【花かげ残照】
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大店の薬種問屋「日向屋」のひとり娘お美代は、幼いころから
出入りの人力車夫の息子慎吉を兄のように慕って育った。
「ねえ、慎ちゃん、大きくなったらあたいをきっとお嫁さんにしてね」
「おう、まかしとき。おいらの嫁さんはお美代ちゃんしかいねえよ。」
「うれしい!慎ちゃん、きっとよ。約束げんまん・・・」
時は流れ、お美代は美しく気立てのよい娘に育った。慎吉もたくましい
若者となり、死んだ父のあとを継いで人力車をひいていた。
あちこちから寄せられる縁談にお美代は見向きもしない。
ただひたすらに慎吉の妻となる日を夢見ていた。慎吉も、主家の娘と
しがない俥引きという、どうしようもない壁を承知しつつも、お美代への
想いをつのらせていた。
やがて…隆盛を誇った日向屋の身代に翳りが見え始める。お美代の
父清兵衛は、店の建て直しのため、取引先の稲穂銀行の頭取の息子と
お美代との縁談を進めていた。
逆らいようのない父と先方の強引な段取りで、見合い、結納と過ぎ、
いよいよ今夜は祝言の春の宵・・・・・白無垢をまとったお美代は
いとしい慎吉の引く俥で、嫁ぎ先へと向かう。
夜空にぽっかりと浮かぶおぼろ月。その淡い光に照らされた桜並木の道。
満開の桜吹雪が舞う中で、白無垢の花嫁御寮がぽつりと車夫につぶやく。
「慎ちゃん、これでいいの?お嫁さんにしてくれるんじゃなかったの?」
「お美代ちゃん、いい縁談じゃねえか。しがねえ俥屋の女房なんかに
なっても苦労するだけだぜ。」
「いやだよ慎ちゃん!お願い。このままあたいを乗せて
どっか遠くへ連れてってよ・・・ねえ、慎ちゃん」
「悪ぃがおいら所帯なんてえ窮屈なもん、持ちたくねえしよ・・・」
「やだ・・・やだよ・・・慎ちゃん」
「すまねえ・・・お美代ちゃん、幸せになってくれよな・・・」
白い綿帽子に隠れたお美代のほほと、編み笠の下の慎吉のほほを、
ともに二筋、キラリと光るものが流れ落ちる・・・・・わだちを転がる車の
きしみと、かわずの鳴き声だけのおぼろ月夜。桜吹雪がいっそう激しく乱れ舞う。
童謡「花かげ」

【パチンコ考】
パチンコときくと、幼いころや無為に過ごしていた学生時代を思い出す。
パチンコは、戦後、名古屋で始まったといわれる。当時はやたら釘が
あって、工夫のない入賞穴だけのものだったが、またたくまに広がって
いったらしい。
私の父も、娯楽の少なかった昭和30年代、パチンコにはまっていて、
何と、就学前の私をよくパチンコ屋に連れていってた。
その頃のパチンコ台は、まだ玉を左手で1個ずつ投入して、右手でハンドルを
はじく非効率的な、しかしほのぼのとしたものだった。玉1個ずつのハンドル
操作はかなりの重労働だったらしく、連れだってパチンコ店から出る時に
ふと見ると、父の右手が真っ赤に腫れ上がっていたのをおぼえている。
当時のパチンコ屋には台の後ろに玉を補給するおばちゃんたちがいて、
「オーイ出ないぞ!」と台を叩くおじちゃんたちがいて、お定まりの軍艦
マーチが流れていて・・・・幼い私は、早く大きくなって一人でパチンコを
したいと、いつも思っていた。
私を空いている横の椅子に座らせ、夢中になって父は玉をはじいていた。
私は、台の下の玉入れにある程度玉が溜まると、10個だけ抜き取り
景品交換所に持っていってた。2円×10個=20円で、キャラメル1箱が
もらえた。溜まっては10個、また溜まっては10個と玉を抜き取る。
必死に台の釘を流れる玉の行方を追う父は気がつかない。・・・
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玉が無くなる頃、父は色々な種類のキャラメルでいっぱいになった袋を
抱える私に気付き、「帰るぞ」とひとこと言った。それでも父は玉をこっそり
抜き取った私を叱ることはなかった。父の無駄遣いをキャラメルという形で
かろうじて防いだつもりの私は、何か誇らしい気持ちで帰路についた。
