<めざせ郷ひろみ>
郷ひろみのコンサートに行ってきた。
どこまでも陽気で、明るいステージだった。
今年で46歳なんて、信じられないくらい若い。
会場は、ほとんどがぼくより一世代上の女性ばかり。
懐かしいヒット曲を聞いて青春時代を思い出すのか、総立ちでキャーキャー騒ぐオバサンたちがほほえましかった。
二谷友里恵の「盾」という暴露本などには、この勢いは止められない。
なんだかんだいっても、やはりスターはスターなのだ。
歌いながら、郷ひろみが上半身裸になる。
腹筋が割れていて、胸のカットもシャープ、無駄な脂肪がまったくついていない。
毎日のようにジムでトレーニングしていると言うだけのことはある。
ナルシストと言われようが、ここまで外見にこだわってこそプロだと思う。
「朝起きた瞬間から、郷ひろみを演じている自分に気づく。
生まれたときから、ぼくは郷ひろみを生きてきたのかもしれない。
さらに郷ひろみを極めるために、芸能活動を休止してアメリカで充電してきます」
郷ひろみが離婚した年、ぼくたち夫婦も迷った末に同じ選択をした。
アパートで一人暮らしを始めたぼくは、幼い娘に会えなくなった寂しさを、毎日のように文章にぶつけていた。
ある日、熱いシャワーを浴びながらずっと考えていた。
そして決めた。
それまで同人雑誌に書いてきたエッセイといっしょに、娘への思いをつづった本を出そうと。
予定していた書名は、娘のニックネーム「シェリー」。
出版社に持っていく原稿をまとめている頃、いきなりあの「ダディ」が発売になったのだ。
「ダディ」の直後に「シェリー」、しかも娘へのメッセージというスタイルも同じ。
本の名前を「HOW TO 旅」(初めて書いたエッセイのタイトル)に変更したのは、そういうわけだった。
あれから4年が過ぎた。
ずいぶん引きずってしまったが、さすがに今では気持ちの整理がついた。
まだ40にもなっていない。
ぼくも自分自身を極めるために、これからはガンガン前進していこうと思っている。
離婚によって一気にブレイクした、底抜けに明るい自分を演じ続けているHiromi Goをお手本に。
(2001/8/6)
*****
<文章道場訓>
一、読んでも読まなくても同じ文章は書かない。
一、借り物ではない、自分の言葉で語る。
一、100人の賛同者ではなく、90人の敵と10人のシンパをつくる覚悟で書く。
一、我書く、故に我あり。
一、書いて、書いて、のたれ死に。
+++++
自分のホームページを作って、1年半が過ぎた。
その間、予想を上回る2万件以上ものアクセスがあった。
インターネットを通じてたくさんの出会いがあり、新しい世界が開けたことに心から感謝している。
一方、何かを表現する者の常として、いくつかの批判もいただいた(匿名の誹謗・中傷は無視)。
自らプライバシーを公開するバカバカしさに嫌気がさしたこともあった。
充電期間と称してしばらくこのサイトを閉じていたが、文章を書くということはぼくのライフスタイルに欠かせない活動なので、そのメディアのひとつとしてのホームページを再開することにした。
ただし今回は、ちょっと唯我独尊っぽくなるが、思い切って次の3つの条件を試みることにした。
(1)カウンターを表示しない。
(2)掲示板をつけない(e-mailのみ)。
(3)日記は書かない(エッセイは書く)。
これは個人の好みにもよるが、ホームページをやっているうちに、カウンターと掲示板の設置や個人的な日記の公開は、自分の寂しさの裏返しのような気がしてきた。
数字が増えることが励みになったり、交流の場を持つことは楽しいことだが、それが書くことのプレッシャーになっては本末転倒になってしまう。
それから、ぼくのホームページについて、全国の読者のみなさんからたくさんのメールをいただいた。
返事は短くてもできるだけ出すように心がけているが、この場を借りて改めてお礼を言いたい。
その中で好評だった「娘への手紙」などのいくつかのエッセイについては、恥ずかしながら復刻することにした。
人生にはホームページ管理に大量の時間を費やすにはおしいほど、楽しいことがいっぱいある。
やりたいこと、やらねばならないことも多い。
好きなことをやり続けるためには、心身の健康がいちばん大切なことだ。
マイペースを保って、書きたいという衝動が起きたときに、好き勝手に書いていこうと思う。
他人の期待に応えない自分というのも、ときにはいいじゃないですか。
(2001/8/13)
*****
<宴会ギライ>
オジサンたちとの宴会が苦手だ。
若い子たちとの合コンなども、言うほどには気が進まない。
まず、ぼくは酒が飲めない。
ビール1杯(グラス)で真っ赤になるクチだ。
日本には変な風習があって、他人のビールのグラスを常にいっぱいにしておかないと気がすまない人が多い。
これはまったく余計なお世話で、ひどい場合はまだ十分入っているのに、ビールのビンを突きつけてくる人さえいる。
仕方がないのでちょっとだけ飲んでグラスを差し出すと、それも気にくわないらしく、全部空けろと脅迫してくる。
外国では、このようなことは経験したことがない。
それぞれが自分のペースで飲みながら、食事や会話を楽しんでいた。
自分が飲みたい分だけ、自分でグラスに注ぐ。
ぼくと同じような人は、I can't drink.(飲めない)ではなくて、I don't drink.(飲まない)と言うのが普通だ。
ぼくが飲めないと言うと、必ずといっていいほど「何回か吐けば、慣れてきて飲めるようになる」と激励される。
吐いてまで飲めるようになりたいなんて思わないけど。
慣れるというのも一時的なことで、しばらく飲まないとすぐ元に戻ってしまうのも経験済みだし。
乾杯の音頭のあと、全員がいっせいにビールを飲むので、しばらくの静寂がある。
この空白の時間がなんとなく気味が悪い。
地方だけの現象かもしれないが、その直後にお決まりの拍手が起こるからだ。
あれは、無事に飲めてよかった、ということなのだろうか?
さて、ぼくはシーフードが嫌いだ。
特にエビのアレルギーは凄まじく、ちょっとでも食べると激しい吐き気とジンマシンに襲われる。
数年前にお好み焼きの小エビに気づかなかったときは、一晩中のたうちまわった。
もし伊勢エビを食べたら、100%絶命すると思う。
アレルギーはエビだけだとは思うが、カニも貝も魚も「ぼくたちエビの友だち」みたいな感じがして好きではない。
宴会とくれば和食、つまり海産物中心の会席料理がほとんどだ。
アルコールがダメ、料理も食べられないとなると、宴会が苦痛になるのも無理はない。
皮肉なことに宴会の夜はいつも空腹になるので、二次会などにはつき合わず、自分でもバカバカしいと思いながらファミリーレストランに直行する。
親戚との飲み会ならワガママもきくが、かつてぼくだけハンバーグ定食というチョー恥ずかしい状況に置かれたことがあって、その後は絶対にリクエストせず、ひたすら忍の一字でお開きを待っている。
宴会の席では周りのハイテンションについていけず、どうしても無口になってしまう。
お節介な人はいるもので、赤い顔で「おいどうした、暗いぞ!」などとからんでくる。
頼むからほっといてくれという感じだが、なかなか許してもらえない。
盛り上がれと言われて突然明るくふるまうのも不自然なので、気持ちがどんどん引いていく。
そういえばぼくは、バーやラウンジに連れていかれても、いつも店のママさんや女の子たちに「あら、こちらおとなしいのねー」などと言われる(その次は「歌ってくださーい」だ、ああアホクサ)。
合コンに出ても、あまり自分から盛り上げられるタイプではない。
要するにノリが悪いというか、夜のネオン街や飲み屋の雰囲気が似合わないのだろう。
そんなわけで、ぼくはお酒の飲めない女性のほうが気楽でいい。
ちょっと洒落たレストランに行けばグラスワインで乾杯くらいはするが、もうそれだけで心臓がドキドキして息苦しくなるレベルなので、「私、お酒強いんですよ」的な女性は合わないと思う。
焼き鳥屋でもコーラか烏龍茶、というのがぼくの定番だから。
「飲みニュケーション」というオヤジギャグがある。
でも、アルコールが入らないと本音でコミュニケーションできない男なんて、寂しすぎる。
仕事の愚痴や説教、下品な宴会芸にもウンザリだ。
まあ、たまには酒を飲んで酔っぱらうのも楽しいとは思うけど。
宴会のしめくくりは、「万歳三唱」や「3本じめ」とくる。
どちらも若者?としては鳥肌が立つが、もう帰れるので無表情で手を動かしている。
(2001/8/15)
*****
<空腹でいこう>
死ぬほどウマかった、忘れられない味がある。
中学2年生の夏休み、アメリカにホームステイするための研修が東京であったのだが、食堂の場所がわからずに夕食を食べ損ねた。
食べ盛りだったのだろう、夜中に腹が減って倒れそうになり、同じ目にあった仲間3人と宿泊所を抜け出して、やっとの思いでカップヌードルの自動販売機を見つけた。
部屋に戻ってお湯を注ぎ、むさぼるように食べたあのカップヌードルは世界一だった。
大学時代、北海道を野宿旅した。
あれは知床だっただろうか、まる一日の飲まず食わずで山道を歩き続け、ノドがカラカラに乾いていた。
歩いても歩いても、水を飲める場所が見当たらず、脱水症状で目まいがしてくる。
もう限界だというときにひょっこり道路に出て、ユースホステルの自動販売機が目に入った。
ポケットには100円玉が2個だけ残っていた。
名もないメーカーのサイダー1本、命の水といっても大げさではなかった。
同じく大学時代。
わずかなバイト料は、生活費の赤字を埋めたあと、本代と空手道場の月謝に消えた。
お金がなくても珈琲豆だけは贅沢したり、将来の自分への投資という理屈で映画を見たりしていたので、いつも貧乏だったが、あのときは本当に手持ちがゼロで、1週間まったく食事にありつけなかった。
