<「プチ」のコンセプト>
「プチ紳士を探せ!運動」に参加している。
プチ紳士とは、日頃の生活の中でついつい見逃しそうになる、さり気ない親切をしている人のこと。
できるところから少しずつ、社会をよくしていこうというのが目的だ。
プチ紳士(プチ淑女)に「なろう!」ではなくて、「探せ!」というところがミソ。
探そうと意識して見つけることで、無意識のうちに「いいこと」に焦点を当てる習慣がつく。
無理に「プラス思考」とか「感謝」なんて言わなくても、自然とそのような発想になっていくのがいい。
「プチ(petit)」とは、「小さい」「ささいな」を意味するフランス語。
英語経由で、「プチサイズ」「プチケーキ」など、昭和時代から使われていたそうだ。
平成に入ってからは、「プチ整形」「プチ家出」などの言葉が、若者の間でも使われている。
この「プチ○○」という考え方に、私はけっこう救われた。
本格的に取り組まなくても、ちょっとやってみる、という気安さに。
言葉としてコンセプトが存在するのだから、がんばらずに、楽しくやったらいいのだ。
少なくとも、まったくやらないよりはいい。
私が職業として専門としているのは、英語教育、カウンセリング、武道スポーツの3つである。
このどれもが、非常に深い世界で、最終到達点というものがない。
その1つだけを極めようと、人生をかけて「修行」を続けているような人もいる。
私はあれこれとやっているので、よく言えば「文武両道」、悪く言えば「中途半端」。
どれで勝負しても、「この道一筋」という人にはかなわない。
それがいつしか、ある種の劣等感につながっていた。
ところがある人から、
「あなたは『文武両道』というコンセプトを極めようとしているのだから、つじつまが合っている」
というメールをいただき、プチ癒された(笑)のだった。
そうだよね。
ボクシングはパンチだけのスポーツだが、「キックがない」と嘆く人はいない。
総合格闘技は打撃も寝技もあるが、「中途半端だ」と悩む必要はない。
そうだ、オレは「生き方の総合格闘技」をめざすのだ。
このあたり、私が今まで接してきた外国人たち(英語のネイティブスピーカー)は、うまく割り切っている。
以前テコンドーの道場をやっていたのだが、そこに来ていた外国人たちは、一生懸命練習はする。
しかし休日はサーフィンを楽しんだり、テニスやヨガをやったりして、格闘技というジャンルにぜんぜんこだわりがない。
そこで私も、中年になって少し肩の力を抜いて、「プチ」のコンセプトを楽しむようになった。
英語や武道の達人に「ならねばならない」?
そんな別に、普通に英語が使えて、一対一の闘いなら負けない「プチ達人」で十分じゃないか。
みたいな。
そもそも、社会人として人の役に立つ仕事をして収入を得て、幸せな家族をつくるだけですごいことじゃない?
それ以外の技能や趣味はプラスアルファ、付加価値なんだから、ないならないでも困らない。
「プチ」で楽しむくらいが、大切なものを犠牲にすることもなく、向上心も満たされる。
そう決めたことがリラックスを生み、かえってそれぞれの分野で実力が伸びてしまうんだから、人間っておもしろい。
理想が高すぎると、意外と最初の一歩が踏み出せないんだよね。
解説書を読んだり道具をそろえる前に、気楽にステップインしたほうが、結果的には伸びるわけだ。
先日聞いた、60歳を過ぎて大学院を卒業した女性の話。
彼女は、それまでいろいろな職を転々としてきたのだけれど、どれもモノにならなかったと悩んでいた。
ところが大学院で心理学を学んでいるうち、「いろいろやってきた自分がいる」という気づきを得たという。
それ以来、豊富な体験をもとにセミナーを開くようになり、いずれも大盛況なのだそうだ。
「いろいろやってきた自分がいる」。
これもまた、数々の「プチ」を経てきたからこそ、導き出された結論。
何の変哲もない言葉だが、悟りとはあっけないほどにシンプルなものである。
字面を追っても意味のないことで、その人にとっては雷に打たれるほどシビレる瞬間だったろうな。
(2007/10/3)