■シュリ
話題の映画「シュリ」見てきました。
韓国映画を見るのは始めてですが、南北問題を背景に悲しい恋愛が描かれていて、なかなかいい作品でした。
主演女優のキム・ユンジン、とても魅力的な女性でした。
「ジャンヌ・ダルク」のミラ・ジョヴォヴィッチのあまりの美しさにはめまいがしましたが、私はやはり東洋の女性がいいですね。
最近、映画の「当たり」が多いです。私はビデオよりも映画館で見るほうですが、「ジャンヌ・ダルク」「ファイト・クラブ」「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」「ストーリー・オブ・ラブ」など、どれも気に入ってパンフレットを買いました。
ちょっと前でも、「グッドナイト・ムーン」「メッセージ・イン・ア・ボトル」「ノッティングヒルの恋人」など、もうレンタルビデオで出ていると思いますが、どれもオススメです。
(2000/3/12)
*****
■リービング・ラスベガス
「この映画は男の理想。男なら誰でもそう思う」と雑誌に書いてあったので、レンタルビデオで見ました。
95年、ニコラス・ケイジ主演です。
超オススメというわけではないですが、ちょっとよかったです。
家庭も仕事も失った男が、すべてのしがらみを捨てて、車に酒だけを積んで、ラスベガスに死にに行く。
そこで、娼婦の女性に出会うのですが、彼女が典型的な癒し系。
いっしょに暮らしはじめるとき、「決して酒をやめろとは言うな」と言った男のすべてを受け入れて、男がどんなに無茶をしても、彼女はただ世話をやくだけで、決して説教がましいことなど言わない。
男とケンカになったときも、「私のたった1つのお願いくらい聞いてよ! あなたの好きなようにさせてあげたいの!」。
これは効きますね。
ちなみに、私がずっと以前に恋に落ちた女性は、「あなたの弱いところが好き」という名セリフを残しました(笑)。
弱いんですよねー、日頃は強がりばかり言いながらストレス社会で戦っている男は、こんなタイプの女性に。
男は、愛する女性と結ばれたあと、彼女に見守られながら、酒びたりの中で死んでいきます。
彼のセリフのように、「おれはいい女を選んだ」と言えるような相手と、私もめぐり逢いたいものです。
でもその前に、自分がその価値がある男にならないとね。
(2000/4/17)
*****
■グリーンマイル
見てきましたよ、話題の3時間半。
あっという間に過ぎました。完璧な映画です。
「マグノリア」の100倍よかった。
トム・ハンクス、いい中年になりましたねー。
単純なエンターテインメントや、単に「泣ける」という目的で見た人にはものたりないかもしれませんが、ストーリーも深くて感動しました。
原作者は「ショーシャンクの空に」で絶賛されたスティーヴン・キング、さすがです。
レンタルビデオでは、ジャッキー・チェンの「マイスタント アクション」を見ています。
今まで撮った映画の名場面をふり返りながら、ハリウッド映画とは考え方も予算もまったく違うジャッキーの哲学に基づいて、本人が英語で詳しく解説しています。
改めてジャッキー・チェンを尊敬しました。
彼はまちがいなくブルース・リーと並ぶ、我々東洋人の誇りです。
(2000/4/22)
*****
■アメリカン・ビューティー
映画「アメリカン・ビューティー」を見てきました。
いかにもアメリカ人、いかにもアメリカの家庭、という感じで、なかなかの傑作でした。
アメリカ的なライフスタイルの長所も欠点も、よく描かれていました。
自分の実力以上の目標を掲げて、「強く願えば夢は必ず実現する!」という言葉を信じ、「私はできる、私はできる…」などと自己暗示をかけ、自己啓発のセミナーに通う。
理想の家庭の条件をそろえて、幸せな家族の一員を演じ続ける…。
すべてが表面的、物質的なのです。
私も以前は似たようなものでしたが、生身の人間だから、いつかどこかで無理がきますよね。
和を重んじてきた日本人社会の中で、自分だけが成功しようとすると、気づかないうちに大きなストレスがたまっていく。
アメリカのカウンセラーと弁護士の数、あれは異常だと思います。
この映画を見てつくづく思ったのですが、日本の文化もまだまだ捨てたもんじゃないな、と。