まさか察したわけではないだろうが、親からの仕送りが少し早めに届いた。
その足でアパートの近くの「ほかほか弁当」に走った。
涙のからあげ弁当。
この世にこんなにウマイものがあるのか、と感激しながら食らいついた。
今年の夏、日中に部屋の掃除をクーラーをかけずにやってみた。
ガンガン汗をかいた。
庭に出て、太陽が照りつける中、上半身裸でかき氷にかぶりついた。
かき氷なんて、クーラーのきいた店で食べるもんじゃない。
生きてる喜びを感じた。
幸せなんて、案外こんなところに隠れてるんじゃないだろうか。
(2001/8/15)
*****
<アホなことしよう>
先日行ったレストランが満席で、ウェイティングがかかっていた。
リストに名前を書くように言われたので、ぼくは「奥」と書いた。
いっしょに行った友人がなぜ違う名前を書くのか不思議そうだったが、しばらくしてウェイトレスから呼ばれて爆笑していた。
「奥様〜!」
くだらないことだが、人生、何事も笑える工夫が大切である。
これは学生時代に発明した遊びで、当時は「王」や「神」という偽名も使い分けていた。
一度「芥川」と書いて呼ばれたとき、いっしょにいた友人に「龍之介、やっと食えるなー」と言ったら、周りの人にめちゃウケた。
今度やろうかどうか迷っているのが、「殿」という姓なのだが…。
大阪での学生時代は貧しかったが、アパートの仲間たちとアホなことばかりやっていたので、ぜんぜん退屈しなかった。
たとえばアルバイト。
できるだけ外食産業でやるように、暗黙の了解があった。
ぼくは、ファミリーレストランで深夜2時まで働いていた。
バイトが終わると、本当は捨てないといけない賞味期限切れのパンや肉をゴミ袋いっぱいに詰めて、こっそり持って帰っていた。
原付のスクーターでアパートに着くのが、午前3時過ぎ。
みんなまだ楽勝で起きていて、大きな袋をかついで戻ったぼくを見て、
「サンタのオッサンが来てくれたでー!」
などと叫びながら、部屋からワラワラと出てくる。
それから明け方まで、貧乏学生には信じられないほど豪華なステーキパーティーだ。
アパート唯一の調理器である、ぼくのホットプレートが大活躍。
食器類もすべて店の処分品を失敬していたので、ディナーセット一式が全員分そろっていた。
寿司屋でバイトしていた友人なんかも、我々のヒーローだった。
クリスマスになると、ケーキ屋でバイトしていたやつが仕切る。
ケーキはもちろん、キャンドルを100本ほど持ち帰り、それを階段から廊下までズラリと並べて、ガールフレンドたちを招いてドンチャン騒ぎ。
酔っぱらうと、みんなで暗闇のキャンパスにきもだめしに行ったり、近所の公園で暴れていた。
そのときに無意識のうちに?いろいろ持って帰るので、家賃1万円の超オンボロアパート「若草荘」の廊下や部屋には、いつも不思議な物がころがっていた。
向いの先輩の部屋には、公園のベンチとスタンド式の灰皿が置いてあった。
ある日部屋に入ってみると、ベンチに座ってタバコの煙りをくゆらせている先輩の目の前に、なんとバス亭が立っている。
あのときは、やられたと思った。
ちなみにぼくの部屋のテーマは、カラオケバーだった。
ラジカセにエコーマイクをつないで、照明は怪しげな赤いランプ。
カラーボックスの間に板を置いてカウンターを作り、天井にはおもちゃのミラーボールまでつけた。
それで夜中まで歌っていたのに、一度も苦情がこなかった。
で、朝だ。
昼まで寝ていたいのだが、今度は健康オタクの先輩がいて、それを許してくれない。
朝6時が過ぎると全員無理やりたたき起こされ、ラジオ体操をするために出てこなければならない。
なんと手作りのスタンプカードまで渡されており、それをヒモで首からかけて、先輩の印鑑をもらわねばならないシステムなのだ。
「ラジオ体操の歌」も合唱させられる。
飲み会の次の日など、マジで吐き気がした。
でも、楽しかった。
食事もムチャクチャだった。
日頃はひどく質素な食生活なのだが、誰かが突発的に「食い放題デー」というのを提案することがあって、その日はアパートの住人全員、朝から断食に入る。
そして夕方になると、極限まで空腹な状態の男たちで行列をつくって、国道沿いにある980円で食い放題の店まで歩くのだ。
腹がはち切れるくらい食い倒すと、また無言の行列で帰っていく。
思えば、アパートの連中とはいつもアホなことばかりやっていた。
毎日がお笑いの連発だった。
あいつら、今頃どうしてるんだろう。
大人になっても、ハメをはずしているのかな。
人生は一度きり。
真面目くさってばかりないで、たまには馬鹿になりましょう。
(2001/8/21)
*****
<久しぶりに病院で考えた>
過労とストレスによるものだろうか、持病絡みでひどく体調を崩し、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
たまたま仕事が休みだったので、朝から県病院に向かった。
初診手続きをすませ、指定された科で受付けをしたのが9時前。
待合室にはすでに人がたくさん座っていたが、それからなんと3時間以上も待たされた。
「何時間も待って、診察は1分」などという不平をよく聞くが、それを身をもって体験した。
口やかましそうなオバサンが、受付でもめていてうるさかったが、患者の立場からすれば文句のひとつも言いたくなるだろう。
待っている途中でさらに気分が悪くなり、ソファーに倒れ込んでしまった人も見た。
そもそも具合が悪いから病院に来ているのに、じっと座ったまま何時間も待たされてはたまらない。
治療を終えて、病院を出たのが昼過ぎ。
注射のおかげで症状は一時的な快方に向かうのだが、「これだったら家で安静にしておいたほうがマシだったかな」とも思った。
ここで病院側のシステム上の問題を批判すれば簡単なのだが、どうも患者のほうにも改めるべき部分があるような気がする。
待合室を見回しても、言っては悪いが「そうたいしたことないんじゃないかな」としか思えない人たちもたくさん来ていたように見えた。
こんなジョークがある。
病院の待合室での、老人たちの会話。
「あれ、今日は○○さんが来てないな」
「ほんとだ、どこか具合でも悪いんじゃないのか?」
人間には生まれつき自然治癒能力というものが備わっていて、ちょっとした病気くらいなら、十分な栄養と休養で回復するケースも多いはず。
無駄な混雑を避け、本当に苦しんでいる人を優先させるためにも、病院に行くのはよほど症状がひどい場合だけにしてはどうだろうか。
まあ、みんな自分のことしか考えてないから無理だろうけど。
サンフランシスコの高速道路では、料金所での混雑を避けるために、優先車線が設けられている。
優先されるのは特別料金を払う車ではなく、渋滞の緩和に協力している車、すなわち1台につ3人以上の大人を乗せている相乗りの車だ。
しかも、その車線のみ料金は無料。
さすがアメリカ!という合理的なシステム、日本の医療現場でも応用できないものだろうか。
西洋医学と東洋医学の使い分けについても、改めて考えさせられた。
ツボにハリを打って血や気の流れを正常にするとか、漢方薬を飲んで体調を整えるなどといったことは、日常的な健康増進には有効だろう。
ぼくも武道をやっている関係上、東洋医学には関心を持っている。
しかし、大ケガして血を流したり骨折している場合や、ウィルスで高熱が出ているときには、今すぐこの痛みや苦しみから解放してくれ!という気持ちにどうしてもなってしまう。
とにかく即効性のある治療を求めるから、体全体のバランスを無視した対処療法や、多少の副作用も我慢できるというものだ。
それにしても、健康がいちばん。
健康がすべてではないが、健康がなければすべてがない。
強者の論理なんて、ちょっとした病気で崩壊してしまう脆いもの。
受付のカワイイ女の子にも、声さえかける気にならなかった。
たまには病気になってみるのも、日頃の自分を謙虚に反省できていいのかも。
(2001/8/27)
*****
<逆セクハラ?>
セクハラ(sexual harrasment/性的嫌がらせ)という言葉は、日本の社会にも完全に定着した。
宴会でオヤジ上司が若い女性社員にデュエットやチークダンスを強要して体に触りたがる、出世の条件としてセックス行為を求めるなどといった直接的なものから、日常における言葉による性差別的発言まで、セクハラの定義はここ数年でどんどん広がってきた。
「何でもかんでもすぐセクハラと言われては、仕事にもならない」というオジサンたちの嘆きも聞こえてくるが、今まで不愉快な我慢を強いられてきた女性たちにとっては、喜ばしい傾向ということになるだろう。
私もずっと以前、恋人が会社でセクハラに近い被害にあっていたので、男性としても怒りを感じることが多かった。
ただし、どうしても納得できない言葉がある。
それは、「逆セクハラ」(女から男へのセクハラ)だ。
表面化するケース数の違いから仕方がないのだろうし、半分冗談の言葉に目くじらを立てることもないんだが、今までセクハラといえば「男が女にするもの」と決めつけていたような発想が気に入らない。
ぼくが感じる、女性から男性へのセクハラはたくさんある。
空港のトイレで用を足しているとき、オバサンが入ってきて掃除を始める。
素っ裸でサウナに入っているとき、オバサンがマットを替えにドアを開ける。
温泉で裸の男たちに「あかすり」をしているのは、オバサンばかりである。
反論する女性たちよ、上を自分の立場に置き換えて、「オバサン」を「オヤジ」に直して読んでみてほしい。
「まだ結婚しないの?」と言ったり、体をじろじろ見るのもセクハラになるのだそうだ。
逆に、道ばたで自分のナニを見せて喜ぶ変態なども、究極のセクハラだろう。
そのレベルで言えば、夏にセクシーな格好をして街を歩いたり、海でビキニ姿になる女性なんかもセクハラにならないのか?
