<武道に引退はない>
小さい頃から体も気も弱かった私が、武道らしきものを始めたのは、小学校5年生のことだった。
自宅の前にあった高校の武道館で剣道を教えていたので、なんとなく通いはじめたという程度だ。
中学生のとき、公園で高校生8人を相手にケンカをしたのだが、当然ボコボコにされた。
その頃『空手バカ一代』というマンガを読んで、素手で戦える空手、しかもフルコンタクト(直接打撃制)をやろうと決めた。
もともとブルース・リーに影響されていたので、下地はあったのだろう。
高校に入って、空手同好会をつくって練習していたのだが、あることで柔道部の者を殴って退部。
ついに極真空手の道場に通いはじめた。
その頃の私にとって、館長の大山倍達氏は神様だった。
途中ブランクはあったものの、大学でも続け、社会人になって故郷に戻ってからも、しばらくやっていた。
仕事が忙しくなって極真をやめ、体がなまってきた20代後半からスポーツ感覚でWTFテコンドーを始め、支部道場まで持ったが、事情により退会。
その後偶然の出会いから、ITFテコンドーを始めた。
詳しいいきさつについては、著書『HOW TO 旅』『ナイン・トラックス』を読んでいただければ幸いである。
体を動かすことといえば、今まで一対一で戦う格闘技ばかりやってきたので、チームプレーや球技は得意ではない。
しかも打撃系のためか、どうしても攻撃的というか、相手を突き放してしまいがちになる。
寝技系なら、相手を引くという動作が多く、なんとなく包容力があるように思うのだが。
たとえば、空手と柔道の選手を比べると、なんとなく柔道のほうがドッシリしていて、人間的に丸いイメージがしないだろうか。
空手をやっていると言うと、「寄らば斬る!」的なイメージで見られるようだ。
やはり、日常生活にもある程度は影響してくると思う。
ITFテコンドーの人たちの物腰の柔らかさは、むしろ例外のような気がする。
私もすでに「中年」と呼ばれる年齢になってきた。
スポーツ的に表現すると、そろそろ現役生活にピリオドを打たなければならない。
しかし、武道には「引退」という言葉はないのだ。
50歳を過ぎて武道を始めた方も、全国にはたくさんおられる。
年をとっても進化し続けられる武道の奥深さに、限りない魅力を感じている。
(2000/3/16)
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<真の強さとは何か>
この歳になって、最近よく考える。
真の強さとは何か?
それはどうも、人間的な強さのことで、ケンカに強いとか、試合で優勝するとか、そういったこととは違うような気がする。
たとえば私は離婚して2年半、ふり返るのも恥ずかしくなるくらいボロボロ状態だった。
寂しさ、悔しさ、悲しみ、怒りで落ち込んでばかりの日々で、何をする気にもなれなかった。
まわりに「そう見せなかっただけでも立派だ」と言われたこともあるが、自分としては最低だった。
しかしその一方、病気や交通事故などで子どもさんを亡くしたお母さんが、誰にも想像できないような悲しみの中で、気丈に生活している例も知っている。
彼女は私のように、殴ったり蹴ったりして人を倒したり、素手で自然石を割ったりはできないだろう。
しかし人の一生を考えたときに、果たしてどちらが本当に強いのか?と問われたら、私はその母親に勝つことは絶対にできないと思う。
こう考えると、若い頃にほんの一時的に肉体的な強さを誇ったからといって、一体何の自慢になるのだろう、という気さえしてくる。
特に格闘技は(他のスポーツも同じだろうが)、年をとるとどうしても力が弱り、スタミナが落ちて、やがて技術も衰えてくる。
若い頃にあれほどシャープに動いていたのに、とても同一人物とは思えないという状態になってくる。
これは老化現象と同じく、仕方がないことなのだ。
しかし、いわゆる武道の達人といった人たちには、単に表面的な力とは別の次元で、これはどうしても勝てないな、と思わせるところがあるようだ。
マスコミに登場するようなマユツバな「達人」も多いし、幻想だと言われればそれまでだが、前に書いた女性の強さとも共通する部分があるのかもしれない。
ITFテコンドーのシステムは、私の疑問をうまく解消してくれた。
強さという概念を、単純に1つの基準では計らないのだ。
試合も「組手」「型」「試割り」の3種類に分かれ(他の武道も同じだが、実際には組手重視で、型と試割りは形式的なところが多い)、組手も単なる実戦主義に偏らず、社会生活を営む上でのルールに従うという精神に基づいている。
