<これが私の柔道です>

体を鍛えるために柔道を修行するのだから、相手を投げることは念頭に置かない。
むしろ投げられるほうに重点を置くというものでした。

投げられることにより、多く受身を取る。
そのたびごとに体は鍛えられ、倒される瞬間に働く動物的な神経と安全な形を体得できる。

さらに、きれいに投げられる方法も稽古の中に取り入れる決心をしました。
きれいに投げられると相手も喜び、自分もうれしいものです。
これが私の柔道です。

*****

つぶやき:

理学博士で登山家の、西堀栄三郎氏の講演より(参考文献:心に響く言の葉/佐藤嘉道著)。
これを読んだとき、私は昼休みの職場で弁当を食べていたのだが、思わずその場で「うわあーっ!」と叫んで立ち上がりそうになった。
こんな考え方があったとは…。

投げられて悔しいという感情はなかったのか、という質問に対して、西堀氏は次のように答えたという。
「一回もありません。
私は体が小さく細いので、最初からそういうことは考えていませんでしたから」

普通、体が小さく細いからこそ、「強くなりたい」「勝ちたい」と願って格闘技を始めるものだ。
筋肉を鍛え、走り込んで足腰とスタミナをつくり、技を何千回も反復して身につける。
理屈はいろいろつけられるが、それらはすべて相手を倒すか、少なくとも制するための努力といえる。

さすがに中年になっても格闘技を続けていると、自分でも「何のために?」という疑問が出てくる。
健康や美容にいいとは思えないし、ストレス解消どころか、年を取ると体が動かなくなって逆にストレスはたまる。
護身術、家族を守るためなどといっても、ほとんどの人はそんな危険な場面に出くわすことはないだろう。
仮にあったとしても、刃物に素手で立ち向かうなど自殺行為だ。

理念を求めるなら、スポーツマンシップでも構わないはずだ。
そもそも、体を鍛えることと思想や哲学が直接関係するとは思えない。
結局、「好きだから」という開き直ったような理由になってしまう。

いずれにしても、西堀氏の柔道についての発想は新鮮だった。
今まで続かなかった習い事も、まったく別の視点からとらえれば、また別の楽しみ方があったのかもしれない。
やらねばならない仕事や、気の進まないことなどにも応用できそうなスタンスだ。

(2006/10/4)

もどる