<サイボーグ魂> 2003/1/2
年明け早々、感動的なテレビ番組を3つも見た。
といっても私はテレビをほとんど見ないので、京都に住む律儀な空手の後輩から送られてくる格闘技関係の録画ビデオを、月に1回効率よく見せてもらっている。
1つ目は、ボクサー辰吉丈一郎の復帰戦直前の特集番組。
すでに32歳、網膜剥離を乗り越え、3年数カ月ものブランクをかかえての挑戦だ。
私が辰吉の引退について地元の新聞に書いたのが1996年のことだから、「まだやるの!?」というのが正直な感想だった。
ところが、なんと辰吉はTKO(レフリーストップ)で勝ってしまったのだ。
年末に竹山洋(NHK大河ドラマ「利家とまつ」原作者)が、次のように語っていた。
「売れない時代にも決してあきらめずに書き続けていたら、夢に万年筆が出てきて、それで書くように言われた。翌日たまたまある店に入ったら、まさにその万年筆が売っていて、無理して買って使った結果、大ヒット作になった」
私はこの話を信じるので、辰吉の強いこだわりも同じ効果を生んだと思っている。
2つ目は「サイボーグ魂」。
漫才師の松本人志(39歳)がボクシングジムに入門、科学的プログラムに基づいて真剣に練習し、その上達の過程をドキュメンタリーで追うというもの。
必死にボクシングに取り組む松本人志を、すっかり見直してしまった。
この番組の特徴は、ひ弱な中年男がトレーニングによってどれくらい肉体改造ができるのか、心拍数や走行タイム、センサーによる筋肉の使い方などのデータで数値化して見せてくれることだ。
また、ロードワークのコツやパンチの打ち方など、細かいトレーニング方法も教えてくれるので、とても参考になった。
今年は私もブルース・リ−をモデルに肉体を鍛え上げる計画だが、これをサイボーグ魂プロジェクトと名づけよう(笑)。
3つ目はNHKの「ようこそ先輩」の再放送で、私の大学の先輩でもある角田信朗さんが先生。
角田さんの小学生に対する指導には、教師として大きな学びと気づきを与えてもらった。
子どもたちが板割りをできるようになるまで、空手を「心・技・体」に分け、それらを身につけるための演習が用意されているのだ(集中力を鍛えるために1センチの折り紙で鶴を折るなど)。
2日目にはクラスの生徒全員が全校生徒と保護者の前で演武をするのだが、できないと思い込んでいた子が割れた板を見て涙を流したり、気弱で泣き虫だった子が目に見えて変化したりと、感動がたくさんあった。
気が小さくていじめられっ子だった角田さんも、子ども時代を思い出して涙ぐんでいた(いい人なのだ)。
私も教える職業に就いているが、子ども時代は角田さんと同じだったから、強い者をさらに強くする教育より、弱い者を強くしてあげることに大きなやりがいを感じる。
私にも空手やテコンドーなどの武道があるのだ、人生の障害を突破して夢をつかむ教育に最適ではないか。
よし、板割りのセミナーを今年の文武企画のイベントに入れよう。
*****
<私が心がけていること> 2003/1/13
ある小さな会社の社長が、孤児院の子どもたち100人を、クリスマスに東京ディズニーランドに連れていこうという企画を立てた。
クリスマスまで、あとわずか2週間という日のことだ。
まだ会社を作ったばかりで資金もなく、アシスタントは「本当にやるんですか?どうやって?」と尋ねた。
社長は、「とにかく、やるんだ」と言った。
決断から、すべてが始まった。
その結果は大成功。
日頃ディズニーランドに行く機会のない子どもたちは、みんな大喜びだった。
資金ゼロで始めたこの企画、最終的にかかったお金が、なんとマイナス20万円。
あなたの見間違いでも、私のタイプミスでもない。
20万円余ったので、社長はその金額すべてを孤児院に寄付したのだ。
「どうしてこんな奇跡のようなことが起こったと思いますか?」
私はその社長からそう質問されたとき、なかなか答を思いつかなかった。
「簡単です。他人の力を借りればいい。一瞬ですばらしい世界ができ上がりますよ」
実は社長とアシスタントは、友人や中小企業の社長さんたちに、次のように書き送ったのだ。
「孤児院の子どもたちに愛と夢を送る、サンタチームを結成しませんか?
東京ディズニーランドの入場料を、あなたの分と子ども一人分を払ってくれる方を探しています。
両親から愛されなかった子どもたちと一日いっしょに遊んで、一生の思い出をプレゼントしてあげてほしいのです。
そして、大人になったら毎日こんなに楽しいんだよ、君の将来には希望がたくさんあるんだよと、教えてあげてください」
このチャリティーイベントに賛同して、ボランティアで一日サンタをやってもいいという大人たちが、たくさん集まってくれた。
当日は仕事でどうしても行けないので、少しですが寄付させてください、という企業や個人のスポンサーまで現れた。
そしてすべてが終わったとき、子どもたちへの20万円の奨学金までが手元に残ったのだ。
この話を聞いて、私は感動した。
人のために何かをしようと思ったら、必要なのはお金ではなくて、決断とリーダーシップだったのだ。
このすばらしい企画を成功させて、現在でも毎年クリスマスに子どもたちをディズニーランドに連れて行くのが、昨年私が参加したセミナーの講師、ジェームス・スキナー氏だ。
言うまでもないが、私は立派な人間ではないし、今までたくさんの失敗をくり返してきた。
その度に気持ちが不安定となり、誤解もたくさん受けて、周りの人たちをずいぶん傷つけてきたと思う。
「文武両道」の過去ログを読み返しても、見かけや言葉とは違って、心がボロボロだったことを思い出す。
そのことを認めた上で、以下の文章を書いていく。
私が今心がけていることは、「成長と貢献」ということだ。
人のことをあれこれ言う前に、自分自身の人間的な成長に集中する。
人からもらおうとするのではなく、自分から与える。
実はこれが、人生で幸せになる秘訣だとスキナー氏から教えてもらった。
心理学的に、人間のニーズは次元の高い低いによって、次のような段階に分かれる。
上に行くほど高次元のニーズとなり、下へ行くほど低次元のニーズとなる。
愛 (高次元のニーズ)
貢献 ↑
成長
変化
自己重要感
安定 ↓
生存 (低次元のニーズ)
ほとんどの人は、無意識のうちに低次元のニーズ(生存・安定・自己重要感)に集中している。
もちろん、低次元のニーズは誰にでもあるものだ。
しかし「どこに集中するか」によって、本当に幸せになれるかどうかが決まる。
生存は命を守るために食うという最も原始的なニーズだが、次に来る安定に集中すると、2つの悲しい結果しか残らない。
1つは、安定がまだ手に入らない現実に、いつもストレスを感じること。
もう1つは意外かもしれないが、安定が手に入ってしまうと、毎日同じことのくり返しで退屈でたまらなくなること。
自己重要感もまだ低次元なニーズで、人からよく思われたい、すごいとほめられたいという欲求だ。
このニーズに集中すると、自分を実際以上に見せようと必死になるので、人々が離れていく。
そうすると寂しくなって、さらに自分を飾ろうとするが、結果として人はますます離れていくのだ。
以前の私も、「英語が話せるから」「空手が強いから」「本を出しているから」「テレビに出ているから」…などと、「〜という条件があるから」愛されるのだと勘違いしていて、必要以上にカッコをつけていたと思う。
