<何が才能なのか?>

自分の才能に応じた仕事、生き方をすればいい。
そう言われると、
「私には何の才能もありません」
と返したくなる人はいませんか。

私も以前はそうでした。
才能というと、イチローのような傑出したレベルをイメージしてしまうのです。
しかし、今まで考えもしなかったことが実は才能だった、ということもありそうです。

ヘビースモーカーで大酒飲みでも、健康を害さない人。
騒音やイビキの中でも、平気で眠れる人。
人を待たせていても、まったく焦らない人。
人からどう思われても、何も感じない人。

こういった人たちに共通する特徴は、「ニブい」ということでしょう。
敏感で神経質な人と比べて、肉体的にも精神的にも、いい意味で鈍い。
劣悪な環境の下でも、妙にタフで元気なのです。
こう考えると、「鈍さ」も立派な才能といえそうです。

今までは、どちらかというと「鋭い」ほうが優秀で、才能があると思われてきました。
しかし、そういう繊細な人ほどストレスを感じやすく、ひ弱な面があります。
仕事や人間関係に悩み、最悪な場合は自殺する人さえいます。

どちらがいい、というのではありません。
鋭いのも才能、鈍いのも才能。
何かの意味があって、その「才能」が与えられたはずです。

鈍い人が鋭い人になろうと思っても、なかなか難しい。
鋭い人が鈍い人になろうと思ったら、さらに難しい。
与えられなかった才能を追い求めるよりも、すでに持っている才能を生かすことを考えたほうが得策でしょう。

ところで私は、高校時代から数学が大の苦手でした。
なんとか理解できるようになりたいと、数学の授業を一生懸命に受けて、一時期は塾にも行ったことがあります。
ところが、どれだけ頑張っても、先生の説明は宇宙人が話しているようにしか聞こえないのです。
当時の私の数学に対する劣等感は、かなり大きなものでした。

ところが、今までをふり返ってみると、私の人生で方程式やサイン・コサインとかいうわけのわからないものが必要だったことは、ただの一度もありません。
足し算・引き算・掛け算・割り算さえわかれば、もうそれで十分でした。
それさえも、電卓があれば何も問題はありません。

ということは、逆に考えれば、その人の人生にはそれが必要でないから、能力として与えられなかった。
その能力がないこと自体が、実は才能だった、ということなのかもしれません。
「できない才能」は、あなたにはもっと他にやることがあるんだよ、というメッセージのような気がします。

できないということが、実は、恵まれた才能だった。
私たちがやるべきことは、できない才能を無視して、できないことを身につけようと必死に努力することではなかった。
できないというありがたい才能によって、自分ができることに気づかせていただく。
そして、自分ができることに集中して、人を喜ばせることによって自分も幸せになる。
こういう仕組みになっているのではないでしょうか。

そこで出てくるのが、冒頭に書いたような返事です。
「でも私は何をやっても中途半端で、特にできることなどありません」

だから、その「特にできることがない」というのが才能だというのです。
「何をやっても中途半端」なのが、実は才能だったのです。

「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」(武者小路実篤)といった生き方にこだわる人がいます。
その道が本当に与えられた才能に沿ったものであればいいのですが、あまりに執着が過ぎると、「これじゃないと嫌だ」という我が出てきてうまくいきません。

その点、中途半端な人、つまりこれといったこだわりのない人は、どんな会社に入っても、そこそこうまくやっていけるものです。
自分がプロフェッショナルにならなくても、プロフェッショナルな人を素直にほめる「才能」によって、自分に足りない部分を助けてもらえる。
その結果、プロフェッショナルな人と同等か、それ以上に裕福で幸せな人生を送ることさえできるのです。

私は小さい頃から低血圧の病弱で、無理がきかないという「才能」がありました。
そのおかげで、体や心に負担をかけず、「頑張らない」でそれなりの成果が上げられるようになりました。
私は格闘技の世界に進みたかったのですが、小柄で選手にはなれないという「才能」がありました。
おかげで、本を読み文を書くという楽しさを知ることができました。

(2006/4/29)

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