相手にされるはずのない、もてない男たちをいたずらに刺激するんだから、明らかな嫌がらせだと思うんだけど(目の保養なんてウソで、たいていの男は卑屈でミジメになるだけ)。
というわけで、ぼくは「逆〜」という言葉が好きではない。
「逆玉(の輿)」とか、「逆ナン(パ)」とか。
最近問題になっているストーカーやDV(Domestic Violence/家庭内暴力)にしても、「女ストーカー」なんていう言葉はもう時代遅れだし、妻から夫への暴力も、海外ではもはや例外ではないはず。
すべて「男が加害者で女が被害者」という短絡的な発想は、男女平等の社会を主張するのなら、コンリンザイやめましょう。
(2001/9/1)
*****
<嫌いな言葉>
文章にこだわっているせいか、キラリと光る言葉に敏感なのと同時に、嫌いな言い回しに出くわすと鳥肌が立ちそうになる。
たとえば、先日起きたニューヨークのテロ事件についての、地元宮崎の新聞記事から。
「(アメリカ人の青年が)『飛行機は貿易センタービルに突っ込んでいったんだぜ。こうだよ』と、両手を使って興奮したように説明していた」
英語教師の職業病かもしれないが、わざわざ「〜だぜ」「〜だよ」という日本語訳をした理由は何か、いったいどんな英語だったのか聞いてみたい。
せいぜい、アメリカ人はノリがよくて、軽い感じでしゃべっているのだろう、という陳腐なイメージによるものではないだろうか。
テレビ番組で外国人にインタビューするとき、日本語の吹き替えやテロップが使われる。
相手がアメリカ人の場合は、お約束のように友だち言葉になっている。
「〜だね」とか、「〜なのさ」などだ。
ところが、これが東洋人になると突然、「〜なんです」「〜と思います」といった敬語に訳されるのだ。
意識的にやっているのか無意識なのかわからないが、このような卑屈な「誤訳」には無性に腹が立つ。
差別とまでは言わないが、西洋人に対するつまらないコンプレックスを感じてしまうのだ。
まともな人なら、インタビューを受けるときは敬語を使うのが普通だろう?
それならアメリカ人の発言も、ちゃんと敬語に訳してほしい。
弱い者に威張るな、強い者に媚びるな。
これがジャーナリズム、と書くと大げさならば、文章を書く者の覚悟だと思う。
その意味では、ぼくは女性週刊誌が大嫌いだ。
一部の芸能人には大バッシングをして集団いじめをやるのに、皇室の話題になるとファッションからしぐさまで、この世のものとは思えないほどの賞賛ぶり。
NHKの大相撲の結果を伝えるニュースも不愉快だ。
女性アナウンサーが勝った力士のコメントを「○○関は『〜だね』と話していました」などと言う。
しかし中継を見ていると、報道陣にはちゃんと「〜ですね」と答えているではないか。
これも報道する側の勝手なイメージによる、事実の歪曲だと思う。
仮に横綱といってもまだ20代の若造なんだから、そこまで偉そうな演出など必要ないと思う。
また地元新聞の批判になるが、記事の見出しに卑しい書き方が見られる。
事件を起こした容疑者の過去の職業が、時代遅れの言葉でいわゆる「聖職」的なものだった場合、仮に退職していても「元教師」「元校長」とやる。
何が言いたいんだ?
おまえは三流スポーツ新聞か!
1面のコラム欄にも、ほとんど個性が感じられない。
日頃はあたりさわりのないことばかり書いて、教師が中学生の少女と援助交際云々といったニュースでは単純に教師を非難するばかりで、今回のニューヨークのテロ事件に対しても「激しい憤りを感じる」「絶対に許せない」などと、誰でも思っていることしか書けない。
一般大衆に「そうだ、そうだ」と賛同を得ることを承知で正義の味方になっているのだろうが、これこそぼくの嫌いな「読んでも読まなくても同じ文章」に近い。
しかも(慣例なのだろうが)無記名。
自分の書いた文章くらい、責任を持つ姿勢がほしい。
たとえば、まだ12歳でテレクラに電話して、見知らぬ男に体を与えてお金を稼ぐ、とんでもない女子中学生の実態についての議論や、他国のプライドを傷つけて力で支配する、傲慢なアメリカへの予測された攻撃だったとか、反撃しても犠牲になるのは一般庶民だとか、一味違った視点からの文章を読ませてもらえないだろうか。
同じような立場で、読者投稿欄の9割がどうでもいい内容と余計なお世話だと思う。
「我が家でこんなことがありました」なんて話は、男女のノロケ話といっしょで他人には何の興味も持てないし、公衆マナーなど「こうすべきだ」と誰でもわかっていることを改めて言ってみたところで、たいした効果はないだろう。
投稿によく見られる「〜と思っているのは私だけだろうか」という文は、「いやいや、私もそう思いますよ」という賛同を期待しているようでイヤラシイ。
そんな人には、「そうや、世界中であんただけや!」などと意地悪を言いたくなる。
「正直言って」「はっきり言って」という前置きも嫌いで、「ほな、いつもの話は嘘ばかりなんかい!」とツッコミを入れずにはおれない。
「オレに言わせれば…」もダメだ。
何も変える力のない、口ばっかりで行動を起こそうとしないあんたの意見なんか、誰も聞きたいとは思わないって。
ここまで言葉に神経質なのは、ぼくだけだろうか。
(2001/9/14)
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<懐かしい文章>
家を新築することになって、一時的な引っ越しをするために荷物を整理していたら、いろいろと懐かしい物が出てきた。
まず目についたのが、教師になって間もない頃に撮られた、20代前半くらいのスナップ写真だ。
職場の宴会のようだが、こんなに若かったのか…と驚いた。
なんというか、つるんとした顔なのだ、あどけない表情で。
自分ではまだまだ若いと思っていたが、確実に年をとっているのだと思い知らされた。
高校のクラス卒業文集なんていうのも見つかった。
どんなこと書いたっけ、と思ってページをめくってみると…。
「ぼくは将来が見えてしまっているような、並みの人生でありたくない。
低次元なことにとらわれないで、開き直って、自由に、自然に、さわやかに“今”を心ゆくまで完全燃焼させたい。
それが型破りになっても、ぼくは何をするにしても、全部自分で考え、自分の好きなようにやりたい。
あとで後悔するような生き方は、絶対にイヤだ」
なかなか気合が入っていてカワイイ。
というより、基本的には今もあまり変わっていないような気がするけど。
短歌集も残っていて、懐かしい友だちの作品まで読んでいるうちに、すっかりハマッてしまった。
「やろうとも まるでわからぬ 数学よ 何になるかと 解きつつ思ふ」
これはぼくが書いたもので、英語は得意だったが、数学は苦手で大嫌いだった。
東大に何人も合格するような学校なのに、英語と空手と読書と女の子以外には興味を持たず、髪はパーマをかけて脱色し、ソリを入れ、教師からするとずいぶん扱いにくい生徒だったと思う。
その高校時代の恋人の短歌。
「灼熱の 光を浴びて 落ちる汗 ひとしずくにも 心を奪わん」
空手の練習をしているあなたを詠んだものよ、と言われた覚えがあるが、どうも高校野球の人気選手だったような疑いもありそうだ。
彼女とは3年間つき合ったあと、今やぼくのトラウマになっている「遠距離恋愛」になって別れた。
「冬近し こたつに入りて 我おもふ 手編みのセーター 誰に渡さん」
これは高校1年生で同じクラスだった、ちょっと気になっていた女の子の短歌だ。
日南の学校に勤めていたらしいが、宮崎の実家に帰る途中の海岸線で事故を起こし、還らぬ人となった。
「朝寝坊 まだまにあうと かけこむや 冷たい廊下 身にしみにけり」
ぜんぜんロマンチックでははないが、ぼくの初恋の女性の歌だ。
そういえば、厳しい進学校だったので、朝の課外授業に少しでも遅れると廊下に立たされていたなあ。
中学時代からバスケットボール部で活躍していて、すごく美人で頭もいいのに気取ったところがまるでない、太陽のように明るい女の子だった。
なのに、去年の春、やはり日南の海に身を投げて自殺してしまった。
幸せな結婚をして幼い子どももいたのに、彼女の人生に何が起こったのか、いまだにわからないままだ。
昔のアルバムを開くと、ついつい懐かしくなって時間が過ぎるのを忘れてしまうが、青春時代に書いた文章を読み返すのもまたいいものだ。
今でもつき合いのある連中もいるが、もう20年間会わないままのクラスメートがほとんどだ。
