<メディア・リテラシー>

我らが東国原宮崎県知事が、「そのまんま日記」で、「週刊プレイボーイ」や「週刊文春」に載った記事について怒りを述べている。

畠山記者へ
文春・伊藤記者へ
困ったものだ

実際の記事を喫茶店で読んでみたら(買うもんか)、まったく事実と違うことが書いてある。
文春などは、宮崎のために東奔西走している知事のことを、「銭ゲバ」だと。
知事の仕事ぶりを間近で見ていない県外の人たちは、単純にこんな偏った記事を信じてしまうのだろうか。

人は、活字に書いてあることや、ニュースで言ったことが、さも真実のように思い込んでしまう傾向がある。
しかし、すべては「加工」「着色」「演出」されたものである。
極端に表現すると、「やらせ」である場合さえある。

私自身も経験上、マスコミの情報は半分しか信じない。
今まで黙して語らなかったことだが、今回はあえて自分の体験を告白しようと思う。
メディアの価値は認めつつ、その弊害も見つめる冷静な目は、社会人として不可欠だ。
キレイゴトばかり言わず、知事のように不快感を表現することも、時には必要だと感じたからでもある。

私は4年前、地元の新聞から取材を受けた。
その記事はかなり大きく、私は本名と年齢を明かし、後姿ではあるが写真も載った。
すべては、全国の子どもに会えない父親・母親のためだった。

http://nakamoto.bunbukikaku.com/fathers12.html

「中元は7年前に離婚、一人娘の親権は元妻にある。
 調停で月2回と決められた面会は初めの1年こそ守られたが、元妻が再婚するころから回数が減り、やがて会わせてもらえなくなった」

ここまでは事実なのだが、問題は次の「私の」発言である。

「人質みたいなものだから、電話もできませんでした」

この1行、いや「人質」という2文字のために、その後私はさまざまな人から誤解や非難を受けることになる。
そのことはもういい、私は一切の言い訳をしなかった。
しかし、実際はこうだったと記憶している。

記者が、「そりゃ電話もしにくいですよねえ、人質を取られているみたいなもんだから」。
私はその例え話に苦笑いしながら、「うーん」とうなずいた。

実はこの記者は私の知人で、とても優秀で誠実な男である。
ジャーナリストとして正義感と公平性を持ち、私が始めた「ファーザーズ・ウェブサイト」の活動も高く評価してくれた。
だからこそ一言も苦情を言わなかったし、今でも恨む気持ちはまったくない。
ここで言いたいのは、大衆に伝える情報に仕上げる段階で、人為的なアレンジは避けられないということだ。

もう1つ。
その記事を読んだフリーライターが、離婚関連の本を出版するため、取材を申し込んできた。
親子関係が断たれた人々のためと思って、ボランティアで快く引き受けた。
離婚で父親に会えなくなった女子学生にも、私から頼んで協力してもらった。

このライターは、まず先ほどの宮崎の新聞社に私と女子学生の記事を書いた。
掲載日の前に、なぜか女子学生だけ、草稿を見せられたそうだ。
彼女は「母親に知れたら困るから、この部分は書き換えてほしい」と頼んだが、押し切られたという。

この記事は、彼女とその家族に大きなトラブルを引き起こした。
私にも彼女の母親から、強い抗議の電話があった。
以後、彼女が「ファーザーズ・ウェブサイト」に協力することはなくなった。

本の取材については、録音で行われた。
当時の私はある種の「使命」を感じていたので、すべて包み隠さず、本音で答えた。
後日、ライターがテープを起こした原稿を送ってきたが、その内容はさすがに生々しかった。

ライターは、私の前妻に対しても、ダメモトで取材を申し込むと言ってきた。
私は一切偽りを語っていないので、異議はなかった。
「公平を期すために」という言葉を信じていた。

ところがライターは、いきなり電話しても取材を承諾してもらえる可能性は低いと判断。
テープ起こしの原稿を、そのまま前妻と再婚相手、そして娘の住むマンションに郵送したのだ。
当然ながら無許可の事後承諾で、私の常識では想像もできないことだった。

さらに、出版社の担当者からメールが送られてきた。
「ホームページや著書で、この本のモデルは自分だ、といったような発言は遠慮してください」
本名で文章を書き本を出版している者に対して、こんな初歩的な確認をするとは、ちょっと失礼だと感じた。

当時の私のミスは、ストレートに怒りを表明しなかったこと。
対立の構造にはうんざりしていたし、「ファーザーズ・ウェブサイト」の活動にプラスになれば…と我慢してしまった。
お人好しなことに、この時点でもまだ、彼らの良識を信じようとしていたのだ。

本が届いた。
ざっと目を通して、唖然とした。
本を開いたその場で、ごみ箱に捨てた。

後日、その本が「女性週刊誌」で賞賛されていた。
(こういうことではいけないのだが)私はさすがに嫌気が指して、この活動の第一線から身を引くことにした。
私は私のやり方で、「戦う」のではなく、「文武両道」で誠実に訴え続けようと決めた。

Aさんの言う事実と、Bさんの言う事実がある。
どちらが「真実」かはともかく、それぞれにとっては「事実」であるとする。
ライターは、どちらの言い分も聞いたのだから、自分はフェアだったと主張したいだろう。
では、次の文を読んでほしい。

「Aさんはこう言っていたが、あとでBさんに聞いてみたら、違うことを言っていた」

さて、AさんとBさんのどちらが「真実のように」聞こえるだろうか。
理屈では、両者の言い分を聞いたわけだから、「公平を期して」いる。
しかし、問題はAさんとBさんの「並べ方」である。

あとから出てきた主張のほうが、本当のように聞こえるし、共感しやすい。
最初のほうが途中経過で、あとのほうが結論のように感じる。
あなたもそう感じませんでしたか?

こんな人間心理の基本なんて、情報を発信する者なら誰でも知っている。
それを悪用する人は、いくらでもいる。
Bさんの話のあとに、筆者が「Bさんの気持ちも理解できた」とでも書けば、読者にどんな気持ちを期待しているかはすぐ見抜ける。

タイトルの「メディア・リテラシー」とは、メディアから受信した情報の真偽を見抜き、健全に活用すること。
ワイドショーなどに振り回されている場合ではないのです。
「一時が万事」で、週刊誌にも新聞にもテレビにも、同じような反応をしてしまうのだろうから。

少なくとも、常にメディア・リテラシーを意識して、情報に対峙してほしい。
その意味では、この私の文章も例外ではない。

(2008/4/12)

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