逆に、それらの条件を失ったら愛されないのだと、現実の小さく弱い自分とのギャップを必死で隠そうとしていたような気がする。
だから、人がそんな表面的な部分だけを見て近づいてくると思い込んで、条件なしの私を愛そうとしてくれた人まで遠ざけてしまった。
低次元のニーズに集中したら、決して幸せにはなれない。
人に与えてばかりだと損をするように思えるが、高次元の「成長と貢献」に集中することが、実は人生の幸せへのいちばんの近道だったのだ。
「成長と貢献」に集中していると、自分で意識しなくても、勝手に「変化・自己重要感・安定・生存」まで全部満たされてしまうからだ。
ひとつの例が、頼まれもしないのに、私が最初にスキナー氏のボランティア活動について、こうしてホームページを通して全国のみなさんに宣伝していること。
自分がそれを求めなくても、自分自身が成長して他人に貢献していると、人々が自然と賞賛してくれるから、自己重要感が満たされてしまうのだ。
自分のことばかり考えないで、仕事でお客さまにいい商品やサービスを提供しようと頑張っていると、当然その質は高まり、よく売れ、安定のニーズも満たされる。
成長するにつれて、人々が何かと頼りにしてくれるので、変化のニーズまで満たされてしまう。
金や権力に卑しくなるよりも、一生懸命やっているうちに、ふと気づくとお金と名誉がついてきていた、という生き方のほうがいいだろう?
新しい年を迎えて、私が「成長と貢献」を心がけるようになったのは、そういう理由による。
人に与えることで、実は自分が与えられているということに気づくと、なんとも幸せな気分になれる。
みなさんも、ぜひ今年からは「成長と貢献」に集中してみてはいかがだろうか。
<知的所有権> 2003/1/19
大学時代、遠藤という先輩と珈琲を飲みながら、よく徹夜で青臭い議論をしていた。
その話題のひとつに、「自分の考えだと信じているものは、実は他の人や本から与えてもらったものではないか?」というものがあった。
誰からも何からも影響されていない、純粋にオリジナルな発想などありえるのかと。
なぜこのことを思い出したかというと、最近あるオンライン掲示板に、私が以前このホームページに書いた「誕生日とは、自分を祝う日というよりも、自分を産んでくれた両親に感謝する日だ」という言葉が出ていたからである。
掲示板上で誕生日にその言葉を贈られた女性は、感激していた。
私はそれを見て、とてもハッピーな気分になった。
最近、知的所有権が話題になることが多く、盗作や贋作などの問題も起きている。
しかし極端な場合を除いて、同じ人生の旅人として、共有すべき知恵にあまりにも独占的になるのはどうか。
知的所有権を神経質に主張する人たちは、自分の書いた文章やコンテンツが、持って生まれたオリジナルなアイディアだと信じているのだろうか。
そういう人は、たとえば上に書いた「誕生日とは〜」のようなことがあったら、「それは私の定義だ!」などと主張するのだろうか。
自分自身、いつどこでその考え方に出会ったのかさえ、よく覚えていないのに。
いちばん大切なことは、その言葉で誰かが喜び、幸せになることだと思う。
そう書いている私自身、かつて職場でこんな経験をした。
あるプロジェクトで、私は自分の企画書を提出した。
その提案はある上司の段階でボツになり、日の目を見ないと思われた。
ところがしばらくすると、その上司の提案ということで、会議で同じ企画にゴーサインが出されたのだ。
ミスは部下に押しつけ、手柄は自分のものにするという上司の悪口をよく聞くが、まさにそのパターンだった。
まだ若かったので、知らん顔をしているその上司に腹が立った。
私は他人の非難、陰口、噂話は絶対にしないと決めているので(そのときの自分の醜さと不快感を知っているから)、誰にもそのことは言わなかった。
しかし後日、たまたま私の職場のトップと似たような話になって、考え方が変わった。
「自分に問うべきなのは、いったい何が本当の望みだったのかということです。
つまり、その企画で自分がほめられることが目的だったのか、それともその企画の実現によって、みんなが幸せになることなのか」
この言葉は、当時の私には大きな衝撃だった。
手柄を横取りされて怒るのは、人のためとか言いながら、実は自分のことしか考えていなかったからなのだ。
プロのビジネスマンとして、そして人間として大切な心がけが、この言葉の中に凝縮されているのが、今ならよくわかる。
最近、私の著書をBOOK OFFで見かけることが多くなった。
すごくうれしい。
私の本を買ってくれただけではなく、さらに他の人が安く買って私の文章を読んでくれる機会までつくってくれたのだから、感謝せずにはいられない。
自分の著書がBOOK OFFに出ていると不愉快になる作家がいるが、私とは考えの違う人だ。
私がよく使っている、会社の社長や経営者向けの本やテープを紹介しているホームページに、「良書との出会い」というコーナーがある。
ここでは、執筆担当者が推薦する本の内容が、かなり細かいところまで抜き書きされ、その本を買わなくてもいいくらいうまく要約してある。
それでも何も問題は起きておらず、実際に私はこのホームページから、かなり多くの本を買った。
紹介された本の著者たちの、見識の高さがうかがわれる。
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<専門書100册読破> 2003/2/1
最近、私が出入りしている掲示板に、ある人から刺激的な書込みがあった。
「専門領域のブラッシュアップ」というタイトルで、約2ヶ月で会計の専門書を100册読破し、著書を出版したという実践報告だ。
「ダラダラやるのは性に合わない」彼は、夜の12時に仕事かから帰宅し、そのまま午前3時まで読書、朝も6時から読書を続けたそうだ。
平日は睡眠時間が3時間になるので、週末は家族サービスは日曜の午後だけにしてもらい、睡眠を取るようにした。
去年の2月に目標を立て、他の趣味は一切カットして専門書に集中、3月末までには100册読み終えたという。
もちろん、これは今私たちのコミュニティーで話題になっている「フォトリーディング」という右脳速読術(私は現在練習中)を使ってのことだろうが、それにしても基準の高い決断と実行だ。
目標を達成したあとの、彼の感想がいい(要約)。
「強調したいのは、目標を設定すれば実現するとか、マスト思考(絶対にやるんだという決断のエネルギー)になればできるといった以上のことです。
私が100册を読破したときに感じた最大のことは、自分の専門領域をブラッシュアップすることの重要性でした。
本を読むたびにマインドマップ(ポイントを放射状に図式化したもの)にまとめていたのですが、100枚のマインドマップは圧巻でした。
経営管理に関しては、何を聞かれても恐くない、と思えるくらいに自信がつきました。
と同時に、なぜもっと早くこのようなことをしなかったのだろうと、後悔しました。
その気になれば、自分の専門領域の本を100册読むことくらい、たやすいことですが、その効果は図り知れません。
しかし、ほとんどの人はできていないのです」
これを呼んだ私は、当然ながら、この2月から同じことを実践しはじめた。