ただ相手をぶっ倒せばいい、というわけではないのだ(自分の反省も含めて…)。
また、テコンドー精神として「禮儀」「廉恥」「忍耐」「克己」「百折不屈」と、武道家としての精神性を非常に大切にしている。
ITFテコンドーが単なるスポーツではなく、武道テコンドーとして認知されている大きな理由のひとつだろう。
この武道精神の大切さが、私も年をとっていくごとに、さまざまな経験を重ねてようやくわかってきた。
「武道とは、薄紙を1枚1枚貼るようにして、少しずつ自分をつくっていくことだ」と言われる。
肉体を1日や2日のトレーニングで強くすることができないように、精神もまた短期間の修行で完成することは不可能だ。
しかし、武道を自分の一生の中心軸として、日々研鑽していくことによって、肉体だけでなく精神も強い人間になっていくこともまた事実のようだ。
私の当面の目標は、ITFテコンドーの黒帯を取得することもあるのだが、それ以上に、武道の修行を通じて、仮に何かの非常事態に巻き込まれても、できるだけ動揺せずに冷静に考え、行動できるくらい「強く」なることだ。
非日常の世界をどれだけ日常の心理状態でやり過ごせるか、それは今の私にとって、試合に勝つことなどよりずっと重要なことなのだ。
(2000/3/16)
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<道場で声を出すということ>
社会人の道場生とよく話すのだが、仕事でクタクタに疲れているはずなのに、なぜか道場に来て練習すると、体も心もスッキリして、ストレスが解消される。
ジョギングや軽い運動をして、軽く汗を流すのも気持ちがいいのだが、道場はまたひと味違った爽快感が残る。
その理由のひとつとして、道場では「強く息をはく」「大きな声を出す」ということがあるように思う。
考えてみれば私たちは、日常生活において「わっはっはっは!」と口を大きく開けて大笑いしたり、腹の底から大声をあげるということはあまりない。
ほとんどの仕事ではその必要がないし、まわりの人の目も考えて、心の底から声を出したい欲求を無意識のうちに抑えているのかもしれない。
しかし道場では、ミットを叩いたり蹴ったりするのに、黙っていてもしかたがない。
息を鋭く「シュッ!」とはいたり、「ヤー!」と気合を入れる。
練習の間中、お互いに腹の底から声を出し合っている。
考えてみれば、人間は赤ん坊として生まれたその瞬間から、「オギャー!」と体全体を使って大声をあげる。
それが大人になるにつれ、妙な自制心がはたらき、なるべく目立つような声を出さなくなってしまう。
ちょっと騒ぐと、「静かに!」と叱られてしまう。
そう考えると、飲んで騒いで…というのも、精神衛生上はいいのかもしれない。
ただその場合、限度を越えた酒とタバコがいけない。
まわりがすでに騒がしいので、さらに大きな声を出して、必要以上にのどを酷使する。
アルコールを飲まない私などは、夜のネオン街が苦手なので、どうもそういうストレス解消は向いていない。
大きな声を出すメリットは、ほかにも考えられる。
日頃道場で相手からも気合を入れられていると、いつの間にか脅され慣れて?しまって、人間関係のトラブルで少しくらい怒声で迫られても、それほど動揺しなくなるはずだ。
逆にこちらも日頃鍛えたのどでそれ以上の大声を出せば(冷静に対処できるほど人間できてないので)、体内にアドレナリンが出てくるから、あまりビビらずに開き直って臨戦体勢に入ることも可能だろう。
しかし、熱くなっても頭だけは冷めていたい。
リラックスしていないと、体の動きが鈍くなるから。
忙しい、限られた時間の中で、アルコールもニコチンも体に入れず、体を動かしながら声を出す。
運動と呼吸の相乗効果で気分爽快になる「ナチュラル・ハイ」、一度道場に来て体験されることをすすめる。
(2000/4/7)
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<心の受け技>
武道を修行していると、「この技の発想は、日常生活に使えるな」と思うことが多くある。
スポーツを通じてチームプレー、つまり人間関係を学べるように、武道を通じて一種の処世術も身につけられるような気がする。
人生には悩みや苦しみ、悲しみ、悔しさといったネガティブな気持ちに負けそうになる場面がいくつもあるが、これらを克服するためには、自分の心を強くする以外に方法はない。