最近の高校生と比べると、ずいぶん純情なヤツが多かったが、みんな今頃どうしているんだろう。
実は、高校時代から大量に書きためていた文章のノートを、結婚生活をスタートしたときにすべて燃やしてしまった。
エッセイ、日記、小説、詩、いつも何か書いていた。
自分なりのケジメのつもりだったのだろうか、今考えたら惜しいことをした。
10代の頃にしか絶対に書けない文章は、もう二度とぼくの手元には戻ってこない。
わずかに残された昔の自分の文章を読みながら、なんとなく初心に戻って頑張ろうという気持ちになってきた。
(2001/9/15)
*****
<二流グルメ>
「グルメ」の定義はわからないが、ぼくは食事にはけっこうお金を使うほうだと思う。
子どもの頃、両親が共働きでときどきファミリーレストランやラーメン屋で夕食をとっていたせいか、外食するのも大好きだ。
一人では入りにくい店につき合ってくれる人がいたら、平気でおごったりもする。
健康の面からも、体の中に入れる食べ物や飲み物なのだから、質や量にはもっとこだわるべきだと思う。
ぼくの場合は、日頃からテコンドーで体を鍛えているので、あまり太る心配はない。
というより、最近は好きなものを好きなだけ食べるためにシェイプアップをしているような感じだ。
もちろん味がいちばん大事で、食事はいつも美味しく楽しみたい。
「あの店が美味しい」などと聞くと、どんなに遠くても値段が高くても、必ず食べに行くことにしている。
都会の事情はわからないが、宮崎ならどんなに豪勢なディナーをフルコースで食べても、せいぜい1万円程度なので、パチンコなどで何万円も無駄にすることを考えれば、安い趣味だと思う。
ぼくはシーフードが苦手なので、外食するときは肉料理が多くなる。
ステーキでも焼肉でも、肉だけはいつも高級なものにこだわりたい。
幸い地元には、宮崎牛という上質で美味しい肉があるので、いつでも満足する食事ができる。
先日は、宮崎でいちばん美味しいと評判のビーフシチューを食べた。
以前ファミリーレストランで食べて後悔したビーフシチューの5倍の値段だが、100倍は美味しかった。
いっしょに行った妹に、1万円近いアワビのステーキをオゴらされたが…。
毎日働いて給料をもらっているのに、この歳になってもうマズイものは食べたくないと思う。
こう書いてくると、典型的な美食家のように思われるかもしれないが、そんなことはない。
いつもはお好み焼きか焼そば、ラーメン、チャーハン、カレーライス、ハンバーグなど、庶民的なものばかり大喜びで食べている。
朝ごはんはトーストか、宮崎名物の冷や汁(温かいごはんに冷ましたみそ味の汁をかけたもの)がいちばんだ。
ぼくは基本的に、子どもが好んで食べるようなものに目がない。
テコンドーで激しく体を動かすし、補助運動として走ったり、筋力トレーニングをしているので、エネルギー源となる栄養面にも気を配っている。
なるべく添加物や化学調味料の少ない自然食品や、野菜や果物などバランスよく食べながら、プロテインやビタミンなどのサプリメント類もとる。
脂肪を効率よく燃やす飲料や、疲労回復のためのクエン酸は定番だ。
その一方、ときどき無性にインスタントラーメンが食べたくなったり、アイスクリームのイッキ食い、炭酸飲料のガブ飲みをやらかすという、まあ好き勝手な食生活ではある。
作家の椎名誠さんが、何かの雑誌に「派手な色素を使ったお菓子なんかでも、自分がウマイと感じれば体にいいような気がする」と書いていたが、思わず同意してしまうなあ。
今夜は美味しいステーキを食べてきたところで、ゴキゲンなのだ。
「おひとり様」では入りにくい店だったが、一人でシブくビールとしゃぶしゃぶで食事しているオジサンがいて、ああいうのもありだなと思った。
美味しいものを食べると、本当に幸せな気分になれる。
今週からは、喫茶店も含めて毎週1回は新しい店を開拓していこうと思っている。
食事が趣味なら、なんと毎日3回、1週間に21回もの楽しみがあるのだ。
二流グルメ生活は楽しい。
(2001/9/17)
*****
<風流ぶちこわし>
最近、一日のうちでとても楽しみにしているひとときがある。
それは、夜寝る前に住処である文武庵(プレハブ小屋)のロフトに上がって、ゆっくり本を読む時間だ。
外ではもう秋の気配が感じられて、開いた小窓からは、かすかな鈴虫の鳴き声とともに心地よい風が入ってくる。
本を読むうちにウトウトと眠くなるのは、まさに極楽気分。
ぼくは柄に合わず「風流」という古い言葉が好きで、忙しい毎日の中でそんな場面に出会うと、ほのぼのとした幸せを感じてしまう。
静かな秋の夜がいちばん好きで、一人の部屋で珈琲を飲みながら読書をしたり、文を書いたりするのはこの上ない喜びとなる。
そんなわけで、貴重な静けさをぶち壊しにするような騒音は不愉快だ。
珍走団(注)の「寂しいよォ!みんな注目してくれ〜!」という悲痛な叫びのような爆音、街頭でわけのわからんことを絶叫する戦車みたいなバスのスピーカー、投票前だけ「よろしくお願い」する騒がしい選挙カー、日曜日の早朝から「みなさん、おはようございます!本日は町内の清掃となっています!」とくり返す安眠妨害アナウンス…。
数え上げたらキリがない。
(注)
珍走団=暴走族。
「暴走族なんて勇ましい名前をつけるから、カッコイイと勘違いするバカな若者が出てくるんだ。
中途半端な取り締まりをするよりも、マスコミが共同してあいつらを“珍走団”と呼んで、ニュースなんかでも『昨夜、国道に珍走団が出没しました』なんてやれば、マヌケに聞こえて誰も相手にしなくなる」
という週刊誌の記事を読んで以来、ぼくも彼らをそう呼ぶことにしている。
日本人のほとんどが不感症になっている、スピーカーやテープ音の公害については、新潮文庫の「うるさい日本の私」(中島義道)をぜひ読んでほしい。
著者は自分でも認めているようにほとんど「病気」だが、マイノリティの主張に耳を傾ける価値は大きい。
たしかに彼の言うように、日本全国、町中がお節介で無意味なテープ騒音であふれている。
オーストラリアの地下鉄のホームに立ったとき、日本とは雰囲気が違うことに気づいた。
余計な放送やテープが流れることはなく、けたたましいベルも鳴らず、電車が入ってくる音以外はとても静かなのだ。
車内でも、大人なら常識でわかりそうな、聞いても聞かなくても同じ放送はいっさい流れない。
日本では、親切といえばそうなのかもしれないが、バス、デパート、海水浴場、銀行のキャッシュマシン、はたまた自動販売機まで、余計なお世話としか思えない放送や、機械的なテープの声をくり返し聞かされることになる。
キャッシュマシンごときに「画面の上に物を置かないでください」などと、ため息まじりの声で注意されたときには、「生意気だぞコノヤロ!」と叩きたくなった。
いっそのこと、これらの無意味としか思えない音声を、一度全部やめてしまったらどうだろうか。
そうすれば、どれが本当に必要なものかが判断できて、「静かな日本」になると思うのだが。
宇宙飛行士の向井千秋さんが、宇宙から見た地球の映像をテレビ中継で紹介していた。
ある評論家がそれを見て、
「この映像を、音も説明もいらないから、何十時間も流し続けてくれる放送局がないかなあ」
と言ったそうだ。
かなりぼくの感覚に近い。
ぼくは以前、宮崎のプラネタリウムで上映される、SFアニメの英語バージョンの声優をしていた。
録音に行くたびにプラネタリウムを見せてもらって、人工とはいえ美しい星空に星座の絵を重ねたりしながら、ずっと説明の放送が流れ続けるのが煩わしいような気がしていた。
そこで、係の人に提案してみた。
「せっかくきれいな星空を再現することができるのだから、ずっとそのままにしておくか、せいぜい静かなクラシックをボリュームを絞って流す程度にしてみてはどうですか。
仕事帰りのサラリーマンや恋人たちが、ここの星空を見て心を癒せるように。
せめて月1回でも、そんな日を設けてはどうでしょう」
実現したらロマンチックでいいと思ったのだが、まったく相手にされなかった。
黙っているのが、なんとなくお客さんに申し訳なく感じてしまうのだろうか。
ぼくならくどい説明を聞かされるよりも、ほっとかれて静かに星空を眺めさせてもらうほうが、サービス度が高いと判断するのだが。
(2001/9/18)
*****
<文章を書き続けること>
今夜で、自宅でホームページを更新することが当分の間できなくなる。
