レースを編む女
The Lacemaker (1670年頃) 24.5X21 パリ ルーヴル美術館蔵

 問題の多い<フルートをもつ女><赤い帽子の女>の二点以外では最も小さい寸法の絵で、低い視点が設定されていること、ニュートラルな背地が用いられていること、光が右側から当てられていることなど、あらゆる点で例外的な作品である。レースは現在では隣国ベルギーの名産品だが、17世紀にはオランダでも盛んに製作されていたのであろう。レースを編む女は二コラース・マースが特に好んだ主題であり、カスパール・ネッチェルにも作例があるが、このフェルメールの小品は、画家自身の制作態度もかくの如きであったに違いないと思わせるような、手先に全神経を集中させた娘の忘我の状態の描出において一段と傑出している。青いクッションをバックに光のなかで溶解しているかのようにあらわされた赤と白の糸の抽象的な美しさも特筆に値する。近代絵画を予告する純粋な色彩で知られるフェルメールにも、この絵のように赤、青、黄、白を大胆に併置した例は他にない。1870年にルーヴル美術館に入ったこの絵をルノワールがヴァトーの<シテール島への船出>とともに世界で最も美しい絵画の一つと激賞したことは良く知られている通りであり、またフェルメールの熱烈な礼讃者であるサルバドール・ダリもこの作品に基づく「偏執狂的批判的習作」を描いている。
 ところで前に触れた溶解するような赤い色やその周囲に見られる小さな「光の珠」は現実には肉眼では認められぬものであるだけに以前から注目を集めてきた。フェルメールの大多数の作品にカメラ・オブスクーラの使用の痕跡を見出そうとするシーモアやフィンクは、これを絞りをもたぬカメラ・オブスクーラを幾分ピントをずらして覗いたときに像に認められる現象と同一視して、画家がこの光学機器を活用した最大の証拠として挙げている。しかしウィーロックが正当に批判している通りこれはおかしい。カメラ・オブスクーラの像においてこれに似た現象を生じせしめるのは金属や磨かれた木など光を反射する物体だけだからである。私も決してこの機器が利用された可能性を否定するものではないが、その根拠は空間の正確な再現や画面の縁による大胆な切断のうちにこそ求められるべきではないだろうか。