ぶらり旅北の大地編(北海道の旅)
ノシャップ岬の夕暮れ


北の大地みたび(日本最北端の旅 平成27年9月)

日本の最北端(稚内) 
  旅好きの私でも、南九州から北海道はなかなかの距離です。なんと今年は2度目(通算3度目)の北の大地の旅になりました。
というのも、今年の9月、長年勤めた仕事(この3年余りは定年退職後の再任用でしたが) から身を引くことになり、
「自分へのご褒美」といった形で、思い切って「日本の最北端まで行ってみよう」と思い立ちました。小樽から札幌、宗谷、
利尻・礼文までなんと6泊7日でまわってきた旅をご紹介します。


@小樽・余市  
今回の旅は、小樽から始まります。朝一で宮崎空港を出発し、羽田で乗り換えて昼過ぎに新千歳空港に到着。
空港連絡線の快速エアポートに飛び乗り、札幌を素通りし、小樽に着いたのは午後3時過ぎでした。   
 
2日目の朝早く、運河に行ってみました。この小樽運河、愛知県の半田運河そしてわが宮崎県は日南市の堀川運河
だそうです。堀川は昔から馴染みがありますし、半田運河には数年前行ってきたので、“これで3大運河ゲッツ!”と
くだらぬことを心の中でつぶやきながら、波一つない水面を眺めてました。がっしりした石造りの散策路と、
対岸のレトロな倉庫群が長い歴史を感じさせます。   
 
 さっきからずっと運河を眺めてる絵描き
の方。きっと配色や構図を考えてるん
でしょうね。この方自体が、絵になる
風景の一部になっています。
 小樽運河は、明治から昭和初期にかけて
商都小樽で、石炭、木材、穀物などの
積み出し輸送に用いられました。
旧手宮線跡地。明治13年開通で、廃線
後もレールが残されレトロな散歩道に
なっています。 
運河の散策路に、懐かしい歌の歌碑が
・・・。中学生のころ、ロマンチカが歌った
ムード歌謡の名曲「小樽のひとよ」
 ロープウェイで、小樽近郊の天狗山へ。
かわいいシマリスが出迎えてくれます。
  天狗山展望台から眺めた小樽の
街並み。
 小樽駅前の三角市場(敷地と屋根がともに三角形なのでこの
名前が付いたそうです)で、ご覧の海鮮丼を昼飯にしました。
うに、カニ、いくらがドーンと乗って、ご飯は一切見えません。
これで、何とたった2000円程度なんです。味はというと・・・
ムフフフ・・・わかりますよね。
 小樽駅からJRで30分ぐらいの所に余市駅があります。
NHKの朝ドラ「マッサン」にゆかりのニッカウヰスキー
余市蒸留所を訪れて、工場見学をさせてもらいました。
駅を出ると真ん前にドラマにも出てきた赤い屋根の建物が
見えます。
  試飲コーナーでホロ酔いに 大きな蒸留器とニッカのシンボルロゴ
 
工場敷地内には、見事になポプラの木が
立ってました。ポプラは北の大地に
よく似合います。
 夕方、小樽に引き返し、再び小樽運河に・・・今度は約40分のナイトクルーズです。
ライトアップされた河畔の工場や倉庫群は、昼間とは全く違った世界を見せて
くれました。
 「マッサン」を毎朝見てました。
東洋の異国の地に来てけなげに
マッサンを支える妻エリーが
よかったですね。
←中島みゆきさんが歌った
主題歌「麦の唄」も心に残りました。
 



 A北大キャンパス
  北海道大学は明治のはじめに開校した札幌農学校を前身とし、旧帝大を経て実に百数十年の伝統を持ち、そのキャンパスは
札幌駅のすぐそばにあります。3日目の朝、たまたま泊まった宿(東横イン)がキャンパスの真ん前で、朝食を摂ってすぐ
行ってみると、平日だったこともあり、緑にあふれた早朝の学内は、学生や教員が忙しそうに行き来していていました。
 前身の札幌農学校は、「少年よ、大志を抱け」の名言を残したクラーク博士らの先人により、日本の畜産・酪農が始まった
場所として有名です。
  赤屋根の札幌農学校農場。明治期の建築物として、国の文化財指定を受けてます。 
  寮歌「都ぞ弥生」の歌碑
  ポプラ並木の散策路を何度も行ったり
来たりして味わいました。
  放し飼いの羊。「羊群声なく牧舎に
帰り、手稲の嶺、黄昏こめぬ
」という
寮歌の一節が心に浮かぶ風景です。
  今も、クラーク博士の胸像が、行き交う
学生たちをやさしく見つめています。
 北海道帝国大学恵迪寮々歌「都ぞ弥生」
コーラスグループ「フォレスタ」の歌唱です



B日本の最北端 !  稚内・宗谷
 さて、滞在4日目は、特急スーパー宗谷で、札幌を朝7時48分に出発。函館本線そして宗谷本線を北上し、稚内にお昼
12時53分に着きました。途中の駅以外は、わずかに点在する牧場と山林ばかりでした。かつて取材のためにこの区間を
旅した司馬遼太郎さんが興味深い一節を残しています。今回と同様、札幌発稚内行きの列車内での、車掌さんとの会話です。

   車掌:このあたりから人が住んでいません。
   司馬氏:人が住んでいないとは?
   車掌:(列車が)故障して長時間停車すると、食糧がなくてこまるんです。ですからJRになるまでは、
      カンパンなど非常食をもって乗務したものでした。
   司馬氏:JRになって、食糧を持たずに乗務できるようになったというのは、どういうわけですか?
   車掌:車内に自動販売機がおかれたからです。
              
                   (街道をゆく/オホーツク街道編)

