<運命のコンビネーション>

ある人の講演を聞きに、車3台で山道を走っていたときの話です。
私は先頭を走っていて、そのあとに友人のAさんとBさんが続いていました。
いちばん後のBさんは、途中で道を間違えて、別のルートで行くことになりました。

講演が始まる時間に遅れていたため、少し急いでいました。
後にいたAさんの車が見えなくなったので、しばらく車を停めたあと何キロか引き返してみたのですが、見当たりません。
とりあえず会場に到着したとき、Bさんから「Aさんの車が事故を起こした」と電話が入りました。

慌てて現場に駆けつけると、破損して逆さになったAさんの車がクレーン車に引かれ、パトカーの赤いライトが回っていました。
カーブで曲がりきれなかったということでしたが、幸いなことにAさん自身はまったくの無傷。
警察官も、「まるで奇跡だ」と驚いていました。

この事故が起きるまでには、さまざまな条件が複雑に、かつ微妙に絡み合っています。
まず何よりも、講演会の情報が入って、行こうと決めたこと。
1台で行くはずが、人数が増えて3台になったこと。
仕事の都合で遅くなった人がいて、いつもよりスピードを出していたこと。

事故の連絡が入ったとき、それぞれが「もし自分が○○しなかったら、こんなことにはならなかったのに」と落ち込んでいました。
私が参加しなかったら、私が遅れなかったら、私が道を間違えなかったら、私がスピードを出さなかったら、もっと遠くまで引き返していれば…。
しかし果たして、本当にそうだったのでしょうか?

もし、一見ミスと思われる、それぞれの行動がたった1つでも違っていたら、まるでボタンのかけ違いのように、展開はまったく違うものになったはずです。
予定通りにいかなかったからこそ、この程度の事故ですんだのかもしれません。
実際に起こった以外の結果は、自分で体験できない以上、より良かったのか悪かったのか、誰にもわかりません。

流れが少しでも変わっていたら、Aさんは車ごと崖の下に落ちたかもしれないし、すぐ後ろにいるはずだったBさんの車がさらに追突したり、人を乗せていた私の車が大事故を起こした可能性もある。
すべての交通事故は、わずか1秒の誤差で、生死の運命が決まってしまいます。
奇跡的に助かったAさんは、「何かに守られているようだった」と言っていました。

こう考えると、どんなに小さなことでも、日常すべての出来事に何らかの意味があることになります。
私たちにできるのは、今目の前に起きてくる現象に、ただ淡々と対処していくことだけなのかもしれません。
あとは、運命のコンビネーションを巧みに操る、ある大きな力に「おまかせ」するしかありません。

私が今回の体験で得た教訓は、これです。
(1)考えてもわからないことは、いいほうに解釈するか、考えない。ただ、「ゆだねる」。
(2)物事を「良い・悪い」で簡単に決めつけない。人には裁く力などない。

しかし何よりも、私の大切な友人に怪我がなかったのが幸いでした。

(2004/3/8)

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