<マイナー競技の現場から>

最近はK−1などで少しは知られてきたものの、しょせん格闘技というのは、スポーツの中ではまだまだマイナーな分野である。
それにはさまざまな理由があるのだが、長年格闘技をやってきて、そのことを痛感している。

少年時代、偶然テレビで見たブルース・リーの映画「燃えよドラゴン」、そして、刑事ドラマ「Gメン75」のドラゴン刑事(倉田保昭)。
今思えば、あれがトラウマだったのだろう。
弱虫でいじめられっ子だった私は、普通の少年が夢中になっている野球やサッカーには目もくれず、おもちゃのヌンチャクをふり回して一人で遊んでいた。

その後、私の人生を決定的づけたのが、マンガ「空手バカ一代」。
極真空手の大山倍達(故人)の半生記だった。
あんなに強い人が実在するのか…。
サンドバッグを庭につるし、高校では空手同好会に入り、極真空手の道場にも通い、「地上最強」?をめざしていた。
ジャッキー・チェンのカンフー映画も衝撃だった。

高校・大学と空手漬け、社会人になってからはテコンドーに転向、今でもいい歳をして道場で練習を続けている。
同じ時期に、大阪の正道会館という流派(石井和義館長)がK−1というヘビー級キックボクシングで人気を呼び、世をあげての格闘技ブームが始まったかのような錯覚を起こしていた。

ところが冷静になって考えてみると、格闘技の試合結果が一般の新聞のスポーツ欄に載ることなど、まずありえない。
プロレス(厳密に言えばエンターテインメント)にいたっては、完全無視。
目にするのは、せいぜいボクシングくらいのものだ。

それでも私は、格闘技を愛し続けてきた。
ところがその格闘技の世界に、ここ数年間、とんでもない事件が続けて起こっているのだ。
私個人としては、今までつちかってきた人生観がひっくり返るほどの大きな出来事が…。

(2000/6/8)

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<格闘家の悲劇>

ウィンブルドンのテニス世界チャンピオンに、今すぐメジャーリーグの野球試合に出てホームランを打て、という人はいないだろう。
「同じ球技じゃないか。どちらもボールを打つんだから」という意見が無茶なのは、誰にでもわかることだ。

ところが、格闘技の世界では、この理屈が簡単にまかり通ってしまうのだ。
実際にはまったく違う競技なのにもかかわらず、「どちらが強いのか?」という、きわめてド素人的な発想で。
「最強を決める異種格闘技戦」というナンセンスな幻想にプロ選手がふり回され、プロボクサーが相撲取りとテコンドーをやらされるような矛盾がまかり通っている。

極論すれば、一定の試合ルールに沿った技術の練習をしていく以上、格闘技もマラソンや水泳などとまったく同じ、ひとつのスポーツ競技にほかならない。
それ以上でも、それ以下でもない。
この事実を無視して、「強さ」という大ざっぱであいまいな基準のもとに、まったく違う競技を比較するのはまちがいである。

しかしそうはいうものの、格闘技というとどうしてもドツキ合い、つまりケンカを連想してしまう。
「格闘技はルールのあるスポーツだ、ケンカとは違う」などと言っている私自身、相手を倒す技術を練習している以上、たとえ路上のケンカでも負けることは屈辱だ。
ここに、他のスポーツ選手とは違う格闘家の悲劇がある。

(2000/7/4)

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<究極の格闘技大会>

オリンピックで、スキーのジャンプ競技の優勝者が、スピードスケートの金メダリストに脅威を感じるだろうか?
もちろん否である。
同じスポーツとはいえ、ルールによってまったく世界が違うのだから。
しかし、空手のチャンピオンとキックボクシングのチャンピオンは、心のどこかでは「もし戦ったら、いったいどちらが強いのだろう?」と思うはずだ。
観客もきっとそうだろう。

空手家が素手で氷柱を割り、野球のバットを何本も束ねたものを蹴って折るのを見ると、こんな攻撃をくらったら死んでしまう、と思う。
ボクサーのパンチやテコンドーの蹴りなど、目に見えないくらいスピードのある攻撃は絶対によけられないだろうし、並はずれた肉体を持つプロレスラーに対して、こんな男に勝てる人間などこの世にいるのか、とさえ思う。