アメリカに見習うべきことも多いのですが、日本人には日本人に合った生活習慣や生き方があるわけです。
何が本当の幸せなのか、深く考えさせられました。
(2000/5/4)
*****
■鉄道員(ぽっぽや)
読者の北の国からさんに勧められて見ましたが、最後のシーンでは、予想以上に泣かされました。
鉄道員ひとすじに生きてきた乙松(高倉健)。
まだ赤ん坊だった娘が死んだ日も、妻を亡くした日も、黙々と駅で仕事をこなし続けた。
定年を間近にひかえ、廃線になる駅にたたずむ乙松のもとに、ある夜、高校生の女の子(広末涼子)が現れる。
昨日から小学生、中学生と姿を変えて乙松に会いにきていた、死んだ娘の雪子だった。
「おめえ、ゆうべからずっと、育っていく姿をおとうに見せてくれていたってかい。夕方にゃランドセルしょって、おとうの目の前で気を付けして見せてくれてたってかい。ほんで夜中にゃ、もうちょっと大きくなって、またこんどは美寄高校の制服さ着て、17年間ずうっと育ってきたなりを、おとうに見せてくれただか」
「したっておとうさん、なんもいいことなかったしょ。あたしも何ひとつ親孝行もできずに死んじゃったでしょ。だから」
「そったらこと、おめえ…おとうは、おめえが死んだときも、ホームの雪はねてただぞ。この机で、日報書いてただぞ。本日、異常なしって」
「そりゃおとうさん、ポッポヤだもん、仕方ないしょ。そったらこと、あたしなあんとも思ってないよ」
ああ、思い出しただけでも涙が出てくる。
見事にツボをつかれてしまった。
娘がらみのストーリーには、どうも弱い私です。
(2000/6/28)
*****
■キッド
もうすぐ40歳になる有能なイメージ・コンサルタントのラス。
彼の目の前に、突然8歳の頃の自分であるラスティが現れる。
ラスにとっていじめられっ子だった子ども時代は消し去りたい記憶で、不器用なラスティを見て嫌な思い出がよみがえる。
しかしラスティもまた、自分の思い描いていた将来の姿とは大きく違うラスに幻滅する。
そして、将来の自分が子どもの頃に夢に描いていた自分になるように、2人は協力する。
「今のあなたは、『あの頃なりたかった大人』ですか?」
このキャッチコピーにつられて映画館に入りましたが、なかなか考えさせられました。
仕事で成功しているものの、愛し合う女性もおらず、犬を飼っていない、美しい月に感動することもないラスに、まだ子どものラスティは問いかける。
「教えて、ラス…ぼくが大人のあなたになるまでに、いったい何があったの?」
遠い昔に置き忘れてきた、「あの頃の自分」が今もし逢いにきたとしたら、自信に満ちた笑顔で迎えることができるでしょうか。
決して人前で涙を見せなかったラスが、自分のトラウマとなっていた場面を目にしたとき、ラスティを抱きしめて泣いてしまったシーンは感動でした。
たまにはちょっと立ち止まって、今の自分をふり返ってみるのもいいですね。
(2000/9/30)
*****
■電話で抱きしめて
メグ・ライアン主演ということで、コメディかと思っていたら、ダメな父親としっかり者の娘のストーリーで、けっこう泣かされました。
娘はやさしい夫と息子に恵まれ、キャリア・ウーマンと売れない女優の姉がいて、いつも電話をかけながら忙しく生活している。
その電話の半分以上は、老人製のボケにかかって入院している父親からのものだった。
父親は離婚していて、酔っぱらって娘の家庭で暴れたり、前の妻や娘たちとの家庭生活が忘れられず、病院を抜け出して昔の家に戻って迷惑をかけ続け、最後には死んでしまう。
精神的に疲れ果てた娘に、知り合った中年女性が「たまには電話線を切って、ゆっくり自分を休めてみたら?」と言う場面。
年老いて嫌われ者の父親が、まだ幼い娘と仲良くたわむれるのを回想する場面。
その幼い娘が、若く愛し合っていた両親の姿を、ニコニコと見つめている場面。
涙をこらえるのに必死でした。
(2000/11/26)
*****
■スペース・カウボーイ
クリント・イーストウッド(「ダーティー・ファイター」憧れたなあ)監督・主演の、若い頃に宇宙飛行士としての夢が破れたおじいちゃんたちが、現役復活して大活躍する傑作。
笑いあり、涙ありのエンターテインメントとしてオススメです!
