<2006年5月>

【この一年間】 2006/5/31

三日坊主の私としては、今日は「快挙」を成し遂げた日だ。
この飽きっぽい私が、とりあえず365日も「落書き」を続けたのだ。
何年も続けている人からすれば、取るに足らないことなので、自画自賛はこれくらいにするとして。

この一年間、あいかわらず大した成長もなかったが、人生後半の生き方を決めたという点では大きな意味があった。
考えて書くのではなく、書きながら考えていた。
しばらくは酒を飲まない「休肝日」ならぬ、パソコンをいじらない「休コン日」として、じっくり小説でも読もうか。

少しは役に立ったかな。
読んでくれて、ありがとう。

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【男らしさの定義】 2006/5/30

「娘に恥じない自分」が私の行動基準だと、マジメなことを書いてしまった。
とはいうものの、私は「厳格」といった雰囲気とは無縁の男なので、どうしても自分に甘くなりがちだ。
男として「情けない」と感じることは、人によってまったく違うし。

今思いつくのは、たとえば会社でエライ人こびへつらうこと(英語ではkiss ass=ケツにキスする)。
逆に、天下りで地位にしがみつき、古びた価値観を押しつけて若い人に迷惑をかけること。
でもこの人たちも、家族の生活のために作り笑いをしたり、嫌われ役を引き受ていると思えばね。

別れた女性の悪口を言うのは、かなりカッコ悪い。
ナメられたら終わりみたいに、怖そうな外見や態度を装うのも、つい笑ってしまう。
お金にセコイのも、見ていてわびしい。
ベストセラー本のパクリみたいなタイトルは、作家としてハラキリものだ。

待てよ、これも一種の悪口か。
娘に恥ずかしい(笑)。

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【アイデンティティ】 2006/5/29

アイデンティティ(identity)、「自分は何者であるか」という認識。
これがしっかりしていたら、弱い人でも強くいられる。
いちばんいい例が、「母は強し」かな。
あなたのメイン・アイデンティティは、何だろうか。

私の場合は、今のところ英語教師なので、仕事中は指導者やリーダーとしての意識がある。
テコンドーの黒帯なので、下手くそなりに、名を汚しては先達に申し訳ないという気持ちもある。
両親や家族、恋人に誇りに思ってほしい、ということも考える。

いちばん大きなアイデンティティは、ずっと会えないままだが、「詩絵里の父親」だということ。
生活の中のあらゆる場面で、父親として娘に恥ずかしくないか、と自分に問う。
人に接するときも、人の見ていないところでも、彼女の目が私の行動の基準となっている。

だからこれからも、
「群れない 媚びない 偉ぶらない」

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【小才・中才・大才】 2006/5/28

みやざき中央新聞」に、漫画家の黒田クロさんの講演として、気づき方の「小才・中才・大才」というのがあった。
今のあなたは、どのタイプですか?

小才・・・失って初めて気づくタイプ。自分のことしか考えていないから、大きな変化が起きないと気づかない。
中才・・・トラブルがあったときに気づくが、人のせいにする。だから経験を生かすことができない。
大才・・・「この出来事は私に何か教えてくれているのかな」と、自分で気づく人。

私は、離婚した前後が典型的な小才。
その後30代を、明らかな中才として過ごす。
40歳を過ぎて、ようやく大才の世界に片方の足くらいは踏み入れたかな、という感じ。
もちろん今でも、小才と中才の私が、大才の私をいつも下から引っ張り続けている。

私のケースは極端だし、過去を後悔し恥じることだらけだが、これが私なりの学びと気づきのプロセスだったのだろう。
「激流を乗り越えたあとの静寂」、「波乱万丈のあとの普通」といった心境だ。
若いうちから大才の器を持ち、気持ちの振幅が小さく、トラブルを経験する必要のない人もいるだろうが、私にはこれしかなかった。

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【シンプルしかけ】 2006/5/27

上司の すごいしかけ」という本に、指導者や上司に役に立つキーワードが提唱されている。

「シンプルしかけ」
(1)かんたん実行
(2)ばつぐん効果
(3)らくらく継続

英語授業の中に、ゲームなどのアクティビティを入れるが、準備が大変なものはやらなくなる。
効果がないものも、継続が難しいものも、もちろん消えていく。
この3つの条件を満たす「シンプルしかけ」が、間違いなく生き残る。

生徒に英語を音読させるときも、私は20種類くらいのパターンから、その場で選んで使っている。
教科書を逆さに持って読ませたり、後ろからすかして読ませたりといった、おふざけも含めて。
ちょっとした遊び心の工夫で、雰囲気がガラリと変わる。