 
北海道の他のほとんどの地名と同様に、稚内という名前もアイヌ語からきていて、ワッカ=飲み水、ナイ=川・・・
「飲み水の川」という意味だそうです。何でも、この周辺は昔から水質が悪くて飲料水の確保に苦しんだらしいのですが、

唯一、きれいな水が流れている小川を持っていたのが、稚内だったそうです。
 5時間の列車旅はさすがに疲れました。ホームへ出てみると、札幌より肌寒い気がしました。まだ9月なんですが。
 
 
  乗ってきた特急スーパー宗谷  線路も、駅名表示も、ここ稚内が最北端の終着駅であることを示しています。 
   
  駅のそばにある今夜の宿(稚内サンホテル)に荷物を置き、すぐにノシャップ岬行のバスに乗りました。司馬遼太郎さんが
言っていますが、右のこぶしを突き出して、親指と小指を立てると稚内の地形になります。親指がノシャップ岬、その左側が日本海、
小指が宗谷岬、その右側がオホーツク海、両指の間が宗谷湾です。司馬さんによると、稚内はたった一つの市だけで、2つの岬と
3つの海を領する自然豊かなところなんだそうです。わずか15分でノシャップ岬です。
  ノシャップのバス停   最北端のノシャップ寒流水族館
  明日行く予定の利尻島の利尻山
 (利尻富士)が目の前に見えます。
  オホーツクの海から登った太陽が
遠く、日本海のかなたに沈もうと
しています。
  やがて・・・ノシャップ岬一帯は、一面夕焼け空に変わってきました。何とも言葉も失う一瞬の夕暮れ風景です。 
 
  ここから1日とんで北海道滞在最終日の6日目です。(5日目は、Cの利尻・礼文に行きました。) この日は観光バスに
乗り、いよいよ最北端の宗谷岬周辺に行ったのですが、その前に高台にある稚内公園の氷雪の門(下の写真左)を訪ねました。
太平洋戦争末期、沖縄のひめゆりの塔と同様に、樺太(サハリン)で起きた若い女性の悲劇を伝える北のモニュメントです。
 北の海に向かってちょうど手を合わせるような2本の建造物の間に、嘆き悲しむ表情の女性の像が立っています。
そしてその像の向こうには、天気がいいと樺太を望むことができます。私は、かの島を絶対にサハリンと呼びたくは
ありません。あくまで樺太です。樺太も、北方4島と同様に、火事場泥棒的に盗まれた日本の領土だと思うからです。
「太平洋戦争末期といいましたが、正確には、太平洋戦争終了直後の悲劇です。昭和20年8月15日に
我が国が降伏したにもかかわらず、降伏直前に参戦したソ連軍はその後も侵攻を続けました。この戦いの
さなか、樺太の真岡で最後まで電話交換業務に従事した9人のわかい女性たちが、「皆さん、これが最後です。
さようなら、さようなら」
というメッセージを残し8月20日に服毒自殺して殉じました。彼女たちの名を刻んだ碑(右)が
胸を打ちます。このほかにも、各地で火事場泥棒を相手にするような無残な戦いが繰り広げられ、多くの人々が
殺され、傷つけられ、財産を奪われて追い出されました。氷雪の門の女性像は、当時の樺太在住者が受けた苦しみ、
悲しみを今なお伝えています。 
 
  バスは、国道40号線沿いに宗谷湾の周囲をまわり、宗谷岬につきました。いよいよ日本最北端の地です。
最北端を示す碑  夫婦のデュオ、ダ・カーポの歌で有名な「宗谷岬」の歌碑がありました。“幸せ求め、
最果ての地に それぞれ人は明日を祈る”
というフレーズがとても好きです。
 周辺の宗谷丘陵には、のんびりと草を食べる牛たちがあちこちに見受けられました。
 かつて樺太と稚内を船で結んでいた
雅泊航路の記念碑と、高波を防ぐ
巨大な防波堤ドーム
 稚内公園から市街を見下ろす。 江戸時代に樺太を探検した間宮林蔵の像
今も北方の海を、じっと眺めています。
 
  最北端の海も、沖縄の海と同様に、深い悲しみをたたえているように思います。



C花と昆布の島 利尻・礼文
  時間が前後しますが、4日目は、稚内西方の日本海に浮かぶ利尻島、礼文島に行ってみました。利尻に空港はありますが、
新千歳などとの行き来のみで、稚内からわたるにはフェリーが唯一の手段です。朝7時15分発のハートランドフェリーに乗りました。
  土曜だったためかフェリーは
ほぼ満員に近い乗船率でした。
  利尻まで1時間40分の航海です。   玄関口の鴛泊(おしどまり)港には、
島内観光のバスが待ってました。
 まず最初に港に近くにある一周約1kmの湖「姫沼」へ。原生林に囲まれた散策路は、一列に並ばないと歩けなませんでした。  
 利尻島郷土資料館の建物は聞いたところ
によると、かつて存在した「鬼脇村」の
役場だったそうです。
 島の南の海岸沿いにつくられた仙法志御崎公園には、アザラシが泳いでました。
漁師小屋で食べたアワビがまた格別で・・・
 
 午後1時過ぎに、利尻から礼文にわたるフェリーに乗船。約40分で礼文の香深(かふか)港です。 
 
 礼文島の西北部にある澄海(スカイ)岬。やや小高い丘を登り切ると、目の前に
エメラルドグリーンに澄み切った入り江が広がっていました。名前のとおり
海底まで見通せる透明度の高い海水が切り立った崖に囲まれていました。
 