キャラメルは当時股関節脱臼でギブスをはめていた妹へのいいおみやげに
なっていたし、母の機嫌も少しはよかったような気もする。
やがて大学生になった私自身がパチンコを楽しむようになった昭和40年代
後半には、パチンコ台に玉の自動投入装置という画期的発明が現れた。
これにより左手は玉を1個ずつ入れるという過酷な労働から解放された。
やがて右手も、以前とは比べ物にならない速さで次々と玉をはじく装置の
開発により、単にレバーを握りしめて、射出速度を調整するだけでよくなった。
当時の私は、パチンコ店から流れてくる喧噪な音、独特の臭気に中毒に
なっていた。「今日はしないぞ」と思っていても、あの音、あの臭いを感じたら
もうだめだった。フラフラと入店し、500円分の玉を買い、ふと気付くともう
打ち始めていた。
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身もだえするほどの恥ずかしい思い出がある。例によってパチンコ店に
入りたくなったが、仕送りも底をつきバイト代も無くなっていた。ポケットに
あったのは、大学の生協食堂の「夕定食券」2枚だけ。今はどうかわからないが、
当時の生協食堂は食券をそのままの額で換金してくれていた。
わずかに残っていた理性が「やめろよ」と心の中で叫んだが、私はこのなけなしの
食券2枚を180円の現金に換えていた。(当時は90円で夕飯を食することが
できたのである。180円といえども大金だった。)
必死の思いの180円を握りしめ、気がつくともうパチンコ店の中に入っていた。
玉は1個2円だったので90個買って、即打ち始めた。
これがドラマだったら、奇跡が起きて大儲けして、その日は豪遊ということに
なるが、現実はいつものとおり・・・最後の玉は空しくはずれ穴にバイバイしていった。
2食分のメシが喰えなくなった状況をかみしめつつ肩を落として店を出るときの
あの何とも言えない、情けない気持ちは今も心の中に染みついている。
ここまで書くと、いかにも湯水のように金を使う大ばくちを打っていたように
見えるが、私は1回に500円以上は使うことのできない小心者だった。
あれほど熱中したのに「打ち上げ」まで持っていった経験はわずかに3回しかない。
あとは500円をドブに捨てることがほとんどで、たまにそこそこ勝って
大好きなチョコレートをしこたまゲットする程度だった。身を持ち崩すこともなく、
ある意味つまらない青春時代だったかもしれない。
パチンコ→麻雀→競輪・競馬という発展過程(?)は、私のまわりの学生たちに
とって特に珍しくは無かった。今も印象に残っているのは、アルバイト先の
レストランで一緒に働いていたF氏である。私とは別の大学の学生だった。
彼は、休憩時間に場外馬券を買い、レースの行方を追うために、ものすごい
形相で、時には絶叫しながらトランジスタラジオに耳を押し宛てていた。
あの頃4回留年して、満期除隊(規定年限で卒業できず放学になることを
こう呼んでいた。)寸前ときいていたので、恐らく卒業はできなかったと思う。
500円以上パチンコにつぎ込めない中途半端な性格の私は、ここまで
集中できる彼のことを明らかにリスペクトしていた。
当時の私は3段重ねのチューリップがついた台が好きだった。
おぼえている方も多いと思う。1番上のチューリップに入賞したら
3段のチューリップが一斉に開く華やかな台だった。
この3段チューリップは、一斉開花のあとが大事だった。
理想は、3段一斉開き→下段入賞・下段閉じ→中段入賞・中段閉じ・下段開き→
下段入賞・下段閉じ→上段入賞・上段閉じ・中下段一斉開き→下段入賞・下段閉じ
→中段入賞・中段閉じ・下段開き→下段入賞・下段閉じという「1回で8回おいしい」
過程をたどることであった。最も悲惨なのは、3段一斉開き→
上段入賞・3段一斉閉じという「1回で2回しかおいしくない」末路を辿ることだった。
今思い出してわくわくする。チンジャラジャラの音を背景に可憐に開くこの3段
チューリップはパチンコ界の花、いや芸術品だったといってもよい。