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【携帯メール怖い?】 2006/5/26

今思えば、ポケベルの数字で表す文(724106?=なにしてる?とか)は何だったんだ、という感じもするなあ。
その後、縦横に並んだ数字を組み合わせて、文字を作っていた(1-1で「あ」みたいに)ような記憶がある。
あれから十年ちょっとだろうか、最近はすっかり便利になってしまった。

キーボードを打つのは得意だが、携帯メールはまどろっこしいし、いろんな意味で今でも得意ではない。
携帯メールが始まった頃は、すぐに返事を送らなかったら連発でメールがきたり、ひどい場合は「メール見た?」と電話まであったりした。
「せやったら最初から電話せんかい!」と、いきなり関西弁でツッコミたくなったものだ。

昔は手紙を出したら、返事が届くまで1週間はみていたのに、みんなせっかちになって。
食事に来ているのに、会話を中断してまで、目の前でメールの返事を打つような無神経な女性もいた。

でもいちばんコワイのは、メールの内容と顔の表情が思いっきり矛盾していること。
無表情で、または口をへの字に曲げたまま、(*^^*)とか\(^O^)/などと書いているのだ。
日頃すごくおとなしかったり、電話の声がひどく無愛想なやつが、メールでは(`_´ )ゞとか( ̄□ ̄;)!!と表情豊かだったり…。

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【ラスト1週間】 2006/5/25

去年の6月1日から、発作的にこの「落書き」の「毎日更新」を始めてしまった。
「気まぐれ更新」がウリ?だったのに、何を血迷ったのだろうか。
毎日見てくれていた方はご存じの通り、数日分まとめて書いたこともあったが(笑)。

1年間は続けてみようと思っていたので、あと1週間で達成となる。
その後は、また以前のようにノンビリと続けていくことにしよう。
365日くらいでも、毎日ブログを更新したり、メルマガを出す人のすごさがわかった。

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【小走り】 2006/5/24

二組の印象的な人たちと出くわした。
仕事帰りにBOOK OFFに寄って本を見ていたら、女性の店員さんが、私の目の前を「失礼します」も言わずに通った。
別に気分を害するほどではないが、これほど他人に気を配らない人もいるのだと苦笑した。

その帰り道、横断歩道を渡ろうとしている中年夫婦がいたので、車を止めた。
すると二人は、こちらが申し訳なくなるくらい、小走りになって通ってくれた。
さっきの店員とは、正反対の態度だ。

以前同じシチュエーションで、「車が止まって当然」といった顔つきで、悠々と歩いている若い女性がいた。
余計なお世話だが、こんな女とつき合う男はかわいそうだな、と思った。
人の前を横切るときにちょっと身をかがめたり、車が止まってくれたら小走りになる程度のことに、その人の知性が表れるものだから。

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【カラーセラピーの発想】 2006/5/23

コーチングの次に出会ったのが、姫さんのやっている「カラーセラピー」だった。
カラーセラピーについてはこのページの6日に書いているが、セラピーというだけあって、さすがに癒される。
心の奥に潜む自分の本当の気持ちや、生まれてきた意味、人生の障害となっていることまで読み取られるのだが、すべてセラピストのガイドによって前向きに解釈できるようになる。

たとえば、今チャレンジとして与えられている「壁」は、悩み苦しむためのものではない。
それをうまく乗り越えることによって、よりよい人生になるのだという意味づけをしてくれる。
イライラしてしまうのも、マイナスではなく、その感情を見つめて自分を高めるための準備ができたということらしい。
プロのコーチが彼女のセラピーを受けて絶賛したほどで、「自分探し」には最適のメソッドといえるだろう。

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【セルフ・コーチング】 2006/5/22

昨日のスケーリング・クエスチョンは、自分自身に対しても有効だ。
「今の私は、10点満点で何点だろう?」
「満点にするためには、何が必要だろうか?」

大雑把に言ってしまえば、コーチングとは質問の技術だから、自問自答の効果も大きい。
「質問の質が人生の質を決める」といってもいいほど、自分に対する質問は重要なものだ。
ピンチに立たされたとき、視点を一瞬で変えるために私がいつも使うのは、この質問。
「この状況の中で、いちばん素晴らしいことは何か?」

私がコーチングを学ぶ目的は、自分自身をより高めていくための、「セルフ・コーチング力」を身につけ、シェアすること。
いつもコーチに頼るわけにはいかないし、自己をコントロールして、自分で決めて行動する場面のほうが、人生にははるかに多いのだから。

とはいえ、質問やフィードバックを他人から投げかけられるインパクトは、やはり大きい。
自分なりのテーマを設定して、自腹を切ってでもコーチをつける人が増えてきたのもうなずける。
「やることが多くて時間が足りない」と嘆く私が、コーチから「中元さんは時間管理に前向きな方なんですね」と言われたときの気持ちの変化は、今でも覚えている。