  島内のいたるところに名物の昆布の
干場がありました。シーズンオフの今は
ただの砂浜の空き地にすぎません。
 
 狭い海辺の岩肌にへばり付くような人家
 
 礼文島の最北端「スコトン岬」 礼文は別名「花の島」と呼ばれているそうです。島のあちこちで見かけた花々です。  
礼文島から稚内に帰るフェリー上で、さっき周回した利尻島の利尻富士を眺める
ことがてぎました。本当に富士のようにきれいな形です。 
 最後に行った桃台猫台という展望台
からは、海から突き出た「猫岩」と山中に
そびえる桃岩(上))が眺められました。
それぞれ猫と桃にそっくりです。

こうして、6日間の周遊の後、稚内空港から羽田空港、翌7日目に宮崎空港と6泊7日間の旅が終わりました。冒頭でも言ったように
南九州の人間にとって、北の大地はかなり遠いと実感しました。でもそれだけに、強いあこがれをもった私を、いつも待っててくれて
いるような気がします。(28.8.9UP)






北の大地ふたたび(春まだ浅い道東の旅 平成27年5月)

実に18年ぶりに、北海道を訪れた。前回は真冬(1月)の道央−札幌−函館だったが、身を切るような寒さだった。雪もすごかった。
今回は5月の道東。釧路湿原−摩周湖−阿寒湖−根室と歩き、北の大地や湖の醍醐味を堪能してきた。
九州ではもう初夏なのに、ここでは、雪が消え残っていたり、桜が咲いていたり、まだ緑が少なかったりと、やっと本格的な春を
迎えたといった感じだった。
2泊3日の道東の旅・・・一挙公開します。

@釧路湿原・釧路市内  
 

釧路湿原
 朝早く羽田から空路で釧路空港に飛び、お昼前に釧路駅に着きました。まずは釧路湿原行きの「ノロッコ号」に乗り込みます。
ユニークなウッドベースの車内は、殆どの席が指定席で、3人掛けの窓から、湿原の大パノラマを眺めることができます。
ノロコッ号が発車し、釧路市内を出るとすぐに湿原らしい水辺が至る所に見えて
きました。20分ほどで、その名も「釧路湿原駅」に着きました。ここから、湿原が
一望に見渡せる「細岡展望台」まで歩きます。
展望台の眼下には、春まだ浅い薄緑の
湿原の広大な景色が広がってました。
遅い初夏を迎えるころには、一面に深く
瑞々しい緑におおわれるはずです。
展望台から湿原駅に戻る道筋には、白い花がたくさん咲いてました。左は水芭蕉
(これはすぐにわかりました)、右は何の花かわかりませんが、可憐な花でした。 
のんびりとウグイスが鳴く中、
帰りのノロッコ号が、釧路湿原駅に
入線します。(You Tube投稿動画)
 釧路駅に戻り、ノロッコ号をおりたらもう午後1時をまわってました。さて、どこかで昼飯をということで釧路観光協会のパンフを
見ていたら、「和商市場の勝手丼」という文字が目に留まりました。写真を見るといわゆる海鮮丼なんですが、ここのは、客が
自分で海鮮類を選んでトッピングできるとのこと。駅から歩いてわす゜か数分で着きました。普通に魚介類を売る市場なのですが
その一角に勝手丼コーナーがあり、数件の店が、1回分の小さなトレイに何種類もの新鮮な魚、貝、エビ、カニなどを並べて
います。
まずどんぶりにベースとなるご飯をよそってもらいました。酢飯と普通のご飯の2種類があり、私は中盛りのご飯に
しました。まず、マグロ、イクラ、シラウオをのせてもらい、あと店の人おすすめの地元の魚を数種類、それからこれはぜひ
食べたいと思ったのが、根室であがる花咲がに・・・十種類前後のネタを乗せたどんぶりは、とうとうご飯がまるっきり見えなく
なりました。。
“ひょっとしたら3000円超えてるかな?ちょっと高い昼飯になったかな”と思って勘定をしてもらうと、何とこれだけ盛って、
1600円ちょっとでした。醤油、わさび、味噌汁を添えてもらい、近くに用意されたテーブルでかきこむと、うまいのなんの・・・
今朝東京のホテルを出るとき、サンドイッチだけの朝食だったので、腹にストンと収まりました。
勝手丼のお店が、それぞれ色んなネタを並べています。どこの何を盛ってもらおうか・・・本当に迷ってしまいます。
水森かおりさんのご当地ソングのひとつ
釧路湿原」の歌碑がありました
市内を流れる釧路川に架かる全長124mの幣舞(ぬさまい)橋です。四季を表す
4つのブロンズ像が橋の上に立っています。
美川憲一さんの「釧路の夜」の歌碑も・・・
近寄ると、おなじみのメロディーが流れて
きました。 