実家が25年目にして改築をすることになり、その敷地内にあるプレハブ小屋の我が住処「文武庵」の唯一の機能である電気が止まってしまうからだ。
新しい家が完成するのが約3ヵ月後ということだから、年末まではインターネットもできない。
過去日記(2001年7月)の最後に、「『文武両道』の存続危機?」というくだらない文章を書いた。
2000年2月27日に始めたホームページも、いろいろな意味でストレスになってしまって、もう思い切ってやめてしまおうかと考えていたのだ。
しかし結局、意を決して文章道場訓(2001/8/13)を掲げ、またしても独りよがりな文章を書き連ねていくことになった。
文を書くことは欠点だらけの自分をさらけ出す行為で、時間とともに考え方は変っていくし、そのときのコンディションによって、文章の流れも違ってくる。
そうすると、過去に書いたものと比べて矛盾点も出てくるだろう。
ぼくの最初のエッセイ集「HOW TO 旅」では、「アナログ万歳!」というタイトルでああだこうだと屁理屈を駆使し、パソコンやインターネット不要論を展開しているくらいだ。
他にも、恥ずかしくて二度と読み返したくない文章が多い。
インターネット上で、特に言論で自分を表に出すことは、不特定多数の批判をストレートに浴びることになる。
特にぼくの場合は「娘への手紙」で、離婚によって不本意ながら離れて暮らすことになった娘への思いを綴ってきたので、ぼくがやさしい父親であっては不都合な立場と思われる方々から、さまざまな嫌がらせが続いた。
その一方、ぼくが多少なりとも自己嫌悪を感じている「日記」や「エッセイ」を応援してくれるメールも、意外なほどたくさん届いた。
批判も反論も、嫌がらせさえも、ひとつの反応だ。
何も反応がないということは、まともに読まれていないか、読んだとしても特にインパクトはなかったということだろう。
あたりさわりのない文章で無難にやり過ごすくらいなら、最初から公開しないほうがマシだ。
今では、そう開き直っている。
だからぼくは、これからも自分のイメージを壊すことを恐れず、期待もどんどん裏切っていくだろう。
それで離れていく人は、いくら愛想よくしてつなぎ止めようとしても無駄で、最初から縁のなかった人なのだと思うしかない。
「100人の賛同者ではなく、90人の敵と10人のシンパをつくる覚悟で書く」とは、そういうことだ。
そう思えるようになったきっかけのひとつが、最近読んだターザン山本の「豪速球」と、中島義道の「ぼくは偏食人間」という、人間性をむき出しにした2册の本だ。
両方ともぼくが今距離を置いている「日記」なのだが、自分の弱さや情けなさを隠さずに本音で書けば、ここまで強烈な文章になるのか、他人を元気にすることができるのかと、改めて日記というジャンルを見直している。
元プロレス雑誌編集長でバツ2のターザン山本氏のキャッチフレーズは、「俺の信念は“自暴自棄”と“自画自賛”“自業自得”だ!」というものだが、いーじゃないっすかー。
日常生活のふとした場面、瞬間に、無性に文章が書きたくなることがある。
その場でポイントをメモするが、車の運転中であればマイクロカセット・テープレコーダーに声で録音するか、携帯で文武庵の留守電にメッセージとして残しておく。
そうしないと、すぐに忘れてしまうからだ。
だから文章を書くネタは、まだいくらでもストックしてある。
しかし、残念ながら時間が足りない。
なぜ文章を書き続けるのかというと、ぼくの答えはただ1つ。
「好きだから」
(2001/9/21)
*****
<マラソン人生哲学>
秋の地元イベントのひとつ、「綾・照葉樹林マラソン」に初めて参加した。
去年大会の様子をテレビで見て、青空の下で自然の風景を楽しみながら走るのは気持ちよさそうだな、と思ったことがきっかけだ。
道場の仲間Aさん(男・36歳)とIさん(女・18歳)も参加するので、日曜日の早朝から3人で出かけた。
雨の中、宮崎市から車をとばすこと30分。
会場には、すでにたくさんの人が集まっていた。
雨天決行で、受付けをすませた時点ですでに靴の中までビッショリ。
イメージとはまったく逆の、あまり気分がのらない雰囲気だった。
初参加のぼくは5km。
3日前、実に15年ぶりに走ってみただけだ。
若いIさんは元陸上選手、12月の「青島太平洋マラソン」ではフルマラソンを走るという。
今回の主役は、ぼくと同じ年のAさん。
最近練習していたとはいえ、いきなりハーフマラソンに挑戦だ。
結果は3人とも無事完走。
Iさんは207名中なんと5位、さすがだ。
Aさんはあと5kmというところで足を痛め、それでも決して止まらずに感動のゴールを果たした。
ちなみにぼくは、ごく平凡なタイム。
走ったあとに近くの川の冷たい水で足を冷やしたときは、本当に気持ちがよかった。
+++++
綾町といえば、失礼ながら宮崎でもかなり田舎のほうだ。
そこに毎年、県外からも含めて約5000人の参加者が集まってくる。
参加料は3000円前後と、決して安くはない。
ちょっとした参加賞はつくが、あとはせいぜい自分の順位がわかるくらい。
参加者たちを見回すと、マラソン愛好家というか、かなりハマっている人もいれば、まったくの素人も多い。
年齢層も子どもから大人まで(最高齢89歳!明治生まれ)、かなり幅広い。
どうしたらこんなにたくさんの人が、お金を払ってまで遠くから集まってくるのだろう。
この大会は今年で第15回になるが、始めた頃はどうだったのかが知りたい。
実は来年、うちの道場(宮崎ITFテコンドー道場)が初の九州大会を開催する予定なのだ。
アマチュアスポーツである空手やテコンドーの試合の多くは、イベントとしてはあまり盛り上がらず、少ない観客のほとんどが選手の家族や友人というのが実情だ。
入場料は取らないが、選手主体の試合の流れになっているので見る側への配慮に欠け、どうしても団体の自己満足的な行事で終わってしまうというのが印象だ。
せっかく日ごろ一生懸命に練習していても、その成果の発表の場に人が集まらなくては、いつまでたっても普及はかなわず、マイナーな趣味の世界の域を脱することができない。
もちろん一般の人々が興味を持つような内容がなければいけないが、集客力のあるイベントのノウハウや条件をもっと研究する必要がある。
今回はまったく練習していなかったので、自分のペース配分がつかめないまま、最初にとばしすぎて後半バテてしまった。
小学生の男の子や、女子中学生、白髪の年配の人たちにも次々とぼくを抜いていく。
これは新鮮な体験だった。
年下でも自分よりすぐれている分野があるし、日ごろから鍛えていれば、年をとっても若者に勝つことができるのを実感した。
自分のもとは思えないほど重くなった足を動かしながら、「あと2km」という表示を見てゲンナリした。
田んぼ道を走るので、はるか先まで人が走っているのが見えて、「まだあんなにあるのか」とやめたくなった。
しかしそれは、ぼくが5kmという短いコースを選んだからだった。
20km以上のハーフを走ったAさんは、「あと13km」という表示を見たときにはじめて、「まだそんなに走るのか」と思ったという。
たぶん「あと10km」では「もう半分だ」、「あと5km」では「残りわずかだ」と思ったことだろう。
ぼくがはるか遠くに感じた5kmも、最初から20kmを目標にしていた人にとっては「わずか」な距離にすぎない。
目標を高く置くことの大切さは、ここにある。
まったく同じものを見ていても、その人の志の高さによっては、ぜんぜん違うように見えるということだ。
これを自分の生活や人生に活かさない手はない。
ぼくは20代の頃、自分の人生計画表を作ったことがある。
達成率はともかく、今でもたまに見返すことがある。
夢は大きく、目標を高く持ち、自分の人生を長いスパンで眺める感じになる。
日々の生活はその夢に向かうプロセスなので、ちょっとしたトラブルがあっても、まるで老後に思い出をふり返るように、数ある人生の出来事の1コマとしてとらえることができる。
時間についても、同じことがいえるのではないだろうか。
忙しい、忙しいと言って心にゆとりのない毎日。
同じ理屈で意識を変えれば、時間の流れるスピードも違って感じられるような気がする。
あれやこれやと気を散らさず、今やるべきことに一点集中すれば、時間はたっぷりと与えられていることがわかると言った哲学者がいた。
