらいに洗練されている。おわらの中心を成す町のように私には思えた。後継者もこれだけ
いれば心配いらないだろう。かえって大所帯だけに統制のとり方とか、伝統の重みというプレッシャーが課題なのかもしれない。






東町の踊り 西町の輪踊り

 もう一つの通りでは、西町が踊っている。こちらは地方(じかた)を囲むようにして輪踊り状態である。やはり人数が多い。西町の
地方(じかた)の着物の柄に目がいった。全体的に薄い水色だが、足下のすそのところだけ斜めに濃い藍色で染められている。
なかなか粋である。 

 若林美智子さんにお会いできたせいもあるが、華麗な踊りのグループのそばで楽器や唄を担当する地方衆(じかたしゅう)も、ずっと
気になっていた。八尾はそんなに大きな町ではない。その八尾にこれだけ洗練された胡弓、三味線、太鼓、唄などの芸能を持つ人たちが、
11の町全てに存在するというのが驚きだった。これだけになるまでの先人たちの苦労もあっただろうし、現在もたった3日間のために
1年を通じて練習を積む町民たちの意気込みにも大変なものを感じる。

 二十歳前後は踊りにいそしみ、その中で声の出る者は唄い手になり、楽器に興味のある者は三味線や胡弓の手ほどきを受けて、
踊りを卒業すると次は地方(じかた)に加わるのだそうだ。

     
 胡弓の音色に年季が感じられます  生で聞く若林さんの演奏!  東町の地方(じかた)さんたち

 私のウンチクぐせにもう少しつきあってください。
  
  ○ そもそも「風の盆」とは・・
    わざわざ台風シーズンの二百十日に当たる9月1日から3日間だけ行うお祭りということで、「風封じの行事」といわれて
   いる。収穫前の稲を風の害から守るために唄や踊りで風の神様を慰める豊作祈願の意味があったといわれている。した
   がって9月1日・2日・3日という日程は絶対に変わらない。土、日、休日に合わせることをしない。雨が降ったら何の
   ためらいもなく中止にしてしまう。順延は絶対にない。・・・・・かたくななまでに今風の観光に媚びることをしない。これが
   かえって全国の祭り好き人間たちを惹きつけてやまないのかもしれない。
    「風封じ」説とは別に、風の盆の起源にはもう一つの見方・・・「回り盆」説があるらしい。旧暦7月の盂蘭盆から長期に続く
   盆行事の最後として唄や踊りがあったのではないかという見方である。その唄や踊りが町中を練り歩くので「回り盆」と名付け
   られていたという。隊列を組んで踊ることにより、祖先の霊を送り出す・・・すなわち各地で行う「送り火」のようなものだった
   のかもしれない。

 
 八尾の町 橋の上で、息子と  風の盆の様子がYouTubeに出てました

  ○ 踊りの衣装について
    一見派手な衣装にも思えるが、よく見てみると若い女性の着物をのぞいて、男のハッピや地方の衣装は黒や藍色を基調
   にしている。華やかな女性にしても帯は黒っぽいものが多い。演舞会場での司会者の説明によると、もともとお盆の行事
   だったため、男の衣装は僧侶の法衣もしくはそれに近い物が用いられたとのことで、黒を中心としたものが今も受け継が
   れているとのこと。
    一方、女性の帯だが起こりは経済的なことらしい。1年に1度の祭りなので、奮発して華やかな着物は作ったが、気づいて
   みると着物にしめる帯がない。仕方なくもともとあった冠婚葬祭に使う黒帯をしめたのが始まりだそうだ。今は日本全国どこ
   の祭りでも華やかな衣装が目につくが、黒を基調としたおわらのハッピや帯は、華やかさだけでなくしっとりとした雰囲気を
   演出するすばらしい小道具に思える。

 郵便局では記念切手が売られていた  ひと休みの風景  提灯に明かりが灯るとおわらは最高潮

 こうして八尾の夢のような2日間(日程の関係で3日までいることができなかった)が終わった。例の十年追っかけの熟年夫婦が
言った話だが、八尾の人たちはもともと風の盆を自分たちだけの祭りと考えている。今は村おこしの時代だから、役場や商工会の
言うとおりに観光客向けのおわらもやるにはやるが、それも最初の2日間の夜11時までで、深夜や3日目は親しい者同士で町流し
をするのだとのこと。天気が悪ければすぐ中止だし、これだけ全国的に有名になっても、おもねる所が少しもない。