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【10点満点で何点?】 2006/5/21

コーチングに「スケーリング・クエスチョン」という質問法がある。
たとえば恋人や妻に、「今の二人の関係は、10点満点で何点?」と聞くとする。
仮に彼女の評価が6点だったとすると、「満点にするためには、何が必要?」。

フィードバック(評価・意見)をもらうのは、必ずしも楽しいことばかりではない。
だがこの方法なら、いきなり欠点を突かれて腹を立てるのではなく、より良い関係をめざそうという前向きな気持ちになれるだろう。
他人からのフィードバックの大切さは、昔の夏の風物詩だった、浜辺でのスイカ割りを思い出せば明らかだ。

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【仕事への応用】 2006/5/20

高校の教師として、入試に合格した中学3年生に、入学後の心得などを指導に行くことがある。
何をどのように話そうかと、以前は行く前から少しプレッシャーがあった。
コーチングで「相手に話してもらう」ことを学んでから、気楽に中学校に出かけるようになった。

学習や生活行動を中心に、理想とする高校生活や、どんな高校生になりたいかを語らせる。
そしてそのためには何をすればいいか、今日からでもできる「はじめの一歩」は何か、質問する。
こちらが一方的に言って聞かせるより、ずっとましなことを、彼らは自分の口から宣言してくれる。

授業においても、教師のパフォーマンス中心から、生徒の活動を重視するスタイルに変えた。
教師が話す場面を極力少なくして、生徒が英語を使い、自分で考える時間を増やしている。
コーチング的視点からは、職場の上司も学校の教師も、ちょっとしゃべりすぎなのかもしれない。

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【どうなったらいい?】 2006/5/19

仕事柄コーチングを学んでいるので、どんなものか聞かれることが多い。
コーチングが万能というわけではないが、私自身は人との接し方がずいぶん変わった。
以前は悩み相談などに対して、相手に感情移入してしまったり、元気づけようと熱く励ましていた。

最近はただ一言、「どうなったらいい?」。
そう聞かれると、理想の状態をイメージするので、未来に向かってエネルギーがわいてくるというわけだ。
今の望ましくない状況に意識を集中させて、いかに最悪なことが起きているか訴えさせるより、よほどいい。

次に、「そうなるためには、どうしたらいい?」。
質問をされたら答えるしかないが、いろいろと話しているうちに、自分で気づくことは多い。
人に言われたわけではなく、自分で宣言した以上、行動に移す確率も大きくなるというわけだ。

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【年輪】 2006/5/18

木の切り株を見ると、年輪は均等ではなく、いずれも北側に寄っている。
暖かい太陽の光を浴びる南側は、年輪の幅が広く、暗くて寒い北側の年輪は狭い。
しかし材木として使われるとき、硬い芯のある「柱」となれるのは、北側だけだ。
厳しい逆境に負けなかった者こそが、本当に役立つ人間になるのだ。

…という考え方も、あるだろうが。
実は、豊かに育った南側は立派な「板」になる。
役割が違うだけで、どちらも人の役に立っているのだ。
苦労していない人間はダメだ、と決めつけることもないだろう。

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【日本人としてナチュラルであること】 2006/5/17

日本の学生に英会話を教える外国人講師たちから、よく不満の声が上がる。
「日本人は無表情で、こちらの問いかけに対するリアクションがない」
「消極的で、自分から発言しようとしない」
「指名しても、間違いを恐れて周りの学生と相談してばかりだ」

そうですね、困ったもんですよ日本人は、なんてことは言わない。
日本語は、非常に細やかなところまで言葉だけで表現できる、優れた言語なのだ。
だから日本人は淡々と話しても、いや時には無言のままでも、気持ちが通じ合う。
外国人は、言語的に劣っている部分を、派手なオーバーアクションで補わねばならない。

それに、ここは日本だ。
日本人だって、そうすることが不自然でない環境、つまり海外に行けば、それなりに表情は豊かになる。
外国人が日本で生活するうちに、ペコリとおじぎをしてみせたり、以前と比べて言動がおとなしくなるように。

必要のないところで、無理に大げさにふるまおうとさせるから、不自然さを感じて引かれてしまう。
新人研修などで道行く人々の前で大声で歌わせたり、アヤシゲなセミナーで泣き叫んだりするのも同じ。
全身で表現しなくても、日本人は言葉を普通に使うだけで、十分うまくやっていけるようになっている。

自分の殻を破って、安全領域から出るチャレンジが悪いとは言わない。
それもひとつの方法論だし、趣味の問題もあるだろう。
それでも、必要以上のアドレナリンを分泌させねば成り立たないような活動は、農業でいえば農薬の使い過ぎ。
その土地で採れる旬のものが、いちばん体によくて美味しいように、あくまでも日本人としてナチュラルでありたい。

