富士・アルプス編 (東海甲信の旅) |
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ぶらり旅 | |||
西伊豆の土肥の夕暮れ |
クルミとリンゴとわさびと・・・(松本・安曇野の旅 平成27年12月)
いろんな健康法に関心がある妻は、最近クルミにはまっています。南国宮崎ではほとんど縁のないクルミですが、信州に 行ったら新鮮で美味しいクルミが手に入るのではと、松本~安曇野を二人で旅してみようということになりました。 厳しい冬の、しかも何かとあわただしい12月にゆっくりと旅ができるのは本当に幸せなことです。まずは東京の八王子に 勤務する次男に会って昼飯を一緒に食べてから、15時半に八王子から「あずさ21号」に乗り込み松本に向かいました。 |
①松本城・松本市内
あずさ号の車中から富士山が! | 日もとっぷり暮れたころ松本駅到着 | 夕食は市内のレストランで「きのこ」定食 |
松本は蔵の町。幻想的な月明かりが・・・ | ちょうどクリスマスシーズン。ホテルではあたたかな暖炉が燃えてました |
朝起きてみると、ホテルの窓からアルプスの雪山のふもとに広がる松本市街が一望できました | |||||
松本城の前で | 天守閣から下界(?)を見下ろす | 昭和の修理時に外された天守の飾り | |||
朝食を済ませると、すぐに松本城に 行ってみました。 この城は戦国時代に造られた深志城が 始まりで、現存する城の中で日本最古の 国宝の城です。黒と白のコントラストに 彩られた天守閣がアルプスの山々に 映えて見事な景観でした。 松本城から、なわて通り商店街に 向かいました。ここは、松本城の南側 を流れる女鳥羽川(めとばがわ)沿い にあり”縄のように長い土手”という 意味でこの名がついているそうです。 50近く並ぶ各店舗では懐かしい玩具や 骨董品のほか、駄菓子や飲食物を売り、 歩行者天国になっています。 見ているだけで楽しくなります。 |
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縄手通り商店街 | 妻のお目当てのクルミも売られてました | 固いクルミを割る道具も買いました | |||
松本は水に恵まれた都市らしく、市内のいたるところに湧水、水路、井戸などがありました。 |
②安曇野・ちひろ美術館・わさび農場
2泊目は松本から穂高に移動し 安曇野のホテルアンビエントです |
ピアノの生演奏が行われてました | 乾杯! |
翌朝、かなり早く目が覚めてしまい窓の外を見ると、雪をいただいた穂高の峰の上に、ぽっかりとお月様が浮かんでいました。 陽が昇るにしたがって、峰々が朝日を浴びて輝きだします。 朝食もそこそこに、前から行きたかった「いわさきちひろ美術館」に向かいました。 いわさきちひろ(1918~1974) 福井県武生市(現・越前市)に生まれ、東京で育つ。東京府立第六高等女学校卒。藤原行成流の書を学び、 絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。1946年 日本共産党に入党。1950年松本善明と結婚。同年、 紙芝居『お母さんの話』を出版、文部大臣賞受賞。1951年長男猛を出産。翌年、下石神井(東京・練馬)に 自宅兼アトリエを建てる。1956年小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)、1961年産経児童出版文化賞、 1973年『ことりのくるひ』(至光社)でボロー ニャ国際児童図書展グラフィック賞等を受賞。1974年肝ガンのため 死去。享年55歳。その他の代表作に『おふろでちゃぷちゃぷ』(童心社)、『あめのひのおるすばん』(至光社)、 『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)などがある。(いわさきちひろ美術館HPより) 安曇野はちひろの両親の出身地であり、館内にはところ狭しとちひろの絵本が並べられて自由に閲覧できます。あの、瞳の 中心を描かない独特の目を持った子どもの画像は、いつも必死で何かを訴えかけているように渡しには思えます。 美術館の次は大王わさび農場に足を延ばしました。ここは、朝ドラ「おひさま」の舞台になった水車小屋があり、一目で 清流とわかる小川が流れています。わさびはきれいな水にしか育ちません。これだけの規模のわさび田に仕上げるには地元の 人たちの大変な苦労があったろうと思います。 |
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水車小屋 | 新鮮なとれたてのわさび | わさびのソフトクリーム |
わさびが嫌う雑菌を除去する ために畑を焼くのだそうです。 |