そういえば当時、「開けチューリップ」という歌(下をクリック!)が流れていた。
やがて…私が大学を卒業するころには、「777」が登場し、パチンコはすさまじい
射幸心をあおる完全なばくちに変わっていったように思う。777がヒットすると
入賞穴(いやむしろ入賞板というべきか)がパカッと一定時間、節操なくだらしなく
開く(たぶん私の偏見)のがたまらなくいやで、私は大学卒業と時を同じくして、
あれほど夢中だったパチンコも熱が冷めたように卒業していた。
パチンコ店にはそれ以降入っていない。入ろうとも思わない。

【アルバイトグラフィティ】
学生時代には多種多様のアルバイトをやった。いくつか書き記してみたい。
デパートの店員
最初のバイトは、大学1年の夏休みに帰省中にやった某デパートの店員だった。
昭和40年代半ばのこと、世の中はまだ高度成長期のなかにあった。お中元商戦
まっただ中の各デパートはそれなりに忙しく、こぞって学生アルバイトを募集していた。
日給800円だった。今の感覚では時間給相当額だが、当時は日給がこのくらいだった。
15日間の連続勤務だった。
私は友人のI君、S君の2人とこのバイトに応募した。I君は地下のお惣菜コーナー、
S君は2階の紳士服コーナー、そして私は6階の寝具コーナーに配属された。庶民的で
人のよいI君は白い割烹着で1日中天ぷらを揚げ、都会的でハンサムなマスクのS君は、
紳士服のモデル然として売場に立ち、体格を認められたのか私は汗だくで布団や
タオルケットと格闘するという適材適所(?)の毎日が始まった。
朝出勤するとまずタイムカードを押した。ガチャッという音が新鮮だった。何か
誇らしい気分になった。始業前に各階ごとに朝礼があり、昨日の売り上げ額が、
0から9までの数字や千、万といった位の数がデパート独特の隠語に置き換えられ、
毎朝交代で担当が読み上げていた。「トイレに行く」、「食事をとる」、「万引きが発生した」
などの言葉も隠語で発するように言い渡された。殆ど記憶に残っていないが、
「カワマタ」とか「アリキュー」といったたぐいの言葉だったように思う。
何の意味があったんだろう。今考えると不思議でならない。 隠語といえば、警察、
芸能界、職人の世界などでよく使われるが、しいてその意味を考えるとすれば、
身内にしか通用しない言葉を使うことで、何か自分たちだけの秘密を共有し、
一体感、親密感を得ていたのかもしれない。バイト期間中、帰宅するたびに、
あるいは友だちに会うたびに、私は得意気にこの隠語を披露していた。意味も
バレバレで、もはや私の周辺では隠語の体をなしていなかった。
デパートは、殆どが私と同年輩からせいぜい数年年上の人たちばかりだったが、
社会人と学生の違いを見せつけられた。「プロ意識」という言葉はまだ世間で
使われてはいなかったが、「この仕事で食っている」という誇りを感じた。
「お客様第一」という言葉もよく聞かされた。
勤め始めて数日たった昼休みのこと。S君と、売場をウロウロしていて、お客様用の
イスに腰掛けて休んでいたら若手の男性社員にこっぴどく怒られた。「アルバイトと
いえども社員の1人だろう、お前たちのために疲れたお客様がそのイスに座れ
なかったらどうするんだ。」といった内容だったと思う。その時はどうせ空いて
いるんだからいいじゃないかと心の中で思ったが、卒業し、社会人として過ごしてきた
今は叱ってくれた人の気持ちがよくわかるし、ありがたかったと思う。
最初はぎこちなかったが、「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」という
お客様への言葉が15日たつ間に自然と出るようになり、商品を買ってくれそうな方と、
そうでない方の区別まで何となく判るようになった。お客様との会話も余裕をもって
楽しめるまでになっていた。
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そして最終日、待望のバイト料が支給された。今のような銀行振り込みではなく、