ケンカになれば必ずどちらかが勝ち、どちらかが負けるはずだ。
しかしいざルールのあるスポーツの試合となると、違う競技の選手同士をどう戦わせるのか、という問題が出てくる。
どちらにも公平なルールなど、あろうはずがない。

それでつい最近までは、プロレスなどのショーを除いて、異種格闘技戦というのは真の意味では成立しなかった。
やっても試合がかみ合わず凡戦に終わるか、ルールによってまったく結果が変わるかのは明らかだった。
また、下手に他流試合をして負けてしまった場合、自分の流派の看板に傷がついてしまうのだ。

その結果、格闘技界では他のスポーツでは見られない現象が続いていた。
それぞれの格闘技または流派が、「我こそは最強」と堂々と名のっていたのだ。
自称世界チャンピオンが、何百人も存在していたわけだ。

しかし数年前、そんなうさん臭い格闘技界に、大きな一石が投じられた。
アメリカで開催された、「アルティメット大会」だ。
アルティメットとは「究極の」という意味で、そのスタイルはポルトガル語で「バーリ・トゥード」(何でもあり)と呼ばれた。
つまり、ルールのない戦いだ。

空手、ボクシング、相撲、柔道、レスリング、キックボクシングなど、ありとあらゆる格闘技の代表選手たちが、オクタゴン(八角形)の金網に囲まれたリングの中で、ルールなしで戦った。
まさに究極のケンカ大会であった。
そしてこの大会は、すべての格闘家たちにとって、天と地がひっくり返るくらい衝撃的な結果に終わったのだ。

(2000/7/4)

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<驚異のグレイシー柔術>

この原稿を書くにあたって、私は1993年にコロラド州デンバーで開催された"The Ultimate Fighting Championship"(アルティメット大会)のビデオを久しぶりに見返してみた。
ルール?は、噛みつきと目つぶし以外は何でもありという過激なものだ。

主催者側のホリオン・グレイシーが語っている。
「このトーナメントでは、すべてが有効だ。
参加選手全員に公平を期するためには、彼らの望みすべてをひとつにまとめるしかない。
数多くの格闘技が存在していて、それぞれが「自分たちが最強だ」と主張している。
どうすれば結論が出せるか?
今ここに、その方法がある。アルティメット大会に参加することだ」

大会は凄惨を極めた。
打撃系の選手たちが、素手で顔面を殴り合う。
しかしそれは、彼らの流派だけの試合で見られるような華麗な技とはほど遠く、街のケンカと同じようなレベルだった。
自分で打ったパンチで拳を壊す、もみあって膠着状態になる、すぐにスタミナが切れる…。
ケガ人が続出した。
今までルールに守られてきた、純粋培養のスポーツ選手の悲劇である。

この大会で優勝したのは、意外にも参加者中もっとも小柄でやせた、見るからに弱そうな男ホイス・グレイシーだった。
グレイシー柔術という日本から伝わった護身術の選手で、優勝までまったくの楽勝だった。
「いちばん大事なことは、ホイスがグレイシー柔術の技だけで、拳や蹴りを使わずに闘ったことだ。
結局、彼は誰も傷つけずに、もちろん彼自身も傷つくことなく、全試合に勝利をおさめた。
強者たちを相手に、すべて5分以内に決着をつけた。
運だけではないことがよくわかってもらえるだろう(ホリオン・グレイシー)」

まったくその通りなのである。
ホイスは相手のあらゆる攻撃をかいくぐり、タックルで倒し、柔術の締め技をかけるだけだ。
相手はタップ(手で3回以上軽くたたいて「まいった」の意思表示)をするしかないのだ。
弱点を暴かれた他のあらゆる格闘技とは違って、実に美しい、日頃の練習そのままの動きだった。

ホイスは、第2回大会でも軽く優勝している。
詳細は省くが、世界的に名の通った格闘技の選手たちも参加しており、決して大会のレベルが低かったわけではない。
事実、投げ技や間接技もできる日本の実戦空手チャンピオンもホイスと闘ったが、1発のパンチも蹴りも当てられないままタップする屈辱を味あわされている。