それにしても信州は豊かなフルーツの産地です。どこでも りんご、ブドウ、柿、キウイなど色とりどりの果物を見かけました。 |
信州への傷心の旅を歌い上げた 兄弟デュオ「狩人」の名曲「あずさ2号」 |
(29.01.04up)
秋の避暑地の4泊5日(軽井沢~小布施 平成25年10月)
定年後の再雇用で少し時間の余裕ができたこともあり、思い切って妻と4泊5日の信州への旅に出ました。今回は 妻が前から行ってみたいと言ってた軽井沢周辺を徹底的にまわる計画をたて移動日の前後2日を除いた3日間、 初日はサイクリングで軽井沢駅周辺を、2日目はドライブで軽井沢郊外から群馬県まで足を延ばし、更3日目は 列車で長野北部の小布施をまわってきました。 ①サイクリング/軽井沢の小道 日曜の夜遅くに軽井沢駅につき、翌朝から行動開始。ホテルで借りたレンタサイクルに乗って、森の中に漕ぎ 出しました。昨夜少し雨が降ったらしく、湿り気をおびた小道に木の緑が鮮やかに映えてます。森の中に別荘、教会、 公園などが点在するおなじみの風景で、私は何度か来てますが、妻は初めての軽井沢・・・平日のためか人通りも 殆どなく、自転車が苦手の彼女もなんとかペダルを漕いでます。 霊場池周辺だったと思いますが、あの政界の名家、鳩山家の別荘の前で妻が自転車を止めました。周囲を少し 歩きながら「へぇ~、へぇ~」としきりにつぶやいています。鳩山家の人々に芸能人的な興味があるのか、別荘の 価値が気になるのか・・・2つのうちどちらかだろうと私は想像してました。 |
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霊場池では紅葉が始まってました | 別荘をつなぐ小道 | かつて、上皇・上皇后ご夫妻の ロマンスの舞台となったテニスコート |
軽井沢銀座では秋の観光客がボチボチ出てます 真夏は大変な賑わいになる場所です |
店先には信州りんごが・・・ |
②4泊したホテルサイプレス軽井沢 今回の旅の宿泊先は、4泊とも軽井沢駅近くのサイプレス軽井沢に泊まりました。ハイクラスですが、日曜の夜から平日に かけての4泊なので、かなりリーズナブルに予約できました。 出発前、妻と食事について話してました。4泊すべてを外食とホテル食にしたら我々はすぐにブタになってしまう・・・ 何とか自分たちにあった分量の食事はできないか・・・幸いこのホテルの部屋にはキッチンがついてて、近くにスーパーも あったので、最初の夕食だけホテル食にして、あとはすべてスーパーに買い出しに行って「自炊」しました。長年連れ添った 熟年夫婦の旅は、無口で退屈なものになりがちですが、スーパーに行って、自分たちの好きなものをほどほどに買い、 ホテルでワイワイ言いながら調理して食べるのもけっこう楽しいものでした。 |
広いロビー | 広い中庭 | そして、分不相応に広い部屋 |
ちゃんとしたキッチンや 家庭用冷蔵庫があります |
人に見せるものではないので、 ごった煮のような料理もできました |
カンパーイ |
③ドライブ/旧三笠ホテル~白糸の滝~鬼の押出し 翌日は遠出をするので、レンタカーを借りました。旧軽井沢から北軽井沢へと車を走らせ、旧三笠ホテルや 白糸の滝などに途中下車しました。以前のひとり旅で、白糸の滝へはバスで来た時はバスの時間の関係で わずか10分ほどしかいられなかったのですが、今回はゆっくり見て回れました。 |
かつて近衛文麿、有島武郎といった著名人が 泊まった、伝説の旧三笠ホテル。庭が紅葉してました |
よく軽井沢周辺の見どころスポット 案内で紹介される白糸の滝。 |
白糸の滝を過ぎてしばらく行くと左側にゴツゴツとした溶岩台地が見えてきました。すでに長野県から群馬県へと 県境を越え、野外コンサートなどで有名な嬬恋村を走っています。この溶岩台地は江戸時代の厚真山の噴火で できたもので、「鬼押出し園」と呼ばれています。 ふと、わが宮崎県のお隣鹿児島の桜島溶岩のことを思い出し、助手席の妻に「見て、すごい景色!」と呼びかけたら、 返事なし・・・案の定、寝てました。しつこく何度も声掛けたら、ようやく目をさましましたが、この壮大な風景を一瞥し、 「わたし、こんな殺風景なところ嫌い・・・」といってまた寝てしまいました。私は、以前行った伊豆大島の三原山、 北海道摩周湖そばの硫黄山、長崎の雲仙岳、そして桜島など地球の息吹きともいえる火山、溶岩のたぐいが 大好きなのですが・・・長年一緒にいても好き嫌いの違いは埋まらないようです。 |
