<運命と立命>

京セラ名誉会長の、稲盛和夫さんの講演会で聞いた話。

中国の古典「陰隲録(いんしつろく)」に、袁了凡(えんりょうぼん)という人物の話がある。
医者の家に生まれ、医学を学んでいた少年の頃、一人の老人が訪ねてきた。

「私は易学を究めた者だ。
 天命に従って、あなたの未来を伝えに来た」

老人は、了凡に次のことを告げた。

・医者にはならず、科挙(公務員採用試験)を受け、役人となる。
・何歳で何の試験を受け、何人中何番で合格する。
・若くして地方の長官に任ぜられ、たいへんな出世をする。
・結婚はするtが、子どもはできない。
・53歳で亡くなる。

その後の了凡の人生は、すべてこの予言通りになった。
地方長官となった彼は、あるとき名高い老師がいる禅寺を訪ね、坐禅を組む。
それが無念無想のすばらしいものだったため、老師が感心して言った。

「一点の曇りもない、立派な禅を組まれる。
 いったいどこで修行なされたのか」

了凡は修行の経験などないことを語り、少年の頃に出会った易者の話をした。

「私はその老人の言葉通りの人生を歩んできました。
 やがて53歳で死ぬのも、私の運命でしょう。
 だから、今さら思い悩むこともないのです」

さて、あなたが禅の老師であったら、何とコメントするだろうか?
私なら、「スゴイですね〜」かな。
自我を手放した執着のない姿にすっかり感心し、思わず弟子入りしそうだ。

ところがそれを聞いた老師は、了凡を一喝する。

「若くして悟りの境地を得た人物かと思えば、実は大バカ者であったか!
 ただ運命に従順であるのが、あなたの人生だというのか。
 運命は天から与えられるが、決して努力で変えられぬものではない。
 善きことを思い、善きことをなせば、人生はさらに向上するのだ」

言葉を素直に聞いた了凡は、その後、妻とともに善行を積んでいった。
その結果、できないはずの子どもに恵まれ、予言された死期をはるかに超えて天寿をまっとうした。

定められた「運命」と、人間の力でつくる「立命」。
運命を縦糸、立命を横糸として、人の人生という布が織り上げられていく。
それでこそ、この世にわざわざ「人間」として生まれてきた意味があるというものだ。

「運命で100パーセント決まっているから、その力にお任せして、頑張ってはいけない」
そんな仮説を語り、また信じる人もいるだろうが、なんと生命力に欠ける消極的な人生だろうか。
それなら思考し行動できる人間じゃなくて、石や植物として生まれてきてもよかったはず。

試験の選択肢でも、「例外なく、絶対に」などの極端な表記は、たいがいバツになる。
人生はそんな単純なものではない、絶対に(笑)。
何もかも運命のせいなんて、他人に責任をなすりつける生き方と同じではないか?

立命とは、言いかえれば「因果(原因と結果)の法則」のこと。
善いことを思って善いことをすれば、善いことが起きる。
悪いことを思って悪いことをすれば、悪いことが起きる。

「でも、世の中には善いことをしても、つらいめにあっている人がいる。
 悪いことばかりして、大金を手にするやつもいるじゃないか」

かつて私も、同じような疑問を持ったことがある。
たしかに「一時的には」そうなのだ。
だが、偽装をして儲けようとした会社や、地位を悪用した政治家の末路を見てほしい。

原因から結果までに時間差があったり、両者を関係づけにくい形で表れたりする。
しかしこれこそが、立命に運命が干渉してくる事例ではないだろうか。
逆に、立命の強い意志で運命を変えてしまった人の話を、あなたはいくつも知っているはずだ。

さらに言うなら、運命よりも立命の影響力のほうが、一生のスパンで見るとやや強いような気がする。
経験則として、人を傷つけるような言動ばかりしてきた人は、やはりそれなりのしっぺ返しがきている。
その逆だってきっとそうに違いないと、私は大好きな人たちの顔を思い浮かべながら、そう信じるのだ。

(2008/1/1)

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