…ちょっとしたことを経験すると、それをこじつけて人生哲学を語るのがぼくの悪いクセだ。
来月の「青島太平洋マラソン」(10km)に向けて、今回の反省を生かしてしっかり練習しよう。
また何か、別の風景が見えるかもしれない。
(2001/10/28)
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<戦って散った男たち>
心を揺さぶられる話を聞いた。
9月11日、ハイジャックされた2機の旅客機が、ニューヨークの貿易センタービルに次々と激突した。
乗客たちは全員死亡、ビルの中や周囲にいた数千人の人々も一瞬にして命を奪われた。
3機目のハイジャック機はペンタゴン(米国防総省)に突入、4機目は真相が明らかにされていないが、実はホワイトハウスではなく核施設を狙っていたため、大統領から撃墜命令が出されてミサイルが発射されたとの説が有力だ。
この4機目の機内で、テロリストに立ち向かった数名の乗客のドラマがあったらしい。
乗客の多くは、携帯電話で貿易センタービルの惨劇を知らされた。
自分たちも、どうあがいても数分後には死ぬ運命にある。
銃を持ったテロリストたちを前に、泣きながら震えているしかなかっただろう。
このような絶望的な状況の中で、なんとテロリストに立ち向かった男たちがいたという。
電話で「ぼくは何をするべきか」と問う夫に、「あなたは戦うべきよ」と答えた妻がいた。
ある男は、会社に電話して「いっしょに祈ってくれ。そして妻に伝えてくれ」と言って立ち上がった。
素手の乗客が、武器を持ったテロリストに飛びかかっていったのだ。
もちろん勝てるはずがない。
一瞬にして射殺されたはずだ。
しかし結果的には、目立たないようにじっとしていた乗客も全員、助かることはなかった。
あなたならどうしますか?
いや、自分ならどうするだろう。
万に一つテロリストを制圧できたとしても、飛行機を操縦しているのは、死ぬことを何とも思っていない別のテロリストなのだ。
少し前に世間を騒がせた、包丁を持った少年によるバスジャック事件。
車内では幼い女の子が人質になり、犯人を説得しようとした女性が刺殺された。
隙をみて窓から逃げ出したのは、中年の男性(合気道の師範という噂だ)だった。
事件後の彼に対するバッシングはすさまじかった。
たしかに男として情けない気がする。
しかし、その男性を非難している人がもしその場にいたとしたら、本当に犯人に立ち向かうことができただろうか。
私の友人である空手の有段者が、若い頃ケンカに明け暮れていたある日、相手が包丁を出してきたそうだ。
幸い大事には至らなかったが、正直に告白してくれた。
「体がすくんで動けなかった。血の気が引いたよ。日頃はナイフを持った相手に対する護身術など教えていたけど、実際に刃物を見せられたとたんに恐怖で震えるだけだった」
格闘技はあくまでも素手による闘いが前提で、凶悪な殺人犯のナイフやピストルに対抗する技術を磨いているわけではない。
武道のいくつかはそのような状況も想定しているかもしれないが、いずれにしても狭い機内で武装した数名のテロリストにかなうわけがない。
いざというときに、どのような行動を選択するか。
今回のアメリカ同時多発テロは極端な例かもしれないが、不当な暴力(肉体的・精神的)に対して「逃げるか、戦うか」は、人間の生き方と覚悟の深さによって決まるだろう。
格闘技術などという以前の問題だと思う。
そうは言っても、宗教を背景に長い年月をかけて築き上げた覚悟に対して、突然想像もしなかったような場に立たされて、ごく短時間で同じレベルまで胆をくくるのは、並の格闘家や武道家ではとても無理な話だ。
だからこそ、あの事件で一人の人間としてテロリズムに立ち向かった誇り高き男たちに、心の底から尊敬の気持ちがわき上がってくる。
実際にその場になってみないとわからないことだが、どうせ死ぬしかない運命ならば、前のめりに倒れたいのが男だろう。
少なくとも、自分の生き死にが邪悪な他人の自由になることだけは我慢がならない。
一生に一度もないほどの話だが、究極の選択が迫られるその瞬間こそ、個人のの全人格が問われることになる。
(2001/10/31)
*****
<離婚宣言あれこれ>
“まついなつき”というエッセイストが、「愛はめんどくさい」という本を出したのを書店で見かけた。
ザッと目を通したところ、どうも夫と姑の悪口をさんざん書きまくったあげくの「離婚宣言」らしい。
思わずため息と苦笑いが出てしまった。
まついなつきといえば、「笑う出産」や「笑う英会話」などのジャンク本で、今までさんざんノロケ話を書いてきた人だ。
それもストレートなノロケではなく、「私たちってこんなに風変わりでユニークな夫婦なんですよォ」的なおどけた表現で、だ。
やはりどこか無理があったというか、不自然なパフォーマンスは長続きしないということだろう。
このタイプの女性エッセイストに共通するのが、文章を世間に流せる特権を利用して、事実を自分に都合のいいようにオブラートでくるみ、言葉巧みに相手を非難して保身に走ることだ。
最近のいちばんヒドイ例が、二谷友里恵の「盾」。
あれほどはしゃいでいた自分が離婚という結末を迎えたテレ隠しなのだろうが、恥ずかしいと思わないのだろうか。
「ちびまる子ちゃん」とかいうマンガの作者でもある“さくらももこ”(またしてもひらがな名)もそうだった。
こちらも立ち読みだったので細かい言葉までは覚えていないが、だいたい次のような書き方がしてあったと思う。
「離婚の原因は他人に言うことではないが、今これだけは言えるのが、もう二度と元ダンナとはかかわりたくないということ。いろいろ悩んでいたけれど、思い切って離婚してみたら、まわりの人がみーんな『よかったよかった、あんな人と別れて正解だった』と口をそろえて拍手かっさい。だからきっとよかったんだろう。 以上。」
ずるい書き方だなあ、いやらしいなあ、と思った。
相手に非があったことを「まわりの人」の口を使って言わせるかたちで、自分が発言して責任を取ることから逃げている。
同じ非難するにしても「あんなヒドイ男を選んでしまった自分がバカだった」と書いてくれたほうが、よっぽど潔いのに。
実はぼくも、拙著「HOW TO 旅」というエッセイ集の最終章で、離婚したあとの情けない自分の姿を書いている。
しかし同じ本の中で、結婚する前後のアホバカノロケ文章もあえて載せた。
こんなに舞い上がってたのに、結局は離婚かよー、と言われてもしょうがない編集だ。
自分の恥をさらしたわけだが、それがぼくの真実だったからだし、文章を世に問う者としてのこだわりもあった。
ただし、別れた妻の悪口はいっさい書かなかった。
だって、一度は真剣に惚れて、一生二人で生きていこうと「自分が」決めた相手じゃないか。
恥ずかしくてそんなことできないよ。
「HOW TO 旅」最終章、「シェリー −別れた妻へ、そしてぼくのたった一人の娘へ」の反響は、思ったより大きかった。
「いちばんはじめに最後の章を読んだ」という人がほとんどで、スキャンダル好きな人が大嫌いな作者としてはちょっとガッカリだったが、まあそれが正直なところだろう。
事情を知っている人からは心強い励ましの言葉をもらったが(この書き方もかなり卑怯だな)、知らない人からの反応はさまざまだった。
「せっかく買ったのに離婚の原因がわからなくて損した」
「浮気したんでしょ?」
「女々しい文章だな」
「そんなに寂しいならなんで離婚したの?」
今どき時代遅れのような気もするが、ぼくが離婚経験者というだけで、手のひらを返したように人間性を侮辱しはじめた偏見の強い人もいた。
こちらが調子よく活躍しているときやメリットがあるときにはチヤホヤして、そうでなくなると離れていく計算高い人も。
とはいえ、予想もしなかったような人生の不運にみまわれて初めて、自分自身の偏見にも気づくことができたし、他人に対してやさしくなれたような気がする。
ぼくの青春は離婚という失敗に終わってしまったが、ただひとつポジティブにとらえられるとしたら、それは(たとえ会えなくても)愛する娘が存在してくれていることだ。
心理学の統計によると、人生の出来事の中で、ストレスがもっとも大きくトラウマになりやすいことのひとつが、離婚だという。
ぼく自身、前妻はともかく娘のことがあったので、3年以上も気持ちの中でひきずっていることを認めないわけにはいかない。
後ろには下がれないのだから、とにかく前に進むしかないと思いながら今日までやってきた。