すぐれた才能と情熱を持ちながら、運悪くヒーローになりそこねた男たちのチームが、彼らにしかできない古い通信衛星の修理のため、40年後の現代にNASAから依頼を受け、70歳を目前に猛特訓して宇宙へ旅立つ。
昔気質の頑固者たちのこだわりがおもしろかった。
ラストに流れる「Fly Me to the Moon」、カッコよかった。
やっぱりアメリカ映画はおもしろい。
(2000/11/26)
*****
■冷静と情熱のあいだ
すでに別々の人生を歩みながら、10年後にフィレンツェのドゥオモで逢うという、昔の恋人との約束を忘れなかった二人の物語。
純愛という言葉がまだ生きていた青春時代を過ごした、特に30代のための、思い出の恋愛がよみがえる映画だ。
映画を見たあとすぐ、原作の辻仁成と江國香織がそれぞれ男と女の立場から書いた、青と赤の2冊の小説を買いに走った。
やはり青の男の気持ちの揺れ、これが悲しくなるくらいよくわかった。
女々しいから男なのだ。
過去にこだわり、引きずるのが男なのだ。
ただし、主役の二人が結ばれた影には、いくら愛してもいっしょに暮らしても、心の底では受け入れられなかった、それぞれの恋人の涙があることも見逃してはいけない。
「どうして私じゃだめなのよ!」
捨てられた女性の叫び声が耳に残る。
その立場にしたことも、されたこともあるからだ。
(2002/1/7)
*****
■デュエット
カラオケが大好きで、カラオケ大会で賞金を稼ぎながら旅するアメリカ人たちの、父娘や友人、男女の不思議な関係を描いたユニークな作品。
大学時代にバンドのボーカルをやっていたくらい、歌うことは大好きだ。
この映画を見て、また歌いたくなってきた。
ただし、カラオケボックスに行くなら恋人と二人か、同世代の仲間に限る。
若い連中と行くと、予約は20曲先までバカみたいに入れるわ、意味のわからん歌を連発で聞かされるわ、「イェ〜イ!」とか言いながら曲の本を探すわの地獄絵図となるからだ。
アメリカ人にもカラオケにハマッてるやつがいるらしく、そのノリが笑える。
真面目なセールスマンで家族に軽く扱われていた男がカラオケと出会って本当の自分を発見したり、恋人に浮気されて傷心の男が、今まで会ったことのないタイプのカラオケ賞金稼ぎの女性にふり回されたり。
十数年会っていなかった父娘が、カラオケ大会の決勝で初めてのデュエットをした場面はよかった。
父親役は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のテーマを歌ったあのヒューイ・ルイス、娘役は「恋におちたシェイクスピア」の主演女優だ。
どちらも肉声で歌っているのがすばらしい。
(2002/1/7)
*****
■センターステージ
ニューヨークのメジャーなステージにに直結するバレエアカデミーに、さまざまな地方からオーディションを勝ち抜いて集まってきた若者たち。
入団を決定するステージに立つまでの、厳しい練習の日々。
反目しながらも実力を認め合う師弟関係、個性がぶつかり合う友情、そして恋愛を熱く描いている。
ぼくが映画にのめり込むきっかけとなった「フラッシュダンス」の再来だ。
すべてが最高。
言うことなし。
素手の格闘技愛好家であるぼくは、肉体で表現するダンサーに強い憧れを持っている。
ジャンルを問わず、プロのスポーツ選手はみんな好きだ。
テコンドーもただ強いだけではなく、ダンサーのように究極までシャープに鍛え上げた美しい技で勝負したい。
この映画の中で、心を打たれたセリフが2つ。
「神様からもらった体なのよ」
「得意なことじゃなくて、好きなことがやりたいの!」
それにしても、主人公(美人!)の最後の選択にはやられた。
生意気でも自分の個性を貫き通す、いい意味でのアメリカ人らしさを見せつけられた。
(2002/1/21)
*****
■よかった映画リスト
[ア]
愛と青春の旅立ち
あなたに降る夢
アメリカン・ビューティー
アメリカン・プレジデント
アルマゲドン
エアフォース・ワン
オーロラの彼方へ
[カ]
カクテル
グッドナイト・ムーン
クレイマー、クレイマー