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【メンターへの失望】 2006/5/16

自分が尊敬する人の講演会やセミナーに、毎回のように熱心に通う。
「○○さんがこう言っている」と、自分の意見より多く言う。
ところがある日、その人の欠点を見聞きしてしまい、急速に熱が冷める。
そしてしばらくすると、また別のメンター(人生の師)を見つけてくる。

求心力のある人物のファンの中には、このようなタイプがたまにいる。
ハイテンションで絶賛していた分、失望もまた深いのだろう。
彼らはメンターについて熱く語るが、肝心の自分の生活は、ほとんど変わっていない。

私は基本的に、どんな有名な人でも、単なる「メッセンジャー」としてとらえることにしている。
生身の人間なのだから、真理を大衆に伝える「パイプ役」以上のことを期待するのは、無理があると思う。
逆に、どんな無名の人の言葉でも、やはり自分へのメッセージとして尊重することもある。

私がそう思うようになったのは、格闘技や武道の世界を見てきたからだ。
どんなに強い格闘家でも、油断して頭部に強い打撃を受ければ、見事に失神する。
武道の達人といっても超人ではなく、衝撃に不慣れな分、さらに打たれ弱い面がある。

どんなにすごいことを言っていても、暴力に訴えれば、ほとんどの人は屈服するだろう。
極端な話、孤立させて拷問にかけてしまえば、自説を曲げない人間などまずいないはずだ。

まあその程度だと思って、特定の人物をあまり崇め奉らないよう、お互いに気をつけたい。
自分をバージョンアップする情報を届けてくれる、親切な郵便屋さんくらいにとらえて。

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【あなたも強迫性?】 2006/5/15

トイレでいっしょになった男性が、異常なほど神経質に手を洗っているのを見かけた。
何か汚いものでも触ったのかと理由を聞くと、「強迫性障害なんです」と言う。
彼の場合は潔癖症で、電車のつり革にも触れないというタイプだそうだ。

社会生活に影響するほどでなくても、誰でも強迫性の傾向は持っているようだ。
たとえば私は手に油がつくのが嫌で、菓子類は直接手で食べないし、食事にはオシボリが必需品。
それなのに、トイレ掃除は平気でやる。

本に線を引いたり、折り曲げたり、書き込みをするといったこともしたくない。
だから情報収集には、該当ページに小さなポストイットを貼っておく。
ところが、車についた傷には無頓着なのだ。

強迫観念としては、「〜でなければならない」「〜しなければならない」などがある。
それらのビリーフ(信じ込んでいること)が、悩みや落ち込みの原因になっているのだろう。
「〜にこしたことはない」と表現を変えることで、意識を転換しなければ…ならない(笑)。

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【みんなこだわっている】 2006/5/14

ほとんどのことがどうでもよくなってきた、ということを書いた。
思えば若い頃は、「○○でなければならない」というこだわりが多かった。
40を過ぎてそれらを手放した分、ずいぶんと気が楽になった。

もちろん私なりの、「どうでもよくないこと」はいくつかある。
そのひとつが、お年寄りや子どもの悲しむ姿を見るのに耐えられないこと。
手をさしのべるのは、やさしさというよりも、たぶん自分を安心させるためだろう。
これはたぶん、過去の体験も影響しているのだろう。

そういえば、「こだわらない生き方」について、毎日ブログを書いている人を知っている。
物事に執着せず手放そう、出来事や感情はそのまま受け入れよう、といった内容ばかりだ。
もしかすると彼は、自分が「こだわらないことに、こだわっている」ことに気づいていないのかもしれない。

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【ジジババの世間話】 2006/5/14

昨日紹介した「不食」に、思わず笑った一節が。

「母にとっての楽しみは、村の誰それがどうしたというのが話の種だ。
僕には感心のない話題だ。
人がああしたこうしたという話は興味がない。
これは母ばかりを非難するのではない。
マスコミもテレビも同じことだ。
どの国がああしたこうしたというだけのととであって、母親や田舎のジジババの世間話と変わらない」

親のことは別として、私がひそかに感じてきたことを、実にうまく表現してくれている。
実は、多くの人が熱く語っていることのほとんどが、私にとってはどうでもいいことなのだ。
職場の人事や人間関係、有名人のスキャンダルやゴシップ、世間を騒がす事件、いずれにも興味がわかない。
テレビや新聞も、ほとんど見ることはがない。

当然、私独自の流儀を知った人からは、激しいアンチテーゼを受けることになる。
最近いちばん反論してくるのが、同僚のイギリス人女性。
「世間ではこんな悲惨な事件が起きているのに」
「社会人として一般教養に欠ける」
「友だちとの共通の話題がなくなる」