専門分野である英語学習・英語教育の本を、春までに50册、夏までに100册読破することに決めた。
英語学習、英語教育、武道、成功哲学、ビジネス、経営その他の広い分野に渡って、常に10册くらい平行して読んでいるが、とりあえず春に50册を突破するまでは、英語関係に集中することにした。
ジェームス・スキナー氏から、昨年次のように言われた。
「1日に1時間、自分の専門分野における読書をしなさい。
週1册読んでも、月4册、年間50册。
3年やったら150册、これで日本におけるその分野の権威になれる。
10年やったら、世界的な権威になっているはず。
権威になっていなければ、それは実は本気でやっていなかったということ。
実行を始めれば、すぐに大きな差がつく」
「人生を変えるために本を読むのであれば、2〜3册で十分。
ただし、内容をきちんと把握して、生活の中で実践を続ければの話。
本を冊数だけで読みすぎて、書いてある中身を覚えていない人は、本を読まない人よりも時間を損している。
字面を追って冊数を増やすよりも、1册を徹底的に活用しなさい」
「本は値段が安いが、読むのに時間がかかるので、1・2章を読んでつまらなかったら、読むのをやめる。
目的意識をしっかり持って、何をその本から読み取るのか?に集中しなさい。
自分の行動の結果を変えるために、今すぐ変化を起こすために読むのだ、という強い意志を持って、ポイントのみに焦点を合わせて読み、全体像を図式化すること」
私は英語教師として仕事をしているが、教科にかかわらず同業者を見渡しても、常に本を読んで専門領域のブラッシュアップをしている人は、驚くほど少ない。
確認したことはないが、ひょっとすると年に数冊しか本を読まない「先生」もいるのではないか?
これからは本物だけが生き残る時代、勉強していない大人は淘汰されていくことは間違いない。
両親も親戚もよく本を読んでいたので、幼少の頃から本に囲まれ、家には大きな本棚が並んでいるのが普通だと思って育ってきた。
大人になった今でも、インターネットも含めてたくさんの基準の高い人たちとつき合わせてもらっているので、自分がまだまだだということを徹底的に自覚させられている。
プロとして、私も専門書100册読破に挑戦する、いや、必ず目標を達成してみせる。
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<将来のビジョン> 2003/2/2
久しぶりに開いた自分のエッセイ集「HOW TO 旅」の中に、次のような文章を見つけた。
「髪を伸ばしていた二十歳の頃は、大学ノートにいろいろなことを書きなぐった。
一人の夜は、古いアパートの部屋で将来の夢を思い描いたものだった。
ノートの横には、珈琲と音楽を欠かしたことがなかった。
部屋の照明と音楽のボリュームをぐっと落として、熱い珈琲をすすりながら、静かに集中して人生計画を練っていた。
『心に強く願うことは、潜在意識に組み込まれ、いつか必ず実現する!』という、マ−フィーの成功哲学を信じていた」
あれから20年近くの時が流れたが、そのときノートに書いた目標は、次の通りだった。
(1)高校の英語教師になる。
(2)30歳までに結婚する。
(3)空手の道場を開く。
(4)高級マンションに住む。
(5)テレビに出る。
(6)本を出版する。
(7)ビジネスの世界で成功する。
驚いたことに、後日談のある(2)はともかく、すべて現実のものとなっている。
大人といわれる人たちは、人生で成功する原理原則について語ると、それが簡単であるほど「そんなバカな」という反応を示す。
「なるほど」と納得したように見える人も、その夜に帰宅して実際にやってみる人はほとんどいない。
目標を紙に書いたことのある人は、全社会の3%、その紙を常に持ち歩いている人は、わずか1%だという。
人と同じことをしていたら、人と同じ結果しか出せない。
人と違うことをしていたら、人と違う結果が出る。
実にシンプルな仕組みだが、99%の人は決断して行動することがないわけだ。
そんな必要はない、と信じている人は、わざわざこのホームページを読むこともないだろう。
私は、現在の自分には興味はない。
興味があるのは、将来の自分だけだ。
数十年後に今の自分をふり返って、「あのときおまえが決断して、行動を始めたおかげだ」と感謝したい。
昔書いた文章を読みながら、そんなことを考えた。
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<しばらく消えます> 2003/2/22
今年の正月に、一年間の目標設定をした。
手順は次の通り。
(1)2002年にあった素晴らしい出来事、出会い、達成のリストアップ。
(2)自分の人生の目標を書き出し、カテゴリー別に分ける。
(3)それぞれのカテゴリーの目標を、具体的に書き出す。
(4)各目標について、中間目標を書き出す。
(5)それらを達成するための、日々の行動と習慣を書き出す。
実現したいことの中に、私は「今年中に著書を出す」と書いた。
日頃エラそうに語っている以上、自ら証明してみせないと説得力がないなあ。
そう思っていた矢先、某大手出版社からTOEICの本と、別の有名な出版社から英文法の本を出すことが決まった。
これらは私の実力などではなく、「運」であることは間違いない。
英語や執筆の実力だけであれば、田舎に住む私などより優れた方はゴマンと存在する。
私ごときを発掘して、本の著者にしてくだる方と出会った幸運に感謝するだけだ。
私がやったことといえば、目標を紙に書いたことくらいだから。
私は去年から、「マイナスの言葉は使わない」と決めて実行している。
「ハッピー」や「ラッキー」など、ポジティブな言葉だけを意識して使っている。
人と会って「最近どう?」と聞かれたら、コンディションに関係なく「絶好調!」とか。
とりあえず言葉だけはプラスにするというルールを守っていると、困ったことは起こらなくなるようだ。
いつも感謝していると、感謝したいようなことばかりが起きてくるように。
要は、どこに焦点を合わせるかだと思う。
同じことが起きても、解釈のしかたによって、ある人は絶望して自殺し、ある人は飛躍のチャンスだと奮起する。
出来事自体に意味はなく、自分の解釈で意味が与えられる。
心を思うままに操るのは難しいから、そのときの気持ちがどうであれ、言葉で感情をコントロールすることだ。
そのような流れで、私の場合、今回の出版も「運が良かったから」だと思っている。
ところが、本人の器が小さいため、その運についていけないことが出てくる。
本の執筆についても、質的にも量的にも、私の実力を上回っている。
しかし、それをフォローしてくれるような人や物資がちゃんと現れてくれるところが、私のラッキーなところなのだ。
そういうわけで、ニューズレターや著書、共著の執筆活動に集中するため、今後はこのホームページの更新が滞るかもしれない。
もともと更新スピードが遅いので、あまり変わらないと思う人もいるだろうが、本人はいたって真剣にスケジュールの調整をしているのだ(なんせ趣味が多いもんで)。
しばらく消えますが、いつも絶好調です。
みなさんも、プラスの言葉を活用してがんばってください。
ではまた!