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④栗の里小布施 次の日は、軽井沢駅から新幹線で長野駅に行き、長野電鉄に乗りかえて小布施(おぶせ)の町を歩きました。商工会議所に 勤める娘が出張した際に「小布施の町おこしが素晴らしかった」と言っていたので興味がありました。 小布施は長野県北部に位置する人口約1万人の町で、栗、りんご、ぶどうなどの果樹農業が有名です。特に小布施栗は、 有名でそのまま出荷するだけでなく、きんとん、栗かの子、落雁といった様々な和菓子に加工され人気を呼んでます。 また、大粒の栗がはいったおこわも有名で、この日は竹風堂というお店の栗おこわ定食を昼食にしました。 駅からは循環バス「おぶせロマン号」に乗って町内の色々な場所を散策することができます。(ロマン号という名前は、 マロン(=栗)をかけてるんじゃないかと思うんですが違うかな? いっそ「おぶせマロン号」にしたほうがいいのでは・・・) |
小布施駅 | 循環バスおぶせロマン号 | 町内のリンゴ畑 |
竹風堂で栗おこわの定食をいただきました | |
⑤信州のうまいもん |
軽井沢のジャム | 五平餅 | 信州そば |
小布施の栗まんじゅう | おやきと野沢菜 | 峠の釜めし |
(R2.10.15UP)
徳川家のルーツを訪ねて(松平郷から岡崎へ 平成22年6月)
江戸幕府の支配者、徳川将軍家は 家康に始まり15代の慶喜で終焉を迎え たことは、殆どの人がご存じだと思うが、、 ではその徳川家のルーツは?というと 意外に知られていないのでは・・。 今回の旅は、家康の代に「徳川」と なった「松平」家の発祥の地である 三河の国「松平郷」(愛知県豊田市)と 家康の祖父清康が戦国の大名として 定着した岡崎を回ってみた。 |
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松平親氏(徳阿弥)の像(松平郷) | 徳川の家紋の元となったアオイ | 徳川家康の像(岡崎城) |
JR東海道線の岡崎駅から、私鉄「愛知環状鉄道」に乗り換えて豊田市駅に降りる。ここから更にバスに乗って山奥を めざすと小さな集落「松平郷」が表れる。江戸初期に徳川将軍家の旗本として名高いあの大久保彦左衛門が記した 「三河物語」では、徳川家のルーツが次のように伝えられている。 14世紀の末、この地を治めていた豪族松平太郎左右衛門の館に徳阿弥と呼ばれる若者が流れ着いた。一説には 時宗の僧であったという。諸国を歩いてあちこちの豪族の家を訪ね歩き、先祖の供養などをする流れ者の一人だった。 やがて徳阿弥は、太郎左右衛門の娘と恋仲になり男児を産ませた。何かしら見どころがあったのだろう。太郎左右衛門は この徳阿弥を正式に松平の婿として迎え、松平親氏と名乗らせた。後に徳川に連なる松平家はここから始まる。 江戸幕府はこの徳阿弥が、源氏の流れを引く「新田氏」の子孫であるかのように主張した。鎌倉幕府、室町幕府の それぞれの創始者である源頼朝と足利尊氏が源氏だったことから、幕府を開く武家の頭領は源氏でないといけない 風潮があったらしいが、徳阿弥=源氏の子孫という説は怪しいらしい。 それにしても松平郷は静かな山村である。松平氏の館跡には石垣が跡をとどめている。付近で地元の親子数名が 大きなボールで何かのレクレーションをやっている。一帯を歩き回っていると、面白いものを見つけた。一面に 群生しているハート形の植物をよく見ると、あの水戸黄門の印籠で有名な「葵の御紋」そのものである。もともとここらに あったアオイが松平家ひいては徳川家の家紋になったのか、それとも単に徳川発祥の地ということで地元が意図的に 植えたのかはよくわからないがどちらにしても興味深い。 狭いけれどもちゃんと舗装された道路をもう少し奥へ行くと、高月院と呼ばれる松平家の菩提寺がある。 この高月院については、あの司馬遼太郎さんが「街道をゆく・濃尾参州記」の中で失望した話を載せている。最初に 高月院を訪れたとき、司馬さんは遠い昔の徳川家発祥の頃に思いを馳せ、親氏たちの墓がきれいに整備されている様子を 見て「高月院そのものに人格を感じた。孤独な山僧に会ったようだった。」と絶賛している。しかし「街道をゆく」の取材で 2度目に足を運んだときは、余りの変わりように驚く。真新しい練り塀が立てられ、大売り出しのような旗が何本も 翻っており、仏教で唱えられる「和讃」をスピーカががなり立てていたという。「私の脳裏にある清らかな日本がまた 一つ消えた。山を早々に降りつつ、こんな日本にこれからもながく住んでゆかねばならぬ若い人達に同情した。」と この章を結んでいる。よっぽどの失望状態だったのだろう。過去のバブルの頃にはこうした「町おこし・村おこし」の 悪い例がたくさんあった。 だが、今回、高月院付近を歩いた私には、司馬さんを失望させた雰囲気は感じなかった。折からの不景気が、 元の静かな山村に戻してしまったのかもしれない。皮肉な話である。 |
松平郷の屋敷跡 | 大権現神社 | 高月院の門 |
松平に婿入りした後、親氏は近隣の百姓たちを使って道を通し、橋を造り、水田を増やしてこの一帯を豊かにしていった。そして