A摩周湖・阿寒湖  
阿寒湖のほとりの
アイヌコタン(集落) 
2日目は、観光バス「ピリカ号」に乗りました。乗客はわずかに4人!私と同年代らしい1人旅の女性と、台湾から来たという若い
カップル、そして私です。この地域もゴールデンウィークのにぎわいから一休みというところでしょうか。行程は釧路湿原(車内見学)
⇒摩周湖⇒硫黄山⇒屈斜路湖⇒阿寒湖温泉です。
北海道はやっぱり広い!どこまでも続く
道路をバスはのんびりと走って行きます。
もう5月なのに、沿道のあちこちには
まだ雪が残っています。
ようやく摩周湖の展望台に着きましだが・・
濃い霧で何も見えません。こりゃ本当に
「霧の摩周湖」だと思っていると・・・・・・・
何と、霧が流れて徐々に湖が見えてきたではありませんか。ほんの一瞬でまた
湖面は深い霧に閉ざされました。それでも「摩周ブルー」といわれる深く青い
湖面の色をかいま見ることができました。晴れた日ももちろん素晴らしいと
思いますが、歌のように“霧に抱かれて静かに眠る”姿のほうが似合ってる気もします。
摩周湖と屈斜路湖の間に位置する
硫黄山は、かつて硫黄の採取も行われて
いた活火山です。硫黄山がある
弟子屈町は、あの昭和の大横綱「大鵬」の
出身地でもあります。
今もすさまじい蒸気を噴き出しています。
YouTubeに投稿した動画です。 
次に屈斜路湖へ。岸辺では、ちょっと
掘ると至る所から温泉水がわき出す
そうです。本格的な足湯から、即席に
掘ったような湯だまりまで、色々と
作られてました。
お昼過ぎに阿寒湖に着きました。ここは天然記念物の毬藻(まりも)で有名です。昼食含め約1時間の滞在ですが、
行程通りだと、遊覧船乗船や毬藻の見学は無理とのことだったので、ガイドさんのアドバイスで、ピリカ号を降りて、
4時過ぎに出る定期バスで釧路に帰ることにしました。このガイドさんが、バスの営業所にかけあって私の手荷物を
預かってもらうことになりました。「必ず最終バスに乗ってくださいね。このバスを逃すと帰れませんよ。」と笑顔で
手を振るガイドさんや、片言英語で会話した台湾のカップルとお別れしました。
遊覧船はほぼ1時間おきに出ていて、直近は13時だったのですが、1便遅らせてどこかで昼飯を食おうと思いました。昨日の
昼食が海鮮丼だったので、今日はパン系が欲しいなと思ってうろついていると・・・「Pan de Pan」というあちら風のたたずまいの
お店を見つけました。2〜3個のパンを買って湖畔で食べるのも悪くないなと思って中に入ると、何と、焼きたてをイートインできる
ようになってました。ご覧の3個のパンと、抹茶オレを頼んで、昼食をすませたスエさんでした。
やがて14時になり、桟橋から遊覧船に乗り込みます。阿寒湖は、激しい火山活動に
よってできた湖で、雄阿寒岳、雌阿寒岳2つの山と豊かな森に囲まれています。
何よりこの湖を有名にしたのは、「毬藻(まりも)」です。国の特別天然記念物に
指定された毬藻は、ボール状に丸まって生育する藻類で、ゆっくりと大きくなります。
阿寒湖の中にあるチュウルイ島で見ることができるそうで、楽しみです。
このページのBGMにしている芹洋子
さんの「毬藻の唄」が流れる中を
遊覧船がゆっくりと進みます。(動画) 
いよいよ、チュウルイ島に上陸です。船着き場の背後には、船上からずっと眺めてきた雄阿寒岳の勇姿が望めます。
毬藻の展示センターは森の奥まったところにあります。センターまでの小道を木漏れ日を浴びながら歩きます。 
やっと毬藻に出会えました。それにしてもこの緑色は、本当に
神秘的です。このボールは、無数の藻の個体が絡み合って
できた一種の集合体なんだそうです。同じ種類の藻(マリモ)は
我が国や世界の色々な湖、湿原などに生息しているそうですが
球状の集合体を作るのは、阿寒湖のほか青森の小川原湖だけ
だそうです。当然、持ち帰りや売買は禁止されています。

中には、バレーボールぐらいの大きさまで育ったものも
あって、びっくりしました。最初はただの藻に過ぎませが
よくこんなきれいな球体になるものだと感心して眺めて
しまいました。本当に神秘的です。
 名曲「毬藻の歌」
さっきの遊覧船の動画で流れていた芹洋子さん歌唱の曲です
 「毬藻の歌」
こちらは、コーラスグループ「フォレスタ」の歌唱です






