<結果が先の「必死」の言葉>
あまり時事ネタは書かないのだが、たまたま読んだ柔道の野村忠宏さんのブログに刺激された。
今は膝を壊して、軽いランニングもできない状態らしい。
サウナスーツでグラウンドに出て、歩いて汗をかくだけ。
自分が出場できなかったオリンピックで、金メダルを取った2人の友人のことを、こう書いていた。
「心底うれしかったし、ちょっと悔しかった」
正直だなあ、わかるなあ。
「歩きながらの自問自答」
「心の中での葛藤」
実はこういう時期に、男は人生の力をつけるんだ。
この10日間、本を読み片手でパソコンに向かうだけで、ぜんぜん体を動かしていない。
傷口(10日前に左手首を大怪我)が痛むから筋トレはできないし、汗をかくウォーキングも無理。
野村さんのように、今できることをやろうと思って、久しぶりにストレッチをした(超気持ちいい)。
一生懸命やってきた人の言葉は、シンプルでも深くて重みがある。
柔道で金メダルを取った、上野雅恵さん。
「この日があったので、今までの日々があったのだと思います」
「今までの日々があったから、この日が来た」ではない。
「この日があった」と、過去形で始まっているのがおもしろい。
現実と逆転するのは、潜在意識的な発想だからだ。
実はまず結果があり、そこに引き寄せられるように現実が流れていく。
潜在意識はゴールを知っているので、そこに向かう努力をせずにはいられなくなる。
そのストーリーの中で、喜びを倍増し人間力を磨く挫折や困難の体験を、無意識に自分自身に与えている。
「紙に書いたら夢が実現する」というが、これも潜在意識的に見ればまったく逆である。
実現すると本当は知っているから、イメージが心に浮かぶし、紙に書いてしまうわけだ。
小を積み重ねて大が出来上がるのではなく、あらかじめ大が存在していて、結果に引っ張られて小が積み重なっていく。
「これが自分色のメダルですね」
アテネ五輪惨敗から4年、水泳で銅メダルを取った、我が宮崎出身の松田丈志さんの言葉。
「自分色のメダル」と出合う結果が先にあって、ビニールハウスのような小さな練習場から、久世由美子コーチと二人三脚で歩むスタートが生まれた。
視点を変えれば、ある目的でドラマの結末が決められていて、そのスタートとプロセスがあとに続く。
極端な話をすれば、「死」という結末が絶対的に存在して、そこに向けて生まれ生きていく。
「過去」は人の意思でいくらでも変えられるが、「未来」は変えられない(顕在意識の発想とは逆)。
「まず結果ありき」、それがシンプルで深く重みのある言葉につながる。
しかしそのプロセスに共通しているのが、一生懸命な、いや「必死」の努力であることは言うまでもない。
オリンピックでいちばん美しいのが、鍛え抜かれた肉体以上に、彼らの真剣で必死な表情だ。
必死という字は「必ず死ぬ」と書くからよくない、そんな「ダジャレ人生論」を聞いたことがある。
必ず死ぬのは人に定められた「結果」なのだから、悪いことであるはずがなく、否定してもらっては困る。
「今死んでも後悔はない」ほど打ち込んだ結果が至上の喜びにつながるのであり、だからこそ「死」というレベルの文字をつけたのだ。
かつて笑顔で私の娘の頭をなでてくれた、尊敬する谷(当時田村)亮子さん。
銅メダルという結果に対する、ご主人のコメントが素晴らしかった。
形あるメダル以上に、必死の4年間から絞り出された無形の言葉が光る。
「目標にしていたメダルの色は違ったけれど、僕には金色に輝いて見えます」
(2008/8/13)