孫信光、ひ孫親忠の代までに松平氏は一大勢力となり、ついには7代目清康の頃に三河平野の中心部岡崎に城を構えて小さい
ながらも戦国の大名として覇を唱えるに至った。家康は親氏から数え9代目の子孫になる。
親氏から家康そして最後の将軍慶喜までには、実に500年近くの時が流れている。歴史に「if」は無いとはいうものの、
もし親氏が松平郷に流れ着かなかったら、いや流れ着いたとしても松平の娘といい仲にならなかったら、或いは太郎左右衛門が
娘を孕ませたふとどき者として親氏を殺しでもしていたら、家康は出現せず、もしかして江戸幕府も無かったかも・・・・・・
と私の妄想はどんどん膨らんでくる。
岡崎城 | 城内の赤い橋がキラキラ輝いてました | 宮崎あおいさんの手形 |
松平郷から岡崎に戻り、市内を歩いてみた。まず岡崎城に行ってみる。中央の公園に家康の像が立っていた。
家康の祖父清康が岡崎に城を造り、大名となった松平氏だが、その子8代広忠(家康の父)の頃になると、東の今川、西の織田に
挟まれて苦しい領国経営を余儀なくされる。結局広忠が家臣に暗殺され、幼い家康は織田や今川の人質となって松平一族はいったん
終わる。以後はよく知られた物語となっていく。信長に今川義元が倒された桶狭間の戦いというチャンスにより、父祖の地岡崎城を
取り戻した家康は今川氏の滅亡とともに浜松に移り、関ヶ原の戦いを経てやがては江戸に幕府を開く・・・・・・・・岡崎城はそれほど
大きな城ではないが、三河武士の質実剛健な気風を象徴するような構えを漂わせている。
カクキュウの味噌蔵 | 今も味噌が作られています | 八丁味噌のフルコース |
一方で岡崎は八丁味噌発祥の地としての顔も持っている。
九州の甘く薄い色の味噌と違い、赤っぽい、いや黒っぽい色のどっしりとした味の八丁味噌はまた違ったおいしさがある。市内には
八丁味噌の蔵元がいくつかあるが、「カクキュウ」みそ蔵に行ってみた。もともと、岡崎の城から八丁離れたところで作られていたので
この名が付いたらしい。今でも石を沢山乗せた大きな樽で、味噌が熟成されている。カクキュウでの見学コースを見て回ったあと、
併設された食堂で八丁味噌のフルコース(田楽、赤だし、鉢物など)を味わった。
市内には、もう一つの名物「純情きらりの手形」があちこちで見られる。数年前(だったかな?)のNHK朝のテレビ小説「純情きらり」は
岡崎に生まれた少女がピアノの道を志して東京の音楽学校に学ぶが、やがて故郷の味噌蔵の息子と結婚した後、生まれた幼子を残して
世を去るという戦前・戦後を舞台にしたストーリーだった。主演の宮崎あおいさん始め、たくさんの共演者たちの手形が、そのサインとともに
青銅の板に埋め込まれている。大きな手、可愛い手、色んな形、大きさの手形を眺め、その手の持ち主の俳優さん達を思い浮かべながらの
市内散策もまた楽しい。 (23.01.10UP)
長良川沿線の旅(郡上八幡~美濃白鳥 平成21年9月)
9月ギリギリに取った夏休み。 かねてから行きたかった 岐阜の長良川鉄道沿線を 旅してきました。 昔、仕事で関わった名水百選の 「宗祇水」がある郡上八幡、 美濃の奥座敷の美濃白鳥、 和紙と「うだつ」の町美濃市、 そして何より鮎が息づく清流 長良川と川に沿って走る鉄道 ファンにはたまらない長良川 鉄道・・・ 一部しかお伝えできませんが、 ぜひどうぞ。 |
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長良川鉄道を走るワインカラーの電車 |
郡上八幡駅と地元民の足「まめバス」・・・コンパクトですが車高が低く乗りやすい車です 市内を流れる吉田川
秋晴れに映える八幡城 アユ釣りを楽しむ人
郡上踊りは、下駄をタップ風に響かせるアクティブで変化に富んだ踊りです 町の子ども達の通過儀礼の飛び込みが行われる新橋(何と18mの高さです)
地元の天然水で作った 郡上の町並み
サイダー(うまかった)
名水百選の宗祇水(予想通りまろやかな優しい味だった) 今は観光協会がある旧役場庁舎の建物
町かどで見かけた「ほおずき」 泊まった美濃白鳥の「角忠旅館」では鶏の炭火焼きと蕎麦の鍋が旨くて、ビールがすすみました
美濃白鳥の夜 白鳥ではちょうどお祭りが行われてました
鉄道の車窓からの長良川(流れのあちこちに釣り人がいます)
例によって食いものネタを3つ。左から順に、八幡の郡上焼き、美濃市の手作りサンド、フラッペ・・・みんな旨かったと言いたいところですが、
フラッペだけは食えませんでした。いえいえ、まずかったのではなく、実はこれ食品サンプル発祥の地である郡上八幡名物のイミテーション
なんです。よくできてますよね。もちろん左の2つはホンモノで、旅の両日のお昼ごはんでした。
