<他人のことを考える>
まだ若く未熟だった頃、こんな悩みを持ったことがある。
「厳しい教師を演じるべきか、優しい教師でいるべきか」
一般の会社でも、部下を持てば必ず迷うと思う。
「鬼の上司か、仏の上司か」
その頃、英光舎社長の松浦さんが、読者とオンラインで意見交換をしていた。
そこで相談させてもらったのが上記の問題で、さまざまな意見をいただいた。
後日、松浦さんからわざわざ次のメールが送られてきた。
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中元 様
以前ご相談の「厳しい教師・優しい教師」に関して、
当社の専属編集者でカウンセラーの清積さんから、お答えをいただきましたので、以下に転載しておきます。
参考になればいいのですが…。
では、お元気で。
英光舎 松浦
-----(ここから清積さんの文章→)
中元康夫先生へ
「厳しい教師」だと性格的に無理があるし、「優しい教師」だと生徒が言うことを聞かずにストレスがたまる…というのは、まず、視点が自分の方に向いている状態です。
「自分が生徒にどう思われるだろうか」という思考です。
自分の方に向けているその矢印を、真逆である、「生徒たち」の方へと向けてみてはどうでしょうか。
「どのように授業を進めていけば、この子たちは理解してくれるだろうか」
「どうすれば、もっと面白くなるだろか」
「この子たちの持っているいいものを引き出すには、何をしていけばいいのか」
など、生徒の方に目を向けたときには、自分がどういう教師を演じるべきか、という思いが、自然となくなってくるように思います。
そこには、ただ、いつも生徒のことを受け入れている親しみのある教師になります。
中元先生は、「好きなことよりも得意なことを選んだためか、仕事がマンネリ化して今ひとつ面白くない」と書かれていましたね。
仮に、得意なことが「適職」で、好きなことが「天職」としましょう。
「適職」と「天職」が一致している人は、人生がとても楽しいでしょうし、自然にお金もついてくるでしょう。
中元先生は、今の仕事は得意なことだから「適職」であっても、「天職」ではないと思っているかもしれません。
しかし、自分に向けている矢印を、生徒たちの方に向けて、生徒を好きになった瞬間に、最高の「天職」になるのです。
実は、最初から「適職」と「天職」が、一致していたのです。
世の中に「適職」と「天職」が一致している人は、なかなかいないようです。
ですから、中元先生は、とてもツイてる人です。
そして、大変素晴らしい指導者なのだと思います。
ちなみに、私が思う、素晴らしい指導者とは、生徒に「声が届く」人です。
授業中、どんなに大声をはりあげて、熱弁をふるっていても、その声が、生徒の前で、ポトッポトッと落ちていく先生がいらっしゃいます。
言葉が、生徒たちの中まで入っていかないのですね。
中元先生の「声」は、きっと生徒たちの心に届くはずです。
これからも、生徒たちに、たくさんの素敵な「声」を届けてくあげてください。
今回は、カウンセリングの勉強をさせていただきありがとうございました。
-----(←ここまで)
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「視点が自分の方に向いている状態」
ハッとさせられた。
これは教師と生徒、上司と部下だけでなく、夫婦、親子、恋人、友人…。
すべての人間関係に当てはまるのではないか。
カウンセラーとして、日々相談に応じている。
内容はさまざまだが、実はほとんどが「自分がこうである」という悩みを訴えている。
「私が、私が、私が…!」という心の叫びが聞こえてくるのだ。
私が、劣等感に悩んでいる。
私が、人間関係に悩んでいる。
私が、この環境または状況に悩んでいる。
「少しは他人のことも考えてみては?」
そう言いたくなることも、少なくない。
それができないから、悩んでいるのだろうが…。
ウツになる人なども、ベクトルがすべて「自分」に向いている。
「向いてはいけない」のではなくて、「向きすぎ」なのである。
お釈迦様が、托鉢に出向く弟子たちに「貧しい家を回りなさい」と言った。
弟子たちが聞き違いかと思って、「裕福な家を回るのでは?」と聞き返す。
お釈迦様は言った。
「貧しい人たちは、自分たちの貧しさばかり考えているから、貧しいままなのだ。
貧しいなりに、たとえわずかでも、他人に施しを与える機会をつくってあげなさい。
そうすれば、彼らの心は裕福な人の心に変わるから」
デール・カーネギーは、著書の中でこう語っている。
「自分のことで卑屈になったり、ひっこみ思案になったりしがちなのを克服する最上の方法は、
他人に興味をもち、他人のことを考えることだ」
(2008/4/6)