実際には、何でも他人のせいにして、絶対に自分で責任をとらないことで気持ちを楽にしようとする人が多いようだが、心の奥底で本当は誰が悪いのかわかっているために、その場しのぎはできても、心の傷が癒されることはない。
体を鍛えようとしてトレーニングを始めたり、シェイプアップのためにダイエットをするときに、たった数日間でいきなり成果が出るとは誰も思わないだろう。
やはり、長い時間をかけて少しずつ、強くしなやかな体をつくりあげていくしかない。
しかし、なぜか心の問題になると、みんなせっかちに結論を出そうとする。
ちょっと本を読んだり、人の話を聞いたりしただけで、いきなりすべてに対してプラス思考をしようとしたり、急に楽天的な人生に変えてしまおうとする。
最初はうまくいっても、しばらくするとそのことを忘れて、再び落ち込んだりしていないだろうか。
心を強くしていくのも、体を鍛えていくのと同じ。
毎日コツコツと、少しずつビルドアップしていくのが唯一の方法だ。
日常生活のあらゆる場面を修行または練習ととらえて、次から次に目の前に現れる人や出来事に対して、サバイバル・ゲームの感覚で、自分がどう切り抜けていくかを楽しみながらトレーニングしていく。
決して焦らないこと。
体も心も、一日にして成らず。
「弱いものを強くする」という意味で、体と心が同じだとすれば、武道には相手からの攻撃に対して、どう身をさばくか、そして反撃するかという技があるのだから、自分への精神的な攻撃、つまり外からのストレスに対しても、いかに心をコントロールするかという「心の受け技」もあっていいはずだ。
1.相手に対する構え
テコンドーに限らないが、試合において、相手と向かい合ったとする。
このとき、必ず半身で構える。
体の正面を相手にさらすことはない。
相手からの攻撃可能な面積を、極力少なく見せるためだ。
対人関係においても、いちいちまともに受け止めていては身が持たない、ということが多い。
半身で受け流すのが、武道の理というものだ。
柳に風、馬耳東風でいくべきだろう。
2.受け技と反撃
相手に対して正しく構えても、ただ半身の状態でじっとしていればいいわけではない。
逃れられない、激しい攻撃もあるだろう。
テコンドーでは、まともなダメージを避けるため、あらゆる攻撃に対して受け技がある。
そして受けた瞬間、即攻撃につながるポジションをとる。
武道ではこれらを「型」として整理している。
精神的な攻撃への受け技と反撃技、つまり精神面での「型」を、処世術ならぬ「処生術」として、生活の中に確立してみてはどうだろうか。
3.攻撃されるのが前提
武道では、相手が自分を攻撃してくることが大前提となる。
こちらをなんとかして傷つけ、倒してやろうとあれこれやってくるのが、あたりまえの状態だ。
友好的な行為など期待できない。
それにどう対処するかを、年中練習しているともいえる。
その状態にいったん慣れてしまえば、人から非難中傷されたり、陰口や噂話などに悩むことはなくなるだろう。
「傷つけられた」とふれまわり、まわりの同情を引こうとするような恥ずかしいことはできなくなるはずだ。
4.結果は自分の責任
テコンドーの試合に負けたとき、もしコメントを求められれば、「自分が相手より弱かったから」と言うしかない。
単純明快で、言いわけなどきかない。
すべて自分の責任。
運が悪かった、実はケガをしていた、相手が反則技を出した、ジャッジの判定がおかしいなどと、あとになって主張しても恥ずかしいだけだ。
人間には弱いところがあるので、自分を傷つけないためには、ついつい甘えた手段に逃げてしまいがちだ。
そこを厳しく律するのが、武道といえる。
うまくいかなかったのは、すべて自分がいたらなかったから。
常にこう言いきることができれば、どれだけすがすがしい気持ちになれるだろうか。
とても難しいことだが。
5.相手に期待しない
あたりまえのことだが、テコンドーの試合で、相手に「こう動いてほしい」などと期待したところで、その通りにしてくれるはずがない。
逆に相手にとっては、こちらも同じこと。
常に相手の裏をかこうと、あれこれ画策する。
武道とは、ある意味でそういう世界だ。
こう言うと冷めているようだが、もともと相手に何も期待していないのだから、たとえ裏切られても、みっともなく騒ぎたてることもないだろう。
相手から攻撃されても、それは特別なことではない。
