<道(タオ)>

君はどっちが大切かね―
地位や評判かね、
それとも自分の身体かね?
収入や財産を守るためには
自分の身体をこわしてもかまわないかね?
何を取るのが得で
何を失うのが損か、本当に
よく考えたことがあるかね?

名声やお金にこだわりすぎたら
もっとずっと大切なものを失う。
物を無理して蓄めこんだりしたら、
とても大きなものを亡くすんだよ。

なにを失い なにを亡くすかだって?
静けさと平和さ。
このふたつを得るには、
いま自分の持つものに満足することさ。

*****

ぼくらはひとに
褒められたり貶(けな)されたりして、
びくびくしながら生きている。
自分がひとにどう見られるか
いつも気にしている。しかしね
そういう自分というのは
本当の自分じゃあなくて、
社会にかかわっている自分なんだ。

たかの知れた自分だけれど
社会だって、
たかの知れた社会なんだ。

*****

粘土をこねくって
ひとつの器をつくるんだが、
器は、かならず
中がくられて空になっている。
この空の部分があってはじめて
器は役に立つ。
中がつまっていたら
何の役にも立ちやしない。

同じように、
どの家にも部屋があって
その部屋は、うつろな空間だ。
もし部屋が空でなくて
ぎっしりつまっていたら
まるっきり使いものにならん。
うつろで空いていること、
それが家の有用性なのだ。

*****

美しいと汚いは、
別々にあるんじゃあない。
美しいものは、
汚いものがあるから
美しいと呼ばれるんだ。
善悪だってそうさ。
善は、
悪があるから、
善と呼ばれるんだ。
悪の在るおかげで
善が在るってわけさ。

お互いに
片一方だけじゃあ、在りえないんだ。

*****

つぶやき:

タオ―老子」より。
長野県南部の伊那谷に庵を結ぶ、加島祥造氏による、老子の自由訳。

多くの人が求める「成功」と「幸せ」は、それぞれのバランスが大切だと思う。
どちらかというとお金や物、他人からの評価に偏りがちな「成功」を追い求めすぎると、健康を害したり、自由な時間や人との温かいつながりを失ってしまう。
精神的な「幸せ」に価値を置きすぎると、身なりに構わなくなったり、生活するにも困ってしまいがちだ。

しかし、自分にとって「本当に」大切なものは何か、「真剣に」考えたことがあるだろうか。
そのための時間もとらず、ただ日々の雑事をこなすため、正しい方向も定めないまま必死に走っていないだろうか。
他人と比較し、他人からどう思われるかを気にしながら、自分自身の幸せの基準を見失ってはいないだろうか。

それにしても私たちは、人間が自然の一部であることを忘れて、傲慢になりがちだ。
宇宙の大きな流れからすると、人間の力が及ぶ範囲など、たかだか知れている。
もっと「おまかせ」の心境になって、「ゆだねる」生き方をしてもいい時期ではないだろうか。

以下、一人で暮らしながら詩や墨彩画にいそしむタオイスト、加島氏の言葉。

「ついこの間も、家の下の天竜川で泳いできた。80過ぎの老人が泳げるかって?泳ごうと思わずに、流れていればいいと思えば、気持ちよく浮かんでいられるものだよ」

「40、50と年を重ねていけば、会社から「要らない」と放り出されるかもしれない。細君からゴミ同然に扱われるかもしれない。ぼくなら、捨てられたことに感謝する。向こうが「流れていい」と言ってるんだ。こんなチャンス、滅多にないよ」

「流れられずにひっかかっているのは、自分が固まってしまっているからじゃないか。固形物になっているんだね。生れ落ちたときはあんなに柔らかかったのに、40を過ぎればがちがちに固まってしまう」

「人はあなたに責任を問うけれど、あなたは自分の命に対してだけ責任をとればいい。自然に生きるものとしてね。社会は生きるのに大切だが、人は社会のために生きてるんじゃない。自分の命のために生きてるんだ。自分の命のために生きられなくなったのなら、社会から逃げ出したっていいだろう」

「根本は命を大切にして、静かに自分のいたい場所にいる、ということなのだからね」

(2004/9/12)

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