印鑑をついての現金支給だった。¥800×15日=¥12,000 ただし、1割ほどの
税金が引かれていた。学生の身分で1万円以上の額を手にすることはなかった。
ところが、帰りにとんでもないことが起こってしまった。一緒に働いたI君が、
何とこの貴重なバイト料をどこかに落としてしまったのだ。毎日毎日、暑いなか
惣菜売場で天ぷらを揚げ続けたあげくがこの結果だった。この事件は私にとって、
労働とそれで得られる対価がいかに貴重なものかを教えてくれた。
港湾労働者
大学1年の晩秋の頃、何に使 ったのか、家からの仕送りの金が尽きかけて、
学食の食券も残り少ないという事態が生じた。部屋の中を探して も、調味料以外に
食うものは何も無かった。 1日2食とし、腹がすいたら電熱器で湯を沸かし、醤油と
化学調味料を入れただけの特製スープ(?)でしのいでいたが、どうもこうもたまらん
という状況になってきた。
ちょうどそのとき、同じように金欠の友人のR君が、「築港に行こう」と誘っ てきた。
今はポートタワーがなどのランドマークが建ち、福岡のウォーターフロンとして
華やかな博多ふ頭周辺は、当時「築港」 と呼ばれ船荷が陸揚げされる場所だった。
築港に行けば港湾労働で日銭が稼げるという話は知っていたが、かなりきついと
聞いていたので、二の足を踏んでいた。今はもう背に腹はかえられない。R君と、
きついという噂の築港に出かけることにした。
早朝、わずかに残っていた小銭で電車に乗った。港に着くと、「手配師」と 呼ばれる
コワモテのおじさんたちが待ちかま えていた。 「○○班に来んね」「△△組は払いの
よかけん」・・盛んに掛け声が飛び交っている。
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2人で、ある手配師のところの行列に並ぶと、先頭付近でなにやら言い争っている
声がする。見ると仕事希望の老人(かなりの高齢で、70 はとうに越えているように
思えた)が、手配師ともめていた。
何でもいいから仕事をまわ してほしいと言っている老人に、手配師は、「ヨタヨタした
体でケガでんされたら、寝覚めの悪かけん、仕事はやれん。」と言っている。 そして
私とR君を指さして言った。「この兄ちゃんたちのほうが働きもよか・・・」
この時、とぼとぼ列を離れる老人が私たちに注いだ眼差しは、今もはっきりと覚えている。
無言のままだったが、憎しみと哀しみの入り交じ った目は、確かにこう叫んでいた。
(お前たち学生は、遊ぶゼニ欲しさに来とるとやろう。親の仕送りもあるけん気楽な
身分たい。 こっちはその日暮らしやけん、仕事が無(の )うなったたら食うていけん。)
もちろん私たちも前述のとおり食い詰めて来てはいるのだが、親から仕送りを受けて
いる以 上、気楽な身分には違いない。
何ともイヤな気持ちのまま、この日私たちは、陸揚げされたタバコの葉をトラックに運ぶ
仕事をもらった。乾燥して幾重にも巻かれたタバコは、かなりの重量があり、背中に
乗せるとそれだけで膝がガクガ クした。2、3日まともに食っていない体に はこたえた。
「気を付けて運べ!ケガしたらつまらんぞ。 保険も治療費もなかけん、お前たちの親が
泣くだけたい。」冗談とも本気ともつかない叱声がコワモテ達からとんだ・・・・・
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日が傾 きかけた頃、ようやく作業が終わり、現場の監督から渡された日当は二千円、
裸のままの千円札2枚だった。学食の定食の食券が90円 だった時代にはかなりの額
だった。(これで次の仕送りまで食いつなげる!) ホッとした心持ちで帰路につき、
行きつけの食堂で、久しぶりのトンカツ定食をガツガツと食べた・・いや食べるというよりは
口に押し込んだ。 ふと朝のあの老人はどうしただろうと思い出していた。
土木作業員
大学1年が終わる春休みの帰省中に、土木作業のバイトをした。中学時代からの友人