失恋して悲しむのがいやだから、人を好きにならないようにしている、などという消極的な自己防衛手段とは、少し違う。
悟りというと大げさだが、もっと大局的で、静かなあきらめの気持ちに近い。
6.武道家の外見
これは好みの問題だろうが、私自身は、いかにも格闘技をやっている、といった威圧的な身なりや表情にこだわるのは、とても恥ずかしく感じる。
外見をチンピラ風にいじれば、たしかに見かけは恐そうになるし、こわもてのタイプのほうが得をすることもあるようだが、どうしても小心さの裏返しに見えてしまう。
テコンドーの師範たちは、ほとんどが普通のサラリーマン風で、表情も態度もやさしく、言葉づかいもていねいで、下手するとヤサ男と見られる人も多いようだ。
しかし、いったん道衣に着がえると、その動きと技のキレはまったく別人で、その落差に驚かされる。
こういう人のほうが、かえって恐いものだ。
武道の場合、サヤの中の刀は常に磨きあげておくが、それを抜くのは一生に一度あるかないか、という美学がある。
ライオンのオスは、日頃はゴロゴロしていてメスになめられているように見えるが、敵が襲ってきた場合、立ち上がった時点でもう勝負がついている。
「柔よく剛を制す」といって、普通は肩の力を抜いて、柔らかくリラックスしておけばいいのです。ただし、決してなめられっぱなしではいけない。内に秘められた恐さは、ときには静かに相手に悟らせる必要があるだろう。
7.勝負の土俵を選ぶ
誤解を招くおそれがあるが、ある意味で武道の本質を表していると思われるので、私見として書く。
武道家とうものは、確実に勝てるとわかっている勝負しかしないものだ。
最悪でも、勝てないまでも「負けない」試合運びを心がける。
「参加することに意義がある」のはスポーツの世界であり、負けてもいい試合をした、次につながる経験をした、などと言ってもさしつかえないだろう。
しかし武道の世界では、大げさに聞こえるかもしれませんが、果たし合いに負けるということは、即「死」を意味するわけだから、絶対に負けてはならないのだ。
宮本武蔵が生涯にわたって無敗だったのは、彼が本質的な武道家だったからだと思う。
必ず勝てる相手と、絶対的に有利な条件のもとでしか試合をしなかったはずだ。
その意味では、武道家は大胆に見えて細心だ。
十分に戦略を練ったうえでしか、戦いに臨まない。
この発想を仕事や人間関係に応用すると、自分の得意分野はどんどんアピールし、苦手な土俵では勝負を避け、おとなしくしておくということになるだろう。
知ったかぶりや強がりはキッパリやめて、できないことは謙虚に認め、その道のプロに教えを乞う立場に自分を置くことだ。
私は武道修行者として、世を賑わせている異種格闘技戦に対して、最強伝説への興奮をかきたてられるものの、ほとんどその意義は感じない。
テコンドー世界チャンピオンと大相撲の横綱が勝負をしたら、相撲ルールならテコンドーチャンピオンがふっ飛ばされ、テコンドールールなら横綱は全身ボコボコにされるのは明らかだからだ。
同じラケットを使うスポーツだからといって、テニスの選手がバドミントンの試合に出て勝てるはずがないだろう。
負けてはならない状況ならば、己をよく知り、必要以上に大きく見せるのをあきらめ、勝負に出る場面を絞って自分を表現することだ。
(2000/4/16)
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<正しいストレッチング>
ITFテコンドーでは、華麗で力強い蹴り技を身につけるために、「究極の柔軟性」が必要とされる。
そのため、道場での練習時間の半分はストレッチング、またはそれに準ずる運動を行なっている。
全国の道場では黒帯の人はもちろん、色帯クラスでも180°の開脚をした状態で前屈し、床に胸をつけられる人が多い。
体の固い人は苦手意識を持ちやすく、どうしても周りと比べて焦りを感じてしまう。
私がITFテコンドーを始めたのは33歳で、体はかなり固かった(開脚はせいぜい90°)。
それでも毎回ストレッチをやっていると少しずつ筋が伸びるようになり、調子に乗って間違った方法のまま、過激なストレッチを続けていた。
そのため、今までに何回も腰や股関節、足の筋を痛めることがあった。
テコンドーをやっている人たちに聞くと、年齢や経験に限らず、オーバーストレッチ(限界以上に伸ばす)や上段廻し蹴りの練習のやりすぎによるケガの経験を持つ人が意外と多い。
これは海外でも例外ではないようだ。