 とすれば最初の2日間の夜11時までしか八尾にいなかった私と息子は、本当のおわらを見ていないことになる。来年以降、ぜひ
また訪ねてみたいとは思っているが、私はどんなに憧れても部外者に過ぎない。一観光客でしかない。本当のおわらは、やはり
地元八尾に住む人たちだけのものなんだろう。ちょっと悔しい気もするが、我々は部外者としての分をわきまえた上で、毎年この
祭りを楽しみにさせていただこう。(16.09.20Up)(16.09.20UP) 

 




乗り物ばらえてぃ(立山・黒部 平成14年9月)

 皆さんのお手元に、もしJRの時刻表があったら、「JRバス&会社線」という項目の中部(北陸)地方のページ
(月によって異なるが、だいたいp830付近)を開いていてみてください。中ほどに、富山から信濃大町に至る
立山黒部アルペンルートの略図が示されています。高低差の大きい断面図ですが、途中途中の乗り物に
注目してください。電車やバスだけでなく、ケーブルカー、ロープウェイそしてトロリーバスと多彩な移動手段が
準備された魅力的なルートです。そんな立山・黒部を9月になってやっと取った夏休みを利用し旅してきました。
 肥満気味の体のゆえに、登山はおろかトレッキングも苦手な私ですが、多種多様な乗り物のおかげで、
険しい立山・黒部の大パノラマを十分に堪能することができました。

富山地方鉄道の電車
(電鉄富山→立山)
立山ケーブルカー
(立山→美女平)
立山トンネルトロリーバス
(室堂→大観峰)
立山ロープウェイ
(大観峰→黒部平)
黒部ケーブルカー
(黒部平→黒部湖)
関電トロリーバス(黒部ダム→扇沢:
撮影忘れのためチョロQで勘弁を)

  立山駅から数分のケーブルカーの旅を楽しんだあと、美女平駅につきました。時間が無くて散策はできません
でしたが、「美女平」という名前に興味を覚えて調べたところ、ある伝説に行き着きました。むかし女人禁制であった
立山に足を踏み入れてしまった尼さん(こういった伝説の定番どおりたぶん美女だったんだろう)が、神の怒りにふれ、
杉の木に変えられたのだそうです。この杉を美女杉といい、一帯に美女平という名がついたとのこと。美女杉は
駅のすぐそばにあったらしいのですが、気づかずに素通りしてしまいました。(残念)
 
 続いて、美女平のターミナルから室堂に向かう高原バスに乗り込みました。過ぎていく景色がだんだんと高山帯に
移っていくのが実感できました。この路線の標高差は何と1500mもあるそうです。雄大な山々が次々と姿を見せては
過ぎていきます。むき出しの赤茶けた地面と濃い緑がコントラストを描く山々の上に抜けるような青い空が広がり、
その青をバックに様々な形や大きさの白い雲が流れていく・・・・。夢中で車窓を眺めていると、やがて弥陀ヶ原の
ホテルが見えてきました。おおぜいの人たちが色とりどりのリュックを背負い緑の中をトレッキングしています。
私も一瞬ここで降りて歩こうかなという誘惑にとらわれましが、次の室堂での時間のことを考えてあきらめました。
 
 室堂のターミナルに着き、バスを降りて建物の外に出たとたん、息をのみました。目の前、左右そして後ろも全て
山また山の大パノラマが広がっているではないですか。九州の見慣れた山とは違う、ヨーロッパ風のゆったりとした
山並み・・・「アルペンルート」という言葉の持つ意味がやっと判った気がしました。なだらかな丘の上をどこまでも
散策路が続いています。足下には名前も知らない高山植物の花が咲いています。見下ろす沢には夏の終わりなのに
昨シーズンの雪がまだ溶けずに残っています。
 私はふと職場の上司K氏のことを思い出し、彼に携帯電話をかけました。Kさんは山好きです。土・日はほとんど
ひとりで山に出かけていきます。こういったところは私と似てますが、どちらかというと「歴史と旅」的な人の匂いの
するところに惹かれる私に比べ、Kさんは人の手のついていない大自然の中を歩くのが好きなように思えます。
(本人に聞いてみたことはないが、多分そうだと思う。)今回この立山のパノラマの素晴らしさを目にして、感激を
伝えたい気持ちが半分、山好きの彼をうらやましがらせてやろうというイタズラ心が半分で携帯をかけました。
ところが、電話に出た彼の口から、室堂、美女平、弥陀ヶ原という土地名がスラスラ出てきて、私のもくろみは
見事に外れてしまいました。彼にとっては学生時代に何度か歩いた手慣れたコースだったようです。

