<2つの「真実」>

ある70歳の女性の話。
彼女は戦争で親を失い、祖父母の手で育てられた。
家は貧しく、中学卒業と同時に働きに出た。

巣立つ日の朝、祖母が彼女を座らせて、社会で生きる心構えを諭した。
「これからさまざまな辛い経験をするかもしれない。
 でも決して人と比較して、うらやましがってはいけないよ」

すると、それを聞いていた祖父が、
「いや、この若さで、人をうらましがらないですむことはあり得ないな」
と、まるで独り言のようにつぶやいた。

少し間をおいて、祖母が話す。
「あなたより豊かな生活をする人は、たくさんいる。
 でも、人の物を欲しがるような気持ちは起こしてはならないよ」

するとまた祖父が、
「こんな若い子が、人がいい物を持っていたら欲しがるのは当たり前じゃないか」
と、ポツンとささやく。

「何があっても、決して人様に迷惑をかけてはいけないよ」
祖母が3つ目の心得を話した時も、祖父が
「だけど人間というものは、迷惑をかけながら、お互いに支え合って生きていくものだ」

彼女は、二人のはなむけの言葉を心の支えにしながら、生きてきた。
そして、70歳の今、過去をふり返りながら語る。

もしお祖母さんの言葉しか聞いていなかったら、
 “こうあらねば”という思いに縛られて、精神的に行き詰っていたでしょう。
 お祖父さんの言葉だけで生きていたら、怠け者になっていたかもしれない。
 二人が共に人生の真実を伝えてくれたからこそ、ここまでくることができました


(文学博士の鈴木秀子さんが雑誌『到知』に寄せた文章より)

*****

「二者択一のワナ」にはまる人が多い。
たとえば、「やるのか、やらないのか」。
こう言われると、どちらかを選ばなければならないような気持ちになりがちだ。

でもよく考えてみると、今はまだやらなくて、またいつかやるという選択もある。
「A案かB案か」ではなく、「A案とB案のいいとこ取りのC案」や、「まったく違うD〜Z案」を選ぶ自由もあるのだ。
人は、人生は、「白か黒か」で割り切れる単純なものではなく、さまざまな色でカラフルに彩ることもできるし、無色透明だってアリだろう。

宗教評論家、ひろさちやさんが書いた子育ての本に、こんなことが書いてあった。

「競争で負けて(ごほうびの)ケーキがもらえなかった子どもを尻目に見ながら、自分一人でケーキをおいしそうに食べる子どもを、つくってはいけないのです。
 一つのケーキを二人で分けて食べて、そのほうがおいしいと思える子どもになってほしいーわたしたちは、子どもたちにそう教えるべきです」

ここまでは、私は賛成。
でも続きを読んで、「えっ」と思った。

「残念ながら、それは理想論です。
 現実は、日本は競争社会です。
 大人も子どもも、すべての人間が競争に巻き込まれています。
 それが厳しい日本の現実です。
 幼稚園において、学校において、子どもたちは有無を言わさず競争に参加させられています。
 うさぎはかめを労りながら歩けばいいのに、
 『さあ、誰が一番かな、駆けっこしてごらん』と、先生がけしかけるのです」

「先生がけしかけるのです」って…。
この著者は、ちょっと偏った学校を出られたのかなあ。
それとも、「競争はよくないことだ」という前提をお持ちなのかもしれない。

「子どもにやさしい」文章なので、親としてはつい受け入れそうになる。
しかし子どもに対する愛情を、単純に学校教育批判にすりかえられては困る。
私たち大人は、「良いか、悪いか」の二者択一「以外の」視点を忘れぬよう、気をつけたい。

学校で「駆けっこ」は、さまざまな分野における才能の一部分として、認識されているはずだ。
足が遅くても、国語が得意だったり、リーダーとして活躍したり、もの静かで人の話をよく聞く子も認められる。
「それは理想論だ」と言われたらそれまでだが、その理想を求めるのが教育ではないだろうか。

競争社会を批判するのは簡単だが、私たちは日本に生まれ育って、たくさんの恩恵を受けている。
ある意味、競争に勝ったからこそ、今の自分が社会人として存在できていることに気づきたい。
仏教の「中庸」にある通り、極論に走らず、バランスをとることこそ子どもに教えたい。

(2009/5/4)

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