フランスで30年以上空手を指導している時津賢二氏は、自著「武的発想論」の中で次のように述べている。
「日本ではどうか知らないが、足、股関節障害の問題はテコンドーの場合、ヨーロッパでは空手以上に問題が出ている」
また、禅道会という空手団体の技術書「バーリトゥードKARATE」では、「体が固いのも個性」とした上で、次のような主張をしている。
「2人1組でお互いに押し合うような無理な柔軟運動は行わない」
「一般化している開脚等は重視していない」
「体の柔らかさではなく、体の柔らかい使い方を覚えるのがストレッチ」
このままではテコンドーを長く続けられないと思って、練習中に尾骨を痛めて太もも裏の筋が伸びなくなったのをきっかけに、ここ数カ月ほど強度のストレッチはやっていない。
その代わりに家でテレビなどを見ながら、ごく軽いストレッチを10分程度、ほぼ毎日続けている。
ストレッチング関係の本を読むと、注意点として必ず次のことが書いてある。
「十分に体を暖めてから行うこと」
「決して無理をせずゆっくりと伸ばす」
東京から師範が指導に来られたときに、ITFテコンドーのストレッチングについての考え方を聞いてみたが、やはり同じことをアドバイスされた。
冬などは、少しくらい不格好でも道衣の下にトレーナーなどを着込んで、体を冷やさないように工夫しているそうだ。
「1日10分。こう言っても、実際に続ける人は少ないんです」という言葉が印象的だった。
ストレッチングは本来、スポーツにおける「障害の予防」「関節可動域の拡大」「疲労回復の促進」のために、バランスよく心地よい刺激を与えるものだ。
十分に体を暖めてから、無理をせずにゆっくり伸ばし、毎日気楽にコツコツと続ける。
あまりにも常識化していて、ついつい聞き流してしまう傾向があるが、改めてこの原則を心に留めておきたい。
(2001/9/17)
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<試合の勝敗>
ITFテコンドーの某地方大会に、初めて宮崎の道場生を連れていった。
まだ九州大会が開かれておらず、今まではもう一人の指導員Tと2人で各地の大会に出ていたのだ。
今回私はケガと多忙による準備不足のため出場は見送ったが、Tがトゥル(型)の部で優勝、初参加の道場生たちも5人のうち3人が初戦または2回戦突破という内容で、経験という意味でもまずまずの成果だった。
どんな大会でもそうだが、100%公平な試合形式はあり得ないということも改めて考えさせられた。
まずトーナメント方式。
ある程度の実力があっても、たまたま1回戦で優勝候補と当たると、初戦敗退という結果に終わってしまう。
しかし組み合わせに恵まれた場合、準決勝や決勝まで残ることも十分にあり得る。
途中でアクシデントがあって負傷した場合も、流れはまったく変わってくる。
武道や格闘技では、女子の絶対数が少ない場合がほとんどだ。
そうなると、組手の試合が体重制ではなく無差別級になるのは避けられないし、型の試合でも黒帯と初級者が争うという、アマチュアスポーツの観点からするとアンフェアな図式になってしまう。
どの選手も大会に向けて必死で練習してきたわけだし、お金と時間を使ってはるばる遠方から来ながら、運に恵まれず敗退してしまった者の悔しさは、自分の経験からも痛いほどわかる。
試合の結果というものは、他にもさまざなな要因に左右される。
もし出ていれば優勝まちがいなしという人が、仕事の都合で来られなかったかもしれない。
たまたま体調を崩したり、精神的に落ち込んでいて本来の実力が発揮できないこともある。
ボクシングやムエタイのタイトルマッチでよく聞くホームタウン・ディシジョン(自国びいき)や、審判個人の好みによる判定基準の差など、数え上げればキリがない。
そんな理屈よりも、どんな悪条件のもとでもぶっちぎりで優勝できるくらいの実力をつけるべきだ、という考え方もある。
練習に取り組む意識についてはその通りだが、よほどの才能に恵まれないかぎり、現実にはなかなか難しいところだろう。
また次に頑張ればいいのだという納得のしかたもあるが、中には事情があってもう「次」がない人もいる。
人間が行う以上、完璧な試合システムというものは存在しないのだから、何のために試合に出るのかという自分の考え方をしっかり持っておくべきだと思う。
私個人はもう、試合の結果そのものにはこだわらなくなっている。
