信仰の寓意
The Allegory of Faith (1670-75年頃) 113X88 ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵

 1699年にアムステルダムで競売に付され400フルデンという異例の高値がつけられた際には「新約聖書」の寓意をあらわしたものとされていたが、その後バルナウの研究によって漸くチェーザレ・リーパの『イコノロジア』における「信仰」の記述に基づいて構想された作品であることが明らかにされた。この書のオランダ語版(1644)によれば「信仰」の寓意は、右手に聖杯を持ち左手を要石(=キリストの象徴)に重ねられた書物の上に置き、世界の上に足を乗せて坐った敬虔な外見の女性によってあらわされるべきものとされており、要石につぷされた蛇や原罪の原因である林檎への言及もなされて いる。聖杯−机上に見える−をもつはずの右手が胸にあてがわれている点、指定された青と赤ではなく白い服が着用されている点は記述に反するが、バルナウの指摘にある通り、これは同じリーパの中の独立した別項目「カトリックもしくは一般的信仰」の記述に従ったためと考えられる。とすれば、この絵はより正確には「カトリック信仰の寓意」と呼ばれるべきものかも知れない。全体としてリーパの記述はかなり忠実に守られているが、指定にある「アブラハムの犠牲」の代わりにここでは「礫刑」の絵が姿を見せている(「アブラハムの犠牲」は旧約聖書における「礫刑」の予型である。この絵がかつて新約聖書の寓意と見なされたのはこのためであろう)。この大きな礫刑像はアントヴェルペンのテルニンク研究所蔵のヤーコプ・ヨルダーンスの作品をかなり忠実に写したものであるが、フェルメールの遺産目録は「十字架のキリストを描いた大きな絵」が食堂に掛かっていたことを示しているから、このヨルダーンス作品がフェルメールのものであったことはまず間違いがない。自分の身の回りにあった現実の事物から構想を組み立てるフェルメールの不器用ともいえるほどに頑な態度はこうした寓意画の場合にも一貫していたのである。
 プロテスタントの家庭に育ったフェルメールがカタリーナとの結婚に際してカトリックに改宗したことは、さまぎまな傍証からほぼ確実である。しかも彼が後半生をすごした義母マリア・ティンスの家はイユズス会の隠れ礼拝堂に隣接していた(モンティアスはこれがマリアの家と同じ建物にあった可能性すら想定している)。とすれば、この絵がイエズス会の関係者の注文によって描かれたと考えるのはいとも自然である。同時代の寓意図像集には見られるがリーパには言及のないガラスの球体(信仰する人間の魂の象徴)が描き込まれているのも、教義や宗教的寓意に通暁した人間の介在を示唆している。
 あらゆる点で恰好の比較の対象となる<絵画芸術の寓意>が広く傑作と認められているのに対し、入念な構想と美しい仕上げを示す力作であるにもかかわらずこの<信仰の寓意>の評価は甚だ芳しくない。熱烈な賛辞を捧げたのはポール・クローデルのみである。大きく見開かれた眼で天を仰ぎ見るこのたくましい擬人像にフェルメールの女性像のもつ繊細な魅力が全く欠けているのは事実であるにしても、果たして本当にこの画家唯一の失敗とまで言われる程の駄作なのであろうか。迫真の現実描写を特色とするオランダ絵画における擬人像の表現のあり方を吟味することなくこの作品だけを批判しても不毛であるように思われる。