そうなのだろうが、たいがいの大事件は誰かが教えてくれるし、ネット上でも見かけてしまう。
政治経済などの教養といっても、床屋談義の域を出ない話より、自分が直接貢献できる仕事に時間を使いたい。
世間話についていくために、わざわざ芸能ニュースをチェックするというのもどうか。
ウワサであれこれ議論したところで、実際のところは当人にしかわからないものだ。

自分の一生分の収入を、わずか一年で稼ぎ出すようなプロスポーツ選手の動向について、一喜一憂する。
国家間の問題にしても、近所のオバサン同士がいがみ合うようなことが、ちょっと大きくなっただけともいえる。
本当の問題は、毎日そんなことばかりをくり返しているうち、気がついたら人生が終わってしまうということなのに。

自分のためにも友のためにも、ヒントを書こう。
変わるべきなのは、外側ではない。
自分の内側、それだけだ。

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【不食】 2006/5/13

不食〜人は食べなくても生きられる」は、賛否両論はともかく、一度は読んでみる価値がある本だ。
著者はそうとう変わり者だとは思うし、実際少しは生野菜などをかじっているらしいが、彼の主張には考えさせられるポイントが多い。
結論としては飽食が体を壊し、小食が細胞を活性化するということになると思うが、私自身の体験からもそれは納得できる。

私は基本的に朝食をとらない。
厳密に言うと、絞りたてのフルーツジュースで、良質の水分補給だけはしている。
「朝食はしっかりとりましょう」という幻想から解放されて以来、鉛のように重かった体が、朝から自然と笑みがこぼれるほど軽くなった。

消化は、人間の体にジョギング以上の負担をかける。
消化のために血液が集中して、脳に血液がめぐらず、食べたあとは疲労した体を休ませるため眠くなる。
そこまでして栄養をとらなくても、ほとんどの人は本来なら消費または排泄すべきだった脂肪を、たっぷりと体にまとっている。

太った人に持続力がないように、やせた狼が俊敏であるように、食べないほうが細胞は活性化されるようだ。
朝早くから夜遅くまで元気に活動したいなら、あまり食べないこと。
ただし、水と酸素だけは十分に吸収する。
私はグルメだからヴィーガン(※1)ではないが、どちらかというとベジタリアン(※2)・フルータリアン(※3)志向だ。

ビタミンはもちろん、タンパク質・カルシウム・鉄分などすべての栄養素は、野菜と果物で十分に摂取できる。
肉や魚を食べなくても、実は何も問題はないようだ。
ちなみに、農薬にまみれた野菜を食べるほうが、薬物で汚染された肉を食べる危険よりずっとマシだという。

※1 動物性食品をまったくとらない人。ベジタリアンの中には乳製品や玉子を食べる人がいる(命を奪わないという意味で)。
※2 野菜という意味ではなく、ラテン語のvegetus(健全な・活発な)からきている。肉や魚などの酸性食品を避ける。
※3 主に果物を常食とする人。甘いものが好きな人は、砂糖漬けの菓子類よりも、果物で本物の甘味を。

著者の提唱する、主な「不食からのプレゼント」は以下の通り。
それぞれの理由は、興味のある人は本を読んでみてほしい。

(1)病気・不調の完全解消
(2)まったく疲れない体
(3)眠くならない、寝なくてOK
(4)「もう働かない!」宣言が可能
(5)大災害時にあなたを救う
(6)超人間能力の獲得

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【正夢】 2006/5/12

昨日の「解消夢」の話にふと疑問がわいて、姫ギミに問合せ。
「いい夢だったらどうなの、それも解消してしまうわけ?」

師匠、即答。
「ああ、それは正夢(まさゆめ)」
「だから、現実にもいいことが起きるの」
「ハッピーなことを、わざわざ解消しなくてもいいでしょ?」

・・・ははーッ!m(_ _)m
なんか都合がいい感じもするけど(笑)、ハッピーな気分になれました。

カラーセラピーの予約殺到中の彼女は、大学生なのに、OLやサラリーマンも相談に訪れる。
先日はあるおばあちゃんが、
「最近は足腰が弱くなってねえ、昔はこんなじゃなかったのに」

師匠、君臨。
「おばあちゃん、目も見えるし耳も聞こえる、自分の足で歩ける…」
「できないこと、ないものを嘆くよりも、できること、あるものに感謝したほうが毎日が楽しいですよ」
おばあちゃん、「そうよね、そう考えれば幸せよね〜」と、ニコニコ顔で帰っていった。

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【解消夢】 2006/5/11

今日もちょっぴりアヤシゲな話を(笑)。
不思議女子大生、姫さんから聞いた話。
昨夜、アパートが火事になる夢を見たそうだ。
普通、「何か嫌なことが起こるんじゃないか」と考えそうなもの。

ところが我が師匠?、淡々と曰く。
「これは解消夢(かいしょうむ)といって、嫌な出来事を夢の世界で終わらせてくれるもの」
「夢の中とはいえ、もう体験したんだから、同じようなことは現実には起きない」
「毎日が幸せだから、プラスとマイナスのバランスをとるために見せてくれたんだろうね」