今思う。
いろいろと好奇の目で見られて、つまらないうわさを立てられたり、気まずい思いもしたけれど、自分の中で最低限のルールを守り通してきてよかったと。
過去を忘れようと努力するのも大切だが、映画「マグノリア」のセリフのように、過去はどこまでもついてまわるのだから、受け入れて生きていくしかないのだ。
(200/11/5)
*****
<泣き言をいわない>
「我々が恐れるべきことはただひとつ、恐れることそのものである」
といったのは、アメリカのルーズベルト大統領だった。
彼は最初に「私は絶対に恐れない!」と決心して、攻めの政策を打ち出してアメリカ国民に世界大恐慌を乗り越えさせたという。
自分自身に「絶対に〜しない!」と誓って宣言することは、大なり小なり選択の連続である日常生活や人生において、意外な力を発揮するものだ。
ちなみにこのホームページのスローガン「群れない 媚びない 偉ぶらない」は、TVドラマ「HERO」のキャッチコピーが気に入っていただいたもの。
あるカウンセラーからもらった言葉。
「ストレスは存在するものではなく、自分がつくり出すものだから、つくらなければストレスフリーです」
真理はいつも単純なものだ。
「私は絶対に悩まない!」と決めてしまえば、もう悩まないのだ。
ある高名な武道家が、短気で悩んでいる人から相談を受けて、ただ一言。
「怒るな」
相手は思わぬアドバイス?に唖然としたそうだが、たしかに自分の行動と同じく、感情も他の誰でもない自身が決めることだから、怒らないという選択をすればいいだけのことだ。
そう簡単にはいかないよ、というのが大方の意見だろうが、それが自己変革の第一歩であることはまちがいないし、他に方法はない。
会社に掲げてある社訓は、それができていないからこそ社訓にしているのだ、という皮肉な見方がある。
ちゃんとできていればわざわざ声を大にして言う必要もないし、交通標語や政治家の公約についても同じことがいえる。
「小さいことにくよくよするな!」的な本を書く著者にかぎって、小さいことにくよくよする性格なのはまちがいないだろう。
…という言い訳を前置きに、ぼくが自分自身に約束していることを公表して、有言実行につなげたいと思う。
「泣き言をいわない」
ぼくたちは一人の大人として、他人や環境に左右されない、主体的な生き方をもう一度見直す必要がある。
(2001/11/6)
*****
<映画「GO」を見て>
直木賞を受賞した金城一紀の小説が原作の、映画「GO」を見てきた。
仕事帰りに映画館に立ち寄ったのだが、なんと客は自分たちだけで誰もいない。
平日とはいえ夜なのにシアター貸切状態、宮崎の映画文化はこれでいいのか?と心配になる。
ぼくは洋画のほうが日本の映画より好きで、見ている割合は9:1くらいだと思うが、「GO」はなかなかおもしろかった。
在日韓国人(朝鮮人)高校生の破天荒な青春と恋愛を描いた作品で、テーマが重いわりには軽快なテンポでストーリーが流れていく。
主演の窪塚洋介の恋人役、柴咲コウは美人だった。
「GO」を見ているうちに、大阪の学生時代に同じアパートに住んでいた金田(仮名)のことを思い出した。
ぼくはそれまで、在日の人たちについてはほとんど知識がなかった。
ある夜、誰かの部屋に集まってバカ話などしているうちに、結婚の話題になった。
そこで金田が、「おれは日本人の女性とは結婚できないんや」と突然言ったのだ。
「おれの本当の名前はキム(金)、実は在日韓国人なんや。日本生まれの日本育ちやで。決まりというわけではないんやけど、在日は在日同士で結婚せなあかん風潮やねん。好きな女の子がおるけど、彼女は日本人やからあきらめとる」
ぼくたちの大学は外国語大学、キャンパスは世界中から集まったさまざまな外国人留学生でいっぱいだった。
その中で金田がナニ人だろうがほとんど意味がないが、ぼくたちは「好きな子ができても結婚できない」という金田の言葉に、うーん、と考えこんでしまった。
金田が2つの名前を持っているということも、何か不思議な気がした。
その夜、金田からいろいろな話を聞いた。
芸能人やプロスポーツ選手の誰々が、実は在日韓国人なのだということ。
パチンコ店などの会社経営者にも、在日の人が多いということ。
在日韓国人として生まれた、自分の子ども時代から今までのこと。
そのためのさまざまな社会的制限について。
当時ぼくが修行していた、極真空手の館長である大山倍達氏も韓国の人(現館長の松井章圭氏も同じ)だったが、特に隠している様子はなかったように思う。
かつて日本中を熱狂させたプロレスラーの力道山が朝鮮出身だったのは、格闘技界では誰でも知っている話だ。
そのカリスマ性とパワフルなエネルギーに、在日という条件が影響していたのかどうかはわからない。
とにかく気合が違うというか、大山氏に握手してもらったときなど、高齢にもかかわらず、ぞの気迫にはすっかり圧倒されてしまった。
十数年後、ぼくはテコンドーという朝鮮生まれの武道と出会った。
在日朝鮮人である、たくさんの師範や指導員の人たちと交流するようになった。
アイデンティティのことで複雑な思いもあっただろうが、彼らはいつも明るく元気で前向きだ。
負けずぎらいで向上心も強く、ぼくはいつもいい刺激を受けている。
彼らの自国文化に対する強い誇りは、日本人もぜひ見習うべきだと思う。
この問題については、不勉強のまま論じてはいけないだろう。
ただ、「21世紀」の「国際社会」においてさえも、まだまだ偏見や差別が残っているとしたら、それは誰にとっても恥じるべきことだ。
上下ではなく、横並びの「違い」ということで理解しあう努力を続けること。
それを小さな第一歩にするしかない。
(2001/11/9)
*****
<道場破り>
高校時代、実戦空手K会の道場に通っていたときのことだ。
ある日、練習時間より早めに道場に着いたら、背は低いが体つきのゴツイ男が入ってきて、事務所にいた先生とゴチャゴチャやっている。
道場には高校生のぼくと、小柄で弱そうなおじさんだけだった。
2人とも、まだ青帯(白帯のすぐ上)だ。
しばらくすると先生がその男を連れてきて、ぼくのほうを見て言った。
「○○(ぼくの名)、こいつと組手をやれ」
「押忍(オス)」
何を言われても「オス」の世界だったので、とりあえず返事はしたものの、まだろくにアップもしていない。
突然だったので事情もわからず、どこまで本気でやっていいのか迷いが出てしまった。
とりあえず構えて、先生の「始め!」の声がかかった直後。
ぼくはその男の太くて短い足で、思いきり急所を蹴られた。
ズゴッ!という音のあと一瞬の間があいて、ぼくはその場にうずくまった。
それでもまだ普通の組手だと思っていたので、吐き気と痛みに耐えながら、相手に「ちょっと待って」と言った。
ぼくはまだやるつもりだったが、先生はすぐ、もう一人のおじさんに「できますか」と聞いた。
もちろんおじさんも「オス」なのだが、同じ青帯とはいえ、それまで学校の空手同好会で練習していた若いぼくと比べると、見るからに頼りない。
ところが意を決したおじさん、気合十分で男と対等に打ち合いはじめた。
どちらも技にキレがなく、殴る蹴るしながら前に出るだけで、一向に勝負がつかない。
とうとう男がスタミナ切れして、「もういい…」と手で合図してきたそのとき、先生の怒号が道場内に鳴り響いた。
「『まいりました』だろうがッ!」
おじさんは、先生がやめろと言うまで攻撃をやめようとしない。
男はしかたなく、「…まいりました」とつぶやくように言った。
いつのまにか男は帰って、他の道場生たちが顔を見せはじめた。
いきなり急所を蹴られて中断、自分の力をまったく発揮できなかったぼくは、先生から事務所のほうへ呼び出されて厳しく叱られた。
「あいつは道場破りみたいなもんだ。こっちの代表で出したのに、キン○○蹴られたくらいでやめてどうする。実戦なら『ちょっと待って』なんて言えんだろうが。いつものおまえらしく遠慮せんでボコボコにして、血ダルマで放り出したらよかったんじゃ!」
「えっ、やってよかったんですか?素手で顔面殴っても?」
「相手が失礼なことをしてきたんだ。何されても文句は言えんはずだろう」
「オス…」
「ナメられたら終わりだ!」
事情を知っていれば、あんなぶざまな結果には終わらなかったのに…。
悔しくてしかたなかった。