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<起業家精神> 2003/3/14
社会に出てメシを食っていく手段として、大雑把に分けて次の2つが考えられる。
サラリーマンでいくのか、起業家としての道を選ぶか。
私は勇気を持って独立した人を尊敬するが、だからといって会社に勤めている人を組織の歯車などとは思わない。
事業をやっている知人の中には、どちらかというとサラリーマンを見下すような言動をする人がいるが、それはちょっと偏った見方だろう。
それを前提に、まだまだ大多数を占めているサラリーマンの生き方について、日頃考えていることを述べる。
私自身の感覚としては、実はサラリーマンと起業家の厳密な区別はしていない。
どのような場で働いていても、誰もが自分という商品を売るビジネスマンであることに変わりはないからだ。
たまたま会社に所属していても、それは個人事業の仕事のひとつだともとらえられる。
ただし、これからのサラリーマンは、独立している人たちの「起業家精神」を見習う必要があると思う。
この時代において、会社にぶら下がっているような生き方をしている場合ではない。
いつ会社を離れてもメシを食っていけるだけの実力を養っておくことは、21世紀型サラリーマンのたしなみだと思う。
これは何も、組織人としての働きをおろそかにして副業に励め、と言っているのではない。
サラリーマンとして給料分以上の仕事をこなし、なおかつ経営者の視点を持つということだ。
社員一人一人が起業家精神を持つと、逆に会社にとっては大きなメリットになるのだ。
今サラリーマンをやっている人は、もし自分が経営者だとして、社員の次のような言葉を聞いてどう思うだろうか。
「結果は出せなかったが、一生懸命やったんだ」
「勤務時間を減らして、給料を上げろ」
「上が変わらない限り、この会社はよくならないよ」
経営者の立場からは、きっと次のように言いたくなるだろう。
「屁理屈は結果を出してから言え」
「まず自分が変わる努力をしろ」
私は仕事柄アメリカ人とのつき合いが多く、海外出張などの経験を通じて、実力主義の雇用形態にはあまり違和感を持たなくなった。
そもそも、日本が誇ってきた年功序列の給与体系と終身雇用制度は、戦前にはほとんど存在しなかった。
いずれも戦後の高度成長期の名残りであり、現在では大企業においてさえ崩壊しつつある。
しかしそれでも、「古きよき時代」にしがみついているサラリーマンが多いのには驚かされる。
「毎月与えられている給料以上の価値を、自分は会社のために生み出しているだろうか?」という問いに、自信を持ってイエスと答えられる人は、いったい何パーセントいるだろうか。
あるアメリカ人起業家は、「能力主義さえも、もう古い。いくら能力があっても、結果を出さないと意味はないのだから。これからは結果主義だ」と言っていた。
今までの日本の企業は、雇う側も雇われる側も、結果よりも手段を重視してきたように思う。
管理職が勤務状況を監視するような机の配置、効率よく仕事を終わらせて帰る者よりも、だらだらと残業しているほうが高く評価されかねない状況。
かつてアメリカ人の同僚が「日本の会社では、おれも仕事でキツイ思いをしてるんだから、おまえももっと苦しむべきだ、ということばかり気にしてる」とこぼしていた。
いきなり話が変わるが、同じ日本企業でも、プロの格闘技の世界になると事情はまったく異なる。
日頃どんな生活をしていようが、リング上で結果を出せばいいのだ。
つまり、お客さんにアピールする試合をして(必ずしも強さだけが条件とは限らない)、イベントの観客動員数に貢献できれば、トレーニングの時間や態度まで監視される必要はない。
彼らに言わせれば、「結果さえ出せば、いつどこでどんなふうにやろうと、関係ないではないか」ということになるだろう。
「楽して稼ごうなんてさせないぞ」とばかりに、手段の革新よりも遵守を押しつけるような職場の雰囲気をつくって、結果を出す社員を育てられるだろうか。
手段ばかりを監視し合う体質は、ビジネスで最も大切な経営者と従業員の信頼関係が築かれていない証拠かもしれない。
これは最近のブラジル柔術界での話だが、一度仲間のもとを去って、他流派の道場に移った選手がいた。
彼はそこでもうまくいかず、また元の道場に戻りたいと申し出たところ、「勝手なことを言うな」という声が聞かれる中、師匠は快く受け入れた。
「彼は我々を一度は裏切ったかもしれないが、外に出て現実を知り、またこちらへ戻ってきた。これからは文句も言わず、必死で練習することだろう」
合理主義の外国人ならではの、結果を重視した判断の一例だと思う。
もちろんその師範は、続けてこうも言ったのだが。
「ただし、二度目はないよ。いくら私でも、次は許さない」
副業禁止という会社が多いのも、高度成長期の名残りだろう。
結果主義という前提であれば、社員がさまざまなビジネスに取り組むことによって、「起業家精神=経営者の視点」を得て、本業にフィードバックすることに期待できるのだから。
本業に支障をきたすのでは、という発想自体が、手段ばかりを気にして結果をおろそかにしていると思う。
「生き残れるのは、最も強いものでもなく、最も賢いものでもなく、変化できるものである」(ダーウィン)
サラリーマンよ、起業家精神を持とう。
会社にぶら下がり、見せかけの手段の評価ばかり気にしていないで、結果に集中しよう。
リストラに怯えるより、アウトスタンディングな(群を抜いた)プロの仕事をして、会社にとって必要不可欠な人材をめざそう。
これからは、本物だけが生き残れる時代だ。
いつまでも目先の安定ばかりを求めて、群れている場合ではない。
*****
<理想を追うな?> 2003/3/15
養老孟司氏(北里大学教授・東京大学名誉教授)の話を聞いてきた。
テーマは「脳とヒトの科学」。
養老氏には、武術研究家の甲野善紀氏(桑田真澄投手を復活させた人物)との対談本「自分の頭と身体で考える」を読んで興味を持っていた。
今回は若い人向けの講演で、くり返されたのは「情報(言葉)は変わらないが、人間は変わる」ということだった。
以下は、印象に残った話。
(1)人間の分子は、3日で総入れ替えされる。
過去の自分はもういない、いないものを求めてもこだわってもしょうがない。
将来の自分も、今の自分とはまったく別人である。
「私」というのは、今ここにいる自分以外にはありえない。
(2)仮にガンを告知されたら、今まで何気なく見ていた春の桜が違って見える。
同じ桜なのに。
これは、自分が変わっただけ。
「学校が、会社が、社会が退屈だと言う人がいるが、実は自分が退屈なんだよ」
耳が痛い人が多いのではないか?