ゴースト
コーラスライン
恋におちたシェイクスピア
恋におちて
交渉人
幸福の条件
コヨーテ・アグリー
[サ]
ザ・ハリケーン
サブリナ
シックス・センス
ジャンヌ・ダルク
ショーガール
スコア
スパルタンX
センターステージ
卒業
[タ]
タイタニック
タクシードライバー
トップガン
ドラゴンへの道
[ナ]
[ハ]
ハート・オブ・ウーマン
バック・トゥ・ザ・フューチャー
フォーエバー・ヤング
フットルース
フラッシュダンス
プロジェクトA
[マ]
マイ・フェア・レディ
摩天楼は薔薇色に
ミセス・ダウト
燃えよドラゴン
[ヤ]
ヤマカシ
[ラ]
ライフ・イズ・ビューティフル
ラリー・フリント
リービング・ラスベガス
ローマの休日
[ワ]
[邦画]
GO
高校教師
鉄道員(ぽっぽや)
天国までの百マイル
冷静と情熱のあいだ
おまけ…
[TVドラマ]
「男女7人夏物語」
「男女7人秋物語」
「季節はずれの海岸物語」
「俺たちの旅」
「クリスマス・イブ」
「ホームワーク」
「101回目のプロポーズ」
(2002/3/18)
*****
■スコア
好きな俳優であるロバート・デ・ニーロと、エドワード・ノートンの共演。
「スパイ・ゲーム」が理解できなかったことで、「オレは男っぽい映画はダメなんじゃないか、B級ラブコメにしか反応できない程度の脳ミソでは!?」と落ち込んでいたのだが、「スコア」はおもしろかった、よかった。
ジャズクラブのオーナーで、裏の顔はプロの金庫破りであるデ・ニーロと、若くて頭の切れる策略家のノートン。
大きなスコア(獲物)を盗むために手を組む。
才気走るノートンに、デ・ニーロが言った言葉がシブかった。
「これだけは覚えとけ。おまえは切れて才能があるが、問題は“才能”より“選択”だ」
続いて彼は、冒険を望み結果を急ぐノートンに忠告する。
「この仕事は、自分を抑えることが必要だ。それができなくて無茶な冒険をやるやつは、いつか必ず臭いメシを食うことになるんだよ」
「自分が願うことのリストを…それを25年かけて一つずつ手に入れていく」
この映画のラストは最高だった。
一見情けないようでいて、実は青二才を見事に手玉にとっている中年男のしたたかさ。
これだよ、オジサンはこれをめざさないと。
ところで、書くほどのこともないと流していたが、「ロード・オブ・ザ・リング」が話題になっている。
辛口評論のおすぎがベタぼめだったので、ファンタジー嫌い(ハリーポッターもNG)なぼくが、公開されてすぐ見に行った。
あんまりおもしろくなかったぞ。
映像はすごいとは思ったけど、別にねえ。
つまらなかった「A.I.」と同じく、期待しすぎるのはよくないかも。
生徒のオススメ「バトルロワイヤル」なんかも、実はたいしたことないのかも。
(2002/3/30)
*****
■ヤマカシ
職場の先輩に「あなたなら絶対にハマる映画よ!」と言われたまま、結局映画館での上映期間に行けなかった作品。
ビデオが出るのを心待ちにして、我が「文武庵ホームシアター」で見た。
いや、これは本当におもしろい。
監督がリュック・ベッソンと聞いて、「TAXI」が今ひとつ楽しめなかったので、あまり期待しないで見たのだが。
何よりも、モノではなく肉体を使ったアクション?なのがいい。
多少のトリックを使っているにしても、鍛え抜いた人間が常人を超えた動きを見せてくれる作品は、たしかにぼくのツボだ。
ちなみに今いちばん気になっているのが、「少林サッカー」。
エンターテインメントとして、見て損はない。
ヤマカシのメンバーたちが、きっと好きになるはず。
(2002/4/24)
*****
■ビューティフル・マインド
誰に聞いても評判が良かったので、映画館に見に行った。
ノーベル経済学賞を受賞した、実在の天才数学者の数奇な人生を描いた作品。
途中であっと驚くような展開になるが、最後の教授たちが集まる部屋での出来事や、ノーベル賞授与式でのスピーチなど、感動的な場面もあってなかなかよかった。
いかにもアカデミー賞狙い、という感じはした。