日頃はおじさんのことを軽く見ていたが、ぼくの失態を見て用心したとはいえ、いざというときの覚悟はしっかりしていた。
その日の練習は、悔し涙をこらえながら必死でやった。
打撃を受けた部分は、大げさな話抜きで3倍以上に腫れ上がっていた。
自転車に乗って帰るどころか、歩いて足を交差するだけでも激痛が走った。
腫れは数日たってもひかず、内出血してドス黒くなってきたが(あそこは湿布ができない)、恥ずかしくて誰にも言えず、病院にも行かなかった。
この体験は、どうやらぼくのトラウマになってしまったようだ。
後日自分の道場を持ったときに、見学と称してナメた態度をとったり、自分は格闘技経験者だからすぐスパーリングをさせろなどと言われたら、かなり厳しく対処してきた。
ちょっと乱暴すぎて反省したこともあったが、武道の道場なのだから、ある程度のプライドは必要だと思う。
ずっとあとで知ったことだが、その空手の先生は、ある暴力団組長の用心棒をしていたらしい。
どうりで生きる気概が並みの人間とは違っていたはずだ。
チンピラごときに道場主が出るわけにはいかなかったが、もしそうなっていたら勝負は一瞬にして決まっていただろう。
その後先生はK会を離れ、自流の実戦空手道場を起こし、年をとって少し丸くなった今でも圧倒的な存在感で活躍しておられる。
ぼく自身は先生とは正反対のタイプで、いまだに小心でひ弱な男なのだが、若い頃に武道の厳しさを教えてもらったことは感謝している。
「ヨーイ、ドン!」で始まったり、反則技などのルールはスポーツの話。
いつ何時、どこで誰とやることになっても、胆(ハラ)が決まっていること。
危険な場面ではウォーミングアップなどできないし、待ったなしの世界。
泥くさくても、負けないことがすべてなのだ。
(2001/11/12)
*****
<PRIDE>
今日本でいちばん人気のある格闘技イベント「PRIDE(プライド)」が、ついに12月23日に九州上陸、福岡マリンメッセでPRIDE18を開催する。
世界最強と言われるヒクソン・グレイシーVS高田信彦や、ホイス・グレイシーVS桜庭和志などの豪華カードで、今やあのK-1を越える勢いだ。
チケットの先行予約日に朝から電話をかけまくったが、全国から殺到しているらしく、回線がパンク状態でまったくつながらない。
ほとんどあきらめかけていたところに、秘書からの「チケット取れました!」という連絡。
なんとロイヤル・リング席(2万3千円)だ、やった!
初めてアントニオ猪木と「1・2・3・ダーッ!」ができる。
宮崎に住んでいるために、大きな格闘技イベントに行く機会が極端に少ない。
今まで生で観戦したのは、故アンディ・フグが優勝したときのK-1(横浜アリーナ)と、RINGS福岡大会くらいのものだ。
都会に住んでいたら、ぼくはまちがいなく格闘技観戦マニアになっていたはず。
PRIDEシリーズは今まで、スカイパーフェクTV!を持っている同僚にペイ・パー・ビューの2000円とビデオテープを渡して録画してもらい(夕方から5時間くらい)、終わったら夜中でもすぐ取りに行って、ほとんど徹夜で見ていた。
田舎はK-1の中継さえないので、京都に住む空手時代の後輩K(現骨法整体師)が、もう15年も録画ビデオを送ってくれている。
映画好きが高じて、年末に家の改築が終わるのをきっかけに、10畳ほどの洋室をホームシアターにする。
もちろん衛星放送やケーブルテレビも契約するので、これからは友人にも世話をかけずに格闘技ライブ三昧。
庭に建っているプレハブはトレーニングジムに改造するので、もう来年からぼくは家から出てこないかも。
これほどの格闘技オタクとしては、「なんでもあり」で一躍脚光を浴びたアルティメット大会からPRIDEまでの最近の異種格闘技路線は、まさに夢のようなイベントの連続といえる。
今まで決して交わることのなかったファイターたちが、ひとつのリングの上でガチンコで闘っているなんて、これが興奮せずにいられようか。
まったくいい時代に生まれたと思う。
その反面、多くの格闘技や格闘家たちに抱いていた幻想は、見事に打ち砕かれた。
武道の達人や必殺技などといった神秘めいたものも、ほとんど底が見えてきた。
違う種類の格闘技の選手が闘う場合、勝敗を決めるのは強さではなく「ルール」であるという現実がわかってしまったからだ。
たとえばボクサーとレスラーの試合では、打撃のルールならボクシング、組み技ならレスリングが有利にきまっているし、折衷ルールにしたら、立っている間にうまく打撃が当たればボクサー、つかまえて倒してしまえばレスラーの独壇場となるのは明らかだ。
最強などといっても一つのルール内だけの話で、外に出て違うスタイルで闘えば、鬼のように強く見えた人が何もできないままコロッと負けることもあるわけだ。
もっとわかりやすく言えば、同じボールを使ったスポーツじゃないかと、バスケットボールとバレーボールが対抗試合をしたり、どちらもラケットを使うからといってテニスとバドミントンを競わせても意味がない。
それでも、こと格闘技に関してだけは「ケンカ」に近いイメージがあるのか、すぐに「どちらが強いのか?」という疑問がわいてしまう。
それを十分わかった上で、一格闘技ファンとして勝手なことを言わせてもらうと、違うジャンルに挑戦しようとする選手は、もっと自分のスタイルにプライドを持ってほしい。
よく「もう少しあのルールの練習をしてから闘いたい」という発言を聞くが、あれにはガッカリする。
自分たちの格闘技術(防御も含めて)を信じているのなら、相手が誰でどんな攻撃をしてこようと、その技術体系の中で倒すべきだろう。
自分の流派と同じ動きをしてくれないと対応できないというのであれば、それは実戦で使える技を故意に制限した、格闘技としてはかたよりのある、単なるスポーツ競技の一つになってしまう。
空手やテコンドーの選手がK-1に参戦したことがある。
残念だったのは負けたという結果よりも、キックパンツをはいて入場したことと、いつもの試合ぶりとは動きがまったく違ったことだ。
相手の技術体系に合わせて、勝てるわけがない。
堂々と道着姿で、自分の流派の技で闘ってほしかった。
「団体の看板を背負うのではなく、あくまでも個人としての挑戦だ」という選手の発言はシラけるし、ファンは誰もそんなことは信じていない。
言い訳じみたことは自分で思っておけばいいことだし、プロなら言うべきではない。
負けた試合のあとに「実はケガをしていた」と報道してもらう選手も多いが、負けるよりも恥ずかしいことだと思う。
「見る側」と「やる側」では、感じ方も考えもまったく違うだろうが。
(2001/11/15)
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<青島太平洋マラソン>
10/28の綾・照葉樹林マラソンに続いて、さらに大規模な青島太平洋マラソンで10km走ってきた。
体調は万全、青空と木々が美しく、空気が澄んでいて気持ちよかった!
今回も、練習したのは3日前に5kmを1回だけ。
しかし綾の反省(最初にとばしてバテた)を生かして、今回は自分のペースを守って走った。
結果は平凡ながら、自分の予想を上回るタイムだった。
先日のたった1回の練習のとき、ジョギングのように気楽に走ってみたら、まったく疲れなかった。
まだいくらでも走れるような余裕があった。
それでいて、そんなにタイムは変わっていないのだ。
車を運転しているとき、めちゃくちゃとばしている車に追い抜かれても、しばらくして信号待ちで追いつくことがよくある。
追いつかなくても、目的地に到着する時間はそんなに変わらない。
高速道路で長距離の場合は差がつくかもしれないが、その代わりに危険度は増す。
また、小さな体験談から大げさな人生論が始まった。
でも人生の中では、短距離の発想よりも長距離の戦略のほうが功を奏することが多いように思う。
人間関係でもきっとそうだ。
短距離の連続では一喜一憂しすぎてストレスがたまるし、いつも心の中は焦っている。
綾マラソンでいっしょに走ったIさんは、今回見事にフルマラソン42.195kmを完走した。
ハーフを走ったAさんは、今回は休日返上でマネージャー役をやってくれた。
大会後に行った清武温泉の露天風呂は最高だった。
今、とても疲れている。
しかし、疲れにも疲労でボロボロの状態と、達成感で心地よい疲れというのがある。
後者は快楽だ。
来年の綾では、ハーフマラソンに挑戦したい。
(2001/12/9)