(3)ホスピスでいちばんいい死に方をする人は?
「今を一生懸命楽しんで、元気に生きている人」
なぜなら、死んでいる自分と今生きている自分とは違う人間だとわかっているから。
まだこない老後や、老人ボケのことを心配している人にも、同じことを言いたい。
(4)理想を追うのは怖いことだ。
美容整形をして顔が変わると、性格まで変わってしまう。
性格が変わると、理想まで変わってしまうから、キリがない。
そうなりたいと思う自分と、そうなった自分とは別人なので、理想は固定できない。
私が特に興味深かったのは、「理想を追うのは怖いこと」という話だ。
しかしこれを聞いて、「じゃあ、目標を設定して頑張っても意味はないじゃないか」と言う人は、発想が短絡的すぎる。
それは、「どうせ死ぬんだから、生きてもしょうがないじゃないか」という成り立たない屁理屈につながる。
人間には、安定以上に変化のニーズがある。
そして、肉体的にはともかく、人間の精神的な成長は無限である。
もうこれで成長は終わり、ということはありえない。
一つのゴールに到達すれば、またさらに次元の高いゴールをめざすのが自然な姿だ。
私の師匠の一人は、会社を売却して億万長者になりながら、さらに理想を追求する別会社を作って精力的に活動している。
彼曰く、「人間、もうこれでいいと思った瞬間に、成長が止まってしまう。成長が止まるということは、自然界の法則では衰退していくことだから」
養老氏の、「変わらないのは情報だけ。人間には変化していないという状態はありえない」という言葉と共通するものがある。
このことは、年齢には関係がない。
何かをやるのに、歳をとりすぎているとか、若すぎるということはありえない。
誰にとっても、今日は同じ一日なのだから。
誰にとっても、今日は残りの人生の最初の日なのだから。
他人と同じなら、自分の存在価値とは何なのだろう。
過去も現在も未来も変わらないなら、自分の人生の意味は何なのだろう。
変化を歓迎しよう。
毎日、たった一つでも何かを変えよう。
*****
<私は忙しくない> 2003/3/16
「忙しいでしょう?」
挨拶代わりに、よくそう聞かれる。
「英語の先生をしていて、本やニューズレターを書きながら、テコンドーの道場もやっている。それで本をたくさん読んで、映画も見て、自分の勉強や運動も続けながら、ホームページの更新もある。最近はピアノも習っているとか。ボーッとしている暇などないのでは?」
私の返事は、いつも決まっている。
「いいえ、ぜんぜん忙しくありません!」
私にはストレスはないし、リラックスする時間も十分にあって、けっこう遊んでいる。
こう答える理由は、2つある。
1つは、「忙しいという字は、心を亡ぼすと書く」と言われるとおり、マイナスの言葉でネガティブな状態に加速をつけてどないすんねん、というこだわり。
そしてもう1つは、自分なりの時間管理と知的生産の方法を使っている(単に「知っている」ではない)ということだ。
誰にとっても、1日には24時間しかない。
脳の活性化という意味からも6時間程度の睡眠は必要だし(私は日常的な短時間睡眠法は実践していない)、楽しい食事や入浴などの生活時間を削るわけにはいかない。
そこで、自分にとって無意味な時間を極力排除して、本当に大切な活動に集中するように心がけている。
このライフスタイルを選んだとき、「7つの習慣」という本を参考に、自分が時間を使っている事柄を次の4つの領域に分けてみた。
(1)緊急で、かつ重要なこと。
(2)緊急ではないが、重要なこと。
(3)緊急だが、重要ではないこと。
(4)緊急でもなく、重要でもないこと。
まず、(4)の「緊急でもなく、重要でもないこと」と決別した。
くだらないテレビ番組、単なる暇つぶしや遊びなど、気を紛らわすためのあらゆる行動。
これだけで、予想を上回るほどの時間が手に入った。
次に、(3)の「緊急だが、重要ではないこと」からいかに逃れるかを工夫した。
職場の愚痴や噂話に始終する会合、くだらない話とカラオケ騒音につき合わされる二次会、その他見せかけだけで意味のないすべての仕事や雑務。
留守電の残っていない電話はほとんどかけ直さないし、ダイレクトメールも開かない。
この(3)に属する重要度の低い緊急の雑事にいちいち反応し、ふり回されている人がどれだけ多いことか。
断ったり放っておくには多少の勇気がいるが、次の質問をされれば真剣にならざるを得ない。
「死の床で、人生をもっと雑用に費やせばよかったと思うだろうか?」
ジョン・レノンも、ダコタ・アパートの正面で射殺される前に、こう書いている。
「人生とは、他の計画を立てるのに忙殺されている間に起こっていること」
特に仕事好きの人が注意すべきことに、かつての私も実はそうだったが、緊急なことを次から次に処理することに酔ってしまって、偽りの充実感に満足することだ。
複数の仕事を見事にこなしてみせたからといって、それが何だというのだろう。
あとでふり返って何の思い出も残らない、燃え尽きるだけの人生を避けるためにも、緊急中毒だけは避けたい。
(3)に属する活動が、必ずしも「悪い」と言っているのではない。
私はアルコールを飲まないので説得力に欠けるが、酒の席で馬鹿話に興じるのも、それなりのコミュニケーションだろう(たぶん)。
問題なのは、「良いこと」に時間を使いすぎて、「最も良いこと」を犠牲にすることなのだ。
私は日頃から、(2)の「緊急ではないが、重要なこと」に集中するように心がけている。
私にとって(2)に含まれるのは、長期に渡って自分の成長(=他への貢献)にかかわるものや、健康や感情をいつもいい状態に保つための活動だ。
本を読むこと、文章を書くこと、英語学習、武道の修行、運動、整体に行く、映画、音楽、食事、親孝行、親友との関係、高い基準の人たちとの交流など。
おもしろいことに、(2)が充実すればするほど、結果的に(1)「緊急で、かつ重要なこと」にかかる時間が減ってくる。
たとえば今、毎月のニューズレターに加えて、2冊の本の原稿を平行して書いているが、(3)や(4)にいちいち反応せずに(2)に集中してきたことによって、突然の依頼にも対応できる状態ができているし、私では難しい部分を助けてくれる人たちもいる。