美濃市の象徴「うだつ」・・・金持ちしか造れなかったので「うだつが上がらない」の語源としても有名です
美濃市は美濃和紙の産地です。和紙と灯りをモチーフにした幽玄なあかりアートが開かれるそうです。
風林火山とぶどうの国(甲府~勝沼ぶどう園 平成21年8月)
「山梨県から電話をすれば、これがホント のコーシュー電話」という戯れ歌がある。 上京する機会の多い私だが、東京に近い 甲州すなわち山梨県の甲府は、まだ一度 しか立ち寄ったことがなかった。 信州に向かう中央本線の途中にあり、 いつかは訪ねてみたいと思っていた 願いが今年の夏に実現した。妻と2人で 娘を訪ねたときに、買い物をしたいという 2人と八王子に残し、甲府行きの鈍行に 飛び乗った。 武田信玄とワイン・・・2つのキーワードで まわった甲府とその周辺のぶらり旅を ご紹介します。 |
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↑甲府駅前の信玄像 | ↓武田神社 | |
信虎、信玄、勝頼の武田氏3代の居館があったとされる躑躅が崎(この名前は信玄のドラマによく出てきます)は、甲府駅北口から バスでわずか10分程度のところにあり、現在「武田神社」が建っている。前に来たときも訪れたが、今回はじっくりと廻ってみた。 |
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能舞台 | 真夏に涼しげな音を奏でる水琴窟 | 現代の神社には珍しい澄み切った手水 |
武田神社の全貌(イラスト) |
武田の重臣「高坂弾正」の 屋敷があったとされるところ |
武田神社から少し離れた 山手に信玄の墓があります |
名歌手三橋美智也さん が歌い上げた「武田節」 |
風林火山など武田信玄の物語の中で、父の信虎は、個性が強く横暴な性格に描かれている。息子信玄との確執の果てに 縁戚の駿河の今川氏預かりとして追放され、流浪と失意の中に世を去ったとされている人物だが、その墓は何と故郷甲斐の 大泉寺にあるということを今回初めて知った。山門から本殿まで涼しげな木陰が続き、蝉の声以外は何も聞こえないひっそり とした寺だった。墓は古めかしい廟の中にあり、「入るのは無理かな?」と思っていたら通りかかった住職が扉をあけてくれた。 廟の最も奥まった所にたたずむ墓は、この時代らしく五輪の塔であり山梨の教委が建てた標識には信虎は1574年に信州で没し この地に葬られたという。英雄信玄の影に隠れて目立たない人物だが、甲府の礎を築いた功績は評価されていいのかもしれない。 |
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信玄の父で、追放された 信虎の墓がある萬年山大泉寺 |
甲府駅と武田神社を結ぶ1本道 歩くこともできる距離ですが、 暑かったので、バスで武田神社へ |
エッ!バスの運賃がたったの10円? ・・・と思ったら「×10倍」でした |
泊まったビジネスホテルの近くが、甲府城(舞鶴城)のあったところだという。はて、信玄は「人は石垣」の信条で 城は造らなかったはず・・・と思い、調べてみたら武田氏滅亡の後に築かれたものらしい。関ヶ原以降、甲府の国 は、江戸の西側の守りとして重要視され、代々、徳川一門か幕府の代官が治めていたとのこと。とくに6代将軍と なった徳川家宣が、綱豊と名乗っていたときにこの城に住み、「甲府宰相」としてりっぱな治世だったと記されている。 |
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遊亀橋を渡り、天守をめざします | 石段の一段一段は、気軽に登れない ほどの大きな段差があります |
ようやく天守閣 |
天守閣から、甲府の町並みが一望できます |
東京に戻る途中、中央本線沿いに「勝沼ぶどう郷駅」がある。 下車してホームに降り立つと、一面のぶどう畑が 広がる真夏の 風景が目に飛び込んできた。勝沼といえば、「一升瓶に入った 甲州わいん」を若い頃よく飲んでいた。原料のぶどうが鈴なりに なっているのを見て、あのときの味を思い出した。 真夏の暑さにバテ気味だったが、駅周辺のぶどう畑をカメラに 収めようと歩き出した。少し離れた場所におもしろい観光施設(?)が あった。「大日影トンネル遊歩道」・・・明治期、かつての中央本線に 築かれたレンガのトンネル跡を遊歩道で、地元のワイン蔵としても 用いているとのこと。中に入ると、猛暑から一転、涼しい・・・いや、 かなり寒い風にさらされた。 このトンネルは平成9年まで実際に使われていたらしい。 かなり遠くに(全長約1.4km)、小さな出口の光が見える。 それにしても寒い。最初は心地よかったが、数分もすると 鳥肌が立ってきた。 |