アカデミー賞がらみの映画はぼくには芸術的すぎるのか、いい映画ばかりだが、心に刻みつけられることはそう多くない。
しかし、いいものはいいので、あえて受賞作品をけなして切れ者を気取るようなマネはしたくない。
それからよく、芸能人などに「いかにもアメリカ万歳みたいな映画で…」と、「インディペンデンス・デイ」や「アルマゲドン」などのハリウッド大ヒット作をけなす人たちがいるが、ぼくはおもしろいものはおもしろいと素直に認めたい。
英語教師のくせにときどき傲慢なアメリカ人をけなすので、ぼくはアメリカ嫌いだと思われることがあるが、アメリカ人の発想や生き方には、日本人はまだまだ見習うべき点が多い。
(2002/4/24)
*****
■ソードフィッシュ
ラストがよくわからなかったが、たぶんこの映画のテーマのミスディレクション(錯覚)を起こしたということなのだろう。
まあまあ楽しめたし、善悪は別として男たちはカッコよかったし、黒人の女性もセクシーだった。
ジョン・トラボルタも中年以降、厚みを増してきたものだ。
ぼくにとっては「サタデー・ナイト・フィーバー」よりも「ステイン・アライブ」こそトラボルタの真骨頂だが。
「ステイン・アライブ」はサントラのCDまで買って、今でもときどき聞いているぼくの青春の映画だ。
「ソードフィッシュ」という映画は、離婚して娘と会わせてもらえない天才ハッカーの行動がすべてだった。
何度も親権の裁判をするのだが、すべて敗訴。
「会いたくないと言っている」とウソをつき、本当の父親を犯罪者扱いする元妻。
こっそり娘に会いに行き、「パパ!」と喜んで飛びついてくる娘を笑顔で抱き締めてキスをする父親。
家まで送って別れるときに涙ぐむ彼は、「娘に会わせてやる」の一言で、悪とさえ手を組んでしまう。
この映画はぼくにとって、父親と娘の愛情物語なのだ。
(2002/4/24)
*****
■コレリ大尉のマンドリン
あまりヒットしそうにない地味なタイトルだが、いい映画だった。
好きな俳優の一人であるニコラス・ケイジと、その魅力でトム・クルーズらハリウッドスターたちを虜にしてきたエキゾチック美女、ペネロペ・クルスの共演。
ぼくには美人だとは思えなかったが、実際に会うとオーラがあるんだろうな。
美人といえば、「なぜ美人ばかりが得をするのか」(ナンシー・エトコフ著/草思社)という本はおもしろかった。
「外見よりも心」などと言うが、さまざまな実験と統計を元に、赤ん坊さえ美人を見分けること、いかに男たち(女さえも)が美人を特別扱いするかを、徹底的に検証している傑作だ。
今までたくさんの映画を見てきたが、毎回思うのは「映画というのは、女性の美しさを際立たせるために作られるのでは?」ということ。
主演女優の輝きようたるや、注目を浴びることによって自信をつけた女性が、加速度的にその魅力をグレードアップするすごさを見せつけてくれる。
とはいえ、美人であることの価値も、最近はずいぶん落ちてしまった。
雑誌などで目にする限りでは、芸能界はもちろん、いわゆる風俗業界などを見ても、びっくりするくらい若くて美しい女性だらけ(たとえそれが整形した顔であっても)。
ファッションや化粧も多様化しており、少しくらい見栄えのいい女性がいても、別に珍しいことではなくなったように思う。
さて、この映画で気に入ったセリフ。
(軍隊の後進をしながら)
「2時の方角に美女発見!」
(敬礼)
「イタリア人だからね。歌って食って、愛に生きる」
(パーティーの場で言い争いになって)
「今夜は静かで美しい夜だ。恋のことを考えよう」
(おどけて近くに座っていた老女にキス)
(美しいマンドリンの音色を奏でるコレリ大尉が曲名を聞かれて)
「ペラギアの歌」
(ペネロペ・クルス演じる島の女性の名で、愛の告白の場面)
「君はかみさんを愛しているか?愛しているならいつも優しくしてやることだ。言われる前に薪(まき)を集め、寒いと思ったらショールをかけてやる。畑から戻るときには、花を一輪摘んでくる」
(2002/3/30)
*****
■ブリジット・ジョーンズの日記
女性に圧倒的な支持を受けたと聞いたが、なるほどそんな内容だった。