さらに、(2)に集中すればするほど、(3)や(4)に邪魔をされることまで少なくなってくるのも興味深い。
今の私に、愚痴、陰口、噂話、をもちかけてくる人はほとんどいない。
マイナスな言葉も聞かないし、ネガティブな態度を見せられることもない。
言っても無駄だという気を発しているのかもしれないが、これは私にとってかなり楽な状態だ。
いろいろ理屈を書いてみたが、実は私が忙しくない本当の理由は、「好きなことばかりやっているから」なのだと思う。
やりたいことだらけだから、違うことをやるのが休憩になっている。
毎日めちゃくちゃ楽しいし、ぜんぜん疲れない。
今思い出すと、私は高校生や大学生の頃、竹村健一氏の本を読みあさっていた。
「ぐうたら少年から著名なマルチ人間へ」という生き方に憧れていたのだ。
大学も関西を選んだくらいだから、今の自分のライフスタイルを見ると、イメージの力とは本当に怖いと思う。
20代の頃に書き記した、自分の理想の仕事。
「好きなことをやって、その仕事で生活できて、しかもそれが他人の役に立つこと」
仕事が知的な遊びになれば、こんなに面白いことはない。
もう一度宣言するが、私は忙しくない。
あなたはどうですか?
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<人に任せる> 2003/3/17
人と同じことをやったら、同じ結果しか得られないので、独自の路線を行くように心がけている。
他のサラリーマンはあまりやっていないだろうな、と思うことの一つに、以前から個人でアシスタントを雇っていることがある。
アメリカ人の友人が、秘書を時給で雇っているのを知ったのがきっかけだった。
彼は、日本のアルバイトのシステムにヒントを得たのだそうだ。
その友人に影響を受けて、私も数年前から同じことを始めた。
すると、その人たちにささやかな雇用機会を提供すると同時に、雑務をすべて任せて本当にやりたい仕事に集中できるようになった。
その効果は、私の期待をはるかに上回った。
普通のサラリーマンでも、夢や目標がある人なら、パートの秘書を雇うといいと思う。
そのために一度、年収から自分の時給を計算して、人に払うバイト料と比較検討してみてはどうだろう。
自分でなくてもできることは人に任せて、自分にしかできないことに集中して成果を上げれば、満足感は高まるし収入も増えて、ますます楽に秘書を雇える状況になるはずだ。
私が「人に任せる」ということを実践するようになったのは、教師としてリーダーシップについて真剣に考える環境にあるためだと思う。
私のリーダーシップの理想像は、「自分がいなくても自動的に組織が運営される」状態だ。
システムづくりも大切なのだが、私は自分と対等かそれ以上のリーダーを養成することのほうにより興味がある。
学校の教師の中には、厳しく生徒を「シメる」のが指導力だ、と思っている人がいる。
彼らは一般に、「やさしい」教師を軽く見る傾向がある。
しかし、生徒がその教師の前ではおとなしく、いなくなると好き放題という状態になり、結果としてかげひなたのある集団をつくりがちだ。
怖い人がいないと動かないのでは組織として問題があるし、自ら機能するためには彼らの中からリーダーたちが生まれるのが健全な姿だと思う。
自分の理想とするリーダーシップに成功したのは、「ファーザーズ・ウェブサイト」という、離婚後に親に自由に会うことのできない子どもたちのために、親権についての法律を改正しよう、という活動においてのことだった。
離婚後に子どもに会わせてもらえず、寂しい日々を送りながら、全国の同じ経験を持つ親たちとインターネット上で知り合ってお互いに励ましていた。
個人的なメールのやりとりではもったいないと考えた私は、心のこもったアドバイスをみんなでシェアしようと、「ファーザーズ・ウェブサイト」というホームページを作った。
その後は、あれよあれよという間に何万件というアクセスを得て、「ファーザーズ・ウェブサイト」は国内外の新聞や雑誌、テレビ、ラジオで紹介されるようになった。
そのうち、「自分たちの心の癒しだけで満足していたら、現実は何も変わらない。将来の子どもたちのためにも、法律改正を訴えよう」「正式な団体として活動するために、全国に支部を作って組織化しよう」と主張し、実際に動いてくれる人材が次々と現れた。
現在ではマスコミをバックに、政治家と直接会って話をしたり、国連に英語文書で訴える一大ムーブメントに化けてしまった。
自分が言い出しっぺとはいえ、もう私には止められないのだ。
もしかすると、これが本当のリーダーシップというものかもしれない。
そのような経験から、私は仕事を人に任せることの大切さを学んだ。
たとえアイディアがあっても、自分一人でできないことは、どんどん人に手伝ってもらえばいいのだ。
自分でなければうまくできないというのは思い上がりで、相手に期待していることを真剣に伝えれば、その人は予想以上の働きをしてくれるようになる。
現在のアシスタントも、この1年間で目を見張るような成長をとげた。
もともと事務処理能力は高かったが、海外留学をして英語力も伸び、文武企画のニューズレターなどの業務からイベントの企画・運営まで、すべて任せられるようになった。
私も自分の活動に時間をたっぷり使えるし、アシスタントのビジネス・センスも伸びる。
文武企画のミッションであるWin-Winの関係が成立している、ということになるだろう。
何もかも自分で抱え込んで行きづまっている人や、実現したい夢があるのに一人では限界があってあきらめかけている人は、思い切って「人に任せる」「他人の力を借りる」ように発想を変えてみてはどうだろう。
とりあえず、助けてもらうためには頼んでみること(行動)だ。
あなたにできないことを、いともあっさりやってのける人というのは、必ずいるのだから。
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<私のライフスタイル> 2003/4/26
私はまだ、人に言えるほどの実績や業績を残しているわけではない。
それでも、地方に住みながら本を出したり、さまざまな企画を提供させてもらっているので、仕事と趣味を両立させる秘訣を聞かれることがある。