B厚岸・霧多布・風連湖
 
いよいよ滞在最終日の3日目です。今日は、東の根室半島を目指すことにしました。できれば東端の納沙布岬まで行き、
北方領土を見てみたい・・・でも公共交通機関であるJR(根室本線)は本数も少なく、時間がすごくかかります。夜の
7時には釧路空港から帰らないといけないし、空港そばの丹頂ヅルの公園にも行ってみたいし・・・欲張りの私は
納沙布岬の手前、すなわち根室半島の付け根の風蓮湖周辺までレンタカーで行って折り返すことにしました。釧路市内
(レンタカー手続き)⇒厚岸湾岸ロード⇒霧多布⇒北太平洋シーサイドライン⇒道の駅スワン44(風蓮湖ほとり)⇒
国道44号線⇒丹頂鶴自然公園⇒釧路空港(レンタカー乗り捨て)⇒東京へという約10時間の行程です。
今回の私の愛車はヴィッツです 出発して釧路を離れるとすぐに牧場が
点在する牧歌的風景が拡がります
厚岸湾沿いの道を走ると、道の駅「厚岸
グルメパーク」に尽きました。あいにく
定休日でしたが、併設の展望台からは
厚岸湾の眺めを十分に楽しめました
白樺の木の上にこんなものが備え
つけられてました。何だろうと思い
近寄ってみると、記念撮影のセルフ
撮りの台でした。ちゃんとカメラに
直づけするためのねじも付いてました。
無粋な「自撮り棒」なんかより、
よっぽどいい工夫だと思います。
 ドライブの途中で満開の桜をあちこちで見ました。ソメイヨシノではなかったようですが、
わが九州宮崎の桜のシーズンは2ヶ月も前だったことを考えると、日本列島の南北の
長さ、季節の多様性が感じられます。
また、この付近の道道(というのかな?)123線、145号線は、「難読地名ロード」として
知られています。アイヌ語の地名の読みをそのまま漢字にあてはめたからとのこと。
いくつか例をあげると、
火散布(ひちりっぷ)/厚岸(あっけし)/初田牛(はったうし)・・・いかがですか?
「あやめケ原展望台」という名に惹かれて
立ち寄ってみました。北国らしい並木道は
ありましたが、残念ながらあやめは
まだでした。
霧多布(きりたっぷ:これも難読地名のひとつ)の湿原の中に、集落がここあそこと
点在しています。北海道でしかお目にかかれない風景だと思います。
「北の大地、釧路・納沙布殺人紀行 最果ての海に美女は何を見た?」2時間ドラマのラストシーン・・・船越栄一郎刑事が、
海に飛び込もうとする殺人犯の美女に、「待て、バカなまねをするんじゃない!」と呼びかけるような断崖絶壁です。  
牧場の馬でしょうか。たった1頭で
なんと水辺の中ををノンビリと歩いて
渡ってました。
海沿いの道路は延々と続いています 途中から山のほうに入り、初田牛(はった
うし)という無人駅に立ち寄りました。根室
本線が東に向かって真っすぐにのびて
います。 
更に走り続け、車は道の駅「スワン44ねむろ」に着きました。腹も減ってきました。ここの名物は、地元で取れる花咲がにを
ふんだんに使った釜飯とのこと。待つこと約20分、運ばれてきたお釜のふたをとると、ほかほかの湯気を上げながら
ごらんのような炊き込みご飯が運ばれてきました。しゃもじでぷりぷりの桜色のカニの身をほぐし、ご飯と混ぜ合わせて
茶碗によそい、口に運ぶと・・・・・後は想像して下さい。
この道の駅は、根室湾と砂州で仕切られた風蓮湖に面しています。秋にはたくさんの白鳥が飛来し、越冬して春にはまた
北のほうに帰っていくそうです。道の駅で借りた双眼鏡をのぞくと、湖のはるか向こうに、知床の羅臼岳が見えました。
風蓮湖という名前は、高校生の頃知りました。当時愛読していた「高校生コース」という若者向けの雑誌に読者による投稿小説を
紹介するコーナーがありました。そこの常連投稿者に「風蓮かおる」というペンネームの方がいて、たぶんこの地方の高校生
だったんだろうと思います。男性だったのか、女性だったのか、どんな小説だったのか・・・肝心なことは何も覚えていませんが
(風蓮かおるさん、ごめんなさい)、九州からはるか離れた北の大地の湖の名が、一度行ってみたいという気持ちとともに
残っています。この雑誌は学年別だったので、風蓮かおるさんは、たぶん私と同じ年だと思います。いま何をされてるのかなあ。


C丹頂ヅルの公園
 
夕刻、釧路に戻ってきました。今回のドライブ、そして道東の旅のしめくくりとして、「丹頂鶴自然公園」に足を伸ばしました。
(この公園は、釧路空港のすぐそばにあり、空港の愛称も実は「たんちょう釧路空港」といいます)
むかし、民放で「アンラコロの歌(だったかな?)」という連続ドラマがあり、たしか雪原に舞うつがいの丹頂鶴の映像が
オープニングに使われていたように思います。頭頂部の赤い部分が雪の白さに映え、求愛の鳴き声が今も耳に残っています。
受付の方が、「ちょうどヒナが生まれたばかりですよ」と教えてくれました。
広い園内が、鶴のカップルごとに仕切ら
れて、まるで核家族のアパートみたいです
丹頂(赤い頭)とはよく言ったもので
ホントに頭のてっぺんは真っ赤です 
今年生まれたヒナがちょっと離れると
親鳥が気遣って鳴き声を上げます
(YouTube投稿動画)






初めての北の大地(旭川〜札幌〜函館 平成9年1月)

 @美瑛周辺 
 機内から支笏湖を望む
 7:30に羽田を離陸。1時間ほどすると北海道の大地が見えてきた。
 「
左手前方に支笏湖がご覧になれます。」とのアナウンスがあった。あいにく右側の席に座っていたので、後方の
非常口そばの窓から眺めた。手が空いているのか、スチュワーデスがやってきて話し相手になってくれた。
 「いつもフライトしている私たちでも、こんなにきれいな支笏湖はめったに見たことがないんですよ。」という。
 ピーナツの殻のように中がくびれた形のうす青い湖が横たわっている。周囲は雪を頂き、遠くまでなだらかに連なった
山脈。道路や建物もあるにはあるのだろうが、人造物を一切拒否するかのように、太古の姿そのままだ。空は地上から
見るよりはるかに青く、いやむしろ恐ろしいほどの青さでおおいかぶさっている。冬の凛とした大気がはりつめているのが
感じられる。見る者全てを圧倒してくるような景色。
 荘厳、神秘、雄大・・・そういったありきたりの言葉を完全に超越している。これを見ることができただけでも冬の
北海道に来てよかった。まだ着陸もしないうちからそう思った。
 
 
西聖和駅 
 支笏湖  雪煙を立てて入ってくる電車

旭川空港に着陸。タクシーで西聖和駅に向かった。さすがに寒い。いや並の寒さではない。顔が痛い。タクシーの
窓から見えるのは一面の雪景色。数分で駅に着いたが、タクシーを降りて「しまった」と思った。駅は無人駅で、固く
凍った雪氷のホームに、申し訳程度の屋根が付いたベンチがあるだけ。時刻表を見ると、めざす美瑛行きが来るまで
40分もある。着いてまもなくすさまじく雪を蹴散らしなが反対側の旭川行きの電車が過ぎていった。寒さがひとしお
しみてくる。