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トンネルの出口で廃線になったレールが切れてます | このあたりに入っただけで、体が冷え切ってしまいました。 | |
入り口付近にいた中年の女性が近寄ってきて、「長くは居れないでしょう?」と私に声をかけてきた。聞くと地元の方で 観光協会に依頼され、このトンネルに来る観光客の調査をしているとのこと。「涼しいところで仕事ができていいですね」と 言うと、とんでもないという顔をされて、「寒すぎるのでキツいんですよ。出口付近をウロウロしてかえって体調が悪くなります」 とのこと。確かにそうかも・・・彼女と話している間に、遊歩道の隣にある現在の中央本線を「スーパーあずさ」が轟音を立てて 走りすぎていった。 |
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本場の鈴なりのぶどうに圧倒されました そのまま食べてもよし、ワインにしてもよし 自然の恵みに乾杯(ワインがのみたくなった) |
もう少しで熟成だそうです | 地元の女性が「食べなさい」 と言ってくれた一房。 甘酸っぱい果汁が 汗をかいた体に しみわたりました。 |
(21.09.12UP)
晩秋の中山道を歩く(馬籠から妻籠へ 平成18年11月)
妻籠・馬籠を訪ねてみました。ちょうど紅葉の時期と重なり、旧中山道の秋を十分に味わってきました。 この「ぶらり旅」のコーナーは、私のくせで長々と駄文を並べることが多いのですが、今回は写真のみで 勝負してみたいと思います。まずは、馬籠の秋をどうぞ・・・・ |
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続いて、妻籠の写真です。それにしても、蕎麦と五平餅が旨くて・・・おっと、お喋りはやめておきます。 | ||
伊豆の温泉宿:心温まる恋の話(長岡温泉・韮山 平成18年3月) | |
伊豆長岡の旅で、温泉宿に泊まったときの話。湯から上がり 部屋でくつろいでいると、宿泊客が自由にコメントをかき込む ようになったノートに気づいた。パラパラとめくっていくと、 こんな内容の書き込みに惹きつけられた。 30年近く前、私が27歳、彼が30歳のときに私たちは 知り合い、すくに恋に落ちました。でもお互いにつれあいや 子どものいる身だったため、つらい思いで別れ、それぞれの 家庭に戻ったのです。そして長い年月のあと再会したのが 3年前、2人とも離婚した自由の身になっての再会でした。 私たちは、若い頃果たせなかった夢を実現して、この旅館に 泊まっています。これまでゆっくりすることもなく過ごして きた中のほんの一泊ですが、2人の人生の再出発にしたいと 思います。これからお互いをいたわり合って生きていきます。 いわゆる不倫話の後日談のようなストーリーだが、湯上りの心が さらに温かくなった。大人の判断としてあきらめた恋が、初老の 域に達したときに実った・・・・・・普通の結婚生活を過ごしてきた 普通の夫婦とはまた違ったひたむきな人生だと思う。お二人の これからの穏やかな幸せにエールを送りたい気分になった。 (以下は、このときの旅の点描です。) |
長岡駅には、夜遅く着きました | 三島駅(だったかな?)の 踊子風ペコちゃん |
伊豆地方のひな飾り (ちょうど3月でした) |
流人としてやってきた源頼朝と、土地の豪族の娘北条政子が恋に |
歴史の教科書で習った韮山の反射炉。幕末の頃、異国船の出没を憂いた 地元の代官江川太郎左衛門が、兵器製造の強い鉄を得るために作ったもの |
これも太郎左衛門が焼いた 日本最古のパンです |
(20.07.26UP)
合掌造りの夏(白川郷 平成16年9月)
おととしのことになる。やっと取った夏休みを利用して白川郷を旅した。富山の高岡から約3時間バスに揺られ、
白川村萩町のバス停に着く。シーズンオフの平日、それも小雨がときどきぱらつく日だったがそれでも観光客が多い。
さすがに世界遺産である。
映像でしか知らなかった合掌造りの民家が今、私の目の前にある。近くに寄ってみる。驚くほどどっしりとした存在感が
迫ってくる。何といったらよいか、木と、紙と、茅と、わら縄だけの材料で何百年も住める家を造ってきた先人の知恵に
対する驚きといったものを感じた。
ふもとのせせらぎ公園から地元のマイクロバスに乗り、城跡の展望台に登ってみると・・・・・・何と!!!(しばし絶句)
パノラマで見ると、また別の驚きがあった。黄色く色づき始めた田んぼの周辺に、数十軒の合掌造りがひしめき合っている。
普通の観光地だったら、1軒でも村おこしの対象になりそうな茅ぶき屋根の建物が、この小さな村に昔のまま建ち並んでいる。
もちろん初めて見る風景なのだが、一方で何ともいえない懐かしさを感じる。私の日本人としてのDNAが共感して
いるのかもしれない。(大げさか?)