弥陀ヶ原ホテル(車中から撮影) とやまの名水「みくりが池」 雄大な連峰を背に、おおらか気分

 散策路をしばらく歩くと、コバルトブルーの水をたたえる湖が横たわっていました。「とやまの名水 みくりが池」と
書かれた標柱が立っています。以前仕事関係で関わった話ですが、環境庁(当時)の名水百選の影響で、
各県がこぞって自県の名水を選んでいた時期がありました。一般に名水といえば「飲んでうまい水」を連想しますが、
「きれいな水質を次世代に残そう」という趣旨から、河川や湖なども含めた「水環境」として「名水」をとらえて紹介する
目的でした。そんな時富山県は、いち早く「とやま水ビジョン」を定め、水環境保全の観点からの「とやまの名水」
ともに、「とやまのおいしい水道水」をセットで公表しました。今その一つである「みくりが池」が立山の雄大な自然の
中に囲まれて存在するのを見て、あらためて富山県の水環境への熱心な取り組みを感じました。
  さらに一帯をブラブラしていると、何人かの人たちが集まってのどを潤している湧き水が目に入ってきました。
そばに寄ってみると、何とこれが本家本元の環境庁名水百選のひとつ「立山玉殿湧水」でした。説明によると
立山トンネルの中に湧いた水をこの場所に導いたもので、百選の中では最も高地に位置する名水とのこと。
かなり冷たくて乾いたのどに気持ちよい味でした。(ちなみに、わが宮崎にも県が選定した「宮崎の名水21選」
あります。残念ながらあまり知られていませんが・・・・・・)

 アルペンルートでは、@立山駅と扇沢の間のマイカーの乗り入れを禁止したり、コース内バスを、電気を一部
利用するハイブリッド化するなどの排ガス(NOXやCO)抑制、A外来植生除去やゴミ持ち帰り運動など様々な
環境保全の取り組みが行われています。このかけがえのない自然を目にしたら誰でもなるほどと理解できるでしょう。
 ちょうどこの原稿を書いているとき、「世界遺産であるイースター島のモアイ像に、旅行者である日本人青年が
イタズラ書き」というニュースが飛び込んできました。旅をしていつも思うことですが、国の内外を問わず、どんな
小さな町、知られていない山や海にも、地元の方々が大事にしている昔からの歴史、かけがえのない環境や暮らしが
あります。私たち旅人は、そこにお邪魔し、その大事な歴史や環境にふれさせていただいているという敬虔な気持ちを
いつも持ち続けるべきです。置き去られた弁当のゴミやビールの空き缶、国宝級の神社仏閣の柱などに書かれた
相合い傘マーク、むしり採られて荒れた花畑、列車の中で飲酒して大騒ぎする団体などを旅先で目にするたびに
「お前たちは旅なんかするな。自分の家に閉じこもって二度と出てくるな。」と言いたくなります。旅好きな自分自身へ
の戒めも含めて今回のモアイ像のニュースを聞いたスエさんでした。

空の青、雲の白、山の緑
全てが強烈な原色の世界
梵語らしい文字が刻み
つけられた供養塔
山の間をトレッキングの
道が続く
高山植物と思うが名前不明
道ばたの一面に咲いてた

 室堂からは、立山トンネルを抜けるトロリーバスに乗りました。パンタグラフを付けて電気で走るバスです。
説明によると日本で最も高いところ(2450m)、それも立山連峰の真下という長いトンネルの中なので、排ガスを
出さないトロリーバスが平成8年から走っているのだそうです。夏のシーズンは終わったのにけっこう乗客が多く、
2台いっぺんに発車しました。乗り心地は普通のバスと変わりません。約10分ほどで次の大観峰に着きました。
九州の阿蘇山にも大観峯という場所がありますが、要するに眺めのいいところを指しているのでしょう。
眺めはたしかにいいのですが、山の中腹にあるため、まわりを散策することは無理のようです。次の乗り物である
ロープウェイが迎えに来るのを待っていると、駅の職員が「立山黒部アルペンルート」という写真集の売り込みを
始めました。しきりと、ここでしか販売しない、今日の日付のスタンプが押しているなどとなかなかうまい話術に
乗せられてついつい¥1000の写真集を買いました。
 