それよりも、危険の伴う試合に出ると決意した勇気や、緊迫した会場の雰囲気の中でどれだけ平常心を保てるか、戦いの中で自分を見失わなかったかなど、どちらかというと精神面、いわゆる「自分との戦い」のほうに価値を置くようになった。
年齢的にも、ある一定のルール(制限)に基づいた他人の評価や判定以上に、人生の中で価値観を持てるものが増えてきたこともあるだろう。
勝ったほうが満足度が高く、負けたら悔しいのはあたりまえのことだ。
どれだけ自分の実力を発揮することができたか、これも試合後の充実感に大きく影響する。
たとえ負けたとしても、精一杯自分を出し切ることができたなら、あまり後悔は残らないはずだ。
中途半端な戦いをして結果だけを残しても、他からの評価はともかく、自分では納得がいなかいこともある。
試合をする相手に対する敬意や、敗者への心配りも忘れてはならない。
明らかな実力差があったとしても、試合中に相手に対して失礼な態度をとったり、勝ったからといって目にあまるほど大はしゃぎするのを見ていると、もう少し武道を選んだ意味を考えてほしくなる。
相手を侮辱するような応援についても、同じことがいえるだろう。
今回の試合では閉会式の講評で、名指しではなかったものの、一部の選手や応援者に厳重な注意がなされた。
あえてそういう措置を取った運営側は立派だと思ったし、自分のことと気づいてあとで謝罪している選手を見かけたが、その潔さには感心した。
人間なのだから、失敗はある。
それを反省してお互いに認め合い向上しようとする態度に、武道の世界のすがすがしさを見た思いだった。
本当に勝負というのは時の運、やってみないとわからないものだ。
「勝って驕らず、負けて悔やまず」
今回初めてITFテコンドーの試合を経験した道場生たちが、この経験が人間的に成長できるきっかけのひとつになることを願っている。
(2001/9/17)
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<マイペンライ(気にしない)>
「格闘技通信」という雑誌に、8ヵ月前にムエタイ(タイ式ボクシング)のチャンピオンの座に輝きながら、タイトル初防衛に失敗した武田幸三選手のインタビューが載っていた。
とても興味深い内容だったので、抜粋して紹介する。
相手はタイ人で、今までにタイ人以外で防衛戦を制した者は誰もいないという厳しい戦いだ。
「すっきりしない負け方ですけど、それ以上に差を感じたかな。
経験の差というか。
やっぱり日本人とは戦いに対する価値観が違いますね。
『よっしゃー!』っていうんじゃないですよね。
冷静。
タイトルマッチなのに、すごいフツウなんですよ」
「技術というよりも、『駆け引き』というか『場慣れ』というか。
いつもと違うああいう試合でも平常心でいられるような。
『行っちゃえ!』みたいな感じだとタイ人には通用しないですね。
何十戦とか百戦とかやってるタイ人が相手だと、もうちょっと何か必要だと思いますね。
極端に言っちゃうと、日本は一試合、一試合を大事にしすぎると思うんですよ。
生活の中に試合が組み込まれていないというか」
「タイはそれで(チャンピオンやランカークラスでも10敗も20敗もしている)いいんですよ。
『今日はダメだった。次がんばれ』で。
でも、日本では、それじゃ困られちゃうんですよ(笑)。
日本で負けちゃうと、もう終わり、みたいな感じになっちゃうんですよね。
タイ人はタイトルマッチで負けても『マイペンライ』(気にしない)ですからね。
そういう試合のとらえ方の違いから、気持ちの余裕も生まれてくるんじゃないですか」
「やはりキャリアを積むしかないですけど、キャリアで彼らを上回るのは難しいから、それをどうやって補うか。
それに代わるものを早く発見したいなと。
絶対に差は埋まると思いますよ。
上に行こう、上に行こう、という気持ちがあるうちは大丈夫だと思います」
「タイというものは大きすぎるんですよ。
ブラックホールみたいなもんだから。
どこまででも続いていく道だから、簡単には卒業できないと思いますね。
その中で、自分としては、百戦やっているような人と同じ境地というか、同じような駆け引きを試合でできる選手になりたいですね。
そのレベルに早く行きたい。
そういう人と同じ目線でしゃべれるようになりたい。
超一流の人たちのグループに入りたいです」
*****
極真空手からテコンドーに転向する間に、ムエタイを数年間修業して試合経験もあるカナダ人と、日々スパーリングをくり返していた時期がある。
