<半分アレンジ>
セミナーや講演会に参加すると、簡単に感激して、講師の言うことすべてを正しいと信じ込む人がいます。
逆に、頑固な態度で受け入れようとせず、講師に対して反発的な質問をする人も。
無防備に同調して講師を教祖化するのも、自分の意見だけに固執するのも、極端で不自然に感じます。
柔軟な思考を持つ大人であれば、話の半分は聴いて、半分はアレンジするくらいでどうでしょうか。
「今までの自分は間違っていた」などと、いきなりテンションを上げるのではなく、明日からの生活を少しだけ変えてみる。
うまくいったことは今後も採用し、うまくいかなかったことはカットしながら、さらに自分流にアレンジしていく。
武道の世界に、「守・破・離(しゅ・は・り)」という言葉があります。
まずは師の動きを模倣し(守)、自分に合わない部分は削り(破)、やがてオリジナルの技として使えるようになる(離)。
いわゆるセミナー・ジプシーや講師の追っかけには、「守」の対象を見つけて依存することをくり返し、自分の意志で行動できない人が多いようです。
スピリチュアル系の講師が、「いつも笑顔でプラスの言葉を使い、すべてに感謝して受け入れましょう」といった話をしたとします。
とてもいい話だしお金もかからないので、聴衆の多くは納得した顔つきでうなずいています。
そう心がけると気分よく過ごせるし、人間関係の摩擦もなくなり、状況も良くなってくるでしょう。
しかしその生き方を職場にもそのまま持ち込んだ場合、うまくいかないことも当然出てきます。
強力なリーダーシップが必要な場面でもニコニコしていては、組織が機能しないケースもあるわけです。
いつもほめられてばかりでは気持ち悪くなり、ピシッと叱ってほしい人もいるのです。
やはりここは半分アレンジして、たとえば日常生活のストレスに対しては講師の言うように気楽に流す。
そして仕事など役割として演じる必要がある場合は、プロとしてそれに徹するなど工夫をしてみる。
ここは現実社会であり、目先のお金やモノも必要で、人間だから感情が乱れることもあって当然なのです。
もっと深いことを書いてみます。
「いつも笑顔でプラスの言葉を使い、すべてに感謝して受け入れる」のは、ある意味悟りを開いた人の状態です。
その域に達した人、または近づいている人は、早死にする傾向があるように思います。
なぜならその人は、もうこれ以上この世界に未熟な人間としていつづける必要はなくなったからです。
「人は何のためにこの世に生まれてきたのか」という問いについて、ひとつの「おとぎ話」を聞いたことがあります。
俗に言う「神」は全知全能の存在であり、何でも思った瞬間にそれが実現する世界にいる。
そうすると、「思い通りにならないという体験」だけは、残念ながらできないわけです。
そこで世界中のさまざまな人間という姿に形を変えて、喜怒哀楽の感情や、肉体的苦痛や快楽を味わいにきた。
その意味で、神から見るとこの世のありとあらゆることに「良い・悪い」はないといいます。
人間から見て「正しい・間違っている」と騒いでいるだけで、神の視点からはただ「いろいろな」体験があるだけだと。
そう考えると、人はせいぜい失敗をくり返して「学ぶ」「気づく」だけで十分で、日々泣き笑いしているのが自然な姿といえます。
カッとなったり、機嫌が悪くなったり、落ち込んだり、傷ついてもまったくオーケー。
それは人間として生きている証拠であって、すべては神が許可して与えた「いろいろな体験」なのだから。
精神レベルを上げていくほど、小さなことでくよくよしなくなる反面、与えられる課題はますます大きくなるようです。
その結果、悟りを開いた人には何も問題が起きなくなるそうですが、この世で問題のない唯一の場所は「墓場」だけです。
生きている限り、目の前の問題を解決したところで、また新しい課題が次々と出てくるのが現実です。
「おとぎ話」によると、いろいろな体験を味わえるように、人間は不完全で弱く創られている。
では、どうすればいいのか。
足りない部分はお互いに補って、助け合えばいいのです。
セミナー講師の語る「理想」を聞いて、現実の自分と比較して自己嫌悪に陥る必要などありません。
たかが数十年の人生を楽しむためにも、その半分くらいを実践できれば上出来ではないでしょうか。
半分聴いて、半分アレンジしましょう。
(2005/11/7)