特別なことをやっているわけではないが、余興で少しだけ、私のライフスタイルを紹介することにする。
私が感謝していることのひとつに、住宅環境のよさがある。
昨年新築した自宅は、宮崎市街地まで車で10分ほどの高台にあるので、東の窓から街と大淀川、そしてかすかに海が見える。
南の方角は山で、いつも小鳥の鳴き声が聞こえている。
近所にはいくつかの公園と静かな池があって、散歩やジョギングには最適である。
書斎にはパソコンや本棚に加えて、映画好きなのでホームシアターを作っている。
変わったところでは、健康法として体内のリンパ液を浄化させるために、小さなトランポリンを置いている。
それと、今年になってピアノを始めたので、練習用のキーボード。
原稿書きに飽きると、ちょっとした気分転換ができる。
庭に建っているプレハブは、私専用のトレーニングジムだ。
あふれる本やビデオ類の書庫も兼ねているが、ウェイト・トレーニング用の器具と大小のサンドバッグ、拳や足を鍛えるための砂袋などが置いてある。
ここに入るときには、ちょっと気合が入る。
休日には喫茶店でモーニングを食べ、書店に立ち寄るくらいで十分リラックスできるので、あまり外出せずに家で楽しんでいることが多い。
週末などに用事で東京や大阪、福岡などに行くのも、空港が車で20分ほどの場所にあるので、とても便利だ。
海にもすぐ行けるし、刺激が少ない田舎町とはいえ、宮崎での生活には大満足している。
最近の私の英語学習は、ほとんど生活の中に習慣として溶け込んでいる感じだ。
意識して勉強の時間を設けているわけではない。
感動した本を原書で読んだり、洋画をなるべく字幕なしで見たりして楽しんでいる。
英語を教える仕事に就かせてもらっているので、自分も学びながら他人の役に立つことができる。
職場には何の不満もないし、生徒たちもいい子ばかりでかわいい(私は教師にとって最悪の高校生だったから)。
この幸運には、いつも感謝している。
朝は、アンソニー・ロビンス氏(著名な心理カウンセラー)のセミナーCDで目が覚める。
東の窓を開け、日の出を見ながら伸びをして、「さあ、今日もいい一日になるぞ!」と口ずさむ(医学博士の佐藤富雄氏から学んだ口ぐせ)。
トランポリンで体を揺らしながら、「成功の9ステップ」セミナーでジェームス・スキナー氏からもらった「朝の質問」(※)を行い、その後ジョギングか腕立て伏せなどの運動。
洗面所では、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」のテープを流している。
朝食は、ジューサーで作りたての野菜とフルーツのフレッシュジュース。
私はナチュラル・ハイジーンという食生活を実践しているので、午前中は果物のみ、昼と夜は野菜サラダを中心に食べ、肉や魚はできるだけ避けている。
通勤は車で20分くらいだが、もちろん英語のCDを聞いている。
アンソニー・ロビンス氏、スティーブン・R・コヴィー氏(7つの習慣)、オグ・マンディーノ氏(地上最強の商人)の語りが主で、英語学習と自己啓発もできて一挙両得だ。
日本語では、ジェームス・スキナー氏(日本語ペラペラ)、斉藤一人氏(日本一のお金持ち)、神田昌典氏(経営コンサルタント)など。
ここまで習慣化していると、プラス思考をするな、ポジティブになるなというほうが無理である。
以前は私も自分の外からくる出来事にふり回され、マイナス、ネガティブになっていたので、昨年の正月から自己改革を行った。
今ではプラス思考こそ常識であり、マイナス思考は自然の摂理に反した誤った発想だとわかるようになった。
一日を通じて、上質の水をたくさん飲むように心がけている。
自宅に設置している浄活水器は、たぶん日本でも一、二を争う製品だろう。
毎日2〜3リットルくらい、朝から夜寝るまで小まめに飲んでいる。
体内の老廃物を流し、常に最高の体調を保つことができて、欠かせない習慣だ。
読書は、いつも10冊くらいを並行して読んでいる。
というより、1冊を読んでいるうちに別の本に興味が移り、次々と手を伸ばしているうちに、いつの間にか読みかけの本が10冊を越えてしまうのだ。
ペースとしては、1日に1冊程度、原稿執筆がたまっているときは2〜3日に1冊くらい。
本を読みながら、これはと思ったポイントには小さな付箋紙(ポスト・イット)を貼っておく。
読む量が多いので、書き取るのはその中でも、今すぐ生活を変革させるような言葉だけにしている。
6月に福岡でフォトリーディングのセミナーを受けるので、もうすぐ1日2〜3冊以上読めるようになるのが楽しみだ。
外出するときは、常に本を持っていく。
ちょっとした空き時間でも何ページか読めるので、人から待たされても平気だ。
というより、私は時間にルーズな人が嫌いなので、ストレスをためないための自己防衛策なのかもしれない。
原稿執筆については、依頼されるものも含めて、これはもう仕事というより趣味の領域だ。
文章を書くことは、私にとっては画家が絵を描いていくようなワクワク感がある。
書いていること自体が楽しくて、完成をめざすプロセスは知的な「遊び」としか言いようがない。
言葉には敏感で、他人の話を聞いていて出会ったいい言葉は、すぐにノートに書きとめている。
執筆や企画のアイディアは、どういうわけか、ノートやパソコンのないときに限って頭に浮かぶ。
特に車を運転している最中が多いので、私はいつも乗せてあるICボイスレコーダーに録音している。
以前は、携帯から自宅の留守番電話に録音していた。
最近は携帯のメモ機能もよくなって、各種辞書も使えるようになり、ずいぶん便利になった。
文章の書き方も、私の場合は実に感覚的なので、あまり参考にならないかもしれない。
要するに、気分次第なのだ。
ホームページを見てもらえばわかる通り、書きたいときにはガーッと書くが、気分が乗らないと見向きもしない。
読書と同じパターンが、ここでも見られる。
たとえば英語の問題集を作るときに、「1日○問書く」などと決めても、その日の体調や気分でペースが守られる保証はないので、計画を立てても無駄になることが多い。
私は複数の原稿を並行して書くスタイルなので、その日に進む原稿に集中して大量に書き、進まない原稿は後回しにしてしまう。