そういえば、昨日の「境界線はあいまいだ」という話。
夢と現実の区別も、実はそんなにないのかもしれないな。
赤ちゃんが眠いときに泣くのも、まだ夢のほうに行きたくないからかもしれない。

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【「あの世」は存在する?】 2006/5/10

すごいこと?に気づいてしまった。
自然界は、すべて対になるものがあって存在し、バランスがとれている。
たとえば、プラスとマイナス、表と裏など。
どちらかが欠けると、もう一方も存在のしようがない。

ということは、「この世」がある以上、「あの世」というものも存在することになる。
「あの世」が存在する証明として、ワンセットとしての「この世」があるのだから。
よし、これでいつ死んでも大丈夫だ(笑)。
亡くなった人も、住む世界が変わっただけで、存在が消えてしまったわけではない。

そもそも「死」があるからこそ、今こうして生きていられるのだ。
死という結果がなかなったら、「生」という原因はありえない。
生まれたから死ぬ、死ぬからこそ今こうして生きていられる。

もう少し突っ込んで考える。
上と下、白と黒、始めと終わり、北と南、男と女。
単純に見ると、2つでワンセットという感じがするが、実はその中間がある。
上〜中〜下、白〜灰〜黒、始め〜中〜終わり、北〜今いる場所〜南、男〜オカマ〜女(笑)。

すべては2つではなく、3つでワンセットなのかもしれない。
だからこそ、「前世」があり、「今生」があり、「来世」がある。
「人生は舞台だ」と言われるが、劇だって「始まり」があり、「プロセス」があり、「結末」がある。
だからこそ人間も、生まれる〜成長して老いる〜死ぬ。

さらに深く。
「良いと悪い」はどうだろう。
これは一概に言えないと思う。
あとになってみないとわからないことも、人生には多い。
すべての出来事を、今すぐ「良いか悪いか」と判断することは難しい。

そう考えると、上にあげた2つまたは3つのセットについても、実ははっきりとした境界線のないことに気づく。
男と女は対立概念ではなく、「人間」という分野に入る同じヒトなのだ。
「日本と外国」も同じで、「地球」という同じ場所に存在している「区別できないもの」だといえる。
日本に住んでいて、海外に旅立って、また戻ってくる。

ということは。
「この世」と「あの世」も、実は私たちが思うほど、はっきりした境界はないのかもしれない(天国と地獄も)。
日本と外国の例のように、「宇宙」という同じ場所に存在している「区別できないもの」。
この世に住んでいて、あの世に旅立って、また戻ってくる…。
たぶん、そういうことなんだろうな。

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【さらけ出す】 2006/5/9

ホームページであれこれ書き散らしていると、たまに言われることがある。
ということは、口に出さないまでも、同じように思っている人も多いのだろう。
「よく自分を、そこまでさらけ出せますね」

結論から書くと、もの書きの意識としては、自分の本質のうちわずか10%も表現していない。
ご存じの通り、人間はそんなに単純なものではないから。
「これには触れてほしくない」「隠したい」というこだわりは、他の人より薄いだろうけれど。
メジャーだろうがマイナーだろうが、作家というのはそういうものだろう。

ひとつには、書くこと自体が楽しいからやっている。
画家が絵を描いたり、音楽家が楽器を演奏するのと似たようなワクワク感があるのだ。
自己表現の手段が、たまたま文章だったということ。
プロセスが楽しいのだから、ゴールである作品を、意外と本人は読み返すことがない。

もうひとつは、ある海外の作家が遺した言葉に集約される。
「書かずにはいられない哀しみ」
普通に生活していると、ふと書きたいことがわいてきて、それを文章にするまでは落ち着かない。
これはたぶん、「文学おばあちゃん」と親しまれながら、命を絶たれてしまった祖母の遺伝だと思っている。

ちょっと偉そうに聞こえるかもしれないが、「大義名分」といった気持ちもある。
ごくまれにだが、「あなたの文章に癒された」「救われた」といった内容のメールが届くのだ。
たぶん「よくそこまで…」の主な理由となっている「娘への手紙」は、落ち込んでいる人には響くのかもしれない。

過去の大失敗や、その後の情けない姿を書き記すことによって、心を開いてくれる人も増えてきた。
今まで誰にも相談できなかったが、自分よりダメな人生を歩んできたこの男になら、と思ってくれるのかもしれない。
立派な人や、自分のことを隠そうとする人には味わえない、ほのかな心の交流がある。
このあたり、「さらけ出すリスク < 1人でも元気になる」という、ささやかなホコリを持っている。