 仕方がないので、辺りをしばらく歩いてみることにした。田園地帯のまん中らしいが、何しろ一面の真っ白な景色。
ポツリポツリとわずかに人家が点在しているが、あとは雪の平野だ。近くの一軒家を見ると、玄関が二重造りになっている。
入口のドアの外が、さらにガラスの囲いになっている。庭には灯油が入っているらしいドラム缶が設置され、パイプで
自動的に家の中に送られるようになっている。冬に使う灯油の量を「何本」と表現する場合、わが九州では16リットルの
ポリタンクのことだが、北海道ではドラム缶を指しているという話を思い出した。

 反対側では、老人と孫娘らしい小さな女の子が雪かきをしている。その姿を眺めているうちに、急に下腹部がおかしく
なってきた。そういえば今日はまだトイレ(大)をしていなかった。まわりに公衆トイレはもちろんない。
 「どうしよう、いっそこの白い大雪原にくっきりと茶色のお印を残すか・・・・・でもあの爺ちゃんたちが見て
いるしなあ。」思い悩んだあげく、意を決して先ほど観察した一軒家の玄関に行き、チャイムを鳴らした。出てきた
老婦人に、
 「すみません。九州から先ほど空港に着いた者ですが、トイレをお貸し願えないでしょうか。」と頼んだところ、
快く迎え入れてくれた。
 恐縮しながら用を足し、身も心も軽くなって出てきた私に、かの老婦人が、「どうぞ」と差し出したのが何と
あつあつの湯気を立てているおしぼり。
 有り難くいただき、手や顔を拭きながら、言葉にできない熱い想いが湧いてきた。身元もわからず突然飛び込んできた
中年の男を家の中に入れ、トイレを貸すだけでもちょっとした覚悟が要っただろう。それをこのお婆さんは熱い
おしぼりまで用意してくれた。・・・・老婦人のちょっとした仕草や表情に懐かしいものを感じた。その時はなぜか
わからなかったが、彼女の面差しが祖母に似ていた。幼い頃の私を可愛がり、92歳で他界した祖母の面影が
そこにあった。厚く礼を言って玄関を出るとき、目元がウルウルとなったのがわかった。
  
 灯油のドラム缶  人影はまばら  ラーメン屋の主人夫婦と「丘」の写真

  ようやくやってきた電車(マイタウン列車ラベンダー号)に乗り、美瑛の駅に降り立ったのが正午少し前だった。
この旅に出る前に、防寒靴を買った靴屋さんが、「北海道は雪が凍って歩きにくいから、着いたら靴の裏に
鋲(びょう)を打ってもらうといいですよ。」と教えてくれた。いざ歩いてみると確かに歩きにくい。ただ地元の人たちは、
全く普通に歩いているし、中には小走りの女性もいる。冬の日の歩き方でよそ者かどうかわかってしまうと思った。
 駅の前を少し進んだところに靴屋があったので、片足で8か所の鋲を打ってもらった。歩きやすくはなったが、
地元の人と同じ様なわけにはいかないころばないように気をつけなければ。

 やがて腹が空いてきた。駅前にラーメン屋があったので入る。中は年老いた主人夫婦だけで客はいない。
メニューにとくに珍しいものもなく、私はあまり期待せずにみそラーメンを頼んだ。美瑛→北海道の一部→札幌も北海道→
みそラーメンという安易な連想ゲームで選んだような気もする。
 
 出てきたものは、今まで食べたみそラーメンのイメージ(こってりとした茶色のスープにチャーシューと麺が
浮かんでいる)ではなく、どちらかというと赤だしのような和風のスープにたっぷりの野菜と麺が浸ったような
感じだった。
 一口すする。うまい。だしがたっぷり効いているように思えたので主人夫婦に聞くと、2日かけてスープを
仕込むとのこと。じっくり味わいながら喰った。

 ふと食堂の隣の土産物コーナーを見ると、額に入ったたくさんのカラー写真が壁にかかっていた。雪景色、春の原色、
緑がいっぱいの夏の様子など様々な風景写真だった。主人にたずねると、全て美瑛の「丘」の写真だという。
知らなかったが、富良野のラベンダーの景色と同じくらい美瑛の丘の風景は全国に有名だとのこと。
 この写真も、全国から丘の写真を撮りに来た人たちが、この食堂で食事をしたことがきっかけで作品をこの壁に
飾るようになったのだという。
 写真の芸術性などはよくわからないが、じっくりと眺めてみると四季おりおりの(月並みな言葉だが)風景が
描かれていて、ちょっとした展覧会場のようだ。
 今回は時間がないが、私もまたいつか美瑛の町に降り立って、丘の写真を撮ってみたい気持ちになった。(14.12.10UP)


A旭川周辺(スキー場・アイヌ記念館)  

美瑛のあと、旭川→札幌→函館というコースをたどった。
南国宮崎生まれのせいもあるが、私は、これまでスキーをしたことがない。私の生まれた村は、九州山地の中にあり、
それなりに雪が降ったし、積もりもしたのだが、みかん箱に竹の板を2本打ち付けたそり(?)で遊んだ程度の経験しかなく、
北国のスポーツであるスキーに、ある種の憧れを持っていた。今、スキーの本場の北海道に来ている。しかも雪たっぷりの
真冬の時期である。ぜひスキーの初体験をしようと思い立った。

 旭川郊外の「サンタプレセントパーク(名前もなかなか洒落ている)スキー場」で2時間ほどの初心者コースの教習を申し込む。
ベテランのコーチがマンツーマンで教えてくれるコースである。
 当然スキー板、スティツク、シューズのほかウェア一式もリースになるわけだが、ここでまず難関にぶち当たった。私の体に
フィットするウェアがなかなか見つからない。私は自分では「肥満気味」ではあるが、決して「真の肥満体」ではないと思っている。
なのに受付カウンターに無数にぶら下がっているウェが、どうしても私の体にフィットしてくれない。何とか着てみても「苦しいーっ!」
状態になってしまう。結局カウンターの人が気の毒そうに、 「ウェアの下に着る○○○(アンダーウェアのことらしいが、
名前をよく覚えていない)を着ずに、直接ウェアを着けられてはいかがでしょうか。少しお寒いとは思いますが・・・・」と
ありがたい(?)提案をしてくれた。なるほど、何とか様になった。(左下の写真)それにしても北国のスキーヤーたちは、
スリムな連中ばかりなのか。肥満体はいないのか。肥満体は「マイウェア」を持っていて、こんなリースは利用しないのか
・・・・・複雑な心境の私だった。 
 