しかし、締切りは絶対に守る。
こう考えてみると、「なぜ一度にたくさんの仕事をこなせるのか」という質問の答が見えてきた。
同時進行でいくつものことをやるほうが、私の性に合っているのだ。
現在はTOEIC問題集、英文法の本、月刊ニューズレター、エッセイ集やホームページなどを書いているが、気まぐれでも逃げ道がたくさんあって楽だといえる。
1冊の本の中でも、同じような傾向が見られることに今気づいた。
たとえばTOEIC問題集(8月発売予定)では、いくつかの文法項目を担当している。
順番に書いていけば、出版社の編集の方々もやりやすいだろうが、あっち飛びこっち飛びして、最終的に全部仕上がるといった形なのだ。
最後に、昔のブルーハーツの歌ではないが、「あれもしたい、これもしたい」の私が使っている、ある法則を紹介する。
ビジネスマンなら誰でも知っている、有名な「80対20の法則」である。
最も大切な20%が、全体の80%をカバーするというものだ。
私の場合は、気が向いた20%の時間で、仕事の80%を終えてしまうという感じだ。
気が向かないものから手をつけると、80%の時間で20%の仕事しかできない結果に終わってしまう。
最小限の努力で、最大限の効果を上げる、武道でいえば「一撃必殺」の仕事法と思っている。
人生に目標を持っている人なら、夜寝る前に明日やることのリストを作るだろう。
そして、それぞれに優先順位をつけているはずだ。
「80対20の法則」を使えば、仮にリストに10項目あれば、最重要事項からたった2つだけを実行すれば、その日はまあ8割がた満足ということになって、気が楽なのだ。
少しは参考になっただろうか。
(※)「朝の質問」
(1)今、私は何を感謝しているか。
(2)今、私の生活において素晴らしいことは何か。
(3)今、自分であることはなぜ素晴らしいか。
(4)誰が私を愛し、私を大切に思ってくれるか。
(5)私は誰を愛し、誰を大切に思っているか。
(6)今日、私は誰を助けるか。その人のために何をするか。
(7)自分の人生をさらに素晴らしいものにするために、今日何をするか。
(8)最も大切なことが一つだけあるとすれば、何か。
(9)どのようにそれを楽しむか。
(10)必ず成功するとわかっていたら、何に挑戦するか。
(11)今日、自分の状態を最高のレベルに保つために何をするか。
(12)今日、どのような人生の思い出を創るか。自分自身のために何をするか。
朝目が覚めた瞬間、「え〜、もう朝なの?」「まだ水曜日〜、マジかよ?」「今日もあの嫌な仕事なんだ〜?」などの質問を自分に浴びせるより、はるかに自分のためになると思わないだろうか。
これを毎朝の習慣にしてしまうと、上機嫌で出勤できること間違いなし!
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<「成功おたく」になるな> 2003/7/4
「大金持ちの書棚に『成功するための本』は並んでいない」という、アメリカのジョークがある。
思わず苦笑い。
たしかに、行動している人は意外と理屈に無頓着で、理論派はなかなか行動を起こさない。
書店に行くと、「成功法則」「金持ちになる法」といった本がたくさん並んでいる。
不況を反映してか、ここ数年で爆発的に数が増えた。
インターネットでも、自己啓発セミナーや通信講座が人気で、次々とカリスマが登場する。
一発逆転を狙う人々が、成功本を次から次へと買いあさり、講演会やセミナーに参加する。
中には、やたらと成功法則の知識はあるが、実際の生活はあまり変わっていない人もいる。
一種の洗脳状態になって、カリスマに大金を貢ぐだけの「成功おたく」が量産されている現状もある。
私自身は、大学時代に「マーフィーの法則」の本を読んで、人間の潜在意識の力について知った。
そこで、将来の夢をいくつか紙に書いておいたところ、そのすべてが実現してしまった。
現在のライフスタイルも、当時のイメージ通りであることに驚かされる。
「どうもこれは何かありそうだ」と思って、社会人になっていろいろ勉強してみたところ、この現象は何ら不思議ではない、一種の物理現象であることがわかった。
その過程で、私の書棚にも「成功するための本」が並んでしまった(笑)。
でも私はちゃんと実行に移して、それなりの結果を出しているからね。
自分が試してうまくいった成功技術だけを編集して、毎月ニューズレターで紹介している。
他の講師たちのプレゼンテーションに興味を持って、講演テープを聞いたり、いくつかのセミナーに参加してみた。
いずれも多くの学びと気づきを得たが、参加者の中にはちょっと気になる人たちもいた。
彼らは不自然なほどハイテンションで、セミナー講師を教祖のように崇める。
トラウマなど心に傷を負っていたり、借金や家族の問題をかかえているケースが多かった。
それだけに「成功」することへの執着が強く、成功の条件がお金など物質的なものに偏っている。
彼らの「負のエネルギー」が力を発揮して、一時的にうまくいくことはあるだろう。
しかしそのあとに、反動でうつ状態に陥るケースも多いと聞く。
そこで、また以前のハイテンション状態を求めて、高額なセミナーを再受講するというわけだ。
人が成功して幸せになる流れは、究極的には宇宙や自然の原理原則に沿うものなので、精神世界に傾倒する人もいる。
自己啓発系のセミナーをうさん臭く感じる人がいるのも、このあたりに理由がありそうだ。
他人の自由を批判するつもりはないが、私はもっと自然に、淡々とやっていきたい。
私の成功の定義は「みんなで幸せになること」であり、むしろ「成幸」というイメージに近い。
自分のアイデンティティを「教え伝える人」(教師というよりも応援者)としているので、成功本だけでなく、ライフワークである英語学習や格闘技の資料も一通りそろえている。
あとはひたすら実験して、その結果を楽しみながら、前向きな友人たちとシェアしていくだけだ。
まず、次の3つを習慣にしよう。
「プラス思考をする」
「目標を紙に書く」
「口ぐせを前向きに」
「それはもう知っているから、何か他の方法を教えてください」
これこそ、典型的な「成功おたく」のセリフなのだ。
「知っている」ことと「やっている」ことでは、まったく違う世界が見えている。