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【アヤシゲ?】 2006/5/8

うまくいくようになった秘訣は?と聞かれれば、そのまま書くと次のようなことになる。

・マイナス言葉の制限。
・ポジティブな口ぐせ。
・簡単なトイレ掃除。
・慈善事業への寄付。

その根拠となる解説を省くと、かなりアヤシゲに聞こえる(笑)。
最近はスピリチュアル関連の記事や本も増えてきたが、それでも宗教っぽい。
ところが私は、大の新興宗教(的な雰囲気)ギライ。

しかし、言っている内容に重なる部分が出てくる。
それは仕方のないことかもしれない。
原理原則や摂理法則を悪用したものが、そういった団体だから。

悪質なものとそうでないものを見分けるのは、簡単。
高額なお金を請求してくるか、否か。
または、それがいかに安い買い物かを言い聞かせるかどうか。

悪気はないものでも、個人的に避けたい基準がある。
不自然な行動をさせるか、ナチュラル系か。
たとえば参加者全員で絶叫するような類からは、私は足を遠ざける。
物事に良い悪いはなくても、好き嫌いはあるのだ、人間だもの。

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【傲慢になるな】 2006/5/7

思えば、数年前まで人生のどん底にいた。
表面に見えるようなところではなく、内面的な話だ。
ある日シャワーを浴びながら、「このままではいけない!」という思いがわき上がってきた。

そこで、いわゆる成功哲学を学び直し、スピリチュアル系もアレンジして実践を続けてきた。
そうしたらどんどん結果が表れて、いいパートナーや仲間たちと出会い、仕事もプライベートも楽しくなってきた。
将来の展望も、明るい方向に開けてきた。
そのプロセスを原則としてまとめ、「成幸(せいこう=幸せに成功する)法則」として伝えるようになった。

しかし、こういう学びや気づきをくり返していると、思わぬ落とし穴にはまりそうになる。
自分は成長した、精神レベルが上がった、などという「傲慢な錯覚」だ。
以前よりちょっとうまくいくようになったくらいで、ついつい謙虚な実践をおろそかにしてしまう。

かつての自分のように、心の傷を忘れようとして、無理にテンションを上げている人。
うまくいかないのを他人のせいにして、不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言うのをやめない人。
著名な成功者たちについて熱く語るが、自分は何も行動せず、自己啓発セミナーを渡り歩く人。
精神世界を語る人を教祖のように奉る人、逆にその人に失望して別の人の追っかけを始める人。

そんなネガティブなスパイラルをくり返している人たちを見て、「わかってないなあ」と苦笑し、ため息をつく。
まだまだ、そんな小さな自分がいる。
このことについては、厳しく自分を戒めたい。

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【恐るべし!カラーセラピー】 2006/5/6

こんなタイトルの書込みが、昨夜たぬきコーチさんから「掲示板」に。

(引用ここから)

今日、姫のカラーセラピーを受けてきました。
いやいや、カラーセラピー恐るべし!
今の状態や深層心理的なことがすべて当てはまりまくっているからすごい!
おかげで自分が今やっていることに対しての自信がつきましたよ。
それに悩みの方も、深層的な部分の原因がはっきりしたし。
これは一度受けてみる価値有りですよ!!
また一段落したら、受けに行きますね♪

(引用ここまで)

姫さんがカラーセラピーを始めて、昨日が初日だった。
カラーセラピーでは、105本のカラーボトルの中から、気になる4本のボトルを選んでもらう。
それぞれに意味があり、姫と対話しながら、けっこう深いところまで読み解いていくものだ。
1人1時間〜くらいかな(社会人3000円・学生2000円)。

最初は占いみたいなものかと思ったのだが、実際に受けてみて、私自身も「おお!」と感動してしまった。
なんというか、カラーボトルを通した、ちょっとスピリチュアルなコーチングといった感じだ。
予約と体験の人を含めて、5人が姫のセラピーを受けたのだが、みんな感想カードに「ビックリ!」と書いてあった。

専用ショップのオープンが準備中なので、今のところ、宮崎市にある私の自宅の2階を開放している。
色とりどりのボトルを見ながら、私のいれる珈琲を飲むだけでも癒されますよ(笑)。
今やっていることに悩みや迷いのある人や、より成功して幸せになりたい人などに、自信を持ってオススメする。

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【贅沢の限界点】 2006/5/5

朝、いつものフレッシュジュースを飲みながらあれこれ読んでいると、地元新聞のコラムが目に止まった。

「新幹線のグリーン車、飛行機のファーストクラス、高級外車、一流ホテル、料亭、レストラン。
いずれも悪い気はしないが、別にどうということはない、そんなものかと思うだけだ。
それよりも、どこで何をしようが、快適さや満足感を得られることのほうが、どれだけ素晴らしいことか」