白樺とゲレンデ・・・・・・南国の人間に
とっては夢のような世界がいま目の前に! 
ゲレンデをカラフルなスキーヤーたちが
行き交う・・・
と゜うです?初のスキーウェア姿 まるで赤ん坊が歩き始めた頃みたい  それでも根気よく教えてくれる先生 
 


いよいよ、ゲレンデに出てみる。
広い!一面白銀の斜面に、色とりどりの
格好をした人たちが、スキーやスノボーに
興じている。
シュプールを描いて雪煙をたてる上級者
たちも多い。斜面の中央のところには、
これも初めて見る大きなリフトがゆっくりと
上がり降りしている。写真やテレビ画面
では見たことがあったが、初めてじかに
見る本場のスキー場は迫力満点である。
やがて私を担当するコーチが現れた。
40代ぐらいの女性の先生だった。
 まず立ち方を教わる。@両足の
スキー板を八の字(プルークというのだ
そうだ)にする。A腰をのせるようにして
立つ。B両腕は楽な形で広げる。
たったこれだけのことだが、足首や
ふとももに力が入るのがわかる。
 「では少し滑ってみましょう」と言って、先生が「プルークファーレンストッブ」について話し始める。さきほどの立ち姿から、板の
八の字をゆるめて体を少しそらせ、ふとももを前に出すようにすると、自然と滑り始めるのだそうだ。逆に八の字を強め、
前かがみになると止まるとのこと。これをワンツースリーのリズムでやるのを「プルークファーレンストッブ」というそうだ。
 さて実際にやってみると、滑り出すところまでは先生のいうとおりにできた。だが、それからがいけなかった。
ほんの緩やかな斜面なのだが、滑り出すとメチャメチャ恐い。頭が真っ白になって、止まり方を忘れてしまい、コケてしまった。
私は30代の終わり頃に、つまらないことで左足首を骨折し、約1年間松葉杖や装具の世話になったことがあり、どうしても
その時のことが恐怖心に拍車をかける。

 先生が、転ぶときの心得も教えてくれた。前には絶対転んではいけない。必ず後ろに転び、手や膝をついてはいけない。
ストックに頼った転び方をしてはいけない。要するに「すなおにコケろ」ということらしい。そうは言ってもなかなか上手な
コケ方も難しい。

 ぶきっちょな私を、先生は根気よく教えてくれた。どうにかプルークファーレンストッブができるようになったが、
次のステップのプルークボーゲン(右や左にターンして止まる)には進めなかった。先生がやるのを見ると、片方の足を
少し持ち上げてターンし、ピタッと止まる。見事なものである。(当たり前か)

 「これにこりず、また来てくださいね。」とチャーミングな笑顔で送ってくれる先生にお礼を言ってスキー場を
あとにしたときには、ふとももがバチバチに張って痛くなっていた。スキーはふだんからの体力や筋力のトレーニングが
必要なスポーツであることを実感した。
 

私はもう一つ訪ねたい場所があった。アイヌ文化を紹介してくれる
資料館である。 旭川にある川村カ子ト(カネト)アイヌ記念館は、
イタキシロマ(アイヌ語で、「言葉の正しい人」という意味)が大正の
初めに創立し、その息子の2代目カ子トゥカアイヌ、そして孫の3代目
(現館長 川村兼一氏)まで90年近い歴史があるそうだ。
以下は資料館できいた旭川のアイヌの近代史
          
 もともと旭川にはアイヌのコタン(集落)が多かった。20世紀に
 なると政府の同化政策が強まり、コタンの解散そして、「給与地」と
 よばれる土地への強制移住が行われた。更に、当時「アイヌ部落」と
 名付けられた給与地に和人たちが訪れ、アイヌの人々を「見物」する
 風潮が生まれてきた。、驚くことに給与地には昭和40年代まで
 案内札が立てられていたという。「見物人」たちもアイヌの文化に
 ふれて何かを学ぼうという態度ではなく、「異物」を見るような
 感じだったらしい。大正時代のアイヌの女性の回想として、
 「見物人」が来ると、口の周りにスミを塗り、アイヌの着物を着て
 写真を撮られたり、ウポポという踊りをさせられたりしたという。


 「日本人は単一民族国家だ・・・」という過った考え方がある。しかし日本史を
学んでみると、古くは弥生人による縄文人の征服、秀吉の時代そして日韓併合
による朝鮮半島の人々の連行・酷使、薩摩藩などによる沖縄の人々への迫害、
被差別部落のこと、そして上記のアイヌ民族への差別と同化政策など枚挙に
いとまがない。我が国も他国と同様に多数者が少数者に迫害や差別をなしてきた
事実があることを私たちは忘れてはいけない。

 もう一つ、この記念館で知ったのは「イヨマンテ」のことである。かなり昔、
「イヨマンテの夜」という唄があり、たしか「熊祭り」という副題がついて
いたように思う。ピリカメノコ(土地の美しい娘)と旅の若者のラブロマンスの
唄というように理解していたが、イヨマンテは熊を神の使いと信じる
アイヌの人々にとって大事な、そして極めてつらい儀式であることを今回初めて
知った。