M君の実家が土木の会社を経営している関係で雇ってもらった。私と、M君、そして
やはり中学からの友人のN君の3人だった。
N君は、成績がよく、スポーツマンでしかもハンサムと3拍子揃っていて、高校時代から
女の子によくもてた。この時は浪人中だったが、宮崎空港にある航空大学校を受験し、
このバイトの最中に合格通知が届いたように記憶している。私やM君はハンサムな彼が
機長の制服でジャンボジェットを操縦する姿を想像し、一緒に喜んだ
バイトの期間は約2週間程度だった。最初は堤防かどこかのでっかい岩を運ぶ仕事が
わたった。3人とも日ごろ運動不足の上、重い石を腰を入れて運ぶという肉体労働に
不慣れだったため、とても2週間も続けられそうになかった。
普通なら即クビだと思うが、社長すなわちM君の父親は、すぐに楽な仕事に変えてくれた。
(この社長は見た目はたいそう怖かったが、実はとても優しい方だった。2度ほどM君とともに
高い寿司屋(回ってない、お好みで頼む寿司屋)に連れて行ってもらった。今は故人である)
そういうわけであてがわれた「芝生の貼り付け」は、とても楽な仕事だった。数十センチ
四方の芝生を整地した地面の上にすきまなく置き、四隅に竹片を打ち込んで固定していく。
時はのどかな春、ゆったりと流れる川を眺めながら堤防沿いに芝生を貼っていく仕事は
とても楽しく、M君やN君と将来の夢など、色々なことを語り合ったことを懐かしく思い出す。
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M君は工業系の大学を卒業後、大手ゼネコンでの数年の武者修行を経て、父の跡を継ぎ
この土木会社の社長となった。数年前に退任し今も時々会って一緒に飲んでいる。
N君のほうはというと・・・・彼は航空大卒業後日本航空に就職したが、不幸なことに
数年後不治の病に冒され、パイロットになる夢を抱いたまま、帰らぬ人となってしまった。
同世代の友人が夢半ばで他界してしまったという事実に、何とも言いようのない空しさを
感じたことを今でも覚えている。
学習塾の講師
大学2年の夏休みに当時中学の教師をしていた伯父の紹介で、彼の友人が開いていた
進学塾で、1ヶ月ほど臨時で働いた。
講師のメンバーは、オーナーの塾長、教職を定年になった男の先生、就職浪人中の
若い女性の先生、そして私の4人で、教職免許が無いのは私だけだった。今、この塾は
大きく発展し、県内各地にたしか数カ所の教室を持つマンモス塾になっている。おそらく
講師たちも全て教員免許保持者だと思う。開設直後だったからこそ、私みたいな無免許の
学生アルバイトの若造でも勤まったのだろう。
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非力ながら自分なりに教材を工夫し、一生懸命教えたつもりではあった。理科系では
あったが、歴史や文学が好きな私は進んで中学生の社会や国語の教科を担当させて
もらった。小中学生から、「先生、先生」と寄ってこられると悪い気はせず、今考えると
穴の中にでも入りたくなるようないっぱしの青臭い人生論などもぶっていたのを思い出す。
家庭教師
大学2年になったころ、下宿のおばさんの紹介で、下宿の隣家の娘さんの家庭教師を
引き受けた。彼女は県立高校の普通科2年生で最初に会った時は学校帰りの制服姿だった。
えくぼの出る笑顔と笑った時の白い歯が印象的で、ちょうどフォークグループ甲斐バンドが
歌っていた「バス通り」の1番の歌詞(※)のような子だった。
週2回で、時間は夜の8時から10時頃、4畳半の私の部屋で教えてほしいと言われ、
報酬は1ヶ月3千円だった。彼女の親御さんがどう考えていたのか判らないが、いま考えると
女子高生の娘を、暗くなってから私のような二十歳そこそこの男子学生の下宿部屋に
行かせるという状況は、私自身が娘や孫娘をもつ身になって考えると、いかがなものかと思う。
いざ教えてみると、彼女は数学・理科の成績がいまいちだった。基本的なことがほとんど理解