監督も女性なのでは?と思ったほどだ。
なかなか楽しい映画だった。
男の意地悪な目で見ると、いくつもの疑問が残るのだが。
主人公のブリジットは、32歳の太った独身女性。
ヘビースモーカーで大酒飲み、口が悪く行動はドンくさく、男とのデートにセクシーな下着ではなくデカパンをはいてくるタイプだ。
そんな女性を、普通の男性は好まない。
しかし、なぜか2人のハンサムで知的な男性から口説かれるのだ。
彼氏にフラれて一大決心、ダイエットを始めて内面的にも変身を企てるのだが、すべてが裏目に出てしまう。
あげくの果ては、日記に本命の男の悪口を書きまくったうえ、彼がかつて恋人を寝取られた別の男に夢中になっている。
(以下はネタバレになるが)その男性は自分のことをボロクソに書かれた日記を読んだにもかかわらず、彼女に「ありのままの君が好きだ」とプロポーズする。
自分が生理的に嫌いな男と、軽々しく肉体関係を持っていた女性を許せる男など、まずいないと思うのだが…。
男の側からおもしろかったのは、ブリジットがデートの前にスネ毛をひっぺがしたりして身づくろいする場面。
何の舞台裏でもマヌケなものだが、こういう涙ぐましい努力は微笑ましい、と思える年にぼくもなった(以前は自分の彼女だけはしないと信じていた)。
デリカシーのない「開き直ったありのまま」では、やはり興ざめなのだ。
必要以上の体脂肪をつけているということは、大らかに見える反面、やはり自己管理能力に欠けているというか、だらしない性格なのではないかと、どうしても勘ぐってしまう。
ダイエット(減量ではなく食事療法!)も適度な運動も、自分を見捨てていない限りたいして難しいことではないのだから。
この話題になると厳しくなるぼくだが、男も女もセクシーな下着以上に、引き締まった肉体をつくる努力をしたいものだ。
(2002/4/29)
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■小説家を見つけたら
ぼくにとってのこの映画のテーマは、世代を超えた友情とタイプライターだ。
著書が1册しかない、伝説の小説家である老人ウィリアムは、世間から身を引いて独り暮らしをしている。
彼と知り合った、貧しく才能ある黒人の高校生ジャマールが、文章を教えてもらうために通ってくる。
何の世界でも、自分が目標とする師が存在するのは、とても幸運なことだ。
ぼくはテコンドー、空手、英語、授業など、自分の人生の主軸となる各分野において、尊敬できる師匠との出会いに恵まれた。
そのおかげで、どの道でも一生上達していけるのだ。
「(タイプライターのキーを)もっと真剣に叩け!」
ぼくは大学生になって初めて、親にタイプライターを買ってもらった。
今思えば原始的な機械だったが、自分の考えがタン!タン!タン!タン!と小気味よい音とともに文字になっていくのが好きで、ずっと大切に使っていた。
映画の中で小説家と高校生をつないでいたのは、文章を書くという共通の生産活動であり、その手段となるタイプライターだった。
独自の文章修行法を教えたウィリアムは、気分よく酔ってジャマールに語る。
「至福のときを知ってるか?第1稿を書き上げて、自分が読み返すときだ。アホな批評家どもが、自らは生涯できないことを、1日でめた切りにする前にな」
わかるなあ、これ。
人生の挫折によって、年老いるまで独身を通したウィリアムが、恋愛に悩むジャマールにユーモラスにアドバイスする。
「女性のハートを開く鍵は、思いがけないときの、思いがけない贈り物だ」
(The key to a woman's heart is an unexpected gift at an unexpected time.)
ジャマールが好きになった女の子は白人で、彼女の父親からよく思われていないことを知っている彼は、彼女から交際をほのめかされたときも素直に受け入れられない。
そのときの彼女のセリフがふるっていた。
「あなたは何でも、黒と白に分けるの?」
(Does everything have to be so black and white with you?)