自分たちの子どものように可愛がって育てた子熊を、時が来れば神のもとに送る・・・・すなわち命を奪う儀式なのである。儀式の
様子をとらえた貴重な映像が記念館内で放映されていた。熊に矢を射た後、圧死させる場面、それを涙ながらに見守る
アイヌ女性たち、おみやげを持たされて祭壇に供えられる熊の遺骸・・・・・どれもが衝撃的なものだった。もちろん動物愛護といった
観点からはとても理解できないが、アイヌ民族にとっては神との対話をする儀式なのである。  
名曲「イヨマンテの夜」

北海道出身の細川たかしさんの歌唱です


 B札幌・函館・雪の五稜郭  
  旭川から、函館本線で札幌に出る。こちらは少し温かく、雪も溶けかかっている。赤れんが造りの旧北海道庁舎、
残念ながら工事中だった時計台、雨の中の北大構内などをまわった。
  凍てつく中をバスを待つ。  赤レンガ造りの旧北海道庁舎  残念! 時計台は工事中でした。
     
  札幌から千歳線・室蘭本線とつないで、函館に着いたのは日もとうに暮れた7時ころだった。どうしても函館山からの夜景を見たくて、
宿にしたハーバービューホテルからタクシーを拾う。
 路面電車の線路沿いに、ロープウェイ乗り場に向かうとき、ちょっとおもしろいことがあった。私の乗ったタクシーの目の前をほとんど
信号無視の形で横切ったバイクがあった。タクシーの運転手が気色ばんで窓を開ける。さあ、ここで、東京なら「この野郎!」、
大坂なら「どアホウ!」、博多なら「何ばしよっとか!」など土地土地の言葉で激しい罵声があびせられる場面だ。さてこの北国の
運転手さんは何と叫んだか?・・・・・・・・・・・・・・・ 「バカでないかい?」彼は、尻上がりのアクセントで何とも間延びした迫力のない
声を出したのだった。もちろん九州人の私がそう感じただけで、彼や土地の人にとってはきびしい声なのかもしれないが何となく
優しげな響きが函館の穏やかな土地柄を示しているような気がしてならなかった。

 さて、ロープウェイを降りて展望台から一望する夜景は、予想通りの美しさだった。色とりどりの宝石のような無数の輝きが、
津軽湾に向かって半島状に突き出た函館市街の形そのままに、ちりばめられている。冬はとくに空気が澄んでいて、よりいっそう
鮮やかになるらしい。夢中でシャッターを切ったが、帰って現像してみると全て失敗作だった。下(左)の画像は、ネットで知り合った
「やす」さん
から提供していただいたものである。(彼も何回か失敗の末にこのような見事な画像を撮れたのだそうだ。
夜景の撮影はホントに難しい。)写真でも、この夜景のすばらしさは伝わってくるが、機会があったら実物を一度見られることを
お勧めしたい。
函館の夜景(「やす」さん提供) きくよ食堂のともえ丼 雪一面の函館の朝
     
  ホテルで「明日の朝食はどうしますか」と聞かれたが、私は断った。実はホテルの目の前にある市場の「きくよ食堂」に行って
みたかった。朝の5時から開いているこの食堂では、ウニ、イクラそしてホタテをドーンと豪華に盛りつけた丼(巴丼)が
食べられるという。
 そう、食い意地の張った私は、極寒の中 早起きをして行ったのです。降り始めた雪の中をものともせずきくよ食堂へ。
 中に入ると早朝だというのに席はいっぱいだった。運のいいことに、ちょうど食べ終わった人がいて待たずに座ることができた。
 「ともえ丼お願いします。」座るなり注文の声を発した私を、店の女性は(わかってますよ)というような笑顔でお茶を出してくれた。
・・・・・・待つこと数分、360度の丼の面を、イクラの赤、
ウニの黄色そしてホタテのうすピンクが120度の等角度で並べられた愛しの巴丼が私の目の前にドーンと置かれた。
イクラの粒の大きさ、ウニの輝き、ホタテのつや・・・九州で見るちゃちな素材とは全然違う「ほっかいどうーーーっ」といった
感じの海鮮丼だった。そして味は・・・・むふふふっ(これ以上書くと読んでるあなたに気の毒なのでやめます)
 
  五稜郭の碑の前で
 函館戦争の激戦があった城門
   
  函館市内から、五稜郭へ。幕末から明治、激動の日本にわずかの間存在した幻の共和国「蝦夷共和国」のいわば都だった
ところである。鳥羽伏見から始まった戊辰戦争は、函館戦争を以て終止符が打たれ、明治新政府の時代が始まる。この時代の
1枚の古写真が私の印象に残っている。降伏した榎本武揚らの助命嘆願のために、頭を丸め、そのスキンヘッドを照れくさそうに
撫でる黒田清隆の写真である。彼は五稜郭を攻めた新政府軍の司令官だった人で、後に第2代内閣総理大臣になるわけだが、
一方の榎本も後に逓信大臣などの重要ポストを歴任する高官となっている。
 他のアジア諸国や欧米の歴史では、旧体制内の人物は必ず抹殺されていると私は思う。その才能を新体制下でも役に
立てようとする黒田のような人物、非難されつつも、黒田の意気に感じ、しょう然とそれを受け入れる榎本のような人物が存在する
ところに、日本史のふところの深さ(批判的な人は節操のなさ、あいまいさというかもしれないが・・・・)を感じるのである。

 それはさておき、雪に埋もれた五稜郭の姿はすばらしかった。五稜郭タワーから見下ろすと、幾何学的な城壁と、黒々とした
木々が真っ白な大地に刻まれ、一幅の墨絵を見ているような気がした。(15.03.07UP)