できていなかった。これでほほぼ1年後の大学受験はきついかなと、私の方がとても心配になった。
できる限り順位を上げてやりたいと必死になっている私に比べ、彼女自身はあまり深刻に考えて
いない様子で、学校であったとりとめのないことを、よくしゃべっていた。
ところがその年の秋、何と私自身が大学を留年してしまい、ひとを教えるどころではなくなっなって
しまい、家庭教師のバイトは終わりを迎えた。無責任きわまりない先生で、彼女には大変申し訳
なかったと今でも苦い思い出になっている。
AI作画 |
こうして学生時代に、人に教えるという仕事を2つ経験した私だが、約50年たった定年後のいま、
アルバイトで看護学校で薬理学を教えている。何となく運命的なものを感じながらも、真剣に私を
見つめてくれる看護師の卵たちの眼差しがうれしくて老骨にムチ打つ日々である。
レストランのウェイター
私の大学は2年の秋に本学への進学となるので、いったん留年が決まると留年生活は秋から翌年の
秋まで、たっぷりの時間ができたため、アルバイトも長期化していった。
年が明けて、私は同じ大学の友人N君(前述のN君とは別人)と共に、福岡市内のレストランに学生
ウェイターとして勤めたがこのバイトは何と約3ヶ月に及んだ。別掲「パチンコ考」に記したように、
このレストランには、競馬に夢中で何回も留年していたF氏などユニークな学生ウェイターが
おおぜいいた。
「食事つき」という条件だったので、レストランの豪華メニューのおこぼれにあずかれるのではと
期待して来たが甘かった。従業員の食堂はせまい倉庫の隅に置かれた畳敷きで、年取ったまかないの
おばさんが作るみそ汁と漬物と飯だけの食事が毎回だった。しかも食事時間は10分くらいしか
与えられなかった。みそ汁というのは名ばかりで、具はほとんどなく、味噌をお湯でといただけのような
味気ないものだった。
白いシャツに黒いズボン、のど元にゴムで止める蝶ネクタイをつけて、お盆を持たされ、ほかほかの
湯気の出るハンバーグや「サーロインステーキをテーブルに運び、わずか10分間の休憩で「みそとお湯の
スープ」を飲む毎日。先輩ウェイターたちは、容赦なく我々新入りに必要以上の仕事をさせ、こき使った。
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店の雰囲気も厳しかった。あるとき私は「カレーライス」という客のオーダーを値段の高い「蟹ライス」と
聞き違え、支配人からきつく叱られた。客からは安いカレーライスの料金しか取れず、「蟹ライス分の料金は
お前の給料から引いとくからな」と言われてしまった。「じゃあ、ボツになった蟹ライスを俺に食わせてくださいよ」
と言ったが、「間違えたくせに図々しいことを言うな!」と一喝されてしまった。あの蟹ライス、結局誰が食ったん
だろうと今も時々くやしさとともに思い出す。
そんな、今でいう「ブラック」に近い職場だったが、本格的な洋食の食器の並べ方や、料理を出す順番、
華麗なカクテルの作り方などを叱られながらもかいま見ることができたのは、収穫だったかなと思っている。
バイト期間の3ヶ月の間、社会ではとんでもない事件が起きていた。昭和47年2月、
「総括という名のリンチ」や「あさま山荘での人質立てこもり」という一連の連合赤軍の事件である。
来る客が椅子に座るなり「テレビのスイッチ入れて」と口々に要求し、食事がすんでもずっと席を離れず、
あの雪山の事件の画面を見つめていた。従業員の私たちも一緒になって仕事の手を止めて釘付けに
なっていた。
メッキ工場の工員
これも留年中のこと、学生のためのアルバイト紹介所を通して、福岡市郊外の小さなメッキ工場で
1ヶ月ほど働いた。社長と従業員数名、そして私ともうひとりの学生アルバイトでこじんまりとやっている
工場だった。午前中の作業が終わると社長の自宅に行ってお昼をごちそうになった。
私は一応理科系の学生なので、電気を利用した金属メッキの原理については知っていたが、
実際の工程を見るのは初めてだった。広い水槽が電解質液に満たされ、窓わく、スプーン、工具など、