この白川郷、今回は夏(正確にいうと秋の初め)の旅だったが、真冬にも来てみたい。真っ白な雪原の中に浮かび上がる
合掌造り集落を眺めてみたい。秋本番にも訪れ、どぶろく祭りの出来たてのどぶろくをしこたま飲んでみたい。そんなこんなを
思いながら、雨足の強くなってきた萩町を後にした。心残りのわずか4時間の滞在だった。(18.01.14UP)
Ⓢ天城越えと金色夜叉(伊豆~熱海 平成7年11月)
天城越え
伊豆の踊り子、天城越え、湯の町エレジー・・・・・澄んだ空気、緑のやまなみ、立ち上る湯けむり。
行ったことはなくても、伊豆という地名に昔から旅情をかき立てられてきました。いよいよ伊豆の旅が叶います。
修善寺の駅からバスに乗って下田をめざします。小説や歌に描かれた「天城越え」の旅の始まりです。湯が島を過ぎ、
浄蓮の滝バス停でいったん下車しました。バス停の前の観光センターに、伊豆の踊り子の像が立っています。この像の
脇の小道をしばらく降りていくと、渓流の水を引き込んだ「わさび田」が見えてきました。その奥が、浄蓮の滝です。
石川さゆりさんの名曲「天城越え」のイメージから、かなり大きな滝を想像していましたが、宮崎だったらどこにでも
ありそうな普通の滝でした。ややがっかりですが、流れは確かに澄んでいます。昔からわさびを育ててきた清流なのでしょう。
同じバス停から、再びバスに乗りました。乗客は私ひとり。ほとんどの人家のない山道が続きます。見るともなく地図を広げて
いたら、ふと、このまま直接下田に着くよりも、「伊豆の踊り子」に出てくる「天城トンネル」を通る旧道を歩いてみたいという気持ちが
湧いてきました。このバスは新道を走るので、踊り子の道とは異なります。後発のバスについて運転手さんに尋ねると、
まだ何本かあるので可能だという返事が返ってきた。次にバスに乗るときは、手を挙げれば停留所でなくても乗せてくれるそうです。
思い切って「水生地下」という名前のバス停で降りました。左側に登りのわき道が延びていて、ここが旧道の入り口です。
我ながら物好きだと思いながら登り始めました。冬の寒々とした山道が続きます。しばらく行くと、左側斜面の小高いところに、
伊豆の踊り子の文学碑がありました。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、
雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた
踊り子の書き出しの部分が記され、横に川端康成のレリーフが埋め込まれています。昭和40年の建立の際には、
川端康成自身のほか、踊り子の主演女優の田中絹代や吉永小百合も出席して盛大に除幕式が行われたそうです。
今は微かな冬の日差しに照らされ、レリーフの川端康成が寒々と私を見ています。
伊豆の踊子の像 | 常連の滝 | 川端康成のレリーフ | 天城トンネル | 伊豆から眺めた富士山 |
右に左にくねった道を少しずつ登っていくと、やがて天城トンネルのアーチ状の入口が見えてきました。全て石積みの
このトンネルは明治38年の開通だそうです。以前写真で見たときは、緑の深い樹木におおわれて、旅情豊かなたたずまいに
思えたましが、冬場は枯れ草の中に黒く大きな口を開けて、少し不気味な感じもします。日も少し陰り始め、あたりは
私ひとりきり・・・・・
それでもこのトンネルを通り抜けないとバス停に出れないので、こわごわ歩き始めた。「ポタ~~ン、ポタ~~ン」とあちこちに
水が落ちる音と、「パタッ、パタッ」という私の足音が響きます。出口の明かりが、見えてはいますが、まだずっと先の方です。
このとき、松本清張の小説「天城越え」のシーンを思い出しました。このトンネルをひとり抜けていく少年、その少年に殺される抗夫・・
実際にあった話ではありませんが、築後100年のこのトンネルの持つ妖気といったものを感じ、なんとも言えない恐怖心が
突然わき起こってきて、私は思わず走り出していました。周りの闇に押しつぶされそうな気分で、とても旅情にひたるという雰囲気では
ありませんでした。トンネルを抜けたときには、汗ばみ、ホッとした気持ちが湧いてきました。