ただ盲目的に師に従うのではなく、世代を超えた激しいぶつかり合いの場面もある。
それはある意味で、友情とも呼べる関係だ。
感動のラストまで、「グッド・ウィル・ハンティング」を思い起こさせる良い作品だ。
偏屈な老人だったウィリアムが、ジャマールとやりとりしていくうちに、表情が生き生きとしてくるのが印象的だった。
弟子との出会いによって、師匠が変わることもあるのだ。
ぼく自身、ここ数年は生気を失っていたが、最近自分の持っているものを伝えてもいいと思える対象が現れてからは、ずいぶん前向きになった。
だからこそ、ウィリアムは、最後の手紙でジャマールに語りかける。
「君が現れていなければ、私は朽ちていただろう」
(2002/5/7)
*****
■少林サッカー
土曜の午後にかろうじて時間を見つけて、封切り当日に映画館に走った。
たまたま「映画の日」(毎月1日は1000円)だったようで、人も多かった。
が!ぼくは安いから来るというメンタリティは好きではない。
宮崎の映画館は、いつもはほんの数人なのだ。
「少林サッカー」は、ずっと見たかった大評判の映画だ。
少林拳に夢中な貧しい青年がその普及のため、さまざまな拳法の元達人を集めてサッカーのトーナメント挑むという単純ストーリー。
まあなんというか、そのハチャメチャぶりにトコトン笑える映画だ(ハチャメチャといえば最近「ムーラン・ルージュ!」を見たが、これは最初の30分で疲れ果てて見るのをやめた)。
「少林サッカー」の監督兼主演のチャウ・シンチーは、実はなんと40歳。
この映画のために1年間体を鍛えたそうだが、それにしても若く見えた。
ジャッキー・チェンがもう48歳!というのにも驚くが。
自分もまだまだこれからだ、という気にさせられるなあ。
チャウ・シンチーが街を歩きながら、つい拳法の技の動きをしてしまう場面には、自分を見ているようで笑えた。
オヤジが駅のホームで傘を使ってゴルフのスイングなどやったりするが、あの感覚でついパンチやキックのシャドーをやってしまうのだ。
カメラを向けられるとファイティングポーズをとってしまうし、これも格闘家の悲しい性ということか。
それにしても、出演者たちのキャラクターはすごい。
超個性的な俳優ばかりなのだが、意外と撮影スタッフの素人だったりして、チャウ・シンチーの監督としての異才に感心してしまう。
パンフレットを読むと、内幕がわかってより楽しめると思う。
小学生の頃、ぼくも野球やサッカーに夢中な少年だった。
ところが近所の家でたまたま見た、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」が原体験になって、格闘技路線の青年に成長してしまったのだ。
この歳になってもまだ鍛練を続けているあたり、子ども時代の影響というものはすごいと思う。
現在、サッカーのワールドカップで国をあげて大騒ぎのようだが、本当にメジャースポーツだったんだな、と驚いている。
格闘技でニュースや新聞に出るのは、プロボクシング程度。
マイナーパワーがモットーで、何でも少数派な分野を渡り歩いてきたが、ちょっとうらやましい気はする。
(2002/6/4)
*****
■アイ・アム・サム
「二人はこんなに幸せなのに、どうして一緒に暮らせないの?」
「私の父親はパパだけよ」
知的障害のために幼い娘と引き離された父親が、弁護士を雇って裁判に臨み、娘を自分の元へ取り戻そうとする愛情物語。
多くの人が「感動した」「涙が止まらなかった」と絶賛し、ぼく自身も予告編を見ただけでウルウルしてしまった映画だ。
たしかにいい映画だった。
涙を誘うシーンも、たくさんあった。
しかし、素直に感動ばかりしていられないのは、仲のよかった娘との関係を壊された現実のせいだろう。
主人公のサムは7歳の知能しか持っておらず、娘のルーシーが7歳を越えると、父親としての能力に欠けると判断され、ソーシャル・ワーカーによって娘を連れて行かれる。
後日、里親も現れて、裁判はますます不利になっていく。
しかし、週2回2時間ずつは娘と会えるのだ。
離婚後も離れた親子の交流が常識となっているアメリカらしく、父親を排除するというよりは、子どものことを真剣に考えた結果が施設や里親という判断につながっている。
養子縁組をした里親夫婦も、サムがルーシーに会うこと自体にはまったく反対していない。
それぞれが弱さをさらけ出し、本音で話し合い、ラストもそれなりにハッピーだ。
ぼく自身は、離婚によって愛する娘と引き離された。
もっと具体的に書くと、元妻の再婚によって娘との貴重なひとときさえ奪われた。
さらに突き詰めると、離婚率だけは欧米に近づき、離婚後の子どもの心のケアは数十年遅れている日本の法律、そのために歪んでしまった人々の意識によって、一生かかって埋めていかねばならない心の空洞ができてしまった。
