<生きる目的>

この世の中に生まれてくるということは、生まれ変わり死に変わりしながら魂の修行を行って、悟りを開くためなんだと自分は思うんです。
これはお釈迦様が言ってたことですけど。
自分たちは、宗教家になるわけではなく、武道を通して魂の修行をするんだと思います。

たとえば、試合に出るのは怖いことですが、あえてその場に出て行く。
そして痛い思いをする中で、自分自身の心をコントロールできるようにしていくんです。
そういったことは全て、魂が自分の肉体をコントロールできるようになるための修行なんだと思います。

つまり、武道の修行をしているということ自体が、生きる目的なんだと思います。

私は、修行というのは、自分と神様との約束事なんだと考えるんです。
自分で腕立て伏せを毎日何回なると決めたら、それを実行するのが「行」なんです。
そして自分が決めたことをやり切ることが「修」なんです。

教育的な側面、格闘技的な側面、宗教的な側面、その3つの円が交わったところが、私の教えている武道なのではないかと思います。
こういったことを必ず伝えるようにしています。

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つぶやき:

空手の極真館副館長、名白楽(選手育成の名人)と呼ばれる、廣重毅師範のインタビューより。
廣重師範は流派の技だけに固執せず、いいと思ったら他の競技からも柔軟に取り入れる。
空手界きってのアイディアマンで、オリジナルの稽古法や自作のトレーニング用具で知られている。

「武道の修行をしているということ自体が、生きる目的」
これは大きな気づきだった。
生まれてきた意味を「魂の修行」と定めるなら、今いろいろな体験をしていること自体が、生きる目的ということで納得がいく。

「人は何のために生まれてくるのか」という問いに対する答えで、私がいちばんピンときたのがこれだ。
別の表現で言えば、精神レベルを上げながら人間として成長することが、人生の目的。
そのためには、泣いたり笑ったり、いわゆる「スッタモンダ」が必要となる。

今、問題をかかえて悩んでいる人。
それでオーケー、そのまんまで大正解なのだ。
その出来事を体験して味わうことそのものが、生まれてきた目的を順調に消化していることになる。

悟りなど開く必要はない。
大人物にならなくてもいいし、成功なんかしなくていい(したければしてもいい)。
喜怒哀楽を味わいながら、人間味をまき散らして生活していればいいのだ。

眉間にしわを寄せて「生きる意味とは?」とやっているヒマがあったら、外に出よう、人と会おう。
いや、自宅に引きこもってウダウダやっていることも、それ自体が生きる目的だった。
要するに何でもあり、スッタモンダやりながら、たまたま縁のあった体験に良い悪いと評価せず、ただ味わいつくせば後悔なしだ。

(2006/3/15)

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