<「えにし」の中を生きる>
世の中、「捨てる技術」や、「断る手口」の実用書が花盛りである。
自分ひとりの人生の収支を考えれば、捨てたり断ったりしたほうが合理的だろう。
みんなばんばん捨てて身軽になり、その時間や空間を他のより「有意義」なことに使っている。
しかしその有意義なことというのが、権力やお金を持っている、利用できる人に近づくことであったり、
頭のいい人だけを集めた異業種交流会で名刺を配ることだったりするのなら、そういうのはせこくて、さもしい感じ。
何か捨てるものを間違えているのではないか。
彼らががどんどん「削除」しているのは、「自分に役に立たない人の縁」。
しかし社会とはさまざまな人間のアンサンブルであって、そこには理解の遅い人も、お金のない人も、体の不自由な人も、
仕事のない人も、年老いた人も、愚痴っぽい人も、仲間に入りたい人も、いじめられている人も、視野の狭い人もいる。
その中に自分は生かされているということがわからないと、そもそも社会は成り立たない。
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食堂で読んだ雑誌「婦人公論」で目に止まった、作家の森まゆみさんの文章。
何を隠そう、私もできるかぎりの「シンプルライフ」を心がけている。
お酒が飲めないから夜のつき合いも少ないし、テレビのバラエティ番組で暇つぶしもしない。
あれこれやっていた活動も止めてしまったから、手帳のスケジュール欄は真っ白になった。
その時間を何に使っているかといえば、次の3つになるだろうか。
(1)家族と過ごす
(2)仕事を深める
(3)自分の体と心との対話
もともと表面的な出世には興味がなかったが、40を境に「有意義なこと」はスパッと止めた。
目の前のことや近辺の人々を見つめて、今日もていねいに暮らしていくだけだ。
縁あって人様のお役に立てることがあれば、それもまたよしと思っている。
上の雑誌は「片づけ」特集だったので、物について最後に森さんは次のように書いている。
「私は捨てる手を止める。
一緒にモンゴルの星空を見た人がくれた絵。
ラオスの市場で赤ん坊を背負った人から買った布。
(中略)
二度と会わないだろう人とのえにし。
その「片づかなさ」の中を生きるのが人間の宿命ではないだろうか」
なるべく物を所有したくない私とは異なるが、最後の言葉は考えさせられる。
誰もが、人生という旅の道連れなのだから。
しかしそれでも、「物」そのものへの執着は手放していきたい。
(2009/3/29)