まったく同感だな。
私も上にあげられた贅沢を全部やってみたが、一瞬は感動するものの、続けばすぐに慣れて飽きる。
好きな人とラーメンでもすすっているほうが、よっぽど幸せ感が大きい。

ただし、それはいずれにしても、一度は体験しているから。
キツネとブドウのように、負け惜しみのままではおもしろくない。
いくらお金をかけても、ある程度以上になると、どれもまあ変わらんな。
それを実感してから、人生が味わい深くなってきた。

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【みんなハッピー】 2006/5/4

友人のとし坊さんに、昨夜はいい気づきを与えてもらった。
中学生の息子さんにちょっと英語を教えたら、そのお礼にと、私の父が欲しがっていたデジカメをプレゼントしてくれた。
そのことで、父もうれしい、私もうれしい、とし坊と奥さんもうれしい、息子さんもうれしい(たぶん?)…。
あっという間に、みんなが喜ぶ連鎖ができ上がってしまった。

ビジネスでWin-Win(お互いに得る)とよく言われるが、日常生活でも簡単に実現できるんだな。
とし坊さんから、メールをもらった。
「すごいですね〜、ハッピーじゃない人が誰もいないなんてね。
幸せの裏側には不幸が存在するってよく言うでしょ。
いや〜、そんなことはないんですね」

プラスが存在する以上、必ずその対立概念としてのマイナスが必要になるはずだ。
ところが、人間はこの物理理論を超える、唯一の例外的資質を持っている。
それは、「与える」ことを「喜び」として感じられる性格である。

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【功名が辻】 2006/5/3

学生時代に司馬遼太郎の小説で読んだ、「功名が辻」のHK大河ドラマにハマっている。
山内一豊の妻、千代の「あげまん」ぶり、そして夫婦の絆を描いた作品だ。
千代の子ども時代を演じた女の子が、娘と感じがよく似ていて、ますます感情移入してしまった。

毎回感動しているが、千代の育ての親である、不破市之丞(ふわいちのじょう)の遺言の場面も泣けた。
「(千代に)夫婦で仲良く朝を迎えられることに感謝しなさい」
「(一豊に)千代のためにも子のためにも、長生きしなさい」
そして、両親を失って訪ねてきた子どもの千代を、涙をためて「さぞつらい思いをしただろうなあ」と優しく迎えた日からの、数々の回想シーン。

思うに。
人の生きた価値は、何を得て、何を成しとげ、何を残したか、ではない。
「何を与えたか」、それが問われるのではないだろうか。

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【経営コンサルタント】 2006/5/2

よく考えてみると、私の親戚には、やたらとユニークな人材が揃っている。
母方は、けっこう著名な大学教授、銀行の支店長、造船会社の重役など、肩書きだけはマジメ系。
父方は、そもそも祖父が戦前は大金持ちでハーレーダビッドソンを乗り回し、戦後満州から引き揚げてきたときに無一文というハチャメチャぶり。
中卒で起業して成功した社長、以前書いたセミリタイアの億万長者、それに企業数社を100億規模に育てたカリスマ経営コンサルタント。

私にはたぶん、チャレンジ精神旺盛な商人と、堅実なサラリーマンの血が半分ずつ流れているのだろう。
だから、何度挫折しても新しい活動を始めてしまうし、その一方で最低限の生活収入は確保するスタイルなのだ。
ローリスク・ミドルリターンかな、けっこうちっちゃいかも(笑)。

それはともかく、先日そのカリスマ・コンサル氏が宮崎に遊びに来た。
マスコミに登場しない人なので、あまり詳しく書かないほうがいいかもしれないが、まあ車も別荘もまったく別次元。
現場で独自のマーケティング理論を実践して、莫大な結果を叩き出してきた彼の話は、ド素人の私にもわかりやすく説得力があった。

私の夢、いやいや予定である喫茶店など、趣味の延長にしか見えないだろうな(ある意味そうなんだけど)。
私は「幸せ」であればそれでいいのだが、現実的な話を聞いていて、ちょっと思った。
「成功」好きな人たちは、ビジネス本やインターネットで活躍中の「限定有名人」たちに、踊らされているだけかもしれないと。

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【天職と休暇】 2006/5/1

仕事は「志事」とも書ける。
自分の思いを、仕事を通じて形にしていく。
仮説を立て、実行して、工夫を重ね、より楽しい結果を得る。
そのプロセスは、「労働」というよりも「遊び」に近い。

仕事を遊びとしてとらえれば、職場は遊び場になる。
ゲーム(試合)を盛り上げるためには、相手チームの攻撃や妨害が必要だ。
幸い会社には、そういったことがいくらでもある(笑)。

天職とは「探す」ものではなくて、今いる場を工夫して天職に「する」ものだ。
天職(Vocation)にしてしまえば、休暇(Vacation)のように楽しくなる。

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