メッキをする様々な材料が電極に吊るされ、沈められている。電源が入ると、鈍く沈んだ表面の色が、
一転華やかな金色や銀色に輝いて変わっていった。見ていてわくわくする瞬間だった。
指導する30代の従業員の人はやさしかった。しろうとの学生アルバイトが慣れない作業で感電や
薬液やけどをしないよう、いつも注意してくれていた。そんな彼の開いた襟からのぞく胸元には、
若い頃にかぶったというアルカリ液による大やけどの跡が見え隠れしていた。美しく輝くメッキ製品と
ケロイドが、中小企業の象徴のように私には思えた。時はまだオイルショック前の高度成長期だった。
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父の勤務先のペンキ塗り
留年を経て本学に進学したあとの大学3年の夏休み、帰省中に電力会社の変電所の金網の塀に
ペンキを塗るというバイトを2日間だけやった。当時私の父がこの変電所の所長をしていて、
①業者を使うよりも安く仕上げたい、②帰省中の息子たちを怠けさせたくないという2つの理由で、
同じく帰省中だった所員の方の息子さんと私の2人を使うことにしたらしい。
当時私の家族は、この変電所の社宅にいたので、現場はすぐそばだった。普通なら楽なバイトの
はずが、時期が悪く猛暑日が続いていた。仕事を始める9時ころには、金網の周辺はすでに
暑くなっている。着慣れない作業服の中で、瞬く間に汗が噴き出した。塗料のシンナー臭を
かぎながらの炎天下の作業に、頭がくらくらしてくる。
1時間くらい作業すると、世話役の所員の方が、「休みなさい」と言って事務所の中にいれてくれる。
事務所には当時一般家庭にはまだなかった冷房が回っていた。酷暑から一転、涼しい室内で私たち
2人は生き返る思いで冷たい麦茶をもらって飲んだ。15分くらい休憩したらまた炎天下の塀の前に
立つ、1時間くらいでまた休むの繰り返しを続け、たしか2日で5千円くらいもらったような気がする。
けっこうきつかった。
父から、「2人とも、金を稼ぐということがどんなに大変か、わかったかな?」というようなことを
言われながら渡されたことを覚えている。
清掃会社
このバイトは確か大学3年から4年になるときの春休みだったと思う。アルバイト紹介所からの情報で、
福岡市内の清掃会社で1週間くらい働いた。私は昔から掃除や片付けが嫌いで掃除道具なんてものは、
ふだん殆ど触ることがなかったので初めてみる機器や用具が多かった。
1日目の朝、チームの主任さんから、「今から〇〇大学の工学部の※号棟に行きます」と言われた。
学部は違うが〇〇大学は私の大学だった。私は医系キャンパスだったが、工学部は電停を2つ過ぎた
本部キャンパス内にあり、ほとんど行ったことがなかった。
春休み中にもかかわらず、校舎内にはけっこう多くの人たちが忙しそうに行き来していた。
掃除するフロアに立ち入り禁止の標識を立て、ポリッシャーと呼ばれる大型の専用機を動かして
洗剤で洗い、すすぎ、ワックスがけ、つや出しを行うと、床がみるみる輝きを増してきて、見た目にも
気持ちがよかった。
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お昼の休憩の時には、いつもパンとジュースだけで昼食をすましていた。従業員は中年の女性ばかりで、
私のような若い兄ちゃんは珍しかったらしく、からかいとも励ましともいえるような博多弁をよくかけられた。
「卒業したらちゃんと弁当ば作ってくれる可愛い嫁さんをもらわんといかんね」「そういえば、うちの近所に
よか子のおるったい、一回会うてみらんね?」「そう、宮崎から来とっとね。就職は福岡?それとも宮崎に帰っと?」
「博多ん悪かおなごに騙されんようにせんば、つまらんよ」「ほら、卵焼きば作ってきたけん、取りんしゃい」
いまもオバさんたちのあのシャキシャキした博多弁の響きを懐かしく思い出す。
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