 やがて真っ赤なゴンドラのロープウェイがついたので乗り込みます。眼下に広がる樹海の向こう側に、
黒部平が、さらにその向こうには黒部のダム湖が見えます。このロープウェイには途中の支柱が全くなく、
だらりと垂れ下がった(ように見える)ロープにゴンドラが必死にしがみついているように見えてやや怖い
感じがしました。ほんの数分で黒部平に着きます。ここも室堂と同じく大パノラマの世界でした。

真っ赤なゴンドラ 黒部平からの眺望

 黒部平から次の黒部湖まではケーブルカーでつながれています。立山からのケーブルカーは山の景色を
眺めながらの行程でしたが、こちらはトロリーバスと同じく真っ暗なトンネルの中をひたすら走り続けます。説明によると、
景観保護と雪害防止のために地下にもぐったのだそうです。急勾配をかけ降りて約5分というわずかに時間で
黒部湖に着きました。
 黒部湖からちょっとしたトンネルを徒歩で通り抜けるとすぐに黒部ダムへ出ました。
 水を高い落差から落として発電機を回して電力を作る水力発電にとって、川をせき止め大量の水を確保するダムは
必要不可欠であり、水害防止のための川の流水量調節という役目も担っています。
 豪雪地帯の上に、人を寄せ付けない黒部峡谷に「くろよん(黒部川第4発電所)」と黒部ダムを建設するという
大事業は、7年間の月日、513億円の工事費、のべ1千万人の人員そして171名の尊い犠牲という難関の末に、
昭和38年に完成しました。この間の経緯は、古くは映画「黒部の太陽」で、また最近ではNHKの人気番組
「プロジェクトX」で詳しく語られているが、今、現に完成したダムを見ると、よくぞこれだけのものをという気持ちに
させられます。

黒部湖からのトンネル
の向こうが黒部ダム
両岸から見た放水

 黒部川をまたぐダムはなだらかなアーチを描き、ダムの上に設けられた道から下流を見ると2か所からすさまじい
放水が行われていました。そしてその水しぶきが四方八方に飛び散り、鮮やかな虹がかかっています。一方の
上流側はたっぷりの水をたえる黒部湖となっています。昭和31年以前は、ここは人も通れぬ険しい渓谷だったのです。
対岸に渡りきったところに、殉職者の慰霊碑がありました。ツルハシやハンマーを持ったヘルメット姿のブロンズ像の
下に「尊きみはしらに捧ぐ」という文言と171名全員の名前が記入されていました。

すさまじい水しぶきに虹が出ていた 殉職者慰霊碑 ダムの上の道で

 余談ですが、4年前他界した父は、九州電力鰍フ水力発電関係の勤務だったため、私は山あいにある発電所の
そばの社宅で小中学校時代の大半を送りました。毎日毎晩休みなく水を吐き出しながら発電機を回している音が
「ウォン、ウォン」と夜中もずっと響き、この音が子守歌代わりでした。今考えると安定したエネルギーを社会に
供給するという父の仕事は、尊くて大変なものだったんだなと黒部ダムを見て再認識しました。今は火力や原子力に
主役の座を譲った水力発電ですが、黒部ダム工事などの建設事業に従事した人たち、私の父も含め全国の発電事業に
携わった人たちの力無くしては我が国の戦後の復興はあり得なかったと思います。
 今回の立山黒部ルートは、@天然記念物の雷鳥が見えなかったこと A季節はずれで「雪の大谷」を通れなかった
ことぐらいが心残りでしたが、また来ればすむこと。天気にも恵まれ強く心に焼き付いた旅となりました。
                                                      (15.01.27UP)
 


荒波をかなしと思へり能登の初旅(七尾・輪島・能登金剛 平成13年12月)