ほとんどのタイ人と同じく細身の体型なのでいけると思ったのだが、ムチのような蹴りで構えにもスキがなく、予想以上に手を焼いた。
彼に言わせると、子どもの頃からムエタイばかりやっていて、試合にも数えきれないほど出ているタイ人選手たちと比べると、自分など素人同然だとのこと。
単純そうに見えるムエタイの攻防の奥の深さを、体で思い知らされた体験だった。
それにしても、タイ人選手たちの「マイペンライ」には感心する。
ハングリー精神の違いかもしれないが、それなら深刻になりそうなものを、何食わぬ顔でリングに上がる。
よく言えば前向き、悪く言えば何も考えていないようにも見える。
パンチをもらって効いてもニヤリと笑うし、とにかく日本人では絶対にマネのできない「したたかさ」を身につけているようだ。
かつてK−1(ヘビー級キックボクシング)に出ていたチャンプア・ゲッソンリット選手も、ムエタイの必殺技であるヒジ打ちが禁じられたルールと圧倒的な体格差にもかかわらず、「マイペンライ」と特に対戦相手の対策を練る様子もなく、気軽な感じで出場していた。
今回の武田選手(28歳)の相手はまだ21歳、それでも無気味なくらいの落ち着きを身につけていた。
武田選手の言う「生活の中に試合が組み込まれている」状態、日常の中に非日常的な状況が持ち込まれても、普段と何ら変わることなく平然と事に対処できる境地。
一流のムエタイ選手の精神状態は、武道の極意と共通するものがあるような気がする。
(2001/10/2)
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<イチローに学ぶ>
あらゆるスポーツの技術には、その中に共通した「動き」がある。
いずれも、人間の最大限のパワーやスピードを発揮するための合理的な肉体の使い方なのだから、これは当然のことだろう。
そしてジャンルを問わず、一流のスポーツ選手は必ず「リラックス」している。
野球・テニス・ゴルフなどどれをとっても、腰の回転をうまく腕につなげるスイングで、決して力まず体をリラックスさせ、インパクトの瞬間に集中して鋭くボールを打つ。
体重を乗せて、体の「しなり」で打つような感覚で、決して腕の筋肉だけの力ではない。
ボールを蹴るサッカーなどの動作にも、同じことがいえるだろう。
格闘技や武道ををやる者にとっても、この力の伝え方はとてもいい参考になる。
技術的な面から見ても、たとえばNBAバスケットボールの選手たちの巧みなフェイントなど、格闘技の実戦に活かせるものがたくさんあると思う。
だから私は、テコンドー以外の格闘技やスポーツをビデオで研究するのが好きだ。
私のテコンドーの師範は、現在メジャーリーグで活躍中のイチロー選手の動きがいいヒントになると言っていた。
リラックスからインパクトにつなげる合理的なスイング、決して大きくはない体を活かしきった無駄のない動き。
一発ホームランが出なくても、コツコツとヒットを重ねるスタイルでトップグループで通用している。
テコンドーのスタイルでいえば、一撃必殺タイプではなく、確実に当てていくコンビネーションといったところだろうか。
私は、イチロー選手がメジャーリーグで生き残れるとはまったく考えていなかった。
天才的な野球センスに恵まれ、たいへんな努力を重ねているのだろうが、プロレスラーのような肉体を持つアメリカ人選手たちの中にあっては、あの線の細さは致命的だと思ったからだ。
格闘技の世界でも、パワーは圧倒的に有利な条件だし、体重別に試合を行うスポーツがそのことを証明している。
その師範は、その小柄な体からは想像もできないようなパワフルな蹴りを、まったく力まずにミットに叩き込む。
普通の人なら、一発で後方へ吹っ飛ばされてしまうだろう。
コツというか秘訣は教えてもらったのだが、並みの選手ではそのレベルまで到達することは難しいだろう。
ただ、合理的な体の動きを身につければ、単に鍛えた以上のパワーが発揮されることは間違いない。
私自身も肉体的な条件に恵まれていない上、年齢的にも格闘技を続けていくこと(特に試合)が難しくなってきた。
自分なりの武道とのかかわり方を考える時期にきたのだろうが、少なくとも「自分に与えられた条件としては」納得のいくパワーとスピード(の出し方)とテクニックを身につけていきたい。
(2001/10/2)
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<剛から柔へ>