「世界最強の格闘技」のイメージと最もほど遠かった柔術が、実はルールのない実戦においてはいちばん有効だったということが証明されて、この日を境に世界の格闘技界は揺れに揺れた。
アメリカでは、空手やキックボクシングなどの打撃系格闘技の道場やジムは閑古鳥が鳴き、グレイシー柔術のセミナーに人々が殺到したらしい。

その後日本でもこの大会は行なわれ、ホイスが「自分より10倍強い」と明言した兄のヒクソン・グレイシー(400戦無敗で現在世界最強と言われる)が来日したが、もうまったく問題にならない。
誰も勝てないどころか、ヒクソンに対して何もできないのだ。
その後グレイシーファミリーは、一気に世界の格闘技の中心的存在に浮上した。

現在40歳のヒクソンは、その強さにまったく衰えを感じさせず、今年の5月26日に東京ドームで行なわれた試合で、「日本格闘技界の最後の切り札」と言われる船木誠勝を1ラウンドで失神させている。

(2000/7/23)

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<映画「ビヨンド・ザ・マット」>

アメリカン・プロレスの実態を描いた、迫真のドキュメンタリー。
プロレスラーたちの日常やプライベートまで、徹底的にカメラが追っている。
結果として、プロレスという「興行」の舞台裏をすべて暴露する形となっている。

とはいっても、アメリカではすでにプロレスがリアルファイトではなく、あくまでもエンターテインメント、つまり「ショー」であることを明らかにしている。
プロレスラーはファイターなどではなくエンターテイナー、俳優であるという認識だ。

それなら八百長じゃないか、ということになってしまうが、格闘技やスポーツの観点から言うと、まさにその通りなのだ。
「ビヨンド・ザ・マット」でも、タイトルマッチの打ち合わせを綿密に行うチャンピオンと挑戦者の様子を、すべて公開している。

日本でも、アントニオ猪木率いる新日本プロレスで長年メインレフェリーを務めていたミスター高橋が、「流血の魔術 最強の演技」という本で、プロレスという芝居の内幕を全部バラしてしまった。
特に試合(演技?)中のレスラーの額からの流血が、レフェリーが手のひらに隠し持ったカッターの刃で切ったものだという告白は話題になった。

といってもその本は、下手に格闘技(K-1やPRIDEなど)の試合に出て負けて恥をかくよりも、プロレスは真剣勝負とは別の「娯楽」なんだとカミングアウトして、勝敗よりもショーマンシップの優劣を競うべきだ、でないとますます人気が衰退してしまうという警告ととらえたほうがいいだろう。
業界では、リタイアさせられた者の造反としか扱われていないようだが。

この映画、かなりコアな内容だが、ぼくは気に入った(ちなみにぼくは格闘技フリークであってプロレスファンではない)。
プロレスラーたちの人間性が生々しく描いてあるのには、心打たれるものがある。
ただし、それもまた「プロレス」なのかもしれないが。

(2002/2/21)

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<スポーツと格闘技の定義>

「スポーツには他流試合の概念はない。格闘技にはそれがある。この違いがスポーツと格闘技を区別してくれるのだ」

元「週刊プロレス」編集長ターザン山本氏の、最近総合格闘技界に進出しているK−1についてのコメント。
たしかにその通りで、同じ冬のスポーツでも、スピードスケートとスキーのジャンプの選手を競わせても意味はない。
しかし、格闘技の世界では「実際にやったらどちらが強いのか?」という発想が根強い。

ジャンルの違う競技と闘ってもしかたがないと、いっさいかかわりを持たない組織や選手もいた。
しかし彼らはすでに、現在のK−1やPRIDEなどの総合格闘技ブームの流れからはずれ、消えてしまった。

あの極真空手さえ、グローブをつけてK−1に参戦するようになった。
そのK−1ファイターたちが、寝技の対策を覚えてPRIDEに挑戦しているのだ。
マイク・タイソンがどちらかのリングに立つのも、そう遠いことではないだろう。

格闘技ファンとしては、夢のような試合が次々と組まれて大満足だ。
しかし、テコンドーをやっている者としては、スポーツと格闘技の定義の違いなどよりもっと重要な問題が残っている。

それは、「格闘技と武道の定義の違い」だ。
中年にさしかかった今、これからどうするべきか悩んでいる。
これについては、別のコラムに譲る。

(2002/3/4)

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