能登半島を初めて旅しました。年末のオフシーズンで、しかも天気の悪い2日間でした。

       
雲たれてひとりたけれる荒波をかなしと思へり能登の初旅

  かつて、日本海に面した奇勝「能登金剛」を旅した松本清張が詠んだ歌です。
今回の旅は、この歌のように雲が重苦しく立ちこめ、ところどころでみぞれまじりの
雨も降りました。行楽としての旅行なら最悪の条件でしたが、あらためて
北陸の冬の厳しさ、日本海の荒々しさを知ることができた旅でもありました。
名産の和ろうそく

七尾の青柏祭に使う曳山の大車輪 ろうそくの老舗「高澤商店」 寒空に暖かいライトが灯るフィッシャーマンズワーフ

 伊丹空港から、新大阪に出て快速列車で湖西線を北上、近江今津から特急「雷鳥」に乗り換え、
金沢から七尾線で七尾に入りました。七尾駅から御祓川沿いに海のほうへ歩いていくと、「せんたい橋」
という橋のたもとに、赤と黒のツートンカラーに彩色されたでっかい円形のオブジェが置かれてました。

 近寄ると「デカ山の車輪」と記された案内板が・・・何でも、七尾で5月に催される「青柏祭」のときに
七尾の町内に繰り出される曳山(地元ではデカ山と呼んでいる)の車輪の一部だそうです。高さ約12m、
重さ約20tのデカ山は、全部で3台あり、これが3日間、夜を徹してせまい町内を練り歩くとのこと。
とくに90度に道が曲がった街角では、大梃子(おおてこ)という木の板で前の車輪を持ち上げて一気に
動かすという方向転換の場面は壮大なものらしいです。

 御祓川に面したところに「高澤商店」がありました。昔からの手作りの和ろうそくを商う店で、いかにも老舗と
いう構えです。店内には赤や白を基調として、色とりどりの花が絵づけされた無数のろうそくや和風の小物が
所狭しと並べられていて華やかな雰囲気がただよっています。店の人の話では、白は葬儀や毎日の
お花あげに、赤はお正月とか彼岸・お盆などのモニュメント用に使われることが多いといいます。

  和ろうそくは、いぐさに和紙を巻いて芯をつくり、はぜの木からとった木蝋を手で塗りつけながら形を整え
太くしていく「手がけ」という方法で昔から作られていましたが、最近は型に流し込む「型流し法が多くなった
とのこと。植物由来の原料を使っているため風に強く、すすが出にくいという特徴があるそうです。

  赤・白それぞれ1本ずつのろうそくと燭台を買い、帰宅してから灯してみると、通常使うろうそく(洋ろうそくって
いうのかな?)に比べ、少し暗いが、光がやわらかでなかなか趣があります。また、炎の自然なゆらぎが何とも
いえない安らぎを感じさせます。私たちの祖先が眺めていた光と考えると、思わず手を合わせたくなってきます。、

  和ろうそくは、朝ドラ「さくら」で描かれた、飛騨高山のものが有名ですが、七尾でも江戸時代から作られてました。
はぜの木が盛んに植えられるようになった17世紀に半ばに「ろうそく座」が置かれたことが、能登の和ろうそくの
始まりといいます。中でも高澤商店は、明治25年の創業といいますから、すでに1世紀以上の歴史をほこる現役の
老舗というわけです。いつまでも伝えていってほしい文化です。

 更に海辺の方に歩いて行き、海に面した能登食祭市場(通称「フィッシャーマンズワーフ」)に立ち寄ったあと、
その夜は和倉の「和倉パレス」に泊まりました。

雨の中の朝市 能登金剛の「機具(はたご)岩」 能登金剛「厳門」

 翌朝、再び七尾の駅へ。ここでちょっと残念なことがありました。七尾から輪島までノンビリと各駅停車で乗り込もうと
思ってましたが、駅の構内には輪島行きの案内がどこにも見当たりません。駅員に聞いたところ、のと鉄道の穴水〜
輪島間はすでに廃線になっているとのこと!坂本冬美さんが「能登はいらんかいね」で「汽車は昔の各駅停車」と歌った
あの路線がもう無いとは・・・・旅情豊かな風物がまたひとつ消えてしまった。

  のと鉄道は、昭和62年にJR能登線を第三セクターが路線だけ借り上げて運営する「第二種鉄道事業」という
形でスタートしたが、通学・通勤客の減少やバスとの競合などで経営が厳しくなり、ついに平成13年3月・・・この旅の
何と9ヶ月前に穴水〜輪島間が廃止されたとのこと。輪島市民などの反対運動があったらしいが、時流なのでしょう。