いつのまにか道は下り坂になっていました。寒天橋のバス停から再びバスに乗る予定てしたが、時刻表をみて愕然としました。
間違ってた・・・このバス停は、旧道にあるため、1日に僅かな本数(確か2本ぐらいだったと思う。)しかなく、もう今日は通らないことが
はっきりとわかりました。
さっきの運転手が言っていたのは、新道を通るバスのことだったらしいのです。・・・日もだいぶ陰ってきています。どうしよう。
「天城越え」の少年のように氷室で野宿することになるのか・・・まだバスが通っているであろう新道まで歩こうと思い直したましが、
旧道と新道をつなぐ道がよくわかりません。仕方なく、それらしい脇の山道に入り込み降り始めました。心細くてたまりませんでしが、
運良く新道のバス停にたどりつくことができました。やっと乗れた下田行きのバスもなんと、最終便でした。もしこのバスに乗り遅れていたら
車もほとんど通らない晩秋の天城を、私は夜通し歩くか、凍えながら野宿するかしかなかったと思うとゾッとします。さんざんな天城越えでした。
下田の散策
とっぷりと日が暮れた頃、バスは伊豆急下田の駅に着きました。前もって予約していた「国民宿舎ニュー下田」に泊まりました。
翌朝、下田の街を歩きました。1853年、ペリーの来航により、下田は、函館とともに、開港されました。その後初代米国領事として
タウンゼント・ハリスが着任し、下田市内の玉泉寺に領事館を構えました。この町には、ペリー、ハリスだけでなく、米国と同様に通商を
求めたロシアのプチャーチン、密航に失敗した吉田松陰、ハリスの世話をした唐人お吉、日本最初の写真師下岡蓮杖など様々な人物の
物語が残っています。
瓦を漆喰で固めたなまこ壁の建物を眺め、唐人お吉の記念館等を見たあと駅の近くのロープウェイで、寝姿山に登りました。女性が
仰向けに寝た姿に似ていることから名付けられたこの山からは、下田の町や下田港の様子が一望に見渡せます。展望台の側に、
幕末時代の見張り所跡があり、海に向かって当時の大砲が 置かれていました。
なまこ壁の資料館 | 見張り所跡の大砲 | 了仙寺 | 貫一・お宮の像 | 熱海の海岸通り |
熱海へ
昼過ぎに、伊豆急の「ビュー踊り子号」に乗りこみ、東伊豆の海岸線を見ながら北上しまし。沿線は、穏やかな気候と
都心から比較的近いということもあって、別荘らしい建物が多いように思いました。。車内の広告にも別荘購入を勧める
不動産のCMが目立ちます。途中トンネルに入り、周囲が暗くなったとき、列車内で面白い演出がありました。車内の照明が
消され、天井一面に無数のまたたく星が現れたのです。座席をリクライニングして眺めていると、一瞬星空の下でくつろいで
いるような気分になりました。
「走るプラネタリウム」とでもいうのでしょうか。この電車は若いカップルにも人気があると聞いていますが、こういった
ロマンチックな演出も企業努力の一つなのでしょう。
やがて列車は熱海の駅に着きました。駅前通りに出てみると、周囲は殆どみやげ物の店ばかりです。白い湯気を立てている
温泉まんじゅうの店も目につきます。さすが首都圏一の温泉町です。
駅と海岸通りの間は、無数のホテルや旅館が立ち並んでいます。ホテルの横の階段を下りて海岸通に出てみました。
湯治の老人グループによく出会います。
“熱海の海岸散歩する貫一・お宮の二人連れ”・・・・・「金色夜叉」の時代は白砂青松だったのでしょうが、松はあるものの、
今の海岸は整備され、護岸に沿って歩道がどこまでも続いています。
その歩道の一角に、「貫一・お宮」の像がありました。一高生(だったと思うが)の貫一が、ダイヤモンドの指輪に目がくらんで
自分を裏切った恋人のお宮を、この熱海の海岸でののしり、下駄でけるという場面が、リアルに表現されています。
将来を誓い合った男女が、お金にからんで別れ、女は別の男にに嫁ぎ、男は金の亡者になっていくという尾崎紅葉作の明治の
小説はドロドロしていて余り好きではありませんが、現代でもありそうな話です。(14.12.10Up)
①項目地名 |
②項目地名 | ||
趣旨 | ||