<楽しい仮説を持つ>

「そんなことをしたら、罰が当たるよ」
「苦しいときの、神頼み」

日常会話の中に、神様?の存在を前提とした言葉があります。
「大自然の力にはかなわない」などと言ったりもします。
人は心のどこかで、人間をはるかに上回る偉大なる力(Something Great)の存在を意識しているのかもしれません。

「人の一生は、生まれる前にすべてシナリオが決められている」という考え方があります。
生まれてから死ぬまで、100%その通りにレールの上を歩くだけなのだそうです。
自力で運命を切り開いていく人生も、こっちと見せかけて実はあっち、とフェイントをかけるような行為も、すべてがシナリオ通りであるというわけです。

これは、「だから、何をやっても無駄さ」という悲観的な運命論ではなく、「だから、過去のことを後悔する必要は一切ないし、未来のことを心配する必要も一切ない」という結論につながります。
そう言われると、なんとなく救われるように感じる人もいるのではないでしょうか。
気楽に生きるためのひとつの「仮説」として、おもしろいと思います。

「この世は修行の場であり、より高いレベルの存在になるために、必要な課題が与えられる」とか、「乗り越えられない試練は、与えられない」という話も聞いたことがあります。
どんなことが起こっても、それは今の自分に必要な体験であり、必ず乗り越えられるようになっているのだから、好き嫌いを言わずに受け入れようというわけです。

この仮説を前提として生きると、つらい出来事に耐えたり、軽く流せる力がついてくるのではないでしょうか。
物事をゲーム感覚でとらえる人なら、「さて、今度はこの苦難をどうやって乗り越えてやろうか?」なとど、さらりと受けとめられるかもしれません。

考えてみると、あらゆる宗教も、信仰するかしないかが問われるだけで、証明できない「仮説」であることに変わりはありません。
どっちみち、死んでみないと(ひょっとすると死んでも)何が本当かわからないのだから、自分にとって足どり軽く生きられる、楽しい仮説を持っていたいものです。

(2003/11)

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