 しかたなく、観光バス「あさいち号」に乗ることとした。和倉→輪島→能登金剛→千里浜→金沢と回るコースです。
輪島に向かう山の中の道では、雪がところどころ積もっており、ときどきみぞれまじりの雨がふりつけます。ガイドさんが
自分の責任でもないのに、しきりに「すみません」と繰り返します。たしかに旅行として考えれば考えれば最悪の状況
ですが、能登半島の厳しい冬を身を以て知ることができたと思えば、こんな旅もまた楽しです。

 バスは輪島市内に入りました。やや本降りになった中で、有名な「輪島の朝市」を見て回ります。メインストリートの
川井本町通りというところに、野菜・果物・魚介類・民芸品などを商う露店がオレンジ色のシートカバーをかけられて
ズラリと並んでいます。

 売っているのは周辺の農漁村から出てくる中高年の女性たちです。昔から亭主のひとりふたり養えないのは
女じゃないという気風を持った筋金入りの「輪島おんな」たちです。

 この能登人の気質を周辺地域と比べて言い表した昔からの言葉を観光バスのガイドさんが教えてくれました。

          越中泥棒 加賀乞食 能登はやさしや人殺し

九州でよく言われる「○○の者が通ったあとは草木も生えん」といった侮蔑的な感じの言葉と似てますが、
あえて記すと
こういう意味だそうです。

     @越中すなわち今の富山県地方は、狭く貧しい土地に生まれつくので、計算高くたくましく
       生活することにたけて、盗人になることもいとわずに生き抜く 
     A加賀(金沢地方)は、前田家以降、文化的風土が息づいて、ぜいたくな暮らしに慣れ、
      落ちぶれた場合には物乞いするしかない 
     B輪島などの能登の女たちは亭主や恋人に徹底的に尽くし抜く優しさを持っているが、
      いったん彼らに裏切られたなら殺してしまうほど情が深い


 言い得て妙だと思います。

みぞれ雪と荒縄巻のブリ 荒々しい素顔を見せる冬の日本海 寒風が容赦なく吹きつける

  朝市を回る間に、こんなことがありました・・・
バスの駐車場の近くにあった露店のおばあちゃんが、私に「旦那さん 買うてくだあ」としきりに声をかけます。
私は「一回りしてくるから、また後でね」と適当にあとらうつもりであいまいな返事をして通り過ぎました。
そして帰路に、さっきのことをすっかり忘れて駐車場に向かいながらこの店の前を通りかかると、このおばあさん、
ちゃんと私の顔を覚えていて、「さあ、帰りだから買うて」と駆け寄ってきました。仕方なく(?)ブリの荒縄巻き
(これはけっこうデカくて、帰りの荷物になってしまったが旨かった)を買わされながら、能登おんなの甲斐性を思い
知らされました。

 あいにくの雨でおまけにムチャクチャ寒い一日でしたが、輪島の朝市で、売り手と買い手がノンビリ「商談」を
進めるさまは、見ていて楽しいものでした。

ギネスにものっている長あぁぁいベンチ 
460.9mとのこと
松本清張の「能登の初旅」の碑 ハンク゜ル文字の漂着物

  輪島を出たバスは、能登半島の西海岸を南下しました。「能登金剛」と呼ばれる断崖絶壁の海岸線が続きます。
雲が低くたれ込め、ときおり小降りの雨がバスの窓に打ち付けます。眼下には荒れ狂う日本海。晴れた日には
それなりのすばらしい景観なのでしょうが、むしろ今日のようなすさまじい景色のほうが、能登や日本海の本当の姿
なのだろう思いました。

 途中、伊勢の夫婦岩のようにしめ縄で結ばれた二つの岩(機具岩という)、波の浸食でぽっかり穴があいた岩(厳門)、
世界一長いベンチなどを眺めて南下つつ、羽咋市に入りました。ここでバスは何と海沿いの砂浜を走り始めたのです。
「千里浜」という海岸で、聞くところによると、砂の粒があまりにも小さく、これが海水を含んで固く締まるため、車輪が
めり込まずにドライブできるとのこと。こうして金沢まで走り、私の「能登の初旅」はおひらきとなりました。
                                                           (15.04.14UP)