映画では美談となっている養子縁組も、第三者が聞くと感心するのだろうが、実際には裁判で有利になるための手段として使われた。
調停で決められた条項(父娘のたった月1回2時間の面会)さえ一方的に破り、養育費や面会態度など、精一杯相手のことを考慮して誠実に対応している父親の存在を否定しながら、何のおとがめもない国。
人の不幸の上に自分たちの幸せを築いて平然としている者を、自分には直接関係ないからと批判も忠告もしない人々。
愚痴を言っても進展はない。
同じ経験を持たない人がこの文章を読んでも、何も行動など起こしてくれないだろう。
ぼくは先日東京に行って、法改正に向けて活動している「ファーザーズ・ウェブサイト」の仲間たちに会ってきた。
ぼくは再び、不誠実な相手に対して闘いを挑もうと考えている。
本当の父親なのだから、絶対にあきらめることはない。
サムの娘ルーシーは、映画の中で8歳になった。
ぼくのこの世でたった一人の娘Sは、あと数日で8歳の誕生日を迎える。
もうまる1年間、娘の顔さえ見せてもらっていない。
電話の声さえ聞かせてもらっていない。
たしかにぼくは、「アイ・アム・サム」を見ながら涙を流した。
しかしそれは、子どもの誕生やいっしょにブランコに乗って遊ぶシーンを見て、愛する娘Sと過ごした短く貴重な日々を思い出したからだ。
(2002/6/11)
*****
■ニューヨークの恋人
やはりメグ・ライアンにはラブコメディが似合うなどと、素人レベルの書き出しになってしまうくらい、彼女のラブコメ路線は定着してしまった。
たしかもう40歳を越えて、子どもも何人かいるというのに、この作品の主役になるというところがすごい。
整形手術をくり返しているそうだが(役者としては当然)、それでもキュートだ。
最初は印象の悪い相手だったのに、ある出来事がきっかけで好きになり、途中ハラハラさせられるものの、ラストはハッピーエンド。
お決まりのパターンではあるが、だからこそ「寅さん」を見るような安心感があるのかも。
人気のある小説や映画のストーリーは、ほとんどがあるパターンに沿っているというし。
19世紀の公爵レオポルドが、ケイト(メグ・ライアン)の元恋人で発明おたくのスチュアートが原因で、現代のニューヨークにタイムスリップして、ケイトと恋におちるという無茶な設定。
といっても、プロレスと同じくすべての映画は作り事なのだから、たとえ実話をもとにしたストーリーでも架空の世界。
それを八百長とかヤラセとか言ってもしょうがないわけで、楽しめればそれでいいのだ。
「一瞬の愛さえも感じないのに、一生を誓う結婚など!」
金持ちの娘と政略結婚を迫られた、レオポルドのセリフ。
この男はどこまでも真面目で常識的なのだが、それだけに自由や個性という実体のないものに不安を感じている現代人の心に、ストレートに響いてくる。
キックボクシングに夢中になっていた者が、やがて型を重視する武道に惹かれるようなものだ(何でも格闘技にたとえる)。
広告会社に勤めるバリバリのキャリアウーマンであるケイトが、夜、マンションのベランダから見えるアパートの窓を見つめる場面がある。
そこの住人である老人は、毎晩寝る前に同じ曲を聴いてから電気を消すのだ。
その規則正しさと、貧しくてもゆったりと安定した生活を見るのが、慌しい日々を送るケイトの癒しになっていたのではないだろうか。
なぜそう思うかというと、ぼくが彼を見てそう感じたから。
ケイトが時代を超えてレオポルドを追う最後の場面で、元恋人のスチュアートが言ったことが、この映画のテーマなのかもしれない。
自分のようなろくでもない男とかかわって、若く美しい時代を無駄にしてしまったかもしれないけれど、それには理由があったのだと。
君を運命の相手にめぐり逢わせるための道案内役だった、というわけだ。
なるほどそう考えると、恋愛や結婚にからむすべての修羅場に意味が出てくる。
傷つけられた相手を恨み続けることも、傷つけた自分を責め続けることもない。
「運命の相手」は、ケイトが言うように、ありのままの自分で波長が合う人なのだろう。
恋愛初期で熱くなっているときではなく、長く平凡な日常生活や何かと調子の悪いときでも、相手に対してだけは自然な思いやりで接することができて、心が安らぐ関係。
嫉妬や妄想(=相手を信用しきれない)で胸を焦がしたり、自分の思い通りにならない相手の言動にイライラするようではダメなのだ。
人間関係に努力は必要だが、努力の必要な人間関係は「運命の人」ではない。
努力しないと関係が維持できないような相手とは、結婚もすべきではないのだろう。
夢みたいなことを言っているうちに、売れ残ってしまうよ。
そんな焦りから、ついつい適当な相手を「運命の人」と自分に思い込ませ、つじつま合わせの契約を結んでしまう。
運命の相手、ソウル・メイトはきっとこの世のどこかにいる。
結婚するのは、心から愛し合える人と。
そんな青臭いことを、久しぶりに考えてしまった映画だ。
(2002/6/22)