<人生はジョギングときどきウォーキング>

朝の目覚めは、いいほうだ。
ミネラルウォーターを飲み、スポーツウェアに着替え、マンションの前の川の土手を上る。
今日は軽めに、約5キロのジョギング。

冬のオフシーズン中にたまった脂肪を削ぎ落とす作業を、ぼちぼち始めている。
家計簿と違って、体というものは、どうしても収入が支出を上回ってしまうんだよね。
朝のジョギングは、かなり健康的な脂肪除去手術といえる。

BGMのiPodは、いらない。
鳥のさえずる声と、風や水の音があればいい。
iPodは音楽を聞くためのものではなく、音楽以外の音を拒絶する機械である。

早朝の川には、3種類の人がいる。
歩く人、ジョギングする人、走る人である。
今、年齢層の上から順番に書いた。
私は、ジョギングする人である。

ジョギングといっても、早歩きのほうが速いんじゃないかというくらい、ゆるやかな走りだ。
すれ違う人々と、頭を少し下げて微笑みながら「おはようございます」と言えるくらい。
道ばたのクローバーが四つ葉でないと判断できたり、白や黄色の花の中に、たまに淡いピンクの花が混じっていることに気づくくらい。

黙々と走り続けていると、眠っていた細胞が少しずつ始動してきて、うっすら汗がにじむくらい温まってくる。
急がない生き方なりの、「ランナーズハイ」があるようだ。
じっと瞑想しながらメタボリックになる方法もあるが、私は「動く禅」のほうを好む。

アランが、「幸福論」の中で書いていた。
「心の問題だと思っていると、実は体の問題だったりする。
 だから絶対に、不幸な気分と馴れ合ってはいけない」

そして私の場合は困ったことに、体を動かしている時に限って、「書きたい波」が押し寄せてくるのだ。
誰か、走りながらでも打てるパソコンを開発してくれないだろうか。

人生は旅だ、なんていう表現がある。
走ることにたとええれば、「人生は短距離走ではなく、マラソンみたいなものだよ」なんて言う人も。
私は最近、「人生はジョギングときどきウォーキングだ」と、当たらない天気予報みたいなことを思うようになった。
去年走ったハーフマラソンでもあんなにキツかったのに、マラソンなんて足が壊れちゃうよ。

今、私の横を猛スピード(私から見たらだが)で若者が走り抜けていった。
彼の後姿を見つめながら、「昔の自分みたいだな」と思った。
だってほら、もう疲れて立ち止まってしまった。
しばらくしたら、また意を決したように走り始める。

こんなに小刻みにジョギングしている私でさえ、最後には彼に追いつきそうになった。
どんなに急いだところで、到着する時刻にそう大きな差は生まれない。
後ろからあおって追い越していった車が、結局はずっと先の赤信号で止まっているように。

目標しか見えていない、ラットレース(ねずみの競争)みたいな人生はもうやめよう。
これからは、プロセスを楽しむことを、いちばん大切なこととしよう。
どこに到達するかではなく、どの方向に進んでいるのか、どんな気持ちでいるかを、自分に問おう。
折り返し地点の木の周りを丸く走りながら、そう思った。

そうそう、今こうして走っている道は、東国原知事の練習コースのうちの1つになっている。
いつかまた、すれ違うことがあるだろうな。
いや、「追い抜かれること」か。
彼がテレビから姿を消し、地道に「芸人学生」をやっていた時期を、今の私は生きている(ここでこう書いた意味は、決して浅くないつもりだ)。

5キロ。
そう、いつか新しい家族と、親子で手をつないで「綾の照葉樹林マラソン」の5キロコースを走ってみたい。
この5キロという距離をいつでも走れる力を持ち続けることを、私の知的生産活動の、最低限のエネルギーとしておきたい。

最後の数百メートルは、気まぐれでダッシュしてみた。
空道の藤松泰通選手が、トーナメントを勝ち抜く段階では武道の最小限の動きに抑えながら、決勝で相手が予測していないと判断するや、格闘技のローキックを思い切り叩き込むように。
例が自己中心的でしたね、すみません(笑)。

しかしまあ、「絶対にスタイルを崩さない」と頑なに信念を貫くというのも、なんだか生きにくそう。
もともと、「この道一筋」というタイプではない。
だからこそ、その中途半端さを巧みにすり替えて、「文武両道」を標榜しているのだ。
「それもまたよし、ホトトギス」くらいのスタンスで、ゆるく生きていきたい。

(2008/3/29)

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