ヴァージナルの前に坐る女
Lady Seated at the Virginals (1671-75年頃) 5157X45.5 ロンドン ナショナル・ギャラリー蔵

 ヘリット・ダウの<クラヴィコードを弾く女>という先例を想起させるもう一方の<ヴァージナルの前に坐る女>は部屋が薄暗いだけでなく、光源の位置が不明確な点において例外的な作品である(左下隅のヴィオラ・ダ・ガンバや左上のカーテンのこちら側に強い光が当たっているから光の入口は左方でなく左前方にあると見るべきだろう)。この絵では描写の抽象的パターン化は一層顕著で、画中画の金の額縁や娘の青い服の襞などは、経験的な認識作用の助けを借りてももはや凹凸の描写には見えぬほどである。残念ながら最も魅力に乏しい作品の一つと言わねばならない。壁に飾られているのは<合奏>に登場したのと同じファン・バビューレンの<遣り手婆>である。この点に着目して近年の研究者の多くはこのロンドンの二点の作品の中に「聖愛と俗愛」(アームストロング)、「純粋な愛と不義の愛」(ウィーロック)、「音楽のもつ調和と官能性の二側面」(スレイトケス)といった対立する寓意的意味を読みとっている。ただいくつかの疑問が残ることも否定しえない。その一つはおざなりな手つきで鍵盤に手を置いてはいるもののこちらに顔を向けて注意を集中している娘がその個性的な容貌によって肖像画のような印象を与えるのに対して、別図の立っている娘の顔には個性や表情が全く欠如していること、もう一つは、どちらも後期の様式を示すとはいえ、両者の出来映えにかなりの差があるため、制作年代に開きがある可能性が認められることである(これはブランケルトの推定であるが、ウィーロック、スレイトケスはこれに賛同していない)。フェルメールによって予定されていた対幅の一方が何らかの事情で肖俊面としての役割をかねて先に制作され、のちにもう一方が教訓的風俗画として描かれて別々の収集にはいった可能性もあるのではないだろうか。