「30を過ぎて、競い合うスポーツなんてバカなことはやめなさい」
新聞の健康欄にあった医者のコメント。
30代後半でテコンドーなどやっているぼくはどうなるんだろう。
「スポーツは体に悪い」という本を読んだことがある。
競技スポーツを長く続けた人の平均寿命が短いことや、試合に勝つための偏ったトレーニングによって体に歪みが出てくることなどが警告してあった。
適度な運動が健康増進に一役買うことはまちがいないが、何事も必要以上にやると、さまざまな弊害が出てくるのは当然のことだ。
特に「競い合う」スポーツになると、記録や結果を求めてどうしても無理をしてしまう。
メンタルな面でも、プレッシャーやストレスは相当なものだ。
理論的には、30歳を過ぎたらあまり激しい運動は避けたほうが賢明だろう。
もちろん高齢者の中にも驚くほど強健なアスリートがいるが、彼らはむしろ例外的な存在なのかもしれない。
ぼく自身は、肉体的な衰えというものを実はまだほとんど自覚したことがないが、確実に老化していることだけはまちがいない。
中年格闘技愛好家として最近心がけていることは、闘うときの「剛から柔」への発想の転換だ。
それでも最低限の基礎体力がないと、理論上の技など圧倒的なパワーに吹っ飛ばされてしまうのだが。
年配の剣道の高段者のように、あまり動かずに若者を翻弄するような達人になりたいなあ。
参考までに、テコンドー以外で個人的に参考にしている武道や健康法の一部を紹介する。
同じものを実践されている方は、ぜひメールでコメントやアドバイスを。
太氣拳(立禅・這・練)
自成道(時津賢二)
骨法
火の呼吸(ヒクソン・グレイシー実践)
真向法
肥田式強健術
(2002/2/5)
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<道場は「命の空間」>
「道場ってのは俺の命の空間だから、ここじゃ負けられないんだ」
元極真会、現真樹道場の真樹日佐夫氏の言葉。
30代で実戦空手を始めた男性から、「体力も落ちてきて、大会で優勝するような強さを求めるのも無理となると、さらなる強さを求めるモチベーションが持てない」と相談された解答だ。
たしかに中年武道家にとって、少年のように「強くなりたい」というモチベーションでは持続しにくい。
護身術などといっても、人生の中で他人と長時間格闘する場面など、まずあるものではない。
今さらいくら練習したところで限界は見えているし、少しくらい強くなったとしても、刃物や複数の相手にはかなわない。
しかし61歳の真樹氏は、「負けない空手っていう円熟の境地ってのは年齢に比例する」として、「大会ってのはトーナメントを勝ち上がる空手を競うところで、本当の空手じゃねぇんだから出たってしょうがねぇよな」と切り捨てる。
「本来の空手は十秒で十分勝てる。だけど十秒で勝てる技ってのは大会で禁じられてる技だから、長丁場になっちまう。それをやれるのは道場しかないんだから、そういう稽古をすればいいんだ」
「じゃ、負けない空手ってのはどうすればいいのか。道場の中では後輩に胸を貸す空手だよ。それで後輩が、まだ先輩に勝てないって不安感を大会に向けての練習の中で克服して、大会でいい成績をおさめる、そういう壁として立ちはだかることだって価値がある。これはある意味、自分が大会に出るよりもずっと価値のある空手かもしれないぞ」
…なるほど、こういう考え方もあったか。
「大会の試合だったら、倒れなくてもボンボン蹴られてポイント取られて負けちまうかもしれないけど、少なくとも道場じゃ負けない。はっきり言えば、ストリートでは負けねえよ。俺は今61で、71になったら単なる指導者としてやっていかざるを得ないかもしれないけれども、そこに抵抗しているんだよ。何でもありだったら負けねえぞ、とそう思うために稽古してるんだよ」
…うん、これはまったく同じ意見。
型だろうが組手だろうが、制限されたルールの中で他人に判定してもらう試合は「スポーツ大会」の範疇といえる。
それはそれで価値のあることだし、若いうちは夢中になれることだろうが、ぼくの年齢ではその価値観はすでに終わっている。
今後ぼくが求めていくべきものは、あくまでも個人的な「武道」の側面だと思う。
最近までぼくは「武道の達人とやらはなぜK-1やPRIDEに出ないのか?」と思っていたが、その疑問がやっと解けた。
武道とスポーツは、まったく別物なのだ。
(2002/2/17)